第四話 東京タワー、開花
展望台の扉が、音もなく開いた。
エレベーターを降りた私の目の前に、普通の観光客用展望台――ではない空間が広がっていた。床には同心円状の溝が刻まれ、天井には無数の金属製のノズル。壁一面の窓ガラスが、東京の夜景を三百六十度抱え込んでいた。
「……これ、なんですか」
「大容量写し手の、緊急解放装置」
隼さんが壁際のコンソールに駆け寄った。
「ここから打ち上げれば、君の体内の二万発を、全部空に戻せる」
「戻したら、私、どうなるんですか」
「軽くなる。そして、しばらく写し手の能力は、休眠する」
「休眠?」
「能力が消えるわけじゃない。一年か、二年か――君の体が次の覚醒に備える期間だ」
一年か二年、普通のOLに戻れる。それは、私にとって、悪くない話のはずだった。
けど、なぜか、一瞬、寂しさが先に来た。
•
隼さんが、コンソールの蓋を開けた。中に、複雑な配線と、古い真鍮の鍵穴。まるで戦時中の通信機みたいな、時代錯誤な設計。
「……古そうですね」
「昭和二十年代に作られた装置だからな。火工庁ができた時、軍の地下施設から接収して、ここに移した」
「動くんですか」
「動く。ただし、起動に三分かかる」
隼さんが、胸ポケットから鍵を取り出した。その鍵を、鍵穴に差し込んだ。コンソールが、ぶうんと唸って、起動音を立て始めた。
三分。その間に、紫織里は、何もしない。隼さんが、コンソールを見守る。それだけで済めば、よかった。
•
エレベーターの扉が、また開いた。
誰も、乗っていないはずの時間に。
扉の奥から、黒いスーツの男が、歩いてきた。黒淵だった。
ただし、橋で別れた時と違っていた。右手に、銀色の吸光筒。左手にも、同じ吸光筒。両手に、二本。ネクタイが解かれていた。ワイシャツの胸元が、開いていた。
「――黒淵。あんた、二本目、いつの間に」
「本部から、届けてもらいました」
「強硬派の上層部が、本気で動いたってことか」
「はい。今夜中に三浦さんを確保せよ、とのご命令です」
黒淵の声は、やっぱり区役所の窓口みたいに事務的だった。でも、その事務的な冷たさの奥に、何か違うものが混じっていた。
「黒淵さん」
「はい」
「記憶処理、嘘でしたよね」
「嘘でしたね」
「私を、兵器にする気ですか」
「はい」
「……なんで、そんなことに加担するんですか。あなた、消し手ですよね。光を鎮める側の、人ですよね」
私が、なぜそんな質問をしたのか、分からなかった。ただ、聞かずにいられなかった。
黒淵は、ちょっとだけ、黙った。それから、ゆっくりと言った。
「三浦さん。私の妻は、十二年前、花火大会で死にました」
「……え」
「兵器化された術玉です。海外の組織が日本に仕掛けた、テロでした。普通の花火大会に、扇動紋様が紛れ込んでいた。観客の一部が錯乱し、将棋倒しが起きた。妻は、その下敷きになりました」
「……」
「私は、その日から、消し手になりました。光を吸う仕事に就いて、同じことが二度と起きないように、技を磨きました」
「じゃあ、なおさら、なんで」
「分かりませんか」
黒淵が、両手の吸光筒を、ゆっくりと構えた。
「敵が兵器を持つなら、こちらも持つ。それが、次の悲劇を防ぐ最短の道です。三浦さん、あなた一人を犠牲にすれば、日本の花火大会は、永遠に守られる」
「そんな、理屈」
「理屈、です。合理的な、理屈です」
私は、言葉を失った。黒淵の言うことは、間違っていないのかもしれないと、一瞬思った。
だから、怖かった。
•
「紫織里」
隼さんが、コンソールを見たまま、低く言った。
「三分で、装置が起動する。それまで、持たせろ」
「隼さんは?」
「装置の鍵は、途中で抜けない。俺は、ここから動けない」
「一人で、持たせるんですか」
「一人じゃない」
隼さんが、胸ポケットから、線香花火を一本、放り投げた。私は、両手でそれを受け取った。
「打ち手と写し手は、二人で一つ。お前が打ち手になれ」
「私、打ち手じゃ」
「お前の体内には、二万発の紋様がある。それは、全国の公認打ち手たちが、一年かけて作った玉だ。お前の中には、今、日本中の打ち手の技が、揃ってる」
「……」
「一発でいい。お前の中から、一番いいやつを、選んで撃て」
私は、線香花火を握りしめた。左手で、ジャケットのポケットから、いつも持ち歩いていたライターを出した。一度も使ったことのない、会社の先輩にもらった、銀の百円ライター。
線香花火の先端に、火を点けた。
ぽつ、と、蕾が灯った。
•
黒淵が、眉をひそめた。
「……三浦さん、線香花火?」
「隼さんに、借りました」
「写し手が、自分で花火を使っても、意味がありません。打ち手じゃないんですから」
「分かってます」
「では、なぜ」
「試したいから」
私は、蕾の線香花火を、床に向けて垂らした。ぽたり、と下に落ちかけた火花が、意外にも、そのまま私の指先に吸い込まれていった。
あ、と思った。
体内の二万発の紋様が、私の新しい火種を、感じ取っていた。線香花火の、微かな熱。けれど、それは確かに打ち手の火。
私の体の中で、二万発の中から、一発が自分で前に出た。
それは、紫の菊だった。東京湾花火大会のフィナーレで、一番最後に咲いた、一番大きな紫。
「――撃ちます」
私は、掌を黒淵に向けた。紫の菊が、掌の上で、ぐるぐると回り始めた。
直径、五メートル。部屋いっぱいの紫。
黒淵が、両手の吸光筒を構えた。紫の花弁が、彼の方へ飛んでいく。吸光筒が、光を吸い始めた。
でも、今回は違った。花弁が、消えなかった。
「……どうして」
「線香花火で、火種を足したからです」
私は、次の一発を、選んだ。今度は赤の牡丹。隼さんが橋で上げたのと同じ紋様が、二万発の中に保存されていた。
掌から、牡丹。黒淵の左手の筒を、弾いた。
私の体の中で、二万発が、次々と「撃って」と前に出てきた。青の柳、銀の柳、金の菊、紅の椰子、白の千輪。
撃って、撃って、撃って。黒淵は、二本の吸光筒を振り回しながら、一歩ずつ後ろに下がっていった。
•
コンソールのランプが、赤から緑に変わった。
「三分、経過!」
隼さんが叫んだ。
「紫織里、装置の中央の円に立て!」
「黒淵さんは!」
「俺が引き受ける!」
隼さんが、鍵を抜いて、胸ポケットに残った最後の一本を取り出した。ライターで、一気に火を点ける。蕾を飛ばして、牡丹、松葉、そして――
散り菊。
線香花火の、最終ステージ。
隼さんの指先から、無数の赤い花弁が、部屋全体に舞った。散り菊は、もはや花火ではなく、花びらの嵐だった。黒淵の吸光筒は、それを全部は吸い切れなかった。
私は、床の同心円の真ん中に、立った。天井のノズルが、一斉に私を取り囲んだ。
隼さんが、振り返った。
「紫織里、全部、出せ!」
私は、両手を夜空に突き上げた。窓ガラスの向こう、東京の夜景が、三百六十度、私を包んでいた。
見るな、と、もう誰も言わなかった。見て、いい夜だった。




