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終幕 ― 探偵の帰る場所

 ヨアヒム=ベルナーの葬儀は、事件の終結から数日後に行われた。


 環状鉄道の高架線が見える、小さな葬送堂だった。


 蒸気機関車が通過するたび、色硝子の窓が低く震える。


 壁には黒い布。


 祭壇には白い花。


 棺の上には、ヨアヒムが使っていた保守帽と、磨かれた伝令笛が置かれていた。


 死の直前まで握られていた笛は、鑑定と証拠保全を終え、娘へ返された。


 オルガは、それを棺へ入れなかった。


「これは、ブラムに聞かせるためのものだったから」


 笛を帽子の隣へ置く。


 吹くことはしない。


 もう一度鳴らせば、黒い犬が次の命令を待ってしまうような気がしたのかもしれない。


 ブラムは祭壇の前へ伏せていた。


 花にも。


 参列者にも。


 司祭の送別の言葉にも反応しない。


 ただ、棺の上に置かれた保守帽から、一度も目を逸らさなかった。


 ミラベルは祭壇の脇で、一枚の公文書を持っていた。


 ヨアヒムの正しい死亡記録である。


 偽装された転居記録は無効とされ、西部港湾都市で生活しているという登録も抹消された。


 代わって。


 本人の名と。


 本人が発見された場所が記されている。


> ヨアヒム=ベルナー

> 環状鉄道保守員

> 第十三保守停車所にて死亡


 その死は事故ではなく、殺人として記録された。


「確認して」


 オルガが言った。


 黒い喪服。


 きちんと編まれた赤褐色の髪。


 目は腫れている。


 それでも、視線を逸らさなかった。


 ミラベルが記録を差し出す。


 オルガは、一文字ずつ読んだ。


 ヨアヒム。


 ベルナー。


 以前。


 父が街を去ったことを確認する書類にも、彼女は署名した。


 今度は。


 父が帰れなくなった場所を確認するための署名だった。


「間違ってない」


「はい」


「今度は、誰か別の人間の死へ使われたりしない?」


「原本と認証写しを、別々の機関へ保管します。一つを隠されても、残りが消えないように」


 オルガは、かすかに口元を動かした。


「父が聞いたら、紙ばかり増やすなと言いそうだ」


「それでも必要です」


「ああ」


 彼女は棺を見る。


「あの人も、最後には帳簿を残した」


 葬送の鐘が、一度鳴った。


 棺が運び出される。


 ブラムも立ち上がった。


 参列者が道を空ける中、棺の横を一定の距離で歩く。


 オルガが犬の背へ手を置いた。


「父さんは、ここまででいい」


 ブラムは足を止めた。


 棺だけが、葬送堂の外へ運ばれていく。


 追わなかった。


 祭壇と扉の間へ立ち、その姿が見えなくなるまで見送った。


「黒鴉館へ戻りな」


 オルガが手を離す。


「おまえが帰る場所は、もう決まってるんだろう」


 ブラムは、しばらく扉を見ていた。


 やがてミラベルの隣へ来る。


 主人を替えたのではない。


 ヨアヒムから与えられた最後の任務を終え、自分が覚えている帰路の先へ戻ろうとしていた。


「帰りますか?」


 ミラベルは命じず、尋ねた。


 ブラムは立ち上がり、葬送堂の出口へ向かった。


 その後ろを。


 ミラベルとエレノアが歩いた。


     ◇


 その夜。


 黒鴉館二階の窓には、遅くまで灯りが残っていた。


 一階の《煤鳩亭》は閉店時刻を過ぎ、天井越しにマルタが椅子を動かす音が聞こえている。


 ミラベルは、事件記録の最後の頁を書き終えた。


 机の上には、認証写しと証拠目録が整理されている。


 事件の解決を、もう一度説明する必要はなかった。


 誰が何をしたのか。


 何が確認され。


 何が、まだ確認されていないのか。


 その区別だけを残した。


 表紙には、最初に書いた仮題がある。


> 犬が証言した事件


 ミラベルは、その文字へ細い線を引いた。


「消すの?」


 窓辺にいたエレノアが尋ねる。


「はい」


「ブラムがいなければ、事件は見つからなかったでしょう」


「ええ」


「誰より正しく、列車を見分けた」


「そのとおりです」


「では、なぜ?」


 ミラベルは暖炉の前を見る。


 ブラムは、マルタが縫った厚い毛布の上へ伏せていた。


 横には大きな水入れ。


 鉄道局から返還された古い保守犬章。


 黒鴉館は正式な所有者ではない。


 オルガは引取りを辞退し、鉄道局も退役した保守犬を再配属しなかった。


 当面の保護先として、霧燈通り十三番地が記録された。


 書類ができるより先に、ブラム自身が暖炉の前を自分の場所へ決めていた。


