↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
206/228

第16節 ― 時計は止まっていない

 夜が明けても、中央記録庁の時計は動き続けていた。


 黒い文字盤。


 白い針。


 歯車の回転を伝える振動が、特別監査室の壁を低く震わせている。


 窓の外では、朝一番の環状列車が煤霧を押し分けていた。


 夜のうちに。


 第零環を走っていた密輸列車は押収され。


 記録上死亡していた者たちは、一人ずつ本来の名を問い直され。


 ゲルハルト=ノールと協力者たちは拘束された。


 それでも街は止まらない。


 始発列車は、定められた時刻に中央駅へ入ってくる。


 エドガー=クラウスは、その音を背にして机へ座っていた。


 机上には、夜間監査の報告書が積まれている。


 押収した原簿。


 封鎖した伝送記録。


 拘束者の一覧。


 都市の内部から、一晩で切り取られた不正の記録だった。


 両開きの扉が開く。


 秘書官が声を掛けるより先に、エレノアが部屋へ入った。


 髪には旧信号塔の煤。


 袖口には転轍梃子の油。


 その後ろにミラベルとグレアムが続く。


 エレノアが両手で抱えているのは、証拠布に包まれた小型運行帳簿だった。


 ヨアヒム=ベルナーが、壁の裏へ残した最後の記録。


 エドガーは報告書から顔を上げた。


「ノックをする習慣は、まだ身につかなかったようだね」


「鍵を掛ける習慣は、直したほうがいいわ」


「秘書官が開けた」


「私を止められなかったからでしょう」


 いつもの応酬だった。


 だが、エレノアの声には軽さがない。


 机の前まで進み、帳簿を置く。


 投げつけはしなかった。


 証拠布を開く。


 黒鐘塔事件翌日の日付。


 その下に並ぶ五行。


> 零番旅客 一名。

> 重傷。

> 身元札なし。

> 折れた黒杖を所持。

> 第十三停車所より西部救護区へ移送。


 エドガーの視線が文字を追う。


 一行目。


 二行目。


 折れた黒杖。


 西部救護区。


 最後まで読んでも、驚かなかった。


 問い返しもしない。


 初めて知った者の顔ではなかった。


「知っていたのね」


 エレノアが言った。


 エドガーは否定しなかった。


 エレノアの右手が上がる。


 指先が兄の頬へ向かった。


 ミラベルは止めなかった。


 グレアムも動かなかった。


 だが。


 届く寸前で、エレノア自身が手を止めた。


 震える指が握られ。


 拳になり。


 ゆっくり下りる。


 殴れば。


 怒りを、一つの痛みへ変えられたかもしれない。


 けれど。


 頬を打つだけでは、足りなかった。


「どうして言わなかったの」


「君が知れば、探しに行く」


「当たり前でしょう!」


「だから言わなかった」


 あまりに短い答えだった。


 エレノアは、兄を睨んだ。


「それを、答えだと思ってるの?」


「理由を尋ねられたから、理由を答えた」


「私は行政報告を聞いてるんじゃない!」


「分かっている」


「分かってない!」


 エレノアの両手が机へ落ちた。


 証拠布がわずかに揺れる。


「レオン兄さまは、生きていた」


「少なくとも、黒鐘塔事件の翌日には」


「そうやって言葉を区切らないで!」


「事実は区切る必要がある」


「私たちは、その事実を何も知らなかった!」


 エレノアは帳簿を指した。


「兄さまが黒鐘塔で死ななかったことも。誰かに助けられたことも。西部へ運ばれたことも」


 声が揺れる。


「全部、死んだヨアヒムさんと、話せないブラムが教えてくれた」


 顔を上げる。


「家族のあなたではなくて」


 エドガーの目が、わずかに細くなった。


 だが、言い訳はしなかった。


 代わりに机の右端へ手を伸ばす。


 通常の鍵穴とは別に設けられた二つの回転錠を動かし、机の裏の留め具を外した。


 引き出しを開く。


 中には公文書も。


 封蝋も。


 記録庁の印章もなかった。


 奥へ、細長く折られた一枚の紙だけが入っている。


 エドガーはそれを取り出し、机の中央へ置いた。


「開きなさい」


 エレノアは動かない。


「何?」


「クラウス家の置換暗号だ」


