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第1節 ― 説明は、そのあとです

「説明は、そのあとです」


 ミラベルは新しい事件記録を胸の前へ抱えたまま、そう言った。


 声は、自分で思っていたよりも静かだった。


 四か月。


 そのあいだ、何度も想像した音がある。


 扉の向こうから聞こえる足音。


 階段を上がってくる靴音。


 鍵を使わず、二度だけ扉を叩く癖。


 そして、何事もなかったように事務所へ入ってくる、皮肉屋の探偵の声。


 どれも聞こえなかった。


 だから、いま目の前に立つ男が本当に息をしていることを、ミラベルの感情はまだ理解しきれていなかった。


 濡れた髪。


 頬へ落ちた煤。


 以前よりも深く窪んだ目。


 雨水を吸った黒い外套。


 右手には、見覚えのない鉄製の杖。


 その先端が床板に触れるたび、わずかに遅れて右脚が運ばれる。


 顔は、レオン=クラウスだった。


 声もそうだった。


 だが、四か月前のレオンとは違っていた。


 ミラベルが見つめていると、レオンは眉を寄せた。


「何だ」


「観察しています」


「見れば分かる」


「見ても分からなかったから、四か月も困っていたんです」


 レオンは口を閉じた。


 以前なら、すぐに皮肉が返ってきたはずだった。


 返ってこない。


 その沈黙が、濡れた外套よりも、痩せた顔よりも、彼の消耗を明確に示していた。


 扉の脇では、グレアム警部が腕を組んでいた。


 分厚い眉の下から、レオンの全身を睨むように見ている。


「顔色が死体より悪いぞ」


「死亡記録を出した側の感想としては、参考になるな」


「俺が出したんじゃない。死亡推定だ」


「制度上の違いで、顔色は改善しない」


「口だけは生前のままだな」


 グレアムはそう吐き捨てたが、組んでいた腕を解かなかった。


 大きな手が一度だけ拳を作り、また開く。


 殴りたいのか。


 肩を叩きたいのか。


 本人にも決められないらしかった。


 窓際には、エドガー=クラウスが立っていた。


 黒い外套も手袋も、いつもと変わらず整っている。


 彼だけが、弟の帰還に驚いていない。


 驚く権利を持っていないようにも見えた。


 レオンの視線が兄へ向く。


 二人は言葉を交わさなかった。


 だが、それだけで十分だった。


 エドガーが何かを知っていたこと。


 レオンが、そのことを知っていること。


 そして。


 ミラベルたちへ伏せられていた何かがあること。


 短い視線の中に、それだけが残った。


「立ったまま話す気?」


 エレノアが言った。


 声音は平静だった。


 少なくとも、最初の一音までは。


 彼女はレオンの正面へ歩み寄った。


 足取りは速くない。


 駆け寄りもしない。


 四か月前と同じように、兄へ文句を言いに行くだけの顔を作っていた。


「兄さま」


「エレノア」


「本物?」


「質問の質が落ちたな」


「そう」


 エレノアは頷いた。


 次の瞬間、レオンの濡れた外套を両手でつかんだ。


 布が強く引かれ、レオンの身体がわずかに前へ傾く。


 鉄の杖が床を滑った。


 レオンの顔から、一瞬だけ血の気が引く。


 左肩が不自然に固まり、右脚へ重心を移そうとして失敗する。


 エレノアの目が、その反応を見逃さなかった。


 けれど、手は離さない。


「もう一度勝手に死んだら、私が死亡記録を書きます」


「本人が書くものではない」


「私が書くの」


「書式が違う」


「知ってる。兄さまが訂正できないくらい、間違えて書いてあげる」


 言葉の終わりが震えた。


 エレノアは顔を伏せた。


 外套を握った指だけが、さらに強くなる。


 レオンは、その手を外そうとはしなかった。


 右手を一度上げる。


 妹の頭へ触れようとしたのかもしれない。


