第2節 ― 死者の朝食
翌朝。
霧燈通りは、夜の雨を石畳の隙間へ残していた。
黒鴉館の黒ずんだ煉瓦を、薄い朝霧が撫でている。高架鉄道を渡る始発列車の振動が遠くから伝わり、窓硝子を細かく震わせた。
夜明け前に呼ばれた医師は、レオンの左肩と肋骨、右脚の固定具を確かめ、数日は絶対安静だと言い渡して帰った。
その数時間後。
当人は、喫茶室《煤鳩亭》の奥で朝食を取っていた。
珈琲と焼いた黒パンの匂いが、店内に満ちている。
新聞記者が紙面を広げ。
夜勤を終えた鉄道員が、冷えた指をカップへ添え。
契約代書人が鞄から今日の書類を取り出している。
いつもの朝だった。
ただし。
店の奥に座っている男だけが、いつもの朝に属していなかった。
レオン=クラウスは、四か月ぶりに煤鳩亭の朝食を取っていた。
黒い上着は、マルタがどこかから出してきた古いものだった。以前のレオンが着ていた服よりも肩が広く、痩せた身体の輪郭を余計に目立たせている。
左腕はほとんど動かしていない。
右脚は椅子の下へ曲げず、通路側へ少し伸ばされていた。
簡素な鉄製の杖が、壁と椅子の間へ立てかけられている。
顔色はまだ悪い。
それでも、レオンは湯気の立つ珈琲を口へ運んでいた。
その様子を。
煤鳩亭にいる全員が見ていた。
見ていないふりをしながら。
新聞の向こうから。
カップの縁越しに。
磨かれたスプーンへ映る像を使って。
誰も声をかけない。
紙面には、レオンの名前が載っている。
黒鐘塔事件で行方不明。
遺体は発見されず。
のちに死亡推定。
記事によっては英雄と呼ばれ。
別の記事では、犯罪設計者ノクス=モリアンと相討ちになった危険な探偵と書かれていた。
その死亡記事の本人が、記事を載せた新聞の隣で珈琲を飲んでいる。
常連客たちは、その矛盾をどう扱えばよいのか判断できずにいた。
レオンがカップを置いた。
陶器が受け皿へ触れ、小さな音が鳴る。
それだけで、近くの記者が新聞を取り落としかけた。
「落ち着かないな」
レオンが言った。
向かい側に座るミラベルは、黒パンへ薄く果実煮を塗りながら答えた。
「誰のせいだと思っているんですか」
「俺は朝食を取っているだけだ」
「死亡記事に載った人が普通に朝食を取ると、周囲は困るんです」
「死人は珈琲を飲まないからか」
「そういう問題です」
ミラベルはパンを皿へ置いた。
「それに、普通ではありません」
「何がだ」
「珈琲しか口へ入れていません」
「飲み物として提供されている」
「朝食として出されたものを食べてください」
レオンの前には、煮込み麦、薄切りの燻製肉、半熟の卵、黒パンが置かれていた。
マルタが、普段のレオンへ出す量よりも明らかに多く盛っている。
レオンは皿を見た。
「病人への食事としては重すぎる」
厨房から声が飛んできた。
「病人じゃないって言い張ったのは、どこの誰だい!」
「負傷者と病人は違う」
「絶対安静って言葉を聞いて、食堂まで下りてくる負傷者がいるかい!」
「階段を下りるなとは言われていない」
「寝台から出るなって意味だよ!」
店内の数人が、反射的に笑いかけた。
だが、笑ってよい場面なのか迷い、すぐに咳払いへ変える。
レオンは厨房の方を一度見てから、卵へ匙を入れた。
ミラベルは、その動きを最後まで確認した。
「監視するな」
「昨夜、椅子から落ちかけた人を見ていますから」
「落ちていない」
「ブラムがいなければ落ちていました」
「仮定の話だ」
「仮定だから、もう一度試して確かめますか?」
「君は四か月で性格が悪くなったな」
「誰のせいでしょう」
また同じ問いを返され、レオンは卵を口へ運んだ。
店の隅では、エレノアが新聞を縦に折っていた。
読んでいるように見えるが、視線は一文字も追っていない。
紙面の端から、レオンの手元を見ている。
レオンが匙を止めれば、エレノアの指も止まる。
珈琲を飲めば、わずかに肩の力が抜ける。
「エレノア」
レオンが呼んだ。
新聞がわずかに揺れた。
「何?」
「穴が開く」
「何に?」
「新聞か、俺の顔にだ」
「自意識が過剰ね」
エレノアは紙面を持ち上げ、顔を完全に隠した。
「兄さまなんて見ていません」
「そうか」
「朝食を残している量を確認しているだけ」
「ミラベルと同じことをするな」
「私は調査補助よ。共同調査者の確認を補助しているの」
レオンの眉が動いた。
