第15節 ― 帰路を塞いだ男
エレノアが黒い補助梃子を引いた。
床下の歯車が噛み合い、尖端軌条が西部本線から旧貨物連絡線へ動く。
ノールの機関車が火花を散らして分岐へ突入した。
旧資材置場まで続く短い線路。
終端には、保守用の砂利層と車輪止め。
速度を落とし切れなかった鉄輪が砂利へ沈み、車体が大きく揺れた。車輪止めを押し潰し、煉瓦壁まで数歩を残して止まる。
蒸気だけが、荒い呼吸のように機関車の両側から漏れていた。
地下鉄道警察が一斉に運転台を囲む。
「両手を見せろ!」
「弁から離れろ!」
扉は開かない。
内側で金属が動いた。
グレアムが線路脇へ出る。
「ノール!」
白い蒸気の向こうへ怒鳴った。
「次に動かした弁が何であれ、逃走ではなく警官殺しとして記録するぞ!」
短い沈黙。
やがて、運転台の扉が開いた。
ゲルハルト=ノールが姿を現す。
濃灰色の上着は煤と硝子片に汚れ、眼鏡の片方には亀裂が入っていた。
それでも襟元を直してから、両手を上げる。
「運行は終了したようですね」
「お前の運行はな」
グレアムが運転台へ上がり、腕を背後へ回した。
手錠の閉じる音が、旧貨物線へ響いた。
◇
ノールが第十三停車所へ連れ戻されたとき、旧救護室の前には白布を掛けられた担架が置かれていた。
布の下から、厚い保守靴の先だけが見えている。
そのそばへ、ブラムが伏せていた。
黒い頭を前脚へ載せ、連行されてきた男を見上げようともしない。
ノールは短い作業机の前へ座らされた。
手錠の鎖が、床へ固定された鉄環を通される。
「弁護士を呼ぶ権利がある」
グレアムが告げた。
「いまは必要ありません」
「黙秘もできる」
「承知しています。答えるかどうかは、質問ごとに決めましょう」
ノールは穏やかに答えた。
机の上には、五つの証拠が、立証する順序に沿って置かれていた。
古い水入れから見つかった真鍮片。
中央信号箱に隠されていた汽笛符号の紙片。
ヨアヒムが残した小型運行帳簿。
第十三停車所の蒸気補給弁に関する鑑定記録。
そして、エドガーの監査官が保全した三地区の運行原簿。
ミラベルは机の前へ立った。
包帯は薄くなっているが、赤い停止綱で裂けた掌には、まだ傷が残っていた。
「最初に、一台の機関車を三台へ分けた記録について確認します」
「それは、すでに皆さんの目でご覧になったでしょう」
「目撃しただけでは、誰が運行を作ったかまでは分かりません」
ミラベルは真鍮片を収めた証拠袋を示した。
「これは、東部機関庫の古い犬用水入れから見つかりました。刻まれていたのは、運行番号ではなく車軸管理番号です」
「廃棄部品の札でしょう」
「二か月前まで、密輸列車の左前輪へ使われていた車軸のものです」
グレアムが車両台帳の認証写しを開く。
旧車軸番号。
交換後の新車軸番号。
その間に記された、一つの車台番号。
「四六号として検査した車軸は、新しい番号へ交換されていた」
ミラベルが言う。
「ですが、旧車軸も現在の車軸も、同じ車台へ属しています」
「それが、私と何の関係を?」
「十二号と八号には、独立した車台登録がありません」
ノールの目が、わずかに細くなる。
「三台の列車が存在するなら、車台も三つ必要です。残っているのは一台分の交換履歴だけでした」
「登録の遅れは珍しくありません」
「ええ。真鍮片だけでは、あなたの犯行は証明できません」
ミラベルは認め、次の証拠へ移った。
細い紙片。
東部、中央、西部の略号と、その横へ並ぶ三つの汽笛符号。
長音。
短音。
細短音。
「これは中央信号箱から見つかりました」
「保守列車の共通符号です」
「当初、リナさんもそう説明されました」
入口近くに立つリナが、顔を上げる。
「ですが、三地区の信号原簿を照合すると、この三音は同じ夜、東から西へ順番に記録されています」
東部。
中央。
西部。
現認時刻は、一台の機関車が移動する間隔と一致する。
「同じ符号を三台が使ったのではありません」
エレノアが言った。
「一台が区画を越えるたび、同じ符号を鳴らした」
「それも推測です」
「では、紙片に記された地区順と」
ミラベルが続ける。
「ブラムの巡回順と、現認時刻が一致する理由を説明してください」
ノールは答えなかった。
「共通符号を記した紙が存在しただけでは、犯罪にはなりません」
