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第4節 ― レオンの名で入った者

 中央記録庁の使者が黒鴉館を去ったあとも、生存再認票は机の上に残されていた。


 濃灰色の表紙。


 青い承認印。


 レオン=クラウスという名。


 そして、その名の下へ記された一文。


> 本人確認完了。


 本人は、その記録を立ったまま見下ろしている。


 正確には、机の縁へ右手を置き、鉄の杖へ体重を預けていた。身体は静止していたが、右脚を庇う姿勢までは隠せていない。


 ミラベルは向かい側で、確認した事実を記録帳へ書き終えた。


 六週間前。


 レオン=クラウス名義の生存再認が、正式な手続きとして成立した。


 必要な照合項目は満たされ。


 本人権限も回復され。


 未解決事件箱・第十三号が移管された。


 ここまでは、記録から確認できる事実だった。


 六週間前に現れた者が偽物だったと断定するには、まだ証拠が足りない。


 だが。


 目の前にいるレオンもまた、制度上は本人ではなかった。


 ミラベルが鉛筆の先を紙から離したとき、階下で扉の鈴が鳴った。


 間を置かず、マルタの声が響く。


「中央記録庁なら、さっき帰ったよ!」


 返事は聞こえなかった。


 代わりに、階段を上がる足音がした。


 官吏の軽い靴音ではない。


 硬い踵が古い階段板を踏む、重く一定した音。


 エレノアが扉へ顔を向ける。


「グレアム警部?」


「おそらく」


 レオンが答えた。


「どうして分かるの」


「二段目で必ず右側が鳴る。体重の掛け方が変わらない」


「黒鴉館の階段を鑑定しないで」


「階段が先に証言している」


 足音は二階へ着く前に止まった。


 その直後。


 扉が開くより先に、マルタが入ってきた。


 片手に白い封筒を持っている。


「朝の郵便に紛れてたよ」


 マルタは机へ封筒を置いた。


「宛名が気に入らないね」


 表には、細く整った筆跡で記されていた。


> 本物のレオン=クラウスへ。


 エレノアの顔から、わずかに残っていた冗談めいた色が消えた。


「本物の?」


 レオンは封筒へ触れず、表面を観察した。


 宛名。


 切手。


 封緘。


 紙の角。


 だが、そこから何かを断定しようとはしなかった。


「開けないんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「俺が受取人とは確認されていない」


「ここで制度に従うんですか」


「制度上の身元不明者が、他人宛ての手紙を開くのは問題だろう」


「では、事務所の共同調査者として開封します」


 ミラベルは封筒を手に取った。


 レオンが眉を寄せる。


「宛名は君ではない」


「届いた場所は、クラウス探偵事務所です」


「その理屈は――」


「差出人が本物のレオンさんを探しているなら、調査する理由があります」


 エレノアが頷く。


「目の前の兄さまが違うなら、正しい人へ渡すためにも中身を確認しないと」


「君たちは都合のいいときだけ制度を利用するな」


「兄さまに教わったのよ」


 封緘は糊付けされているだけだった。


 ミラベルは紙を破らないよう、小さな開封ナイフを差し入れる。


 中には一枚の便箋が入っていた。


 署名はない。


 文章は短い。


 ミラベルは声に出して読んだ。


> 本物のレオン=クラウスへ。

>

> あなたは六週間前に、

> すでに帰還しています。

>

> ただし。

>

> 私が確認した帰還者は、

> 一人の人間ではありませんでした。


 最後の言葉が部屋へ落ちた。


 一人の人間ではない。


 複数人がレオンを名乗った、という意味なのか。


 帰還者へ、別人の記録が混ざっていたという意味なのか。


 それとも。


 まったく別の何かを示しているのか。


 いまは、どれも仮説にすぎない。


「この筆跡は?」


 ミラベルが尋ねる。


「知らない」


 レオンは便箋を受け取り、文字の形を見た。


「少なくとも、俺が覚えている人物の筆跡ではない」


「生存再認票の作成者なら?」


「名簿だけで筆跡までは分からない」


 エレノアが机の記録束を開く。


 最終承認欄。


 そこに一人の名がある。


> 上級生存再認審査官

> クラウディア=メルツ


「この人でしょうか」


 ミラベルは問うた。


「可能性はある」


 レオンは便箋と承認欄を並べた。


「帰還者を確認した、と書いている。生存再認の最終審査官なら、言葉の意味は通る」


「筆跡照合は?」


「原本がない」


「では、現時点では」


「差出人は不明」


 レオンは便箋を机へ戻した。


「クラウディア=メルツである可能性はあるが、断定できない」


「内容については?」


「六週間前の生存再認に、審査へ関わった者が疑問を持っていた可能性を示す」


「それ以上は?」


「書かれていない」


 ミラベルが手紙を記録帳へ写し始める。


 エレノアは廊下へ視線を向けた。


「警部、いるんでしょう」


 扉の向こうで、低い息が漏れた。


 次いで、グレアム警部が姿を現した。


 煤色の外套は前を閉じたまま。


 帽子を脱ぐことも忘れ、右手には薄い警察記録板を握っている。


 いつもなら、許可も取らずに入ってきたことをマルタが怒鳴る。


