第10節 ― 兄の暗号
エドガー=クラウスが黒鴉館へ来たのは、ユスト=フェルが警察病院へ移送された日の夜だった。
正面玄関の前に、官用馬車は停まらなかった。
護衛も連れていない。
濃紺の外套へ煤霧をまとい、片手に黒い書類鞄だけを持って、霧燈通りを歩いてきた。
マルタは一階の扉を開けると、挨拶より先に鞄を見た。
「今日は、何を隠しに来たんだい」
「隠すためではない」
「なら、上へ持っていきな」
それだけ言って、道を開けた。
黒鴉館二階では、三つの机が一つの事件を囲んでいた。
ミラベルの机には、ユストの証言記録。
エレノアの机には、煤下街の旧保護室から中央記録庁へ続く地下経路図。
レオンの机には、六週間前の生存再認票と、家族暗号の複写。
暖炉の前では、ブラムが身体を伏せている。
ただし、眠ってはいない。
階段を上るエドガーの靴音が聞こえた時点で、顔を扉へ向けていた。
グレアム警部も来ていた。
椅子へ座らず、窓際で腕を組んでいる。
クラウディア=メルツ殺害事件の現場調査を終えたばかりらしく、煤色の外套には中央記録庁の白い石粉が残っていた。
扉が開く。
エドガーは室内を見回した。
ミラベル。
エレノア。
グレアム。
最後にレオン。
「全員いるな」
「呼んだのは兄さんだろう」
レオンは革張りの椅子へ座ったまま言った。
右脚を前へ伸ばし、鉄の杖を机へ立てかけている。
「それで、何を持ってきた」
エドガーは答えず、黒い鞄を三つの机の中央へ置いた。
留め金は二つ。
鍵穴の上には、中央記録庁の高位機密文書を示す銀色の封印板がついている。
彼は懐から細い鍵を取り出した。
右の錠。
左の錠。
最後に、封印板の中央。
三つの解錠音が順に響いた。
「秘密通信保管記録だ」
エレノアの表情が固くなる。
「誰の?」
「私の」
「答えになってないわ」
「レオンから届いた通信に関する全記録だ」
エドガーは鞄を開いた。
中には、灰色の厚紙で綴じられた記録束が三冊。
封蝋された細長い筒が一つ。
薄い金属板へ打刻された閲覧履歴票。
さらに。
まだ署名されていない行政命令書が、別の封筒へ収められていた。
エレノアが机へ近づく。
「暗号の記録は、今までどこにあったの」
「中央記録庁・上級行政秘密通信保管庫」
「そこに、兄さまから届いた言葉を入れたの?」
「行政上の緊急通信として保存した」
「家族から届いた手紙でしょう」
「同時に、死亡推定者の生存を知らせる情報でもあった」
エドガーは感情を挟まずに答えた。
「私個人の机へ隠せば、記録の私物化になる。行政判断へ使用した以上、受領記録と複写の保存が必要だった」
「死亡推定を成立させる判断に使ったから?」
「そうだ」
エレノアは、机の上に置かれた短い暗号文を見た。
> 時計は止まっていない。
レオンから。
エドガーへ。
弟が生きていることだけを知らせた、家族の言葉。
それが中央記録庁の保管番号を与えられ、行政文書として保存されていた。
「原文は?」
ミラベルが尋ねた。
エドガーは、封蝋された筒を示す。
「ここにある」
「開封されていますか」
「受領時に私が開封した。その後、原文を保管筒へ封入し、複写を一部作成した」
「一部?」
「一枚だ」
「その複写が、秘密通信保管庫へ?」
「ああ」
ミラベルは、すぐ記録を取らなかった。
まず、机上の資料を目で確認する。
原文。
受領記録。
複写作成記録。
秘密指定。
閲覧履歴。
それぞれが、別の綴りへ分かれている。
「順番に見せてください」
エドガーは一冊目をミラベルへ渡した。
レオンが口を開く。
「最初に閲覧履歴を」
「レオンさん」
ミラベルが止めた。
「確認する順番を決めるのは私です」
「結論に最も近い記録から見るべきだ」
「その結論を先に決めないために、受領から見ます」
レオンは不満そうな顔をした。
だが、口を閉じた。
エドガーは、そのやり取りを見ても何も言わなかった。
ミラベルは最初の記録を開く。
暗号文が届いた日。
受領経路。
