第14節 ― 主人が待つ停車所
旧救護室の扉は、内側から錆びついていた。
ブラムが鼻先を押し当てても動かない。
扉の下には、長いあいだ積もった煤と埃。その表面へ、今夜ついたばかりの犬の足跡が四つ、はっきり残っている。
ミラベルは扉の前へしゃがんだ。
「ブラム」
黒い犬は彼女を見ない。
鼻を上げ、扉の隙間から流れ出す空気を、短く何度も吸っている。
古い薬品。
湿った布。
錆びた器具。
地下水。
それらに混じる何かを、ブラムだけが嗅ぎ分けていた。
「中に何かあります」
残った二人のうち、ドワーフの事故調査官ダグが、蝶番へ携帯灯を向けた。
若い鉄道警官セイルが、扉の前へ番号札を置く。
「救護室入口。外側に破壊痕なし」
「外錠なし。内側の留め具と蝶番が固着」
ミラベルも時刻を記した。
午前零時四十二分。
第十三停車所、旧救護室。
ブラム、扉下部を嗅ぐ。
進入を求めるように鼻先を押し当てる。
最後の一行だけは空けた。
何を求めているのか。
それは、見つけてからでなければ書けない。
「開けてください」
扉全体と犬の足跡を撮影したあと、ダグが鉄楔を差し込んだ。
錆びた金属が軋む。
内側で何かが砕け、扉がわずかに開いた。
冷たい空気が流れ出す。
ブラムは隙間へ飛び込まなかった。
立ったまま、完全に開くのを待っている。
「先に警察が入る」
ダグとセイルが敷居を越えたあと、ミラベルとブラムが続いた。
旧救護室は、二十一年前に閉鎖された姿を残していた。
壁際の鉄製寝台。
革の破れた診察椅子。
色の抜けた薬瓶。
小型蒸気釜。
洗浄槽。
折り畳み式の担架。
床へ落ちた器具には、厚い埃が積もっている。
ただし。
奥の壁だけは、埃が薄かった。
ブラムは迷わず、蒸気釜の横へ向かった。
鼻先で煉瓦を横へなぞる。
下へ。
さらに横へ。
そして。
吠えた。
一度。
低く。
長く。
声が狭い救護室の壁を震わせる。
ブラムは無闇に吠えない。
主人の部屋でも。
三つの列車を見送った夜も。
声を上げなかった。
手押し車が暴走したとき、赤い停止綱を知らせるためにだけ吠えた。
必要なことを、人間へ伝えるときだけ。
ブラムは声を使う。
「この壁です」
ミラベルが言った。
ダグは携帯灯を斜めから当てた。
一見すれば、周囲と変わらない古い煉瓦壁。
だが四角く囲まれた部分だけ、目地の色が違う。
「詰め直されとる」
古い石灰目地は黄ばんでいる。
そこだけが、煤の下でも灰色を残していた。
壁の位置と範囲を測り、写真へ残す。
犬の鼻が触れた箇所も、別に記録した。
それからダグが、灰色の目地へ鑿を当てた。
石灰が欠ける。
煉瓦が一つ、前へ抜けた。
向こうは空洞だった。
湿った冷気。
古い煤。
長く閉じ込められていた、重い匂い。
セイルが口元を押さえた。
ダグの表情が変わる。
「少し下がれ」
「遺体ですか」
「可能性がある」
ミラベルは一歩だけ下がった。
ブラムは動かない。
開いた穴へ鼻先を向けたまま、その場に立っている。
ダグは煉瓦を一つずつ外し、番号順に床へ並べた。
穴が人の肩幅ほどへ広がる。
携帯灯を差し込んだ。
最初に見えたのは、暗灰色の保守服の袖だった。
古い油と煤が染み込んだ布。
その先に、黒く硬くなった手。
身体は壁の裏にある狭い点検槽へ、横向きに押し込まれていた。
膝は不自然に曲がり。
肩は壁へ押しつけられ。
片腕だけが、胸元へ引き寄せられている。
停車所の音が遠ざかった。
貨車から聞こえる声。
押収文書を数える監査官。
ノールを追う手押し車の音。
すべてが、何枚もの壁の向こうへ離れていく。
「身元を確認する」
ダグの声だけが、はっきり聞こえた。
さらに煉瓦を外す。
胸元。
肩。
顔。
白くなった髭。
濃い眉。
記録写真で何度も見た男だった。
環状鉄道勤務、三十二年七か月。
元・地下線保守主任。
ヨアヒム=ベルナー。
西部港湾都市へ転居したと記録された男は。
自分が保守してきた地下線で。
名を失ったまま、壁の中へ埋められていた。
「ヨアヒムさん」
ミラベルは名前を呼んだ。