 だが、途中で止めた。


 どう触れればよいのか、分からなくなったようだった。


 結局、その手はエレノアの肩へ置かれた。


「……いまは、ここにいる」


 エレノアが顔を上げる。


「当たり前でしょう」


「ああ」


「今度は、勝手にいなくならないで」


 レオンは答えなかった。


 約束できないことを、言葉だけで埋める男ではない。


 エレノアも、それを知っていた。


 だからこそ、返事のない沈黙に唇を噛んだ。


 外套から手を離す。


 握っていた場所には、濡れた皺が深く残った。


 レオンの身体が右へ傾いだ。


 グレアムが一歩踏み出したが、その前にブラムが立ち上がった。


 黒鋼坑道犬は、レオンと革張りの椅子のあいだへ身体を入れた。


 押したわけではない。


 ただ、レオンの右脚側へ、大きな胴を寄せた。


 レオンは一瞬、犬を見下ろした。


「君の犬か」


「違います」


 ミラベルは答えた。


「ブラムです」


「名前を聞いたんじゃない」


「誰の犬かと聞いたからです。ブラムは、ブラムです」


 ブラムがレオンの濡れた外套の裾を嗅いだ。


 次に鉄の杖。


 右靴。


 そのまま顔を上げ、胸元の匂いを確かめるように鼻を動かす。


 レオンは動かずに観察していた。


「地下保守犬か」


「元は、環状鉄道の保守犬です」


「元は?」


「主人を失いました」


 ミラベルが答えると、レオンの視線がわずかに変わった。


 ブラムの首には、磨き直された古い真鍮章が下がっている。


 ヨアヒム=ベルナーの保守犬だったことを示す章。


 その下には、黒鴉館で新しく用意した革紐が結ばれていた。


 レオンは何も聞かなかった。


 だが、暖炉の横に置かれた大きな水入れと、畳まれた毛布へ目を向けた。


 それから、事務所全体を見渡す。


 壁には、旧第零環支線の地図が残っていた。


 赤い糸が、東部保守機関庫から第十三保守停車所を通り、地下貨物線へ続いている。


 ミラベルの机には、新しく番号を付けられた事件箱が積まれていた。


 以前にはなかった索引棚。


 確認できた事実と、未確認事項を分けるための札。


 棚の一角には、エレノアの帽子と鬘、制服の襟、借り物らしい職員章が置かれている。


 扉の横には、二枚の真鍮札が掛かっていた。


> ミラベル=ワトリア

> 共同調査・事件記録


 その下には、まだ仮留めの札。


> エレノア=クラウス

> 調査補助


 最後にレオンは、自分の椅子を見た。


 誰も座らなかった革張りの椅子。


 机の上の検査レンズも、煙草盆も、黒鐘塔へ出発した夜と同じ位置にある。


 ただし。


 机の脇には、新しい机が二つ増えていた。


「君がここを残しているとは思わなかった」


 レオンが言った。


 ミラベルは事件記録を机へ置いた。


「残したんじゃありません」


 紙束の端を揃える。


「続けたんです」


 レオンは答えなかった。


 彼がいなくなったあとも。


 事件は起きた。


 依頼人は来た。


 死んだことにされた者がいた。


 帰れない主人を待つ犬がいた。


 ミラベルとエレノアは、誰も座らない椅子を守るためではなく、そこへ届いた依頼を終わらせるために動いた。


 その結果が、壁の地図と、事件箱と、二枚の真鍮札だった。


 レオンが帰ってきたからといって、それらが消える理由はない。


 階段を上がる重い足音がした。


 扉が勢いよく開く。


「いつまで濡れ鼠を立たせてるんだい!」


 マルタ=グレインが、大きな盆を両手で抱えて入ってきた。


 湯気の立つ濃い煮込み。


 黒パン。


 温めた布。


 薬草の匂いがする湯。


 そして、盆の端には、折り畳まれた一枚の紙が載っていた。


 マルタは丸机へ盆を置くと、レオンを頭の先から靴の先まで眺めた。


 目を細める。


「痩せたね」


「大家の第一声としては穏当だ」


「第一声は下で済ませたよ」


