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第13節 ― 第零環を走る死者たち

 午前零時七分。


 ヴェルム=クロウの地下で、三つの時計が同じ時刻を示していた。


 旧中央信号塔の鉄道時計。


 グレアムの鎖付き懐中時計。


 ミラベルの胸元で動く、小さな銀時計。


 地上の記録では、三つの地区は別々の路線として扱われている。


 だが地下に残る軌条は、一本だった。


 旧第零環支線。


 東部機関庫から第十三保守停車所を経て、西部貨物区へ抜ける、地図から名を消された線路。


 今夜。


 その上を、一台の列車が走る。


「配置を確認する」


 グレアムの声が、閉鎖保守坑へ低く響いた。


「東部班は四六号の出庫を追う。中央は旧信号塔から分岐を押さえる。西部班は地下門で待機。番号が変わっても、別の列車として追うな」


 地下鉄道警察と鉄道警備隊の隊員たちが頷く。


 東で追い。


 中央で導き。


 西で帰路を塞ぐ。


 欲しいのは、番号札を掲げた機関車だけではない。


 第十三停車所で何を積み。


 誰を運び。


 どのように別の列車へ姿を変えるのか。


 その一連の事実だった。


「見たものだけを報告しろ」


 グレアムが言う。


「分からんものを、分かった顔で捕まえるな」


 配置図を畳もうとしたところへ、伝令の警官が駆け込んできた。


「警部。ノール監査官が監視場所から消えました」


 グレアムの手が止まる。


「逃げた時刻は」


「黒鴉館を出た直後に届いた報告です。ノールは逮捕者ではなく、任意の監視下でした。鉄道警備員へ監視交替を命じる伝送票が届き、現任者が待機室を離れましたが、後任は来ていません」