返事はない。
だが。
正式な転居記録も。
本人の署名も。
引き出された退職金も。
娘へ送られた本物の謝罪文も。
この一つの事実によって、意味を変えた。
ヨアヒムは、自分の意思で街を去っていない。
彼の遺体が第十三停車所から発見された以上、西部で生活しているという記録は成立しない。
「死亡時期と死因は?」
「現場では決めん」
ダグは保守服へ灯りを向けた。
胸から左肩にかけて、布が黒く縮れている。金具には、高圧蒸気の漏出部に生じるものと似た白い沈着があった。
「高熱を受けた可能性はある。この停車所には高圧蒸気管もある」
「蒸気による事故ですか」
セイルが問う。
「事故か、殺害かも含めて正式鑑定へ回す」
ダグは短く区切った。
「ここで言えるのは、それだけだ」
ミラベルは手帳へ記した。
遺体――ヨアヒム=ベルナーと推定。
鉄道保守服を着用。
壁内点検槽より発見。
衣服に高熱による可能性のある損傷。
身元、死亡時期、死因――正式鑑定待ち。
言葉へ変えるたび。
目の前の男が、一つずつ事件記録へ戻ってくる。
失踪していない男ではない。
ただの転居者でもない。
ここで発見された。
一人の被害者だった。
「右手を見てください」
ヨアヒムの胸元。
硬く閉じた右手の指の間から、短い真鍮の筒が覗いている。
「笛か」
鉄道保守犬へ合図を送る、小型の伝令笛だった。
側面には細かな歯形と、長年使われた擦り傷。
ブラムの首輪に付いた保守犬章と同じ印が刻まれている。
「握ったまま保全する」
ダグが言った。
「筒の内部と口元に痕跡があれば、最後に吹いたかどうかも調べられる」
ミラベルはブラムを見た。
犬は。
主人の姿を見ても、走り寄らなかった。
鼻を鳴らすことも。
吠えることもない。
壁穴から数歩離れた場所へ立っている。
耳は前へ。
身体は硬く。
黒い瞳だけが、壁の奥の男へ向けられていた。
「ブラム」
犬は動かない。
長く待っていた主人の匂いが、目の前にある。
それでも、近づかなかった。
ダグが遺体の足元を確認する。
保守用の厚い靴。
工具帯。
腰の革袋。
その腕一本ほど先。
点検槽の隅に、小さな黒い帳面が置かれていた。
「帳簿があります」
水と煤を避けるように、薄い鉄板の上へ載せられている。
手のひらより少し大きな黒革の表紙。
角には真鍮の補強。
鉄道局の正式台帳ではない。
保守員が現場の数値や時刻を書き留める、小型の携帯帳簿だった。
位置と遺体までの距離を撮影する。
ダグが細い火箸を差し出した。
そのとき。
ブラムが動いた。
「待て」
ダグの手が止まる。
犬は壁穴へ近づいた。
主人へではない。
点検槽の床。
小型帳簿へ。
一度、匂いを確かめる。
前歯で、表紙から伸びる革紐をくわえた。
「ブラム、離せ」
セイルが手を伸ばす。
「待ってください」
ミラベルが止めた。
「証拠だぞ」
「分かっています」
革紐の端には、細かな歯形が並んでいた。
いま付いた傷だけではない。
何度も犬がくわえた痕跡。
ヨアヒムは最初から、この帳簿をブラムが運べるようにしていた。
「伝令訓練です」
ブラムは帳簿を持ち上げた。
主人の袖へ鼻先が触れそうな距離を通る。
だが。
顔を向けなかった。
狭い壁穴から後退し、救護室の床へ下りる。
そのままミラベルの前へ歩いてきた。
一歩。
また一歩。
黒革の帳簿が、犬の口元で小さく揺れる。
ミラベルはしゃがんだ。
命令しない。
受け取れとも。
置けとも言わない。
ブラムの行動を待つ。
犬は、包帯を巻いた彼女の両手を見た。
それから。
いつもの伝令動作として、足元へ帳簿を置いた。
一歩下がる。
座る。
受領を待つ。
それは。
主人へ駆け寄る犬の動きではなかった。
訓練された保守犬の動きだった。
指定された証拠を。
指定された相手へ運ぶ。
最後の命令を完了するために。
何度も繰り返してきた動作。
ミラベルは包帯の巻かれた手を見た。
帳簿へ直接触れず、ダグが差し出した証拠布を広げる。
布ごと持ち上げた。
「受け取りました」
ブラムの耳が動く。
「ヨアヒムさんの帳簿を」