通信紙の状態。
封印の確認。
受領者、エドガー=クラウス。
記録に欠落はない。
「届いた時点で、封は開けられていなかった?」
「私が確認した範囲では」
エドガーが答える。
「途中で内容を写された可能性は?」
「否定はできない。ただし、封印紙に再接着の痕跡はなかった」
「通信を運んだ者は?」
「正規の庁内伝令ではない。地下街の伝令から、私の私設連絡係を経由した」
「その二人は確認しましたか」
「連絡係には聞き取りを行った。暗号文の内容は見ていない。地下の伝令は所在不明だ」
「殺された可能性は?」
「根拠がない」
「では、現時点では所在不明」
「そうだ」
ミラベルは記録する。
原文が届く前に、内容を知られた可能性は完全には消えない。
だが。
現段階で、それを示す証拠もなかった。
次に、複写作成記録。
エドガーの執務室内。
立会者一名。
複写枚数、一。
原文の封入完了。
秘密指定。
「複写を作った理由は?」
「原文を開封せずに、行政判断の根拠を再確認できるようにするためだ」
「死亡推定の手続きへ添付したんですか」
「添付していない」
「誰かへ提出は?」
「していない」
「では、保管庫にだけ存在した」
「そうだ」
レオンが手を伸ばした。
ミラベルは複写記録を渡す。
レオンは紙の繊維。
綴じ穴。
検印の重なり。
頁番号。
順に確認した。
「あとから追加された頁はない」
「複写が一枚だけだったと断定できますか」
ミラベルが尋ねる。
「この記録から分かるのは、一枚作られたことだけだ」
レオンは答えた。
「もう一枚作られなかった証明にはならない」
「そのとおりだ」
エドガーも認める。
「ただし、複写機の使用記録と、紙の払出記録も持ってきた」
二冊目を差し出す。
複写機構の自動打刻。
使用時刻。
投入した紙。
排出枚数。
廃棄紙の番号。
一枚だけ作成したという記録と一致している。
「機械記録が改変されていなければ」
レオンが言う。
「別の複写は作られていない可能性が高い」
「改変の有無は、まだ鑑定していません」
ミラベルが確認する。
「ああ」
エドガーは三冊目を開いた。
「問題は、このあとだ」
秘密指定された通信は。
誰でも読めるわけではない。
閲覧には、所管責任者の許可。
閲覧者本人の権限印。
保管官の立会い。
目的分類の記録。
そして。
開封時刻と返却時刻の自動打刻が必要になる。
そう説明しながら、エドガーは薄い金属板を机へ置いた。
銀灰色の板。
表面には、細かな文字が機械打刻されている。
ミラベルは触れずに読む。
最初の閲覧者。
エドガー=クラウス。
受領日。
行政判断のため。
次の閲覧者。
保管監査官。
封入状態確認。
その下。
三番目の記録。
> 閲覧者
> ヘンリク=ザール
>
> 所属
> 身分継続局・生存再認部
>
> 権限区分
> 部長級・人格継続情報照会
>
> 閲覧対象
> 受領通信複写、付属受領記録
>
> 閲覧完了
> 返却確認済み
エレノアの指が、机の端へ触れた。
「いつ?」
エドガーは打刻日を示した。
レオンの生存再認が完了するより前。
ユスト=フェルが、西部災害救護院へ運び込まれた時期とも重なる。
「閲覧理由は?」
ミラベルが尋ねる。
「記録されていない」
「必要ないんですか」
「部長級権限者は、所管する本人確認案件に必要な情報として閲覧できる」
「対象者名を書かずに?」
「制度上はな」
エドガーの声が低くなる。
「ザールは、人格継続情報を照会する権限を持っていた。生存再認部長として、閲覧そのものは規則に反していない」
「複写は持ち出せる?」
グレアムが尋ねた。
「原則として不可だ」
「書き写すことは」
「禁止されている」
「監視は?」
「保管官が立ち会う」
「その保管官は誰だ」
エドガーは、鞄から一枚の勤務記録を出した。
「氏名と現在の所属は確認した」
「聞き取りは?」
「まだ行っていない」
グレアムの眉が動く。
「まだ?」