「伝送票は?」


「偽造です。確認できた数分の空白に、ノールが別口から退出しています」


 任意監視である以上、扉を施錠することはできなかった。


 偽の命令を送り。


 監視を一時的に空白にし。


 ノールを地下へ移動させた者がいる。


 運行局の外にも、協力者が残っていることになる。


「逃げた先が、この列車とは限らん」


 グレアムは言った。


「だが、来るものとして配置を続ける。全班へ人相を回せ」


「了解」


 別の足音が保守坑へ入ってきた。


 濃灰色の外套を着た特別監査官たち。


 その後ろに、黒い外套姿のエドガー=クラウスがいる。


「現場へ口を出すな」


 グレアムが先に言った。


「その予定はない」


 エドガーは短く答える。


「列車が第十三停車所へ入った合図で、夜間運行局、身分照合局、記録庁押収文書庫の原簿と伝送記録を同時に封鎖する。列車は君が止め、記録の逃げ道は私が止める」


 二人の役割は、それで終わった。


 グレアムは現場へ残り。


 エドガーの監査官たちは、地上の各部署へつながる伝送台へ散った。


 エレノアが地図を鞄へ収める。


「旧信号塔へ行きます。リナと、中央班の警官二名が一緒です。位置と操作予定は提出済み」


「勝手に動くな」


 グレアムが言う。


「確認を取ります」


「誰に」


「警部に」


 エレノアはエドガーを見なかった。


 兄が答えるより先に、旧信号塔へ続く階段を上がっていく。


 ミラベルはブラムとともに、第十三停車所の裏側へ通じる保守路へ向かった。


 一本の線路を。


 警察と記録庁が、それぞれ異なる方法で包囲していた。


     ◇


 旧中央信号塔の内部には、鉄と埃の匂いが籠もっていた。


 壁一面へ並ぶ赤、白、黒の操作梃子は塗装が剥げ、床下へ続く連動棒も錆びている。


 リナ=フォルクは蒸気灯の芯を絞り、片側式の通話器へ耳を当てた。


「東部班からです」


 エレノアが運行時計を見る。


「内容は?」


「第四六号、東部機関庫を出庫。午前零時十三分」


 胸の奥が一度、強く打った。


 だが、エレノアは黒鐘塔の記憶を追わず、操作盤へ目を戻した。


「車両の特徴は」


「短煙突。細型前照灯覆い。東部保守区の所属板。正面番号、四六」


 通話器の向こうから。


 東部班の警官が、机を指で叩く音が聞こえた。


 カタン。


 カタン。


 間を置いて。


 カタタン。


「車輪音も一致」


 リナが記録する。


 午前零時十三分。


 一台の機関車が、第四六号として出た。


 エレノアは白い操作梃子へ手を伸ばしかけたが、触れずに止めた。


「まだですね」


「まだよ」


 第十三停車所へ入れるための遠隔保守信号は、ノール側から送られる。


 警察が先に分岐を動かせば、列車は異常を察知して引き返す。


 必要なのは、早く捕らえることではない。


 列車が自ら隠された停車所へ入り。


 番号を替え。


 貨車を開く瞬間まで待つことだった。


     ◇


 第十三保守停車所へ続く裏側の管路は、人間が通るには狭すぎた。


 片側には地下水路。


 もう片側には煉瓦壁と蒸気管。


 先導する地下鉄道警官が覆い付きの携帯灯を持ち、ミラベルは手帳と時計だけを預かっている。


 ブラムは半歩前を進んだ。


 遅れれば止まり。


 ミラベルが追いつけば、再び歩き出す。


 低い鉄柵の前で、犬が身体を伏せた。


 三本ある横棒のうち、下側だけが歪んでいる。


 ブラムはその隙間へ大きな身体を滑り込ませた。


 首輪が鉄へ擦れた。


 これまで見つけた三本の傷の一つと、同じ高さだった。


「ここを毎夜通っていたんですね」


 ミラベルも膝をつき、鉄柵の下を潜った。


 外套へ煤が付く。


 その先で、狭かった管路が急に開けた。


 第十三保守停車所。


 壁へ残る白い設備番号。


 煤の下から浮かぶ、十三。


 旅客駅ではない。


 線路脇に短い作業足場。


 錆びた蒸気補給管。


 窓の割れた信号箱。


 奥には点検室、使われなくなった犬舎、古い救護室。


 二十一年前に閉鎖されたはずの施設だった。


 だが、足場には新しい靴跡がある。


 蒸気補給管の弁には新しい油。


 壁際の木箱には、


 番号札。


 前照灯の覆い。


 煙突へ巻く装飾輪。