「いつから、その肩書になった」
「兄さまが死んでいたあいだ」
「死亡推定だ」
「訂正できない人が悪いのよ」
エレノアは新聞を下ろした。
目の下には、昨夜ほとんど眠っていないことを示す薄い影が残っている。
それでも、もう泣きそうな顔はしていなかった。
代わりに。
レオンが一口食べるたび、それを記憶へ刻みつけるように見ていた。
レオンは彼女へ何も言わず、煮込み麦を食べた。
椅子の横では、ブラムが座っていた。
大きな黒い身体が、レオンの右側と通路の間を塞いでいる。
胸元の灰白色の毛だけが、暖炉の光を受けて浮かんでいた。
目を細めてはいるが、眠ってはいない。
厨房で皿が重なる音。
正面扉の外を荷車が通る音。
レオンの呼吸。
店内の音を拾いながら、ときおり鼻先を動かし、右脚と鉄の杖の匂いを確かめている。
レオンが椅子から立ち上がろうとした。
右手を机へ置く。
左肩を動かさず、体重を前へ移す。
鉄の杖には手を伸ばしていない。
その瞬間。
ブラムが身体を寄せた。
通路が完全に塞がれる。
「退け」
ブラムは動かない。
耳だけを一度、レオンへ向けた。
「退け、ブラム」
黒い犬は顔を上げた。
レオンを見た。
次に、伸ばされた右脚と、壁際の鉄の杖を見る。
そして、顔を正面へ戻した。
エレノアが新聞の陰で笑った。
「命令を無視されたわね」
「訓練された保守犬ではなかったのか」
「優秀な保守犬よ」
「命令に従っていない」
「危険な命令に従わないのも、優秀さのうちじゃない?」
「立つだけだ」
ミラベルが杖へ目を向けた。
「杖を取らずに?」
「取る前に退かせようとした」
「順番が逆です」
「君が決めることじゃない」
「ブラムが決めたみたいです」
ミラベルは椅子から立ち、犬の隣へしゃがんだ。
頭を撫でようとはしない。
ただ、同じ高さから顔を見る。
「ブラム」
黒い耳が動く。
「レオンさんが杖を取りたいみたい。少しだけ通してくれる?」
ブラムはミラベルを見た。
次にレオンを見る。
それから立ち上がり、半歩だけ横へ動いた。
鉄の杖へ手が届くぶんだけ。
店内から、抑えきれない笑い声が漏れた。
レオンは無言で杖を取った。
その先端が床につくと、ブラムはさらに一歩退いた。
「確認できました」
ミラベルが言った。
「偶然だ」
「では、杖を置いてもう一度試しますか」
「必要ない」
レオンは杖へ体重を預け、ゆっくりと立ち上がった。
右脚を床へつけた瞬間、口元がわずかに固くなる。
ミラベルは気づいたが、声には出さなかった。
ブラムも見ていた。
レオンが二歩だけ進むと、黒い犬は右側へ並んだ。
「ついてくるな」
ブラムはついてくる。
「誰の犬だ」
「現在は、一時保護です」
ミラベルが答えた。
「保護先は?」
「黒鴉館です」
「誰が決めた」
ミラベルとエレノアが同時に厨房へ視線を向けた。
「何だい!」
見えていないはずなのに、マルタの声が飛ぶ。
レオンはため息をついた。
「ここは探偵事務所だ。犬舎ではない」
「犬舎より広いわ」
エレノアが言った。
「比較対象がおかしい」
「でも、兄さまの私室よりは片づいてる」
「俺の私室へ勝手に入ったのか」
「四か月も行方不明だった人が言うこと?」
「家賃の支払いには関係ないよ!」
また厨房から声が飛ぶ。
常連たちの表情が、ようやく少し緩んだ。
いつものレオンと。
いつものマルタのやり取り。
そこへミラベルとエレノアの声が加わり。
大きな黒い犬が、当然のようにレオンの右側へ座っている。
四か月前と同じではない。
けれど。
異様な状況をどう扱えばよいか迷っていた客たちは、それが黒鴉館の新しい日常なのだと、少しずつ受け入れ始めていた。
新聞記者の一人が、おそるおそる声をかけた。
「あの、クラウスさん」
レオンが振り返る。
記者は死亡記事の載った紙面を持ち上げた。
「この記事……訂正した方がよろしいでしょうか」
「俺に聞くな」
「本人確認が取れれば、号外を――」
「朝食中だ」
「ですが、生存の確認を」
ミラベルが割って入った。
「現時点で確認できているのは、黒鴉館へ帰還した男性がレオン=クラウスを名乗り、私たちが本人だと認識していることだけです」
記者は目を瞬いた。
「本人ではない可能性が?」
「そうは言っていません」
「では本人だと?」
「公的な手続きは、まだ終わっていません」