しばらくして、そう返した。
「そのとおりです」
ミラベルは小型帳簿を示した。
「だから、ヨアヒムさんは記録を続けました」
証拠係の警官が帳簿を開く。
日付。
東部、中央、西部の略号。
通過時刻。
貨車数。
乗車人数。
何夜分もの記録が、同じ筆跡で並んでいる。
「帳簿の時刻は、三地区の現認印と一致しています」
「ベルナー主任が、公開された運行情報を書き写したのでしょう」
「公開された運行表には、三台が同時に別区画を走っていると書かれています」
ミラベルは頁を指した。
「ヨアヒムさんの帳簿では、一台の車台が東から西へ移動した記録になっている」
「彼の解釈です」
「乗車人数も?」
ノールの視線が止まる。
「公開記録では、三台とも乗客なしです。ですが帳簿には、毎夜の人数と貨車数が記されています」
十数名。
九名。
十七名。
夜によって異なる人数。
その数字は、今夜確保された貨車の座席跡や、配布前の通行証の束とも対応していた。
「ヨアヒムさんは、外から時刻を写したのではありません」
ミラベルは言う。
「列車と乗客を、停車所で直接確認していた」
「それでも、私が運行させた証拠ではない」
「帳簿だけなら、そうでしょう」
ミラベルは、四つ目の記録へ進んだ。
第十三停車所の蒸気補給弁。
事故調査官ダグが作成した現場記録だった。
「ヨアヒムさんの保守服には、高圧蒸気によるものと考えられる損傷があります。金具へ付着していた白い沈着物は、この停車所の補給管から採取したものと同種でした」
「検死は終わっていない」
「死因は正式鑑定待ちです」
ミラベルは断定できる範囲を区切った。
「ですが、補給管の破裂ではありません」
ダグが壁際から口を開く。
「管にも継ぎ目にも破断はない。蒸気弁が全開位置まで手動で回され、そのあと閉じられとる」
「閉鎖設備の弁が、誰かに操作された」
グレアムが言う。
「事故で勝手に開いたわけではない」
「誰が開いたかは分からないでしょう」
ノールの声はまだ平静だった。
「そうですね」
ミラベルは最後の書類を見る。
「だから、運行原簿を確認しました」
エドガーの特別監査官が、封印された書類箱を作業机へ置く。
三地区の原簿。
夜間運行監査室の照合原票。
伝送された修正命令。
公開されていた認証写しではなく、書き換え前の原記録である。
「三台の運行時間は、それぞれの部署が独立して決めたものではありませんでした」
監査官が一枚の照合原票を開いた。
「東部、中央、西部の運行枠は、夜間運行監査室から一括で指定されています」
三枚に残った同じ誤字。
制動確忍済。
その文字は、三部署の原簿より先に作られた照合原票にも存在していた。
「承認者は」
グレアムが読む。
「ゲルハルト=ノール」
ノールは書類へ目を向けたまま、動かなかった。
「さらに」
監査官が別の頁を開く。
「ヨアヒム=ベルナーが最後に確認された夜、第十三設備区の臨時監査が記録されています」
「誰の監査?」
エレノアが問う。
「ノール監査官本人です」
ノールの署名。
第十三設備区。
蒸気補給圧の異常確認。
その記載は、後日作られた認証複写から削除されていた。
「あなたは、その夜ここにいました」
ミラベルが言う。
「ヨアヒムさんが最後の記録を書いた夜に」
「監査官が設備を訪れることは、犯罪ではありません」
「ええ」
ミラベルは、白い布を掛けられた担架を見る。
「しかし、その監査のあと、ヨアヒムさんは行方を失った」
蒸気弁は人の手で全開にされた。
ヨアヒムの衣服には、その蒸気を受けた痕跡がある。
遺体は壁内へ隠された。
その後、退職、転居、退職金受領、宿舎退去が成立した。
過去に書かれた謝罪文は、娘への別れとして送られた。
「あなたは、密輸列車を運行していた」
ミラベルは一つずつ告げた。
「ヨアヒムさんはその車台番号と経路を記録し、告発しようとした。あなたは彼と、この停車所で会った」
「そこまでは原簿が証明している」
グレアムが続ける。
「蒸気弁を開けた者が、お前ではないと言うなら、誰だ」
「運行員は何人もいました」
「なら、その者の名を言え」
ノールは黙った。
「部下が勝手にベルナーを殺し」
グレアムの声が低くなる。
「遺体を隠し、退職記録を整え、手紙まで送った。それを監査官のお前は、何も知らずに承認したのか」