「接触した時点で、秘密通信記録を調査していることが庁内へ伝わる可能性がある」
「なら、囲ってあるのか」
「何もしていない」
エドガーは答えた。
「保護命令も、接触制限も、庁内待機命令も発効させていない」
「意外だな」
「必要な命令書は用意した」
「用意しただけ?」
「ああ」
エドガーは、鞄の中の未署名書類を見る。
「私一人で発効させれば、また同じことになる」
事務所に、短い沈黙が落ちた。
エレノアが兄を見る。
その目には警戒が残っていた。
けれど。
すでに誰かを囲い。
必要だからと実行したあとで説明するのではなく。
実行する前に、資料を持ってここへ来た。
その違いは、無視できなかった。
エレノアは机の上の暗号文を取った。
> 時計は止まっていない。
「これは、兄さまが生きてるって、エドガー兄さまへ送った言葉でしょう」
「ああ」
「私たちには隠した」
「ああ」
「黒鴉館へ近づけば危険だったから」
「そうだ」
「それは聞いたわ」
エレノアは暗号文を持ったまま、秘密通信の閲覧履歴を見る。
「でも」
声が震えた。
怒りだけではない。
理解したくないことを、理解してしまった声だった。
「兄さまは、私たちに隠しただけじゃない」
エドガーは動かなかった。
「隠した記録を、別の誰かに使わせたの?」
事務所に。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。
エドガーは、すぐには否定しなかった。
使わせるつもりはなかった。
自分の命令ではない。
規則の範囲で閲覧したザールに責任がある。
そう答えることもできた。
だが、どの言葉も。
机の上にある閲覧履歴を消しはしない。
「意図して使わせたわけではない」
エドガーは答えた。
「それなら、責任はない?」
「ある」
エレノアが顔を上げる。
エドガーは秘密通信記録へ手を置いた。
「私は、レオンの生存を守るために、情報を限定した」
「私たちから」
「そうだ」
「でも、記録庁の中には残した」
「行政判断の根拠として、残す必要があった」
「その必要が、ザールへ暗号を渡した」
「結果としては」
「結果じゃなくて」
エレノアの声が鋭くなる。
「兄さまが選んだことでしょう」
エドガーの指が、記録の表紙へ沈む。
「そうだ」
短い答えだった。
「通信を保存したことも」
「ああ」
「秘密にしたことも」
「ああ」
「自分だけなら管理できると思ったことも?」
エドガーは、わずかに目を伏せた。
「そうだ」
レオンが椅子から兄を見る。
「兄さん」
「否定するな」
エドガーは、レオンへ視線を向けた。
「私が秘密指定を行った。閲覧範囲を決めた。制度上は十分に管理できると判断した」
「ザールが権限を持っていることは?」
「知っていた」
「人格継続情報として閲覧できることも?」
「知っていた」
「それでも、対象から外さなかった」
「個人を名指しして排除すれば、秘密の存在そのものを知らせる可能性があった」
「合理的な判断だ」
「そして、誤った」
エドガーは言い切った。
「私が秘密を守ったことで、家族は情報から切り離された」
エレノアを見る。
「一方で、その秘密は制度の中へ残った」
次に、ミラベル。
「制度上の権限を持つ者には、到達可能な記録として」
最後に、暗号文へ目を落とす。
「私は、隠したことと、守ったことを同じだと考えた」
声に大きな変化はない。
だが。
エドガーが、自分の判断を行政的な必要性だけで閉じなかったことは分かった。
「ザールが暗号を流用したと、断定できますか」
ミラベルが尋ねた。
問いは、エドガーを救うためではない。
事件記録を正確にするためだった。
「閲覧したことは断定できる」
エドガーが答える。
「複写を持ち出したことは?」
「記録上はない」
「暗記した可能性」
「ある」
「立会保管官へ書き写させた可能性」
「否定できない」
「ほかの職員へ口頭で伝えた可能性」
「ある」
「では、現時点で確認できるのは」