 東部、中央、西部の所属板。


 列車を別のものへ見せる部品が、作業順に並べられていた。


 四六。


 十二。


 八。


 三枚の運行表にあった番号が。


 一台分の交換部品として、同じ停車所へ揃っている。


「これで十分でしょう」


 同行警官が囁く。


「交換部品の存在は確認できました」


 ミラベルは位置を記す。


「ですが、予備品だと言われる可能性があります」


「では、何を待つ」


 ミラベルは東の坑道を見る。


「実際に交換するところです」


 ブラムは作業足場の端へ伏せた。


 前脚へ顎を置く。


 主人の部屋でも。


 レオンの椅子の前でも見せた、待つ姿勢。


 ただし。


 いま見つめているのは、扉ではなかった。


 列車が現れる暗闇だった。


     ◇


 午前零時十六分。


 旧信号塔の操作盤で、黄色い灯が点いた。


「遠隔保守信号です」


 リナが言う。


 床下で、死んでいたはずの連動棒が動き始めた。


 第四六号を、第十三保守停車所へ導く切替である。


 エレノアは手を出さなかった。


 遠隔信号の目的も。


 警察の目的も。


 いまは同じだった。


「東部最終閉塞へ進入」


 リナが続ける。


「午前零時十八分」


 エレノアは時刻を書き込む。


 過去三夜の現認記録と同じだった。


     ◇


 最初に聞こえたのは、汽笛ではない。


 車輪の音だった。


 坑道の曲がり角から。


 鉄の軌条を伝い。


 足場の下から、腹の奥へ響いてくる。


 カタン。


 カタン。


 少し置いて。


 カタタン。


 ブラムが立ち上がった。


 黒い耳が前へ向き、鼻先が暗闇を捉える。


 ミラベルは懐中時計を見る。


 午前零時十九分。


「来ます」


 警官たちが足場の柱の陰へ入る。


 覆いを掛けた蒸気灯。


 警杖。


 拳銃。


 誰も音を立てない。


 東側の坑道へ、小さな黄色い光が現れた。


 ゆっくり大きくなる。


 短い煙突。


 細い前照灯覆い。


 東部保守区の所属板。


 正面の真鍮札には、


 四六。


 第四六号機関試験車が、地図に存在しない停車所へ入ってきた。


 後ろには貨車が三両。


 一両目には、曲がった軌条と廃材。


 二両目と三両目は、窓を板で塞がれた箱型貨車だった。


 機関車が作業足場の前へ止まる。


 白い蒸気が噴き出し、停車所を覆った。


 運転台から機関士が二人降りる。


 続いて。


 濃灰色の上着を着たゲルハルト=ノールが姿を現した。


 磨かれた靴。


 眼鏡の細い鎖。


 夜間運行監査官の銀章。


 任意監視から消えた男が。


 密輸列車の運転台に乗っている。


「三分遅れています」


 ノールは懐中時計を見た。


「照会が増えたため、東部で確認に手間取りました」


 作業員の一人が声を落とす。


「今夜は中止したほうが」


「中止すれば、疑いを認めることになります」


 ノールは箱型貨車を見た。


「経路を調べられた今夜は、積荷と記録の切替を私が確認します。予定どおり進めなさい」


 調査が始まったため。


 今夜だけは、部下へ任せられなかった。


 予定変更を判断し。


 必要なら積荷も記録も別の場所へ移すために。


 ノール自身が列車へ乗っていた。


 足場の奥から、四人の作業員が現れた。


 作業は迷いなく始まった。


 まず、細い前照灯覆いを外す。


 代わりに、丸い覆いを取り付ける。


 東部保守区の所属板を外し。


 中央保守区の板へ替える。


 続いて、正面の真鍮枠。


 白い文字の番号札。


 四六。


 留め金が上がる。


 札が引き抜かれる。


 代わりに差し込まれた数字は、


 十二。


 一台の機関車が。


 ミラベルの目の前で。


 第四六号から第十二号へ変わった。


 彼女は息を殺しながら時刻を書く。


 午前零時二十分。


 第四六号の番号札を撤去。


 第十二号を装着。


 前照灯覆い、所属板を交換。


 同一車台を継続して目視。


 番号札が存在することではない。


 札を掛け替えたあとも。


 同じ車輪。


 同じ軸受け。


 同じ車台がそこにあることを、人間の目で確認した。


 ノールは二両目の箱型貨車へ向かった。