黒革の表紙には、題名も所有者名もない。
留め金の隙間から見える頁には、細かな数字が並んでいた。
日付。
時刻。
東部、中央、西部の略号。
列車の通過回数。
乗車人数。
貨車の数。
何夜分もの記録。
ミラベルは内容を追いかけようとして、帳簿を閉じた。
「読まないのか」
セイルが尋ねる。
「まず、発見時の状態を確定します」
「犯人の名があるかもしれない」
「だからこそです」
帳簿の位置。
ブラムが運んだ経路。
受領時刻。
表紙の歯形。
頁の欠落の有無。
先にそれを記録しなければ、あとから、どこまでが発見時の状態だったか分からなくなる。
ミラベルは手帳へ書いた。
午前零時五十一分。
壁内点検槽。
遺体足元付近より、小型運行帳簿を確認。
ブラムが革紐をくわえ、ミラベルの足元へ運搬。
証拠布を用いて受領。
内容は未精査。
「これが、ブラムの仕事だった」
ダグはヨアヒムの右手にある伝令笛を見る。
「最後に命令を出したのか」
「笛と帳簿を調べるまで断定できません」
「だが犬は、帳簿を運んだ」
「ええ」
「毎晩、同じ道を巡った」
「ええ」
ミラベルは帳簿を見た。
東部機関庫の古い水入れから見つかった、車軸番号の真鍮片。
中央信号箱の階段下へ隠されていた、三地区の汽笛符号。
そして。
第十三停車所の壁内に残された、小型運行帳簿。
ヨアヒムは、証拠を一か所へまとめなかった。
一度にすべてを奪われないように。
ブラムの巡回経路へ三つに分けて残した。
水入れ。
信号箱。
自分が待つ停車所。
ブラムは主人を捜していたのではない。
各地点の証拠が残っていることを確かめ。
最後に帳簿を届けようとしていた。
「命じられた仕事を」
ミラベルは言った。
「終わらせようとしていたんです」
ブラムが立ち上がった。
帳簿を受け取ったミラベルには、もう用事がない。
静かに背を向け。
壁の穴へ戻る。
今度は、帳簿のあった場所へ行かなかった。
ヨアヒムのそばへ近づく。
身体を低く沈め。
主人の保守服の袖へ、鼻先を触れた。
長く匂いを吸う。
一度だけ。
それから。
点検槽の狭い床へ身体を横たえた。
ヨアヒムの腕に沿うように。
頭を前脚へ載せる。
尻尾は動かない。
声も上げない。
目を閉じることもしなかった。
ただ、そこへ伏せた。
命令を完了した保守犬が。
次の指示を待つように。
だが。
もう。
伝令笛が鳴ることはない。
ミラベルは帳簿を抱えたまま、立っていた。
ブラムを呼び戻さなければならない。
遺体と現場を保全するなら、答えは決まっている。
「犬を下げるぞ」
ダグが低く言った。
「はい」
ミラベルは答えた。
だが、すぐには名前を呼べなかった。
ダグも数秒だけ待った。
規則に定められた時間ではない。
一人の死者と。
その帰りを待ち続けた犬へ与えられた。
短い時間だった。
やがて。
ミラベルは壁の前へしゃがんだ。
「ブラム」
犬の耳が動く。
「帳簿は受け取りました」
黒い瞳が、彼女へ向いた。
「あなたの仕事は、終わりました」
言葉の意味を理解したのかは分からない。
ブラムは、すぐには動かなかった。
主人の袖へ鼻先を寄せ。
もう一度。
匂いを確かめる。
それから、ゆっくり立ち上がった。
壁の穴から救護室へ出る。
ミラベルの隣へ来る。
身体を寄せることも。
慰めを求めることもしない。
ただ、彼女の足元へ座った。
ダグとセイルが、遺体を点検槽から出す準備を始める。
位置を測り。
衣服の状態を記録し。
伝令笛を握った右手を固定する。
ヨアヒム=ベルナーは。
ようやく。
西部港湾都市へ移った男ではなくなった。
第十三停車所の壁から発見された。
名のある死者となった。
ミラベルは、小型帳簿を見下ろした。
そこには。
密輸列車が走った夜。
運ばれた人数。
三つの名前を与えられる前の、一台の列車。
ヨアヒムが最後まで記録しようとした事実が残されている。
そして。
ブラムは、主人の帰路を見つけたのではなかった。
主人が帰れなくなった場所まで。
人間たちを連れてきたのだった。