ミラベルは記録帳を開く。
「レオンさんの暗号文の複写が、秘密通信保管庫に保存されていた」
「そうだ」
「ヘンリク=ザールは、生存再認成立前に、その複写を正規の権限で閲覧した」
「そうだ」
「六週間前の生存再認記録には、同じ暗号文が家族限定情報として使われている」
「ああ」
鉛筆が動く。
「ザールが閲覧した情報を、生存再認へ流用した可能性は高い。ただし、具体的な方法と実行者は未確認」
「それでいい」
レオンが言った。
エレノアは、納得していない顔をする。
「ここまで揃っても、まだ可能性なの?」
「ザールが読んだ」
レオンは答えた。
「生存再認へ同じ文が使われた。それだけなら、ほかの経路から暗号を得た者がいた可能性は残る」
「ユストさんを連れ出した人たちは、《部長の許可》を口にしていた」
「証言はある」
「真鍮板の匂いは、ザールの執務室へ続いた」
「ブラムの行動記録もある」
「なら」
「疑いは強い」
レオンは、暗号文の複写を見る。
「だが、疑いを結論へ変えるには、ザールか、その指示を受けた者が、各証拠を一つの照合番号へまとめたことを示す記録が必要だ」
「その記録が残っている可能性がある」
エドガーが言った。
「どこに?」
ミラベルが顔を上げる。
「原照合票だ」
室内の空気が変わった。
「クラウディアが最終承認へ使った、各部署からの原報告」
「保管庫で見たのは、正式副本と証拠品です」
「原票は別区画にある」
「どこですか」
「身分継続局地下保管庫のさらに奥。最終承認済み記録の監査保留区画だ」
レオンの目が細くなる。
「クラウディアが移したのか」
「彼女の権限印で、L・K・13の原照合票へ監査保留が設定されている」
「時刻は?」
「殺害前夜」
グレアムが窓辺から離れた。
「その区画は、もう封鎖したのか」
「していない」
エドガーは答えた。
「記録の確認だけを行った。原票には触れていない」
「ザールに気づかれている可能性は?」
「監査保留自体は、所管部長なら確認できる」
「なら、急ぐ必要がある」
「ああ」
エドガーは、鞄の底から封筒を取り出した。
中の命令書を広げる。
まだ署名も。
発効印もない。
上部には、
> 身分継続局地下保管庫
> 緊急行政封鎖命令書・草案
と記されている。
「準備してきたのは、これか」
グレアムが紙を取った。
「封鎖命令の草案。保管官と関係職員の保護要請。行政区画へ立ち入るための特別監察権限」
エドガーは、鞄から必要な権限証と記録一覧を順に出した。
「発効はさせていない」
「理由は、さっき言ったとおりか」
「ああ」
「一人でやれば、また同じになる」
「そうだ」
グレアムは草案を読む。
「封鎖範囲は?」
「地下保管庫全域。監査保留区画。記録搬送用昇降機。蒸気消毒区画。焼却炉への接続路」
「広すぎる」
レオンが言った。
「逃走も記録移動も止められる」
「同時に、通常の生存再認資料まで止まる。身分回復を待つ者へ影響が出る」
「三時間以内に代替窓口を設ける案も作成した」
「三時間で足りる根拠は?」
「人員配置表から算出した」
「その配置表は、ザールの管理下じゃないのか」
「生存再認部の提出記録を使っている」
「なら、配置変更を見落とす可能性がある」
「ある」
エドガーは否定しなかった。
「だから、警察側の確認を求める」
グレアムが命令書の封鎖経路を指で追う。
「職員通路は三本とある」
「行政図面では三本だ」
「四本ある」
グレアムは命令書の余白へ線を引いた。
「クラウディアの審査室裏から、蒸気消毒区画へ出る旧通路だ。今日、現場で確認した」
エドガーの目がわずかに動く。
その情報を初めて聞いた顔だった。
だが。
命令書を取り戻そうとはしない。
「追加してくれ」
「お前の行政命令だぞ」
「警察が確認した経路だ。君が書く方が正確だ」
グレアムは、一瞬エドガーを睨んだ。
それから旧職員通路を追記した。
「封鎖開始後、殺人現場と接続する区画の指揮は警察が取る」