 だが、今日は何も言わなかった。


 グレアムの顔を見たからだった。


 怒っているのではない。


 焦ってもいない。


 事件現場から戻った刑事が、死者の名を口にする直前の顔をしていた。


 彼は室内を見回した。


 レオン。


 ミラベル。


 エレノア。


 机の上の生存再認票。


 そして、開かれた手紙。


「それは、いつ届いた」


 グレアムが尋ねた。


「いまです」


 ミラベルが答える。


「朝の郵便に入っていました。差出人は記されていません」


 グレアムは便箋を取った。


 最初の一行を読んだところで、目が止まる。


「筆跡に心当たりが?」


「現場にあった業務記録と似とる」


「クラウディア=メルツ?」


 グレアムが顔を上げた。


「なぜ、その名を知っとる」


 ミラベルが生存再認票の承認欄を示す。


「六週間前のレオンさんを最終承認した審査官です」


 グレアムは数秒、何も言わなかった。


 その沈黙が答えになった。


「何があった」


 レオンの声から、朝まで残っていた皮肉が消えた。


 グレアムは帽子を脱いだ。


「クラウディア=メルツが死んだ」


 エレノアが息を止める。


「いつ?」


 ミラベルが尋ねた。


「今朝、生存再認審査室で発見された。正確な死亡時刻は検死前だ。まだ断定できん」


「午前八時十三分より前か、後かも?」


「現場の状態だけでは、そこまで狭められとらん」


「死因は」


「頭部への強打。室内にあった真鍮製の大型書類留めが凶器と見られとる」


「見られている?」


「血液と毛髪が付着しとる。傷の形とも合うそうだ。正式な検死結果はまだ出とらん」


 グレアムは一つずつ区別して答えた。


 発見された事実。


 現場で確認された状態。


 現時点での推定。


 長くレオンと事件を追ってきた刑事らしい話し方だった。


「争った跡は?」


 レオンが尋ねる。


「現場で見ろ」


「誰が発見した」


「クラウス」


 グレアムの声が低くなる。


「お前は捜査官じゃない」


「私立推理士だ」


「死亡推定中のな」


「生存再認は終わっているらしい」


「そっちのクラウスは容疑者だ」


 レオンの目が細くなった。


 グレアムは警察記録板を机へ置いた。


 上部には、事件発生記録。


 被害者名。


 発見場所。


 その下に、細長い機械印字紙が留められている。


 ミラベルは触れずに覗き込んだ。


> 生存再認審査室・正面入室記録

> 午前八時十三分

> レオン=クラウス

> 身分継続票番号 L・K・13


 エレノアが顔を上げる。


「八時十三分?」


「ああ」


「兄さまは、ここにいたわ」


「知っとる」


 グレアムは短く答えた。


「ミラベル、エレノア、マルタ。それに、その犬もいた。お前たちは黒鴉館でレオンが朝食を取っていたと証言できる」


 ブラムは自分を呼ばれたと気づいたのか、暖炉の脇で顔を上げた。


「ブラムは証言できません」


 ミラベルが言った。


「だが、いたことは確認できる」


 グレアムはレオンを見る。


「俺も、お前が昨日帰ってきたことは知っとる」


「なら容疑は外れる」


「人間の話ならな」


 レオンは入室記録へ目を落とした。


「説明しろ」


「警察記録上、午前八時十三分に、レオン=クラウス名義の身分継続票が審査室の正面照合機へ使用された」


 グレアムは指先で印字紙を叩いた。


「その審査室で、クラウディアが死んでいた」


「使用者が殺したとは限らない」


 ミラベルが言った。


「ああ」


「殺害時刻も、まだ八時十三分に固定できない」


「そうだ」


「その身分継続票を、誰が持っていたかも未確認」


「そのとおりだ」


「顔を見た者は?」


「正面廊下で、入室した顔を見た者はまだ確認できとらん」


 ミラベルが記録帳を開いた。


「現時点で断定できるのは、午前八時十三分、レオン=クラウス、身分継続票番号L・K・13が、審査室正面の照合機へ使用されたこと」


「それだけだ」


「機械の形式は?」


 レオンが尋ねた。


「人間が署名する方式か。職員が記入する方式か。通行票を機械に読み取らせる方式か」


「現場で見ろ」


「捜査官ではないと言ったのはそっちだ」


「面倒な死者だな、お前は!」


 グレアムの声が事務所へ響いた。


 階下で、カップが一つ鳴る。


 ブラムが耳を伏せる。


 グレアムは大きく息を吐き、片手で顔をこすった。


「帰ってきた翌朝に容疑者になる探偵は、お前ぐらいだ」


「正式には探偵でも容疑者でもない」


「余計に悪いわ!」


 レオンは杖を取った。


「行くぞ」


「どこへ」


「審査室だ」


 グレアムが杖の先を靴で押さえた。


 レオンの動きが止まる。


「お前には、現場へ入る権限がない」


「被害者は俺へ手紙を送った」


「そのお前が誰なのか、制度上は確定しとらん」


「黒鴉館にいる身元不明者として事情聴取を受けろと?」


「必要ならな」


 エレノアが机を叩いた。


「兄さまを拘束する気?」


「今のところはない」


「今のところ?」


「レオン=クラウス名義の票が殺人現場の照合機へ使われとる。ここにいる男には犯行時刻の証言者がいる。だが、六週間前に認定された本人と、この男が別人だという公式確認もない」


