第五話 スターマイン・シンドローム
私は、両手を夜空に突き上げた。
体の中の二万発が、待ちかねたように、せり上がってきた。指の先、肩、首、髪の毛の一本一本まで、全身が光になっていく。熱くはなかった。むしろ、軽くなっていく。空っぽになっていく。
天井のノズルが、私の体内の光を、ゆっくりと吸い上げ始めた。それは、東京タワーの先端へと、誘導されていく。
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「――待ってください、三浦さん」
黒淵の声が、すぐ後ろで聞こえた。
散り菊の花弁の嵐の中、彼は左手の吸光筒を一本だけ残して、片膝をついていた。もう片方は、隼さんが叩き落としたらしい。床に転がっていた。
でも、黒淵の目は、まだ諦めていなかった。残った一本を、私の方に、向けていた。
「あなたの解放を、止めます」
「黒淵さん」
「あなた一人が、この国の安全と引き換えになる」
「私、聞きたいことがあるんです」
「……」
「奥さんが見たかった花火、ありますか」
黒淵の手が、止まった。
「……何を、言って」
「奥さんと一緒に、見たかった花火、あったんじゃないかって、思って。聞きたかったんです」
「……」
「私の体の中、今、二万発入ってるんです。もしかしたら、その中に、あるかもしれません」
私は、ノズルに吸い上げられていく光の流れを、ぐっと、押しとどめた。体内の光の中から、一発だけ、引き戻した。
何が出てくるか、分からなかった。ただ、黒淵が一番見たかった花火が、出てきてほしいと思った。
掌の上に、それは、咲いた。
直径二十センチの、小さな花火。青と、白の、二色の菊。
黒淵が、息を呑んだ。
「――婚礼の、菊」
「え?」
「妻と私が、結婚した日に、二人で見た花火です。式場の窓から、たまたま見えた、近所の小さな花火大会の……たぶん、無名の打ち手の」
黒淵の手から、吸光筒が、ぽとりと落ちた。彼は、立ち上がろうとして、できなかった。
私の掌の上で、青と白の菊が、ゆっくりと回り続けていた。
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「黒淵」
隼さんが、ゆっくりと近づいた。
「あんたの正義は、分かる。俺も、兵器化テロは絶対許せない。同じ気持ちだ」
「天神」
「でも、紫織里を兵器にしたら、奥さんが死んだ理由と、同じことを、俺たちがやる側になる」
「……」
「奥さんが見たかった花火を作るのは、紫織里じゃない。俺たちみたいな、打ち手の仕事だ。あんたが消し手として、見届けるべきだろう」
黒淵は、しばらく、答えなかった。
私は、掌の上の婚礼の菊を、そっと、彼の方に差し出した。
「これ、持って帰ってください」
「持って、帰る?」
「写し手は、写した玉を、人にあげることはできないんですけど。でも、見ててもらうことは、できます」
「……」
「この菊、私が解放するまでの間だけ、咲き続けます。よかったら、ずっと、見ててください」
黒淵は、震える手で、その菊に触れた。触れた指先が、光に包まれた。彼の頬を、何かが伝った。
散り菊の花弁が、彼の周りで、しずかに舞い続けていた。
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「紫織里、再開しろ!」
隼さんが叫んだ。
私は、ノズルに、再び光を流し始めた。二万発――いや、一万九千九百九十九発が、東京タワーの先端へ、吸い上げられていく。
残った一発、青と白の婚礼の菊だけは、黒淵の前で、静かに咲き続けていた。
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東京タワーの先端から、光が、空に放たれた。
最初の一発。紅の牡丹。直径百メートル。都心の夜空に、巨大な紅が、咲いた。
二発目。青の菊。三発目。金の柳。四発目、五発目、六発目。
ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ。
連射。スターマイン。一秒に十発、二十発、五十発。
都心の夜空が、見たこともない密度で、色に満ちていった。
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渋谷のスクランブル交差点で、信号待ちの群衆が、空を見上げていた。新宿のビル群の屋上で、残業帰りのサラリーマンが、煙草を持つ手を止めていた。葛西のマンションのベランダで、寝かしつけ前の母親が、子供を抱き上げて空を指していた。多摩川の河川敷で、深夜のランナーが、立ち止まって息を整えていた。
みんな、見ていた。都心から打ち上がる、季節外れの花火大会を。
「すげえ……」
「なに、これ、どこで上がってるの」
「東京タワーの方じゃない?」
「花火大会、今夜だっけ?」
「いや、東京湾のは、もう終わったはず」
「じゃあ、誰が」
「分かんない、けど――」
でも、みんな、嬉しそうだった。寒くもない夏の夜に、空が色で満ちている、それだけで、嬉しそうだった。
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二万発目。最後の一発が、東京タワーから打ち上がった。
紫の菊。直径二百メートル。都心の夜空が、紫一色に染まった。
その紫の花弁の中に、私は、自分の名前を、見た。
――紫織里。
母が、私につけた名前。母は知らないはずだった、私が将来、紫の菊を撃つことになるなんて。でも、母は、なぜか、紫を選んだ。
紫の光が、都心の夜空全体に、降りかかった。
私の体は、空っぽになった。力が抜けて、床に座り込んだ。
隼さんが、駆け寄ってきた。黒淵さんは、まだ膝をついたまま、夜空を見上げていた。彼の目の前で咲いていた小さな婚礼の菊も、最後のひと花弁を散らして、消えていった。
「……終わった?」
「終わった」
「黒淵さんは?」
「動かない。動かないってことは、戦う気がない、ってことだ」
隼さんが、私の隣に、座り込んだ。
「お疲れさん、紫織里」
「……隼さんも」
「打ち手と写し手の、最高のコンビネーションだったな」
「私、ただの事務員だったのに」
「もう、ただの事務員じゃない」
「うん、知ってる」
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翌朝、ニュース番組のコメンテーターが、画面の中で、首をかしげていた。
「気象庁の発表では、東京タワーで観測された未確認の発光現象、ということなんですが」
「未確認って、あれだけハッキリ花火に見えたのに?」
「ええ、原因は調査中、と。ただ、SNSの動画も、なぜか軒並み消えていまして」
「不思議ですねえ。でも、まあ……」
コメンテーターが、ちょっと笑った。
「まるで花火大会みたいで、きれいでしたよね」
リモコンで、私はテレビを消した。出社の時間だった。スーツを着て、化粧をして、玄関で靴を履こうとしたところで、スマホが鳴った。
知らない番号からの、ショートメッセージ。短い一文。
『また、花火が見たくなったら、連絡してくれ』
私は、ちょっと笑って、メッセージを保存した。
玄関を開けると、夏の朝の光が、目に入った。まぶしかった。でも、写さなかった。
私は、しばらく、写し手を、休む。それが、隼さんが言ってくれた、私への最大のプレゼントだった。
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蛇足だけれど、その夜から、一週間ほど経った頃。SNSに、ある写真がアップされた。
東京タワーの近くの公園で、一人の中年男性が、線香花火を一本、地面に向けて持っている写真。投稿者は知らない誰か。コメントには、こう書かれていた。
『ベンチで一人、線香花火やってるおじさんがいた。妙に絵になってたから、つい撮っちゃった』
写真の中で、線香花火の蕾が、ぽつりと、灯っていた。