「行政記録の保全は中央記録庁が行う」
「互いに勝手に移動させんことを条件にする」
「共同指揮だな」
「最初からそう言え」
グレアムは、命令書を机へ戻した。
エドガーは次にミラベルを見る。
「ワトリア嬢」
「はい」
「調査対象として、保全すべき記録を挙げてくれ」
ミラベルは驚かなかった。
エドガーが、自分へ意見を求めるのを。
形式的な問いではなく。
実際の封鎖範囲へ反映させるつもりだと分かったからだった。
「L・K・13の原照合票」
「当然だ」
「各票が届いた時刻を示す受領原簿」
「ほかには」
「署名票の旧保管記録。家族暗号の照会依頼。ユストさんの身体検査命令。所持品の搬出記録。真鍮板の発行記録」
一つずつ挙げる。
「それから」
ミラベルは、七つの項目が一つの番号へ束ねられた記録を思い出した。
「原照合票を、一つの照合番号へ統合した工程記録」
「誰が、どの順番で綴じたか」
レオンが言った。
「はい。それが分かる記録です」
ミラベルは命令書へ追記する。
「焼却予定表も必要だ」
グレアムが言った。
「証拠を消すなら、通常廃棄へ混ぜる」
「過去三日分と、今後三日分」
ミラベルが範囲を決める。
「理由は?」
エドガーが尋ねた。
「クラウディアさんが監査保留を設定したのが昨夜です。関係者がそれ以前から気づいていたのか、設定後に処分を決めたのか分かりません」
「直前の変更と、これから予定されている処理を比較する」
「はい」
「妥当だ」
エドガーは、その項目も削らなかった。
「保管官については?」
ミラベルが尋ねる。
「暗号文の閲覧へ立ち会った人です」
「行政側では、重要参考職員として保護対象へ入れる草案になっている」
「逃亡防止と保護は、分けろ」
グレアムが言った。
「本人が事件へ関与した可能性もある」
「では、警察が事情聴取を行うまで、任意の保護下に置く」
「拒んだ場合は?」
「現時点では、拘束の根拠が足りない」
「なら、庁舎からの退出記録を監視する。呼び出しは俺が出す」
「認める」
「私も聞き取りへ立ち会えますか」
ミラベルが尋ねる。
「秘密通信に関する部分は、行政機密だ」
「生存再認へ流用された可能性がある部分だけで構いません」
エドガーは数秒考えた。
「警察の許可があり、捜査情報を公表しないことを条件に認める」
「分かりました」
「ザール本人は?」
グレアムが尋ねる。
「現在地は確認しているのか」
「勤務予定上は、庁内会議へ出席している」
「足止めは?」
「していない」
「会議が終われば動ける」
「ああ」
「身柄を押さえるだけの根拠は、まだ弱い」
「分かっている」
「封鎖を知れば逃げる可能性がある」
「だから、封鎖と同時に事情聴取へ移る必要がある」
「誰が行く」
「警察官と行政監察官を一名ずつ」
「行政側だけで囲うなよ」
「共同で行う」
グレアムは、ザールの扱いについても余白へ書き加えた。
> 封鎖発効と同時に所在確認。
> 警察・行政共同で任意聴取。
> 拘束は新たな証拠確認後。
「これでいいか」
グレアムが尋ねる。
エドガーは記載を読んだ。
「異論はない」
「レオンさんは?」
ミラベルが尋ねた。
「俺に決定権はない」
「意見は聞きます」
レオンは命令書全体を見る。
「封鎖開始後、原照合票を最優先で保全する。ザールを先に問い詰めれば、協力者が資料を消す可能性がある」
「では、原票の保全確認と、ザールへの接触を同時に開始する」
グレアムが言った。
「一方が遅れた場合は?」
「両方とも開始しない」
ミラベルが答えた。
「先に動いた側から情報が漏れる可能性があります」
「なら、開始時刻を決める」
エドガーが懐中時計を開いた。
「命令書へ、同一時刻を記す」
彼は時刻を書き込んだ。
まだ署名はしない。
「ほかにあるか」
全員へ尋ねる。
以前なら。
必要と判断した範囲だけを自分で決め。
命令を発効させ。
結果が出たあとに説明していただろう。
だが今回は。
エドガーが持ってきたのは、完成した命令ではなかった。