 マルタは折り畳まれた紙を開き、レオンの胸へ押しつけた。


 家賃の請求書だった。


 四か月分。


 暖房費。


 保管費。


 鍵の維持費。


 さらに末尾に、意味の分からない項目が一つある。


「死亡中事務所管理費?」


「死んでる店子の部屋を守るのは高くつくんだよ」


「死亡推定だ」


「なら推定分だけ値引きしてやろうか?」


「不要だ」


「払えるのかい」


 レオンは請求書を見た。


「口座が凍結されている」


「知ってるよ」


「住居契約も停止している」


「それも知ってる」


「法的には、この部屋の借主ではない」


「じゃあ不法侵入者だね。食べたら追い出すよ」


 マルタは椅子を引いた。


「座りな」


「まだ話が――」


「座りな」


 レオンがグレアムを見る。


 グレアムは肩をすくめた。


「この建物じゃ、警察権より大家のほうが強い」


「都市秩序の欠陥だな」


「都市はあんたの都合で動かないよ」


 マルタはレオンの背を押した。


 左肩へ触れる寸前、レオンの身体が目に見えて強張った。


 マルタの手が止まる。


 何も言わず、触れる場所を背中の中央へ変えた。


 レオンは革張りの椅子へ腰を下ろした。


 座る動作の最後で、息を止める。


 右脚を前へ投げ出すように伸ばし、鉄の杖を机へ立てかけた。


 ミラベルは、その一連の動作を見ていた。


「右脚」


「歩ける」


「歩けるかどうかは聞いていません」


「骨はつながっている」


「誰が診たんですか」


「医者だ」


「どこの?」


「説明は、そのあとだと言ったのは君だろう」


「言いました。食べてから聞きます」


 マルタが木椀をレオンの前へ置く。


「そのとおりだよ。口を動かすなら、まず食べな」


 レオンは匙を取った。


 指先がわずかに震えている。


 熱い煮込みを一口だけ飲む。


 喉が上下する。


 それだけで、部屋の空気が少し変わった。


 死者は食事をしない。


 死亡記録も。


 新聞の追悼記事も。


 温かい湯気へ息を吹きかけない。


 ミラベルは胸の奥に詰まっていたものが、ようやく少しだけ動くのを感じた。


 生きている。


 その事実は、目の前にあった。


 けれど。


 その事実だけで、四か月が埋まるわけではない。


「どこにいたんですか」


 ミラベルが尋ねた。


 レオンの匙が止まった。


「いま聞くのか」


「食べてから聞くと言いました」


「まだ一口だ」


「一口は食べました」


「言葉の解釈が強引だな」


「誰かの影響です」


 以前なら。


 その程度の言葉には、すぐ皮肉が返ってきただろう。


 レオンは木椀を見たまま、しばらく黙った。


「話す」


 やがて言った。


「ただし、今夜すべてを説明するのは無理だ」


「何が確認できていて、何が確認できていないかだけでも」


「ミラベル」


 エドガーが口を開いた。


 彼女は視線だけを向けた。


「あなたにも聞きます」


「ああ」


「でも、先にレオンさんからです」


 エドガーは何も言わなかった。


 エレノアも兄たちを見比べたが、問い詰めようとはしなかった。


 いま問いを重ねれば。


 目の前の男が答えを返すより先に、倒れる。


 それが分かる程度には。


 レオンの顔色は悪かった。


 マルタが腕を組む。


「今夜は一つでいいよ」


「一つ?」


「どうやって帰ってきたかじゃない」


 マルタはレオンを睨んだ。


「今夜、ここからどこにも行かないかどうかだ」


 レオンは答えようとした。


 だが。


 その前に、身体が揺れた。


 最初に気づいたのはブラムだった。


 伏せていた黒い犬が、音もなく立ち上がる。


 レオンの呼吸が浅くなっていた。


 右手は匙を持ったまま止まり、焦点が机の手前へ落ちている。


「レオンさん?」


 ミラベルが声をかける。