「同じなら、ここにいたことが証明になるでしょう」


「同じだと認めれば、入室記録との矛盾を説明せにゃならん。同じでないなら、こいつの身元は不明だ」


 グレアムは苦々しく言った。


「どちらに転んでも、警察記録は簡単には動かん」


 レオンが杖を引こうとした。


 グレアムの靴は退かない。


「協力資格は」


「停止中だ」


「探偵免許」


「死亡推定の成立時に失効扱い」


「記録鑑定資格」


「同じだ」


「元記録院職員としての閲覧権限」


「とっくにない」


「被害者から相談を受けた私人として」


「手紙が届いた時点で、被害者はすでに死亡していた可能性がある。依頼契約の成立を主張するなら、まずお前が受取人本人だと証明しろ」


 レオンは口を閉じた。


 グレアムの言葉は正しい。


 腹立たしいほど正確だった。


 レオンがレオンであることを証明するための事件なのに。


 レオンでないから、その事件を調べられない。


「では」


 ミラベルが鉛筆を置いた。


「私なら?」


 グレアムが彼女を見る。


「何だ、嬢ちゃん」


「私の身分は失効していません」


「ああ」


「クラウディアさんの手紙は、この事務所へ届きました。内容は、六週間前の生存再認に重大な疑義があることを示しています」


「可能性を示しとるだけだ」


「はい。だから調べます」


 ミラベルは手紙を便箋ごと封筒へ戻した。


「殺人事件は警察が捜査してください。私は、クラウディアさんが最後に伝えようとした生存再認記録の不整合を調べます」


 レオンが口を挟む。


「殺人と身分偽装は同じ事件だ」


「仮説です」


「クラウディアが承認者で、帰還記録を疑い、その後に殺された」


「関連している可能性は高いです」


「なら――」


「でも、まだ同じ人物が行ったとは断定できません」


 ミラベルはレオンを正面から見た。


「殺人を調べるのはグレアム警部です。私たちは、六週間前の帰還記録がどのように作られたのかを確認します」


「俺たち?」


「私の調査です」


 その言葉は、強くなかった。


 けれど、以前のミラベルなら口にしなかった言葉だった。


 レオンは彼女を見返した。


「現場へ入らなければ、照合機を確認できない」


「分かっています」


 ミラベルはグレアムへ向き直る。


「警部。クラウディアさんの死と、レオン=クラウス名義の照合記録が関連する以上、機械が何を記録したのか確認する必要があります。私の名で、現場調査への同行を認めてください」