「……」
「あるいは」
ミラベルが言った。
「あなたが命じた」
ノールの割れた眼鏡に、白い蒸気灯が映る。
「どちらを選んでも、あなたはこの事件から外れません」
「選ばせるのですか」
「事実を説明する機会を与えています」
「すでに結論を決めている」
「結論は、証拠が決めました」
真鍮片。
汽笛符号。
小型帳簿。
操作された蒸気弁。
ノールの署名を残す運行原簿。
一つずつでは、別の説明を与えられたものが。
同じ夜。
同じ停車所。
同じ男へ収束している。
ノールは、白い布の下から覗く保守靴へ視線を向けた。
初めて。
ヨアヒムの遺体が、そこに存在することを認めるように。
「彼は、運行を止めると言いました」
ノールが口を開いた。
グレアムが部下へ目を向ける。
記録官のペンが動き始めた。
「何を止めると?」
ミラベルが尋ねる。
「第零環の運行すべてです。公表すれば、鉄道局は地下線を一斉に封鎖する。身分照合局も、救護所も、協力した工房も調べられる」
「違法な運行です」
「違法でも、必要としている者がいました」
「誰が?」
「名前を失った者。正規の検問を通れない者。金を払って過去を捨てたい者。犯罪者も。被害者も」
「だから人間を貨物にした?」
エレノアが問う。
「鉄道が運ぶものに、善悪はありません」
ノールの声は、夜間運行局で説明していたときと変わらなかった。
「重量と行先さえ正しければ、機関車は人間の事情を問いません」
「あなたは機関車ではない」
「人間より、機関車のほうが正確です」
「ヨアヒムさんは、それを認めなかった」
ミラベルが言う。
「彼は正しさに固執した」
「それで?」
ノールは担架を見た。
「話せば理解すると思った」
「蒸気弁の前で?」
「運行を止めれば、何百人もの生活が失われると説明しました」
「それでも告発すると答えた」
「一人の老保守員より、鉄道運行の方が重要です」
停車所が静まった。
ブラムの耳が立つ。
吠えない。
飛びかからない。
主人の遺体のそばで、その言葉を聞いている。
グレアムが一歩前へ出た。
ミラベルは包帯の残る手を上げた。
警部を庇うためではない。
供述を途切れさせないために。
「それは」
ノールを見る。
「ヨアヒムさんを殺した理由ですか」
ノールは答えない。
「蒸気弁を開いたのは、あなたですか」
長い沈黙。
遠くで、押収された貨車の扉が閉まる。
金属音が、地下線を伝った。
「彼が弁の前へ立った」
「あなたが開いたのですか」
「どけばよかった」
「質問へ答えてください」
ノールは眼鏡を押し上げようとした。
両手は拘束されている。
指が途中で止まり、手錠の鎖が鳴った。
「弁を開いたのは、私です」
記録官のペンが一度止まり。
すぐに動き始める。
「供述時刻」
グレアムが言う。
「午前一時三十二分」
「立会人」
一人ずつ、名が記録された。
ミラベル。
エレノア。
リナ。
地下鉄道警察官。
特別監査官。
ヨアヒムの死は、もう誰か一人の机で別の記録へ置き換えられない。
「遺体を壁へ移したのも?」
グレアムが尋ねる。
「運行員へ指示しました」
「退職書類は」
「本人が退職を考えていた時期のものを使った」
「転居先」
「空いていた西部宿舎の登録から選びました」
「退職金は」
「本人の口座へ振り込み、委任状で引き出した」
「娘への手紙」
「宿舎の机にあった未送付のものです」
「呼びかけを加えた?」
「転居通知と一緒に送らせました」
ミラベルは一つずつ記録した。
供述は、証拠と照合されなければならない。
退職書類。
委任状。
引出伝票。
手紙へ呼びかけを書き加えた者。
壁を造った運行員。
蒸気弁の操作痕。
自白したからといって、証拠の役目が終わるわけではない。
むしろ。
ここから、供述のどこまでが事実かを確かめる必要がある。
「ヨアヒムさんの件は、ここまでにします」
ミラベルが言った。
エレノアが彼女を見る。
まだ問いが残っていると分かっている。
だが。
殺害の記録と。
その後に見つかった別の記録を。
同じ流れで扱ってはいけない。
ミラベルは一度、小型帳簿を閉じた。
◇
証拠係が、帳簿を別の頁で開き直した。
日付は。
黒鐘塔事件の翌日。
通常の人数欄とは別に、ヨアヒムが一行を書き加えている。
《零番旅客》。