 扉を拳で二度叩く。


 内側から錠が外された。


 板張りの扉が開く。


 最初に見えたのは、積荷ではなかった。


 人間の顔だった。


 狭い貨車の床へ、十数人が座っている。


 男。


 女。


 工員服を着た者。


 上等な外套の者。


 腕へ包帯を巻いた者。


 幼い子どもを抱く女。


 手首を縛られてはいない。


 それでも、外へ出ようとする者はいなかった。


 ノールは書類箱を開いた。


「中央区通行証を配ります」


 一人ずつ、薄い身分札を渡していく。


 名前。


 生年月日。


 職業。


 移動理由。


 正式な印章。


 一見すれば、正規の通行証だった。


 だが、別の箱には。


 名前の書かれていない身分証。


 記録庁の押収印がある封筒。


 削り取られた認識票。


 死亡記録の複写。


 何十枚もの通行証が、名簿順に束ねられている。


 ノールが一人の男へ札を渡した。


「西部へ到着したあとは、この名だけを使ってください」


「元の名前は」


「死亡記録へ移されています」


「私は死んでいない」


「記録上は」


 ノールは穏やかに訂正した。


「だから、正規の検問へ存在を知られずに運べるのです」


 ミラベルは男の顔を見た。


 見覚えがある。


 会ったことがあるのではない。


 新聞社へ送られた手配書の写真。


 数か月前、倉庫会社の金を持って消え、その後、運河事故で死亡したと報じられた会計係。


 古い写真だけでは断定できない。


 だが、左眉の傷まで一致している。


 もう一人。


 高価な外套を着た女。


 契約詐欺の取り調べ直前、宿泊先の火災で死亡したと記録された商会代理人に似ていた。


 遺体は焼け、所持品で身元を確認された。


 その女がいま、生きた手で別人の通行証を受け取っている。


「死者……」


 隣の警官が囁いた。


「まだ決めつけないで」


 ミラベルは低く制した。


 記録上死亡していることと。


 犯罪者であることは同じではない。


 罪から逃げるために、自ら名前を捨てた者もいるだろう。


 暴力的な契約から逃げた者。


 身分を奪われた者。


 負傷し、正規の病院へ入れなかった者。


 自分の意思で乗ったのではない者もいるかもしれない。


 この場で確定できるのは。


 死亡者名義の記録が使われていること。


 別人の身分証が配られていること。


 そして、死亡したとされる人物に似た者が、生きて貨車へいることだけだった。


 ノールが三両目を開ける。


 こちらには、人間より多くの書類が積まれていた。


 鉄の保管箱。


 封印を破られた押収文書。


 白紙の出生票。


 死亡認定済みの身分票。


 無記名の鉄道通行証。


 新しい人間を作るための紙と。


 古い人間を死なせるための紙。


 列車が運んでいたのは、乗客だけではない。


 人間を別の存在へ置き換える記録そのものだった。


 ノールは一冊の名簿を開き、通行証と人数を照合している。


 貨車。


 乗客。


 書類。


 番号交換。


 ノール本人による確認。


 必要な事実は揃った。


 ミラベルは携帯信号器を押した。


 細い金属音が、旧信号線を走った。


     ◇


 旧中央信号塔のベルが三度鳴る。


 リナが顔を上げた。


「停車所から確保信号」


 エレノアは白い梃子を握った。


「西部への進路を閉じます」


「中央指揮へ確認します」


 リナが通話器を回す。


 短い雑音。


『閉じろ』


 グレアムの声だった。


 エレノアは梃子を引いた。


 錆びた機構が抵抗する。


 足を踏ん張り、両腕へ力を込めた。


 床下の連動棒が、長く眠っていた鉄の声を上げる。


「西部分岐、停止側線へ転換!」


 階下の警官が報告する。


 続いて、東部班からも進路封鎖の連絡が届いた。


 第十三停車所は。


 一本の線路の中央で閉じられた。


     ◇


 停車所の東西から、短い警笛が三度鳴った。


 蒸気灯の覆いが、一斉に外される。


 白い光。


 市警の制服。


 鉄道警備隊の徽章。


「市警だ!」


 グレアムの怒声が、停車所を震わせた。


「機関車を止めろ! 工具を置け! 手を見える位置へ出せ!」