「嬢ちゃんに殺人現場を歩かせたいわけじゃない」


「これまでにも歩いています」


「それを止められんかった男が、そこにおる」


 グレアムはレオンを顎で示した。


「今回は止められます」


 ミラベルは答えた。


 レオンが眉を寄せる。


「誰をだ」


「レオンさんをです」


「俺は止められる必要がない」


「昨夜、階段を上がるのにもブラムの補助が必要でした」


「関係ない」


「現場で倒れられたら関係があります」


「倒れない」


「確認できない未来を断定しないでください」


 エレノアが口元を押さえた。


 笑いを隠している。


 グレアムは二人を見比べたあと、低く唸った。


「条件がある」


「聞きます」


「警察の封鎖に従う。死体と凶器には触れん。許可した記録以外は持ち出さん。質問は俺か担当刑事を通す」


「分かりました」


「それから」


 グレアムはレオンへ太い指を向けた。


「この男は、お前の補助者だ」


 事務所が静かになった。


 エレノアが最初に吹き出した。


「兄さまが、ミラベルさんの助手?」


「補助者だ」


 グレアムが訂正する。


「同じでしょう」


「違う」


 今度はレオンが言った。


「どこが?」


「助手は継続的な職位だ。補助者は、この調査に限った役割だ」


「細かいわね」


「重要な区別だ」


 ミラベルは机の引き出しから、新しい事件記録票を取り出した。


 上部の受領者欄。


 以前なら、レオンの名を書いていた場所。


 鉛筆を置き。


 迷わず、自分の名を記す。


> 調査責任者

> ミラベル=ワトリア


 その下。


> 調査対象

> レオン=クラウス生存再認記録の不整合

> およびクラウディア=メルツ死亡事件との関連


 さらに、同行者欄。


 ミラベルの手が一度止まった。


 レオンが横から見る。


「何だ」


「肩書を考えています」


「記録鑑定担当でいい」


「資格は停止中です」


「元記録院不整合調査官」


「現在の身分と一致しません」


「では何と書く」


 ミラベルは、ごく小さく笑った。


> 調査補助

> 身元不明者――自称レオン=クラウス


「おい」


「公的な記録に従いました」


「悪意がある」


「事実です」


 ミラベルは、その文字の横へ小さな印を付けた。


「訂正できる証拠を見つけたら、直します」


 レオンは記録票を見下ろした。


 反論はしなかった。


 自分が幾度も他人へ言ってきたことだった。


 記録が間違っているなら。


 怒るのではなく。


 訂正できる証拠を見つけなければならない。


 グレアムが杖から靴を退ける。


「現場へ行くぞ」


 レオンは杖を持ち上げた。


 先に扉へ向かおうとする。


「レオンさん」


 ミラベルが呼び止めた。


「何だ」


「調査責任者が先です」


「歩く順番に権限は関係ない」


「現場に着く前から勝手に行動しないでください」


「階段を下りるだけだ」


「昨日、階段で倒れかけました」


「倒れていない」


「その話はもう終わりました」


 ミラベルは事件記録票を鞄へ収め、扉を開けた。


 ブラムが立ち上がる。


 レオンの右側へ寄ろうとしたが、ミラベルが首を横へ振った。


「ブラムは、ここで待っていて」


 黒い犬は扉とレオンを交互に見た。


「連れていかないのか」


 レオンが尋ねる。


「警察の殺人現場です。ブラムの役割は、まだありません」


「犬にだけは慎重だな」


「レオンさんより指示に従いますから」


 ブラムはミラベルの言葉を聞くと、暖炉の横へ戻った。


 前脚の上へ顎を乗せる。


 ただし、その目は階段へ向かう三人を追っていた。