ミラベルはレオンを見た。
「ですよね」
「俺の死亡推定を取り消し、身分を回復する必要がある」
レオンは自分の右手を見た。
「現状では口座も資格も住居契約も停止したままだ。俺が自分を本人だと主張しても、制度上の本人確認にはならない」
「顔や声では駄目なんですか」
「顔を似せる者はいる。声を真似る者もいる」
「ご家族の証言は」
「証言にはなる。家族が誤認しないという証明にはならない」
レオンは短く答えた。
「本人であることと、本人として扱われることは別だ」
その言葉に、店内の空気がわずかに沈んだ。
レオン自身は、ただ制度上の事実を述べただけだった。
けれど。
ヴェルム=クロウでは、本人が目の前にいることよりも、台帳が誰を本人としているかの方が強い場合がある。
死亡記事の本人が朝食を取っていても。
中央記録庁が死亡推定を取り消さない限り、社会の中ではまだ死者だった。
「今日、記録庁へ行くつもりですか」
ミラベルが尋ねた。
「ああ」
「一人で?」
「手続きだ。事件ではない」
「記録庁の手続きほど、事件に近いものはありません」
「偏見だな」
「経験です」
レオンが反論しようとした。
そのとき。
正面扉の外で、馬車の車輪が止まった。
ブラムが先に反応した。
顔を上げる。
耳を扉へ向ける。
ただし、唸り声は出さない。
ガラス越しに、一人の影が立っている。
濃灰色の官吏外套。
胸元から斜めに下がる細い銀鎖。
左手には、角を真鍮で補強した黒革の文書箱。
右手には、折り畳まれた身分票。
「中央記録庁だ」
レオンが言った。
「外套だけで?」
「外套は官庁共通だ。銀鎖の楕円板は、身分関係記録の閲覧権限を示している」
「身分継続局?」
「可能性が高い」
扉が二度叩かれた。
店内の視線が一斉に集まる。
マルタが厨房から顔を出した。
「朝食の時間に役人かい。珈琲を飲むなら入れな。書類だけなら外で待たせな」
「それを本人へ聞こえる声で言うな」
レオンが扉へ向かおうとする。
ブラムも立ち上がった。
「お前は来るな」
ブラムはついてくる。
「ブラム」
ミラベルが呼んだ。
犬が振り返る。
「そこにいて。すぐ戻るから」
命令ではなく、約束するような声だった。
ブラムは数秒、ミラベルを見つめた。
それから元の場所へ腰を下ろす。
レオンは扉へ伸ばした手を止めた。
「俺の言葉と、何が違う」
「言い方です」
「同じ内容だ」
「ブラムには違うみたいです」
ミラベルは先に扉を開けた。
立っていたのは、まだ若いヒト族の官吏だった。
髪は雨露一つ残らないほど整えられ、靴には官庁街の白い石粉が付着している。
外套の襟には、中央記録庁の刻印。
銀鎖の楕円板には、レオンが見抜いたとおり、身分関係記録の閲覧権限が刻まれていた。
黒革の文書箱には、濃紺の封蝋。
身分継続局の印章だった。
ただし。
官吏の顔には、帰還者を迎えに来た者の安堵も、死亡記録の誤りを詫びる者の緊張もなかった。
困惑だけがあった。
「中央記録庁・身分継続局より参りました」
官吏は身分票を開いた。
「レオン=クラウス氏の生存再認手続きに関して、確認事項がございます」
「本人です」
ミラベルが言うと、官吏は彼女ではなくレオンを見た。
レオンの顔。
左肩を庇う姿勢。
右脚。
鉄の杖。
それらを順に見たあと、手元の書類へ視線を戻す。
「お名前を確認しても?」
「レオン=クラウス」
「旧ヴァルテリア記録院、不整合調査部所属。退職後、私立推理士および記録鑑定請負」
「元所属は正しい。退職ではなく追放に近いがな」
官吏は冗談へ反応しなかった。
身分票とレオンの顔を、もう一度見比べる。
「黒鐘塔事件において行方不明。のちに死亡推定」
「それを取り消しに来た」
「いえ」
官吏は即座に否定した。
その声に、レオンの表情が変わった。
「何が違う」
「死亡推定の取消申請ではございません」
「では何の確認だ」
官吏は黒革の文書箱を両手で持ち直した。
濃紺の封蝋には、開封された痕跡がない。
レオンは黙って待った。
ミラベルも問いを重ねなかった。
官吏の喉が一度動く。
彼はまず、書類に記された名前を読み上げた。
「レオン=クラウス氏」
そして。
死亡記事に載った男へ。
まるで、すでに処理の終わった記録を読み返すように告げた。
「あなたの生存再認は、六週間前に完了しています」