「これは、犬に起きた事件ではありません」


 ミラベルは新しい題名を書く。


> ヨアヒム=ベルナー失踪・殺害および第零環不正運行事件


「長いわ」


「正式名称ですから」


「新聞なら、もっと短くされるでしょうね」


「そのときは抗議します」


「ミラベルが新聞記者なのに?」


「いまは記録者としてです」


 最初に。


 被害者の名を残す。


 ヨアヒムが失踪していないと記録されたため、誰も彼の事件を調べなかった。


 ならば。


 事件を閉じる記録には、最初から彼の名がなければならない。


 ミラベルは綴じ紐を結び、完成した一冊を机の端へ置いた。


 その隣には。


 レオンのいないあいだに、彼女たちが調査し、彼女たちの名で閉じた事件記録がもう一冊ある。


 二冊。


 以前のこの部屋にはなかったものだった。


 扉の内側には、新しい真鍮札が増えている。


> 事件記録・調査相談

> ミラベル=ワトリア


 その下へ、少し小さく。


> 調査補助

> エレノア=クラウス


 棚には、ミラベルが分類した資料箱。


 机には、市警の認証写しと鉄道図。


 椅子の背には、エレノアの帽子。


 暖炉の横には、犬用の毛布と水入れ。


 レオンの椅子だけは。


 机の向こうへ、以前と同じ位置で置かれていた。


 埃はない。


 誰かが毎朝、拭いていた。


 空席を保存するためではない。


 帰還を約束された席でもない。


 ただ。


 この部屋で、その椅子を必要とする者が、ほかにいなかった。


「終わりました」


 ミラベルが言った。


「今度こそ?」


「はい」


 エレノアが窓辺から下りる。


「では、お茶を淹れる?」


「火傷しないでください」


「旧信号塔の転轍機を動かした人間に言う?」


「その人は、旧訓練所へ一人で潜入しました」


「まだ言うの?」


「記録には残っています」


 エレノアが唇を尖らせた。


 暖炉の薪が、小さく弾ける。


 雨音。


 紙の匂い。


 石炭火の温度。


 黒鴉館には。


 事件の終わった夜が戻っていた。


 不意に。


 ブラムが顔を上げた。


 エレノアが足を止める。


 ミラベルも、閉じた事件記録から視線を動かした。


「どうしたの?」


 犬は答えない。


 毛布から立ち上がり、事務室の扉へ歩いていく。


 鼻を近づけない。


 匂いを探して動き回ることもない。


 扉の正面へ座った。


 耳だけが。


 下の階へ向いている。


「誰か来た?」


 まだ何も聞こえない。


 一階でマルタが椅子を動かす音。


 雨樋を水が流れる音。


 霧燈通りを馬車が通り過ぎる音。


 それだけだった。


 ブラムは動かない。


 この犬は。


 番号を読まない。


 肩書も。


 探偵免許も。


 死亡記録も知らない。


 匂い。


 歩き方。


 呼吸。


 衣服に染み込んだ雨。


 身体の傷み。


 その者が通ってきた道。


 それらを、一人の存在として覚えている。


 やがて。


 一階の床が軋んだ。


 マルタの足音ではない。


 もっと重く。


 ゆっくりしている。


 階段の一段目。


 靴底が木へ触れる。


 一段。


 少し間が空く。


 もう一段。


 右脚を庇うような、不規則な歩調。


 エレノアの顔から色が消えた。


「そんな」


 息だけが漏れる。


 扉へ駆け寄ろうとする。


 一歩。


 二歩。


 途中で止まった。


 胸元へ手を置く。


 そこには。


 時計は止まっていない、と記された暗号文が入っている。


 紙の中で生きていることと。


 階段を上ってくることは違う。


 期待して扉を開き。


 誰もいなかった夜を。


 彼女は何度も知っていた。


「兄さま……?」


 階段の足音が止まった。


 扉の前。


 ブラムは吠えない。


 尻尾も振らない。


 ただ、座ったまま待っている。


 外側で。


 鍵を探すような小さな音がした。


 だが、鍵は使われなかった。


 取っ手が下がる。


 扉が。


 ゆっくりと開いた。


 雨の匂いが入ってくる。


 煤。


 濡れた革。


 薬品。


 遠い土地の泥。


 その中に、一人の男が立っていた。


 レオン=クラウス。


 以前より痩せている。


 頬の線は深くなり、右のこめかみから頬骨へ新しい傷が走っていた。


 右手には杖。


 以前の黒杖ではない。


 飾りのない、歩行を支えるための木杖だった。


 右脚へ体重を掛けるたび、肩がわずかに下がる。


 左肩の動きも硬い。


