第3節 ― あなたは、すでに帰還している
「あなたの生存再認は、六週間前に完了しています」
中央記録庁の使者は、確かにそう言った。
煤鳩亭から音が消えた。
カップを受け皿へ戻そうとしていた常連客の手が止まり、厨房から顔を出していたマルタさえ、しばらく何も言わなかった。
店の外では、朝の荷馬車が霧燈通りを通り過ぎている。
蹄が水溜まりを踏む。
高架の向こうで汽笛が鳴る。
いつもの朝の音だけが、閉ざされた店内へ遠く届いていた。
レオンは使者を見た。
「もう一度言ってくれ」
声に驚きはなかった。
聞き間違いを疑う者の声でもない。
記録へ残す文言を、正確に確かめる調査官の口調だった。
使者は黒革の文書箱を抱え直した。
「レオン=クラウス氏の死亡推定は、六週間前に取り消されています。同日、身分継続局生存再認部の本人照合を経て、身分、職歴、財産権および記録上の人格は復旧しました」
「それなら」
ミラベルが口を開いた。
「ここにいるレオンさんは、何の手続きに呼ばれているんですか」
使者は答える前に、店内へ視線を巡らせた。
死亡記事を開いたままの新聞記者。
耳を澄ませている鉄道員。
カウンターの奥で腕を組むマルタ。
その一人ひとりが、自分の次の言葉を聞いている。
「この先は、個人身分記録に関わります」
「二階を使いな」
マルタが顎で階段を示した。
「ただし、泥を落としてから上がるんだよ。中央記録庁だろうが、床を磨くのはあたしなんだからね」
使者は戸惑いながら靴底を見た。
「官用馬車から直接参りましたので――」
「石粉がついてる」
マルタが即座に言った。
黒い靴の縁には、官庁街特有の白い石粉が薄く付着していた。
使者は無言で、入口の敷布へ靴を擦った。
レオンは鉄の杖へ手を伸ばす。
ブラムが先に立ち上がった。
今度は通路を塞がず、レオンの右側へ並ぶ。
「ついてくる気か」
ブラムは顔を上げない。
「犬は個人身分記録の閲覧者ではない」
「ブラムは字を読みませんから、漏洩の心配はありません」
ミラベルが事件記録帳を持って立ち上がった。
「人間より口も堅いです」
「比較する人間によるな」
「兄さまよりは確実ね」
エレノアが新聞を畳んだ。
「君も来るのか」
「家族に関わる照合が行われたなら、関係者でしょう」
「行われたとは、まだ聞いていない」
「なら、確認すればいいだけよ」
「上で確認しましょう」
ミラベルが二人の間へ入った。
「ここで結論を決める必要はありません」
レオンは何も言わず、階段へ向かった。
鉄の杖。
遅れて運ばれる右脚。
その横をブラムが歩く。
ミラベルとエレノアが続き、使者が黒革の箱を抱えて最後に階段を上がった。
背後から、マルタの声が飛んでくる。
「朝食は終わってないからね! 死者だろうが身元不明者だろうが、戻って食べな!」
二階の事務所には、昨夜の名残が残っていた。
暖炉の火は小さくなっている。
濡れた外套を乾かした跡。
食べかけの煮込みを下げた丸机。
レオンの机には、黒鐘塔へ出発した夜から置かれていた検査レンズと、帰還後に積まれた新しい事件記録が並んでいる。
使者は机の中央へ、黒革の文書箱を置いた。
真鍮の角金具。
濃紺の封蝋。
身分継続局の印。
箱の側面には、小さな金属札が埋め込まれていた。
> 生存再認記録
> L・K・13
レオンは椅子へ座らなかった。
机へ片手をつき、札を見下ろす。
「Lはレオン。Kはクラウス」
「はい」
「十三は?」
「同一頭文字の対象者を区別する登録番号です」
「偶然にしては、趣味が悪い」
エレノアが言った。
「自動登録ですので、意味はありません」
使者は官用鍵を鍵穴へ差し込んだ。
錠が二度鳴る。
濃紺の封蝋を小さな刃で切り、蓋を開いた。
中には、濃灰色の厚紙で綴じられた記録束が収められている。
表紙の中央に、青い印章。
> 生存再認票
> 対象者 レオン=クラウス
> 審査結果 本人確認完了
> 身分継続 承認
その下の日付は、六週間前。
本物のレオンが、まだ地下から戻れずにいた時期だった。
ミラベルは机の脇へ移り、記録帳を開いた。
「これは原本ですか」