ノールが、記録上死亡した者へ使っていた呼称。
「次は、この記録について伺います」
ミラベルが言う。
ノールの表情から、先ほどまで残っていた余裕が消えた。
「零番旅客、一名」
帳簿には名前がない。
ただし、負傷状態と所持品が記されていた。
> 零番旅客 一名。
> 重傷。
> 身元札なし。
> 折れた黒杖を所持。
> 第十三停車所より西部救護区へ移送。
エレノアの手が、机の端をつかんだ。
「黒い杖」
問いというより、息だった。
レオンが使っていた杖。
鑑定具を収め。
必要なら護身にも使う。
黒鐘塔から回収されなかったもの。
ミラベルは、期待から先に結論を置かないよう、帳簿の文字だけを見た。
「この負傷者を確認しましたか」
ノールへ尋ねる。
「運行監査の際に」
「年齢は」
「三十代半ばほど」
「種族」
「ヒト族」
「外見」
「黒い髪。痩せた男」
「意識は?」
「ほとんどありませんでした」
「どこで乗せたのですか」
「第十三停車所です」
「誰が連れてきた」
「ベルナー主任」
ブラムが頭を上げた。
白布の下から覗く主人の靴を見る。
「ヨアヒムさんが発見した?」
「旧排水接続路から運んできたと聞きました」
「黒鐘塔へつながる水路?」
「そうです」
エレノアが一歩、ノールへ近づく。
声が震えていた。
それでも。
兄だと決めつける問いは呑み込んだ。
「その人は、生きていたの?」
「列車へ乗せた時点では」
「どこへ運んだ」
グレアムが尋ねる。
「帳簿どおり、西部救護区です」
「そのあとは」
「知りません」
「監視交替の記録がある」
特別監査官が、保全した伝送票を示した。
「救護区へ、身元不明者の監視を送るよう、あなたの監査室から指示が出ています」
「私が直接見張ったわけではない」
「なぜ監視したのです」
ミラベルが問う。
ノールは、しばらく帳簿を見た。
「黒鐘塔で二人が死亡したと、都市全体が記録しようとしていた」
「それなのに、一人が地下水路から戻った」
「価値のある情報でした」
「誰へ流した?」
グレアムが言う。
「旧第零環を以前利用していた協力網へ、照会を出しました」
「ノクス=モリアンへ?」
「本人へ届いたかは知りません」
ノールは答えた。
「私は、残っていた連絡先へ情報を流しただけです」
「ノクスの指示だったのか」
「違います」
「では、協力網を利用していた?」
「互いに便宜を交換していました」
それ以上。
ノールがノクス本人と話したのか。
情報が誰へ届いたのか。
そこから何が行われたのか。
この場で裏づけられる記録はなかった。
「救護区へ移した男は?」
ミラベルが問いを戻した。
「監視役が到着する前に消えていました」
「自力で?」
「知りません」
「誰かの助けを受けた可能性は」
「あります」
「誰です」
「分かりません」
ノールは、そこで初めて苛立ちを見せた。
「私が知っているのは、列車へ乗せた時点で生きていたこと。西部救護区へ運んだこと。到着後に姿を消したことだけです」
エレノアの拳が震えている。
グレアムが、その前へ腕を出した。
「殴れば、兄の居場所が分かるのか」
「どいて」
「分かるなら、俺が先に殴る」
エレノアはグレアムを睨んだ。
だが。
拳を上げなかった。
「兄さまだと、まだ決まってない」
自分へ言い聞かせるように言う。
「ええ」
ミラベルは帳簿を見た。
日付。
黒鐘塔事件の翌日。
経路。
旧排水接続路から第十三停車所。
第十三停車所から西部救護区。
負傷状態。
重傷。
所持品。
折れた黒杖。
ノールの供述。
三十代半ば。
黒髪。
痩せたヒト族の男。
帳簿には、レオン=クラウスという名はない。
だが。
黒鐘塔から旧排水路へ落ち。
折れた黒杖を持ち。
翌日、第十三停車所から生存状態で運ばれた男。
別人である可能性を考えるには、重なる事実が多すぎた。
「エレノア」
ミラベルが呼ぶ。
「これは、レオンさんが現在も生きている証拠ではありません」
エレノアの肩が強張る。
「分かってる」
「西部救護区を出たあと、どこへ行ったのかは記録されていません」
「分かってるって言ったでしょう」
「でも」
ミラベルは帳簿の日付を指した。
「黒鐘塔で亡くならなかったことを示す物証です」
エレノアが振り返る。
目には涙が浮かんでいた。
だが、笑わない。