全記録。
行政権限。
封鎖の草案。
行動に移せるところまで準備された手順。
その最後の一線だけを。
一人では越えずに残していた。
「秘密通信に関する記録は、これですべてですか」
ミラベルが黒い鞄を見る。
「ああ」
「一部を伏せていませんか」
「伏せていない」
「国家機密や第三者情報を理由に、頁を外しても?」
「外していない」
「確認しても?」
「君の調査記録として、全頁の複写を許可する」
グレアムが片眉を上げる。
「新聞へ書かせる気か」
「捜査中の公表は認めない」
「当然です」
ミラベルが言う。
「ただし、事件後も秘密指定を続けるなら、その理由を記録してください」
「約束はできない」
「では、継続の必要性を確認します」
「君が?」
「共同調査者として」
エドガーは、しばらくミラベルを見た。
「分かった」
それ以上の条件は付けなかった。
エレノアは、机の端へ置いていた暗号文を戻す。
「私は、まだ許してないわ」
「知っている」
「今回、先に相談したからって、前のことがなくなるわけじゃない」
「それも知っている」
「でも」
エレノアは言葉を探した。
簡単に認めたくはない。
けれど。
何も変わっていないことにもしたくなかった。
「今回は、私たちが知らないうちに全部終わらせなかった」
「ああ」
「準備しただけで、実行は止めた」
「ああ」
「それは……記録しておく」
エドガーの眉が、わずかに動く。
「誰の記録へ」
「私の」
「正式な効力はないな」
「家族の記録だから、いいの」
ミラベルが小さく笑った。
レオンは何も言わなかった。
ただ。
兄が、まだ空白の署名欄を見る様子を眺めていた。
エドガーはペンを取った。
だが。
最初に自分の名は書かない。
「警察側の封鎖条件は、これで確定か」
グレアムが追記部分を確認する。
「ああ」
「なら署名する」
グレアムが、警察共同封鎖責任者の欄へ名を書く。
> グレアム
> ヴェルム=クロウ市警・警部
次に。
ミラベルが、保全対象記録の確認欄へ署名した。
> ミラベル=ワトリア
> 調査責任者・事件記録者
最後に。
エドガーが命令書の末尾へ、迷いのない筆跡で名を記す。
> エドガー=クラウス
> 中央記録庁特別監察権限
行政官。
警察官。
事件記録者。
三人の名が、一枚の命令書へ並んだ。
「発効は?」
グレアムが尋ねる。
エドガーは懐中時計を開いた。
命令書へ記された開始時刻まで、数分しかない。
「署名済み命令書の受領をもって、行政封鎖を開始する」
「警察側も同時刻だ」
「原照合票の保全班と、ザールへの聴取班も同時に動かす」
ミラベルが確認する。
「一方だけ先に動かさない」
「ああ」
エドガーは時計の蓋を閉じた。
「地下保管庫を封鎖する」
エレノアが暗号文を見る。
「遅かったんじゃない?」
レオンが答えた。
「暗号は使われた」
「ユストさんも利用された」
ミラベルが続ける。
「クラウディアさんも殺された」
グレアムの声が低くなる。
「それでも、まだ残っている記録がある」
エドガーは、三人の署名が並んだ命令書を持ち上げた。
「だから、今度は残す」
誰にも見せず。
一人で守ろうとした秘密は。
犯人に利用された。
今度は。
全員が同じ記録を見ている。
エドガーは、黒い鞄を閉じなかった。
秘密通信保管記録は、三つの机の中央へ残されている。
レオンから兄へ送られた暗号。
エドガーが隠した生存。
ザールが閲覧した記録。
六週間前の生存再認へ使われた言葉。
それらは、もう。
一人の判断だけで閉じられる秘密ではなかった。
ブラムが暖炉の前から立ち上がった。
机へ近づく。
暗号文には鼻を向けない。
銀色の閲覧履歴板にも。
封鎖命令書にも興味を示さなかった。
代わりに。
エドガーの前へ来る。
一度、濃紺の外套の匂いを確かめた。
それから、ミラベルの机と、グレアムの立つ場所の間へ伏せる。
誰か一人が。
記録を持ち去らないように。
見張る位置だった。