 濡れた外套には、旅の煤と雨が幾重にも染み込んでいる。


 片側の袖口は擦り切れ。


 手袋も左右で違っていた。


 四か月前。


 黒鐘塔へ向かった探偵が、そのまま帰ってきた姿ではない。


 いくつもの道を通り。


 傷を抱え。


 自分の足で。


 黒鴉館の二階まで戻ってきた男だった。


 レオンは。


 最初にブラムを見た。


 黒い犬。


 灰白色の胸元。


 古い鉄道保守犬章。


 二人は。


 互いの匂いを、すでに知っているようだった。


「君までここにいるのか」


 ブラムの尻尾が、一度だけ床を打った。


 重い音。


 それだけだった。


 飛びつかない。


 吠えない。


 帳簿を運び終えたときと同じように。


 確認した事実を、一度の動きで示した。


 レオンは犬から視線を上げる。


 室内を見回した。


 扉の内側へ増えた二枚の真鍮札。


> 事件記録・調査相談

> ミラベル=ワトリア


 その下。


> 調査補助

> エレノア=クラウス


 最初の札で視線が止まり。


 次に、二枚目へ下りた。


 エレノアが口を開く。


 だが、声が出ない。


 レオンは事務室へ一歩入った。


 右脚を引き寄せる。


 杖の先が、床へ硬い音を立てた。


 自分の椅子を見る。


 位置も。


 革の傷も。


 四か月前と変わらない。


 その一方で。


 机には、彼の知らない事件記録が二冊積まれている。


 資料箱。


 証拠札。


 認証写し。


 鉄道図。


 エレノアの帽子と変装用の眼鏡。


 暖炉の横の犬用毛布。


 ここには。


 レオンがいなかった四か月が、空白ではなく積み上がっていた。


「ずいぶん、看板が増えたな」


 声は以前より少し掠れていた。


 だが。


 皮肉を言うときの間は変わらない。


 ミラベルは椅子へ座ったまま答えた。


「あなたが帰ってこなかったので」


「留守を頼んだ覚えはない」


「ええ。だから、私たちの判断で続けました」


 レオンは少しだけ黙った。


 二冊の事件記録。


 ミラベルの札。


 エレノアの札。


 ブラム。


 空いたままの椅子。


 順に見る。


 何も変わっていない場所へ戻ったのではない。


 自分がいなくても。


 事件を調べ。


 証拠を読み。


 誰かの名を記録へ戻す場所として。


 動き続けていた事務所へ帰ってきた。


「兄さま」


 エレノアが、ようやく声を出した。


 怒りも。


 安堵も。


 四か月分の問いも。


 すべて一つの呼び方へ押し込められていた。


 レオンは妹を見る。


 髪。


 目の下の影。


 袖口の機械油。


 胸元に入れられた、折り畳んだ紙の形。


 いつものように。


 言葉より先に、目に見えるものを観察した。


 何かを言おうとする。


 その前に。


 一階から、マルタの声が響いた。


「クラウス!」


 黒鴉館全体が震えたようだった。


 レオンの肩が、わずかに強張る。


 地下鉄道警察に囲まれた犯人よりも。


 武装した男を前にしたときよりも。


 明確に身構えた。


「生きて帰ったなら、まず四か月分の家賃を払いな!」


 長い沈黙。


 エレノアが口元を押さえる。


 泣いているのか。


 笑いそうなのか。


 自分でも分からない顔だった。


 ブラムは扉の前へ座ったまま、レオンを見上げている。


 レオンは階段の下を見る。


 次に。


 濡れた外套。


 擦り切れた手袋。


 使い込まれた木杖。


 空いている椅子。


 口元が、ほんの少しだけ動いた。


 四か月ぶりに。


 レオン=クラウスは、わずかに笑った。


 ミラベルは、完成したばかりの事件記録を持ち上げた。


 長い題名。


 最初に記された、被害者の名。


 ヨアヒム=ベルナー失踪・殺害および第零環不正運行事件。


 立ち上がらない。


 駆け寄らない。


 名前を呼び、本物であるか確かめようともしない。


 ブラムが。


 先に確認している。


 雨の匂い。


 傷んだ右脚。


 硬い左肩。


 不規則な歩調。


 そのすべてを。


 一人の人間として。


「お帰りなさい、レオンさん」


 レオンが彼女を見る。


 四か月のあいだ。


 新聞記者でも。


 助手でもなく。


 自分の判断で調査を続け。


 自分の名を看板へ掛け。


 二冊の事件記録を積み上げた女を見る。


 ミラベルは、その記録を胸元へ抱えた。


 そして続ける。


「説明は、そのあとです」

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