泣き崩れもしない。
自分の目で、一行ずつ文字を読む。
「願いじゃないのね」
「ええ」
「兄さまなら生きているはずだっていう推測でも」
「ありません」
ミラベルは、確認できる事実を一つずつ示した。
「事件翌日の記録です」
第十三停車所から西部救護区。
「移送経路があります」
重傷。
「状態が記録されています」
折れた黒杖。
「所持品も」
最後に。
「列車へ収容された時点で、生存していたという記録です」
グレアムは帽子を脱いだ。
深く息を吐く。
安堵か。
怒りか。
その両方かもしれない。
「ヨアヒムさんは」
ミラベルが白い担架を見る。
「黒鐘塔から流れ着いた負傷者を助けた。その人を運ぶために、第零環の列車を使った」
「それで、この列車が何をしているのか知った」
エレノアが言う。
「自分が兄さまを、危険な運行網へ渡してしまったと」
「その可能性があります」
「だから告発しようとした」
ミラベルは頷かなかった。
帳簿が示すのは移送まで。
ヨアヒムが何を考えたかは、残された行動から推測するしかない。
「少なくとも」
慎重に言う。
「負傷者の移送後も記録を続け、不正運行を告発しようとしたことは確認できます」
ノールが担架のそばに伏せるブラムを見た。
「ベルナー主任は、余計な責任まで背負った」
「余計ではありません」
ミラベルが答える。
「助けた人間が、危険にさらされていると知った」
「一人のために、運行網すべてを壊そうとした」
「一人を貨物として扱わなかっただけです」
ノールは口を閉じた。
鉄道の効率を語る言葉は。
ヨアヒムの遺体と。
主人のそばを離れないブラムと。
帳簿の一行の前で。
何も正当化しなかった。
グレアムが警官へ命じる。
「ノールを地上へ移送。ほかの容疑者と接触させるな」
「はい」
「供述記録は、市警、鉄道警備隊、司法記録院へ一部ずつ」
特別監査官が尋ねる。
「監査室には?」
「四部目を渡す」
グレアムは答えた。
「今度は、誰か一人が封じても消えんようにな」
ノールが立たされる。
手錠の鎖を引かれ、停車所の出口へ向かった。
ミラベルの横を通るとき。
一度だけ、小型帳簿へ目を向けた。
「その男が、いまも生きている保証はありませんよ」
「分かっています」
「では、何をそんなに大切そうに見ているのです」
「記録です」
ノールの足が止まる。
ミラベルは、開かれた一行から目を逸らさなかった。
「あなたが死者へ置き換えられなかった記録です」
警官が鎖を引く。
ノールは蒸気の向こうへ連行されていった。
机の上には。
小型帳簿の一行だけが、静かに開かれている。
零番旅客、一名。
名前はない。
それでも。
その男がどこから来て。
どの道を通り。
どれほど傷つき。
何を持っていたかは分かる。
レオン=クラウス。
黒鐘塔で死亡したと推定された探偵。
少なくとも。
あの夜の翌日には、生きていた。
ミラベルは新しい記録用紙を出した。
包帯の残る手で、ゆっくりペンを持つ。
エレノアが隣へ立った。
「何を書くの?」
最初の欄へ。
推定される人物名。
レオン=クラウス。
次に。
確認済み。
黒鐘塔事件翌日。
第十三保守停車所より、西部救護区へ移送。
重傷。
折れた黒杖を所持。
生存状態で列車へ収容。
その下へ。
未確認。
現在の所在。
現在の生死。
ミラベルは二つを、明確に分けた。
願いを。
確認済みの欄へ書き込まないために。
「いま分かっていることは、ここまでです」
エレノアが頷いた。
「次に調べることは?」
ミラベルは、西部救護区へ続く線路を見た。
ノールが監視を命じ。
身元不明の男が姿を消し。
エドガーが記録を封鎖した道。
「誰が、この記録を知っていたのか」
二人とも。
問いを向ける相手は分かっていた。
だが今度は、推測だけで責めに行くのではない。
帳簿を持って。
日付を持って。
経路と負傷状態と。
折れた黒杖の記録を持って。
エドガー=クラウスへ問いに行く。
ミラベルは小型帳簿を閉じた。
これは。
レオンが帰ってくるという約束ではない。
現在も、どこかで生きているという証明でもない。
それでも。
遺体のない死を信じなかった彼女たちが。
初めて手にした。
願いでも。
推測でもない。
死んだ探偵が。
一度は死者の列車から降りたことを示す記録だった。




