第五章 関門、降りられない乗客
関門海峡は、地図で見るより狭かった。
下関の岸から門司港を眺めると、向こう側の建物の灯りがすぐ近くに見える。手を伸ばせば届きそうで、もちろん届かない。海峡を渡る船は、潮の流れを読んで進む。橋もある。トンネルもある。けれど、水の上に立っていると、向こう岸はどこか別の時間にあるように見えた。
見えているのに、渡れない。
そういう場所が、世の中にはある。
僕は下関側の岸壁に立ち、対岸の灯りを見ながら、船長の声を思い出していた。
行った。
十年前、潮待ち航路は明石へ行った。
そして、誰かを降ろした。
悠真だったのか。もしそうなら、どこへ降ろしたのか。なぜ僕には何も知らされなかったのか。なぜ今になって、乗船券に「とおる」と浮かんだのか。
問いは増えるばかりで、答えはどこにもなかった。
仕事の出張としては、予定通りだった。下関と門司港を結ぶ周辺交通、観光航路、生活航路の聞き取り。関門には人の移動が多い。観光客も、通勤客も、荷物も、過去の記憶も、細い海峡を行き来する。
だが、僕は昼間の聞き取りにほとんど集中できなかった。
相手が話す数字や季節変動や利用者層を、手帳に写す。口はいつもの相づちを返す。けれど頭の奥では、ずっと明石の海が鳴っている。
午前中に訪ねた下関側の事務所では、古い航路図を見せられた。壁一面の地図に、青い線と赤い線が重なっている。現存する便。廃止された便。統合された便。季節便としてだけ残った便。海の上には、思っていたより多くの消えた道があった。
「ここは、船が多すぎるように見えるでしょう」
担当の男性は、地図の前で言った。
「でも、一本消えると、そこを使っていた人には全部消えるんです」
僕は手帳にそのまま書いた。
一本消えると、全部消える。
資料にするなら、「代替交通の有無」「利用者属性」「地域生活への影響」と書き換えるべきだろう。だが、その言葉に置き換えると、海峡の湿った匂いも、壁の地図の古いピン跡も、男性が指先でなぞった消えた航路の線も落ちてしまう。
午後には、門司港側で観光案内所の職員に話を聞いた。彼女は、観光客が増える季節と、地元の人だけが船を使う時間帯を分けて説明してくれた。最後に、少し迷ってから付け加えた。
「船って、使わない人には余分に見えるんです。でも、使う人には道なんですよ」
道。
その言葉を聞いたとき、僕は潮待ち航路の甲板を思い出した。
死者のための道。
生者が勝手に行き先を変えてはいけない道。
夕方、母からメッセージが来た。
電話、間違いでしたか。
昨日、呼び出し音を一度だけ鳴らして切ったことへの返事だった。
間違いではない。
そう打ちかけて、消した。
話したいことがある。
それも違う気がして消した。
結局、何も返さなかった。
夜になり、門司港側へ渡った。古い駅舎の明かりが、雨上がりの石畳に映っている。海沿いには観光客がまだ少し残っていたが、店が閉まり始めると、町の音は急に薄くなった。対岸の下関の灯りだけが、いつまでも近い。
駅舎の前で、父親らしい男が小さな女の子の手を引いていた。女の子は赤い長靴を履いて、石畳の水たまりをわざと踏んでいる。父親は何度か注意したが、最後には諦めて笑った。
僕はその光景から目を逸らした。
ただの親子だ。どこにでもいる。今夜の僕に関係はない。そう思おうとしても、赤い長靴だけが目に残った。
女の子が転びかけ、父親が慌てて手を引く。
その一瞬、胸の奥が冷えた。
間に合う手と、間に合わない手がある。
その違いは、たぶんほんの少しだ。