 その言葉で、呼吸が止まった。


 幼いころ。


 長兄の書斎へ入るなと言われた弟妹が。


 食卓の時計。


 階段の段数。


 書棚の位置。


 家族にしか分からない規則を使い、伝言を残した。


 菓子の隠し場所。


 屋根裏で待ち合わせる時刻。


 家庭教師へ知られたくない相談。


 子どもの遊びだった暗号を。


 のちに、エドガーとレオンは外へ出せない情報の伝達へ使った。


 エレノアは紙へ手を伸ばした。


 折り目を開く。


 時刻と歯車番号を並べた、整備記録のような文字列。


 筆跡は小さく、角張っている。


 七の横棒を二重に引く癖。


 零の右下を、わずかに閉じずに残す癖。


 どちらもレオンの手帳に繰り返し残っていた。


 さらに末尾には、小さな歯車の記号。


 十二本の歯のうち、一本だけが内側へ向いている。


 幼いころからレオンが自分の暗号文にだけ付けていた、本人確認の符号だった。


 家族の置換規則を知り。


 レオンの筆跡をまね。


 その符号まで正しく置ける者は、ほかにいない。


 暗号を解くより先に。


 エレノアには、誰が書いたのか分かった。


 置換された文字を読み戻す。


> 時計は止まっていない。


 唇が動いた。


 最初は、声にならなかった。


 ミラベルには暗号の規則は分からない。


 だが。


 エレノアの顔を見れば、その紙が何を意味するのかは分かった。


 時計。


 黒鐘塔。


 止まっていない。


 死亡したと記録された探偵から届いた、生存通知。


「いつ」


 エレノアが尋ねた。


 掠れた声だった。


「いつ届いたの」


「黒鐘塔事件から十一日後」


「十一日……」


 紙を持つ指へ力が入る。


「私たちが、死亡推定の手続きをしていたころ?」


「そうだ」


「黒鴉館へ黒布を掛けていたころ?」


「そうだ」


「兄さまの椅子を、誰も動かせなくなっていたころ?」


 エドガーは、わずかに答えを遅らせた。


「そうだ」


「そのころには、生きていると知っていたのね」


「生存通知は受け取っていた」


「生きているって」


「知っていた」


 帳簿が示すのは、事件翌日の生存。


 暗号文が示すのは、十一日後の生存。


 レオンは意識のないまま運ばれただけではない。


 自分の手で暗号を書き。


 生きていることだけを、長兄へ知らせられる状態まで戻っていた。


「どうして」


 エレノアの声が小さくなる。


「どうして、私たちには」


「黒鴉館が監視されていた」


 エドガーは答えた。


 説明は三つだけだった。


「向かいの建物と高架下から、出入りする者を記録されていた」


 黒鴉館。


「新聞社から君たちへ届く郵便は、途中で開封されていた」


 郵便。


「エレノア。君には尾行が付いていた」


 エレノアは兄を見る。


「いつから?」


「黒鐘塔事件の直後から」


「知っていたの?」


「監査官に、その尾行者を追わせていた」


「私を守るため?」


「監視網の先を突き止めるためだ」


「私を使ったのね」


「君が調査を始めたあとからは」


 エドガーは否定しなかった。


「利用した」


 エレノアの顔から、一瞬だけ感情が消えた。


「正直ね」


「ここで嘘を加える意味はない」


「最初から言えばよかったのよ」


「君が知れば、探しに行く」


「当たり前でしょう!」


「だから言わなかった」


 同じ言葉だった。


 今度は。


 そこにエドガーの判断のすべてがあった。


 レオンの生存を知れば。


 エレノアは探す。


 黒鴉館の出入りが変わる。


 郵便を待つ。


 西部救護区を調べる。


 知らない名前へ反応する。


 尾行者は、その変化をたどる。


「兄さまの居場所を、私は知らなかった」


「知らない者でも、帰りを待つ行動は変わる」


「だから、本当に死んだと思わせた」


「そうだ」


「ミラベルにも?」


「そうだ」


「グレアム警部にも?」


「そうだ」


 壁際に立っていたグレアムの顎髭が動いた。


「俺まで欺いた理由も同じか」


「君が生存を知れば、死亡推定記録への態度が変わる」


「変えずに芝居をするくらいはできる」


「君は遺体のない死を確定させることへ、最初から反対していた。知ったあとまで同じ態度を続ければ、不自然になる」