     ◇


 中央記録庁・身分継続局の生存再認審査区画は、煤鳩亭の温かさとは正反対の場所だった。


 白い石壁。


 磨かれた灰色の床。


 一定の間隔で並ぶ真鍮灯。


 廊下には紙と消毒薬、機械油の匂いが混じっている。


 審査室前には、市警の封鎖紐が張られていた。


 正面扉は、厚い木板へ真鍮の補強帯を渡した造りだった。


 扉の脇には、身分継続票を差し込む照合機が埋め込まれている。


 細長い差込口。


 番号を読む歯車。


 認証が成立したときだけ動く解錠杆。


 その下へ、時刻と番号を印字する細い紙帯が伸びていた。


「午前八時十三分に使われたのは、これか」


 レオンが尋ねた。


「そうだ」


 グレアムが答える。


「票を入れ、番号が有効なら扉が開く。同時に、使用時刻と名義が中央機へ送られる」


「顔は?」


「見ない」


「体格も」


「見ない」


「票を持っている人間が、名義人本人かどうかも」


「機械には分からん」


 グレアムは照合機の真鍮板を指で叩いた。


「人間の出入りを調べる機械じゃない。板の使用記録だ」


 ミラベルは、その言葉を記録帳へ書いた。


> 正面照合機が確認するもの。

> 身分継続票の番号と有効状態。

> 使用者の顔、身体、本人性は確認しない。


 扉の向こうでは、警察の鑑識官が床を調べていた。


 クラウディアの遺体はすでに覆われている。


 机の近く。


 床へ倒れた椅子。


 散乱した数枚の書類。


 大型書類留めがあった場所には、白い位置札だけが残されていた。


 ミラベルは封鎖線より先へ出ない。


 レオンも、グレアムに示された位置で止まった。


 視線だけを動かす。


 正面扉。


 机。


 遺体の位置。


 室内奥の壁。


 そこには、もう一つの扉があった。


 正面扉より細い。


 装飾もない。


 扉の上へ、小さな札が掛かっている。


> 職員用通路


「どこへ続く」


 レオンが尋ねた。


「審査官の共同執務区画と、資料保管区画だ」


「一般の申請者は使わない」


「使えん。職員区画側から管理されとる」


「出入りの記録は?」


「職員通路全体の開閉記録はある。個別の部屋ごとに、誰が通ったかまでは残らん」


「現時点で、誰が通ったかは」


「調査中だ」


 レオンはそれ以上追及しなかった。


 断定できる材料がない。


 ミラベルは職員用通路の存在だけを記録する。


 そのとき。


 ミラベルが、正面扉の室内側へ目を留めた。


「これは何ですか」


 照合機の裏側。


 床から腰ほどの高さに、小さな真鍮蓋がある。


 外側の差込口よりも短く。


 取っ手には、工具を掛けるための溝が刻まれていた。


 グレアムが担当技師を呼ぶ。


「開けて説明しろ」


 記録機械技師は手袋をはめ、真鍮蓋の留め具を外した。


 内側には、細い金属路と小さな歯車が見える。


「照合票が内部で詰まった場合の保守口です」


 技師が言った。


「室内側から票を戻すために使います」


「票を入れることもできる?」


 ミラベルが尋ねる。


 技師は一瞬、答えを選ぶように機械を見た。


「構造上は可能です。ただし、通常の運用では行いません」


「内側から入れた場合」


 レオンが続ける。


「外側の差込口から入れた場合と、別の読取部を通るのか」


「いいえ」


 技師は内部の歯車を指した。


「表側の差込口も、この保守口も、同じ読取歯車へ接続されています」


「記録に違いは残る?」


「残りません」


「挿入した側は」


「記録対象ではありません。機械が残すのは、読み取った票の番号、認証結果、時刻です」