「中央原簿から作成した正式副本です。各原照合票と証拠資料は、生存再認部の保管庫にあります」
「では、この記録が正式に成立していることは確認できる」
「はい」
「各資料そのものを調べるには?」
「原本閲覧の申請が必要です」
レオンが横目でミラベルを見る。
「先に聞かれたな」
「四か月、練習しましたから」
「誰で」
「レオンさんの古い事件記録で」
「本人の許可は?」
「死亡推定者へ許可を取る方法を教えてください」
エレノアが小さく笑った。
レオンは反論を諦め、記録束を開いた。
複数の頁に。
身体確認。
所持品。
筆跡。
旧職員番号。
近親者のみが知る照合事項。
二名の証言。
必要な欄はすべて埋まっている。
欠けた頁はない。
担当者の署名。
部署印。
最終承認印。
書式上、未処理を示す空欄も見当たらなかった。
レオンは頁を一枚ずつ確認したが、その場で内容を読み解こうとはしなかった。
紙質も。
原署名も。
添付資料の現物も、ここにはない。
正式副本だけを見て断定できる範囲は限られている。
「必要な項目は揃っている」
レオンが言った。
「七項目です」
使者が答える。
「規定では、そのうち五項目の適合で仮再認が成立します。この記録では七項目すべてが適合し、最終承認も完了しています」
「例外処理は?」
「一部の照合に、負傷を理由とした代替手続きが使われています。ただし、規定内です」
「顔や声を直接確認できなかった項目がある」
ミラベルが、記録の要旨を見て言った。
「はい。ですが、ほかの照合によって補完されています」
「誰が補完できると判断した」
「生存再認部です」
使者の答えには迷いがなかった。
それが正式な手続きだからである。
レオンは記録束を閉じず、最終頁まで目を通した。
「この副本だけでは、各照合が正しかったかは判断できない」
「記録は正式です」
「正式であることと、正しいことは同じじゃない」
使者の表情がわずかに強張った。
「ですが、中央記録庁の原簿では、すでに本人確認が成立しています」
「それは見れば分かる」
レオンの声は冷たくなかった。
ただ、容赦がなかった。
「俺たちが確かめるべきなのは、その成立までに何を確認したかだ」
ミラベルが記録帳へ書きつける。
「現時点で断定できるのは、正式な生存再認記録が存在すること。必要な照合項目がすべて適合とされ、六週間前に最終承認されたこと」
「そうだ」
レオンが答える。
「その判断が正しかったかどうかは?」
「原照合票と証拠資料を見るまで分からない」
「この男性が本人ではなかったとも、まだ言えない」
「ああ」
「本人だったとも断定できない」
「そのとおりだ」
使者は、二人のやり取りを黙って見ていた。
自分が持参したのは、完了済みの手続きを知らせる書類だったはずである。
それが、黒鴉館の机へ置かれた瞬間。
再び調べるべき事件記録へ変わっていた。
「それで」
レオンが記録束の最終頁を押さえた。
「六週間前に帰った俺は、手続きを終えたあと、何をした」
「所在の更新は行われていません」
「身分を回復した人間が、住所を登録せずに消えたのか」
「住所変更には猶予期間があります」
「権利を行使した記録は?」
使者の手が止まった。
ミラベルが、その反応を見る。
「ありますね」
「一件だけです」
使者は文書箱の底から、赤い紐で綴じられた一枚の書類を取り出した。
「生存再認の成立後、本人権限による記録資産の移管申請が提出されています」
レオンの目から、わずかに残っていた皮肉が消えた。
「何を移した」
使者は書類を机へ置いた。
> 未解決事件箱移管命令
> 所有記録者 レオン=クラウス
> 対象 未解決事件箱・第十三号
> 処理区分 本人請求による保管先変更
> 申請 承認済み
ミラベルはレオンを見た。
「知っていますか」
「ああ」
レオンの声が低くなる。
「黒鐘塔へ行く前、記録庁内部の不審な身分処理をまとめて封印した箱だ」
「なぜ未解決事件箱に?」
「証拠として不足していた。個人名を挙げて告発できる段階ではなかった」
「レオンさんが死亡した場合は?」
「長期封印される。本人か、事前に指定された継承者でなければ動かせない」