「聞いている」


 返事はあった。


 だが、遅い。


 低い蒸気管の唸りが壁の中を通った。


 レオンの肩が、びくりと動く。


 指から匙が落ちた。


 木椀の縁へ当たり、乾いた音を立てる。


 立ち上がろうとしたのかもしれない。


 レオンは椅子の肘掛けをつかんだ。


 右脚へ力が入らない。


 左肩も支えにならず、身体が横へ傾く。


 ブラムが前脚を踏み出し、その胴でレオンの膝を受け止めた。


 ミラベルが反対側から腕を取る。


「大丈夫だ」


「大丈夫な人は、目を開けたまま倒れません」


「倒れていない」


「犬に支えられています」


「それは――」


 レオンの声が途切れた。


 まぶたが落ちる。


 完全に意識を失ったわけではない。


 だが、こちらの声へ反応するまでの時間が長すぎる。


 マルタが盆を机へ叩き置いた。


「全員、動きな!」


「マルタ――」


「警部は医者を呼ぶ! エドガーは馬車を帰して、裏口に見張りを置く! エレノアは二階奥の私室へ行って、寝台を整える! 嬢ちゃんは薬箱!」


 命令が飛ぶ。


 誰も逆らわない。


 グレアムはすぐに扉へ向かった。


 エドガーは廊下へ出ながら、護衛へ短く指示を出す。


 エレノアは事務所奥の扉へ走りかけ、途中で振り返った。


「兄さま」


 レオンは目を閉じたまま、かすかに眉を動かした。


「まだ……死んでいない」


「当たり前でしょう!」


 エレノアは怒鳴り返し、二階奥の私室へ駆け込んだ。


 ミラベルは薬箱を取り出し、マルタの横へ置く。


 レオンの額へ触れる。


 冷たい。


 雨に濡れたせいだけではない。


 指先は冷えているのに、首筋には汗が浮いていた。


「いつから、この状態だったんですか」


「質問はあとだよ」


 マルタはレオンの外套を脱がせようとした。


 左肩に触れないよう、縫い目を確かめながら慎重に布を外す。


 外套の下から現れた上着は、身体に合っていなかった。


 借り物らしい粗い布。


 肋骨のあたりには、包帯の膨らみ。


 右脚にも、服の下へ硬い固定具がある。


 ミラベルは唇を噛んだ。


 帰ってきた。


 それだけを見ていた。


 帰ってくるまでに、どれほど壊れていたのかを見ていなかった。


「嬢ちゃん」


 マルタが低く言った。


「今日はもう、聞くんじゃないよ」


「でも」


「帰ってきた人間を、帰ってきた夜にまた追い出す気かい」


 ミラベルは首を横へ振った。


「なら、休ませな」


 マルタとミラベルが、レオンを左右から支えた。


 ブラムは大きな身体をレオンの右側へ寄せたまま、離れない。


 レオンは半ば意識を失いながら、それでも鉄の杖を探そうと右手を動かした。


 ミラベルが杖を拾う。


「これは私が持ちます」


「返せ」


「嫌です」


「勝手に――」


「説明は、そのあとです」


 レオンの目が、ほんの少しだけ開いた。


 皮肉を返そうとしたらしい。


 けれど、もう声にはならなかった。


 事務所奥の私室から、エレノアが扉を開く。


「寝台、できたわ!」


 ミラベルは杖を抱え、マルタとブラムとともにレオンを運んだ。


 黒鴉館の外では、まだ雨が降っている。


 霧燈通りを馬車の車輪が通り過ぎ、遠くで環状鉄道の汽笛が鳴った。


 事務所には、食べかけの煮込みと。


 四か月分の家賃請求書と。


 新しく積まれた事件箱が残された。


 彼がどこで生き。


 誰に治療され。


 なぜ、いままで帰れなかったのか。


 その答えは、まだ記録されていない。


 今夜、確認できたことは一つだけだった。


 死んだとされた探偵は。


 傷つき。


 痩せ。


 自分の足だけでは立っていられない状態で。


 それでも。


 霧燈通り十三番地へ帰ってきた。

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