 ミラベルの鉛筆が止まった。


 答えへ到達したからではない。


 いま初めて、機械が観測していないものが明確になったからだった。


 外側から差し込まれたのか。


 室内側から差し込まれたのか。


 誰の手が票を持っていたのか。


 その情報は、午前八時十三分の記録には含まれていない。


「保守口は、通常施錠されていますか」


 ミラベルが尋ねた。


「蓋には留め具がありますが、鍵ではありません。工具があれば開けられます。室内で票が詰まった場合、審査官か保守員が扱う設備です」


「今朝、開いていた?」


「発見時には閉じていました」


 グレアムが答えた。


「使用された痕跡は?」


「まだ分からん。工具痕も指紋も調べとる。結果が出る前に結論を作るな」


「作りません」


 ミラベルは記録帳へ、確認済みの事実だけを書き加えた。


> 正面扉の照合機には、室内側保守口がある。

> 表側差込口と保守口は、同一の読取歯車へ接続。

> 機械記録には、票を入れた側は残らない。

> 発見時、保守口は閉じていた。

> 使用の有無は未確認。


「これで」


 レオンが言った。


「午前八時十三分に、正面扉を通って人間が入ったとは断定できない」


「まだ、そこまでです」


 ミラベルが制した。


「機械が人間の入室を直接確認していないことは分かりました。でも、その時刻に扉が開かなかったとも、誰も入らなかったとも証明できません」


「分かっている」


「死亡時刻も確定していません」


「ああ」


「職員通路を誰が使ったかも未確認です」


「そうだ」


 レオンは素直に認めた。


 以前なら、自分の言葉を止められたことへ一つは皮肉を返していただろう。


 いまは。


 室内の白い覆いを見ている。


 自分へ手紙を送った可能性が高い審査官。


 一人ではなかった帰還者を確認し。


 訂正する前に殺された女。


 ミラベルは記録帳を閉じなかった。


 現時点での事実を、もう一度整理する。


「クラウディア=メルツさんは、この部屋で死亡していた」


「ああ」


 グレアムが答える。


「凶器と見られる書類留めが発見された。正式な検死はまだ」


「そうだ」


「午前八時十三分に、L・K・13の身分継続票が照合機で読み取られた」


「ああ」


「その時刻と殺害時刻が一致するかは、まだ分からない」


「分からん」


「票を使用した人物も、票を入れた側も分からない」


「そのとおりだ」


 ミラベルは最後の一行を書いた。


> レオン=クラウスという名は、審査室の記録へ入った。

> その名とともに、誰の身体が入ったのかは未確認。


 レオンが横からその文章を読んだ。


「正確だ」


「調査責任者ですから」


「その肩書は、今日だけだ」


「訂正する証拠が出るまでです」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「事務所でやれ。ここは殺人現場だ」


 レオンは正面扉と職員用通路を、もう一度見比べた。


 外側の照合機。


 内側の保守口。


 一つの読取歯車。


 午前八時十三分の印字。


 どれも事実だった。


 だが。


 それらを、誰の行動へ結びつければよいのか。


 その証拠は、まだない。


 確かなのは。


 クラウディア=メルツが死んだこと。


 彼女の審査室で、レオン=クラウスの真鍮板が読み取られたこと。


 そして。


 その名の持ち主を自称する男が。


 ミラベル=ワトリアの補助者として、自分の名が通った扉を調べ始めたことだけだった。

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