「六週間前に帰還したレオンさんは」
ミラベルは移管命令を見る。
「本人の権限で、それを移した」
「そう記録されている」
「保管先は?」
使者が書類の下部を確認した。
「本人指定保管区画です。詳細は、所有者本人以外には開示されません」
「なら、俺に開示しろ」
使者は答えなかった。
レオンが顔を上げる。
「所有者本人だ」
「記録上の所有者本人は、すでに生存再認を終えています」
「その本人が、ここにいる」
「それを確認する手続きが必要です」
「俺の生存再認は終わっているんだろう」
「はい」
「なら終わっている」
「ですが」
使者は一度、言葉を切った。
机の上の記録。
六週間前の日付。
本人名義の移管命令。
そして。
いま、目の前に立つレオンを見た。
官吏として最も正確で。
人間として最も不条理な答えを選ぶ。
「生存再認を終えたレオン=クラウス氏と、現在ここにいらっしゃるあなたが同一人物であることは、確認されておりません」
エレノアが目を見開く。
「何を言っているの?」
「現在の記録では」
使者はレオンへ向き直った。
「あなたは、すでに本人確認を終えたレオン=クラウス氏と同じ名を使用している、身元不明の男性となります」
部屋が静まり返った。
窓の外で、蒸気管が低く唸る。
レオンの右手が、鉄の杖の握りへ触れた。
音へ反応したのか。
怒りを抑えたのか。
ミラベルには分からなかった。
「ここにいる人が偽物だと言うの?」
エレノアが尋ねる。
「そのようには申し上げていません」
「同じことでしょう!」
「いいえ」
使者は青ざめながらも答えた。
「偽物であると確定する記録もありません。本人であると確定する記録もありません。したがって、現時点では身元不明者です」
「では、六週間前の人は?」
「正式なレオン=クラウス氏です」
「目の前の兄さまより、紙の中の人の方が本物なの?」
使者は返答できなかった。
制度は、そう判断している。
だが、その言葉を人間の口から言えば、あまりにも異様だった。
そのあいだ。
ブラムは机の下から立ち上がっていた。
レオンの上着の裾。
鉄製の杖。
右靴。
痛みを避けるように少し前へ伸ばされた右脚。
順に匂いを確かめる。
ブラムが追った道。
旧第零環。
第十三保守停車所。
時計塔の排水接続路。
そして黒鴉館まで続いていた、一人の帰路。
犬は署名を知らない。
職員番号も。
本人確認の要件も知らない。
ただ。
その道を歩いてきた存在の匂いを覚えている。
ブラムはレオンの足元で一度向きを変えた。
そのまま、大きな身体を伏せる。
右脚へ触れないぎりぎりの位置で。
そこから動く気はないらしかった。
ミラベルは記録帳へ一行を書いた。
「何を書いた」
レオンが尋ねる。
「非公的照合」
ミラベルは読み上げた。
「ブラム、一名を同一人物と認識」
「法的な効力はありません」
使者が言った。
「承知しています」
ミラベルは記録帳を閉じなかった。
「でも、記録する価値はあります」
「犬の行動を?」
「番号を読まない証人の判断を、です」
使者は何も言わなかった。
レオンは机の上へ視線を戻した。
正式な生存再認票。
必要な項目はすべて揃っている。
六週間前には、その記録によって本人の権利が行使され、未解決事件箱が移された。
その一方で。
四か月の空白を経て黒鴉館へ戻ったレオンは、制度上、何の身分も持っていない。
この場で偽造と断定できる記録はない。
記録官が意図的に誤った判断をした証拠もない。
誰が。
どのような方法で。
レオン=クラウスという一人の人格を成立させたのか。
それを示す証拠は、まだ足りなかった。
レオンは生存再認票を持ち上げた。
しばらく、表紙に記された自分の名を見つめる。
それから。
死亡記事に載った翌朝とは思えないほど、乾いた声で言った。
「俺より先に、俺が帰っていたらしい」
誰も笑わなかった。
その皮肉の向こうで。
レオン=クラウスの名は、すでに一度、この都市を歩いている。
扉を開き。
命令書へ署名し。
未解決事件箱を動かし。
そして。
持ち主だけを残して、記録の中へ消えていた。