 作業員たちが動きを止める。


 一人が番号札を落とした。


 別の一人が走り出したが、東側から入った警官に取り押さえられる。


 箱型貨車の中で、乗客たちが立ち上がった。


「伏せろ!」


「外へ出るな!」


「武器を持つ者だけ、床へ置け!」


 警官が貨車へ入る。


 負傷者を先に外へ出し。


 書類箱の周囲へ証拠標識を置いた。


 窓板を蹴破ろうとした男は、ブラムの低い唸りを聞いて動きを止めた。


 犬は噛みつかない。


 ただ、貨車の出口を塞ぐように立っている。


 ミラベルが柱の陰から出る。


 グレアムが足場へ上がってきた。


「確認したか」


「四六号から十二号へ番号札、前照灯覆い、所属板を交換しました。同じ車台を継続して見ています」


「貨車は」


「偽造された身分証と、死亡記録の複写。記録上死亡している人物と思われる乗客が複数います」


「思われる?」


「顔の記憶との照合だけです。正式な身元確認が必要です」


「それでいい」


 グレアムは貨車へ向かう部下を呼び止めた。


「乗客は一人ずつ扱え。全員を犯罪者として拘束するな」


「逃亡者が含まれている可能性があります」


「被害者もいるかもしれん」


 グレアムは言った。


「本人の供述、死亡記録、手配記録を別々に照合しろ。名前を変えた理由を聞く前に、罪人の欄へ入れるな」


「了解」


 そのとき。


 停車所奥の保守扉が開いた。


 エドガーの特別監査官たちが入ってくる。


「確保信号と同時に」


 先頭の監査官が告げた。


「夜間運行局、中央記録庁押収文書庫、市民身分照合局、地下診療所管理室を封鎖しました。原簿、認証印、伝送記録を同時保全しています」


 現場ではグレアムが列車を止め。


 地上ではエドガーが記録の書き換えを止めた。


 ノール一人を捕らえても。


 死亡記録を作った者。


 身分票を発行した者。


 列車を通した者。


 偽の監視交替票を送った者。


 それぞれが記録を消せば、事件は再び分断される。


 エドガーが待っていたのは。


 列車が動き、協力者たちが自分の役目へ就く時刻だった。


「ノールは?」


 グレアムが周囲を見た。


 足場。


 貨車。


 書類箱。


 番号札の交換台。


 先ほどまでいた男の姿がない。


「運転台!」


 ミラベルが叫んだ。


 機関車の蒸気弁が開いた。


 耳を打つ噴出音。


 白い蒸気が足場を覆い、警官たちの視界を奪う。


 機関車と一両目の貨車の間で、連結器が外れる音がした。


 金属が落ちる。


 ノールは貨車を切り離した。


 人間も。


 偽造書類も。


 自分が運んできたものを、すべて停車所へ置き去りにする。


「退避!」


 グレアムが怒鳴った。


 機関車だけが動き出す。


 運転台の窓に、ノールの顔が見えた。


 もう穏やかな監査官の表情ではない。


 片手で加減弁を押し込み、もう一方で遠隔保守信号器を操作している。


 西側の信号は赤。


 停止側線へ進路が切り替わっている。


 それでも、ノールは減速しなかった。


「本線を開ける気だ!」


 グレアムが通話器を取る。


「旧信号塔! 遠隔信号が入るぞ!」


     ◇


 エレノアの前で、黄色い警告灯が点いた。


 床下の歯車が逆回転を始める。


 白い梃子が、強い力で元の位置へ戻ろうとした。


「ノールからの遠隔信号です!」


 リナが操作盤を見る。


「西部本線を開こうとしています!」


 エレノアは梃子を押さえた。


 鉄の棒が震え、腕へ重い力が掛かる。


『手を離せ!』


 通話器からグレアムの声が響く。


『腕を折れば、次の操作ができん!』


 エレノアは歯を食いしばった。


 それでも、命令に従って手を離す。


 白い梃子が跳ね戻り、固定枠へぶつかった。


 西部本線の信号が、赤から白へ変わる。


 塔の下から。


 機関車の音が近づいていた。


 カタン。


 カタン。


 ……カタタン。


 エレノアは黒い補助梃子を見た。


 旧貨物連絡線。


 これを引けば、ノールの機関車を西部本線から外せる。


 だが、その線路は二十一年間、通常運行へ使われていない。


 崩落していれば。


 機関車を捕らえるのではなく、乗っている男ごと破壊することになる。


 以前のエレノアなら。