「俺の感情まで証拠に使ったのか」


「監視者は、言葉だけを見ているわけではない」


 グレアムは帽子を脱いだ。


 握り潰しそうになり。


 やめる。


「理屈は分かった」


 許したとは言わなかった。


 ミラベルは机の帳簿と暗号文を見比べた。


 一つは、事件翌日の運行記録。


 一つは、十一日後の生存通知。


 どちらも、現在の所在までは示さない。


「レオンさんからの連絡は、この一度だけですか」


「直接のものは」


「現在の居場所は?」


「知らない」


「現在も生きていると断定できますか」


「できない」


 エドガーは希望に合わせて答えを変えなかった。


 その正確さは必要だった。


 同時に。


 それだけでは届かないものがある。


「確認させてください」


 ミラベルは静かに言った。


「黒鴉館が監視されていた」


「そうだ」


「郵便が開封されていた」


「そうだ」


「エレノアには尾行が付いていた」


「そうだ」


「私たちへ生存を知らせれば、その反応からレオンさんの帰還経路を探られる危険があった」


「高かった」


「だから、死を信じさせた」


「そうだ」


 ここまでが、エドガーの判断を支える事実だった。


 レオンを守るために。


 帰路を監視者へ渡さないために。


 情報を伏せた理由。


 必要だった可能性。


 ミラベルは、そこで言葉を区切った。


「私たちが悲しむことも、計算に入っていましたか」


 室内の時計が。


 一度。


 小さな機械音を立てた。


 エドガーは答えなかった。


 帳簿でも。


 監査報告書でも。


 損失一覧でもなく。


 机の上の暗号文へ視線を落とす。


 時計は止まっていない。


 それは、レオンが生きているという通知だった。


 同時に。


 ほかの者たちへ、死を信じ続けさせる決定でもあった。


 黒鴉館の空の椅子。


 使われない鑑定レンズ。


 毎朝確認された、届くはずのない手紙。


 誰も座らない机へ置かれた皿。


 その一つ一つを。


 必要な代価として数えたのか。


 数えなかったのか。


 あるいは。


 数えたからこそ。


 答えられないのか。


 エドガーは、ミラベルから視線を逸らした。


 沈黙だけが残った。


 エレノアの肩から力が抜ける。


 怒りが消えたのではない。


 許したのでもない。


 兄の口から。


 自分が求める答えは出ないと理解しただけだった。


 彼女は暗号文を見下ろす。


「この紙は預かるわ」


「原本は保全する」


「家族への通知でしょう」


「私のもとへ届いた証拠でもある」


「感じの悪い兄」


「複写を渡す」


「自分で写す」


「それなら構わない」


 エレノアは机の筆記具を取った。


 新しい紙を暗号文の横へ置く。


 数字。


 区切り。


 内側を向いた一枚の歯。


 意味だけではなく。


 レオンが置いた形のまま、一つずつ写していく。


 誰も急かさなかった。


 写し終えると、紙を折り、胸元へ収める。


 扉へ向かいかけ。


 一度だけ足を止めた。


「帰ってくるの?」


 調査員の問いではなかった。


 長く帰りを待っていた、妹の声だった。


 エドガーは、希望を確定した事実として答えなかった。


「帰還するかどうかを決めるのは、レオンだ」


「まだ、危険は残ってる?」


「すべてを確認できたわけではない」


 短く答える。


「ただし」


 机上の第零環地図へ視線を落とした。


 東部。


 中央。


 西部。


 死者を運んでいた一本の線路。


「帰路を塞いでいた者は、もういない」


 エレノアは頷かなかった。


 笑いもしない。


 その言葉だけで、四か月の沈黙を許しはしなかった。


 ただ。


 胸元の暗号文へ、そっと手を置いた。


 時計は止まっていない。


 帰還の約束ではない。


 現在の生存を保証する記録でもない。


 それでも。


 死んだ探偵の時間が。


 黒鐘塔の底で終わらなかったことだけは。


 もう。


 誰にも否定できなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。