 時間がないことを理由に、先に梃子を引いていたかもしれない。


 彼女は触れなかった。


「西部班へつないで」


 リナが通話器を切り替える。


「西部班。旧貨物連絡線の状態を報告してください」


 雑音の向こうから、測量士の声が返った。


『入口から旧資材置場まで、軌条を確認済み。崩落なし。終端の砂利層と車輪止めも残っています』


「進入させても、脱線や崩落の危険は?」


『通常速度なら問題なし。現在の速度では、砂利層へ乗り上げますが、本線へ出すより安全です』


 エレノアは中央指揮へつなぎ直した。


「警部。旧貨物連絡線は、旧資材置場まで通行可能。砂利終端と車輪止めがあります」


『確かか』


「西部班の測量士が現地確認済みです」


 前照灯の光が、塔の下の坑道へ現れた。


 時間はない。


 それでも。


 エレノアは梃子へ手を掛けず、返答を待った。


「旧貨物連絡線へ切り替えます。許可を」


 短い沈黙。


『やれ』


 グレアムの声。


 エレノアは黒い補助梃子を両手で握った。


「リナ。連動確認」


「旧貨物連絡線、異常なし」


「切り替えます」


 梃子を引く。


 錆びた歯車が噛み合う。


 床下を連動棒が走る。


 眼下の尖端軌条が動いた。


 白く開いていた西部本線が閉じ。


 旧貨物連絡線へ進路が切り替わる。


 ノールの機関車が分岐へ迫る。


 前照灯が揺れた。


 車輪が火花を散らす。


 機関車は大きく傾きながら、旧貨物連絡線へ吸い込まれた。


「転轍完了!」


 エレノアが通話器へ叫ぶ。


「ノールは旧資材置場方面へ進入!」


『西部班と追跡班を回す!』


 グレアムの返答。


 機関車の音が、塔の下から西へ遠ざかっていく。


 エレノアは梃子から手を離した。


 掌へ錆が付いている。


 それでも。


 今度は、誰にも知らせず線路を変えなかった。


     ◇


 第十三停車所では、追跡班が手押し車へ乗り込んでいた。


「西部班へ連絡! 旧貨物連絡線の出口を塞げ!」


 グレアムが命令を飛ばす。


 だが。


 ミラベルはその場を動かなかった。


 ブラムも。


 逃げた機関車を追わない。


 停車所の中央へ立ち。


 鼻を上げている。


「ブラム?」


 犬は西の坑道を見なかった。


 点検室。


 古い犬舎。


 蒸気補給管。


 奥の救護室。


 一つずつ、匂いを確かめている。


 主人から命じられた列車は、目の前を通った。


 番号札の交換も。


 隠された乗客も。


 人間たちは確認した。


 それでも。


 ブラムの仕事は終わっていなかった。


「警部」


 ミラベルが言う。


「私は、ここへ残ります」


 追跡車へ片足を掛けたグレアムが振り返った。


「ノールは」


「警部とエレノアが帰路を塞ぎました」


「まだ捕まえてはいない」


「ブラムが、まだ何かを確認しようとしています」


 黒い犬は、救護室の暗い扉へ向かった。


 グレアムは一瞬だけ迷った。


 逃走するノール。


 確保した貨車。


 記録上の死者たち。


 偽造された身分証。


 そして、事件をここまで導いた、証言できない一頭。


「二名残す」


 グレアムは部下を指した。


「停車所の捜索は、車両確保と別に記録しろ。何か見つけても、先に位置を残せ」


「分かりました」


「無茶はするな」


 ミラベルを見る。


「努力します」


「次にその答えを聞いたら、黒鴉館へ閉じ込めるぞ」


「その権限はありますか?」


「作る」


 グレアムは手押し車へ乗り込んだ。


 走行腕が動き。


 追跡班が、西の坑道へ消える。


 残された停車所には。


 押収された貨車。


 名を変えられた乗客。


 偽造記録。


 そして、主人を失った黒い犬がいた。


 ブラムは救護室の前で止まった。


 扉の下へ鼻を寄せる。


 ゆっくりと息を吸う。


 それから。


 ミラベルを振り返った。


 密輸列車は捕らえた。


 記録上の死者たちも。


 ようやく人間の目へ戻ってきた。


 だが。


 ブラムが帰ろうとしていた場所は。


 列車の中ではなかった。

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