駅舎の中に戻ると、観光案内のカウンターはもう閉まっていた。パンフレットだけが棚に残り、関門海峡の夜景や、レトロな建物や、焼きカレーの写真が並んでいる。どれも明るい。ここに来る人間は、たぶん明るいものを見に来る。
僕は棚の端にあった古い地図を一枚手に取った。
下関と門司港の間に、細い水色の帯がある。地図の上では、海峡は指一本分の幅しかない。歩いて渡れそうに見える。だが実際には、潮が速く、船が通り、夜になれば向こう岸の灯りだけが近い。
近いのに、渡るには道が要る。
死者も同じなのかもしれない。
ただ向こうへ行けばいいわけではない。橋でも、トンネルでも、船でもない、本人にしか渡れない道がある。その道を間違えれば、たぶん霧になる。
そんなことを考えている自分に気づき、僕は地図を棚へ戻した。
仕事の資料ではなく、幽霊船の理屈で海峡を見ている。
もう、かなり手遅れだった。
駅舎の外へ出ると、雨上がりの空気が少し冷えていた。さっきの父娘はいない。水たまりに、赤い長靴の跡だけが残っていた。小さな足跡は、途中で父親の靴跡に重なり、それから駅のほうへ消えている。
僕はその跡を、しばらく見ていた。
悠真の足跡は、十年前の雨で全部消えた。
午前零時十九分。
僕は港の端で乗船券を取り出した。
行き先欄は空白だった。だが、紙は今までで一番冷たかった。指先の熱を吸い取るように、じっと濡れている。
零時二十分。
汽笛が鳴った。
関門の潮の音に混ざって、低く、長く。
霧は海峡の真ん中から湧いた。橋の明かりが霞み、対岸の灯りが滲む。その中から、潮待ち航路が現れた。船首の文字はいつもと同じようにかすれているのに、今夜はどこか暗く見えた。
甲板にはミオがいた。
竹ぼうきを持っていない。手すりにもたれ、こちらを見ている。顔色はよくない。三津浜の夜以来、彼女の中で何かがずれたままなのだと思った。
「乗るの」
「呼ばれた」
「呼ばれたからって、乗らなくてもいい」
初めて、ミオがそんなことを言った。
「君がそれを言うのか」
「今夜のあなた、変だから」
「いつも通りだ」
「嘘」
短く言われた。
船長が操舵室から出てきた。僕を見る目は、これまでよりも冷たい。
「案内人は、死者の行き先を決める者ではない」
「まだ何もしていません」
「する顔をしている」
反論しようとしたが、できなかった。
今夜の乗客は、船室の入口近くに立っていた。
五十代半ばくらいの男だった。濡れた作業着を着て、片手に小さな赤い靴を持っている。子どもの靴だ。布地は色褪せ、片方しかない。男はそれを、壊れやすいもののように両手で包んでいた。
靴のつま先には、乾いた泥のようなものがこびりついていた。死者の持ち物は、濡れているように見えても床を濡らさない。消えるはずのものが消えずに残る。その赤い靴だけは、船の灯りの下で妙に現実的だった。
男の髪からは海水が落ちていない。だが、作業着の袖口だけが重そうに垂れていた。何度も水の中に手を入れて、何かを探し続けた人間の袖だった。
「高瀬修二」
男は名乗った。
「娘を探しています」
その言葉に、身体が反応した。
探している。
僕も、ずっとそうだったのかもしれない。
死んだと受け入れたふりをしながら、心のどこかでは悠真を探している。明石の海に。古い汽笛に。潮待ち航路の霧の中に。
「娘さんの名前は」
「七海」
修二は靴を見つめたまま答えた。
「高瀬七海。八歳でした。門司港の祭りの日に、少し目を離した。人混みでいなくなって、それきりです」
修二の言葉に合わせるように、船室の窓の外で、遠い祭囃子のような音がした。
太鼓。笛。人の笑い声。屋台の油の匂い。夜店の赤い提灯。
現実の関門には、もうそんな音はない。だが修二の周りだけ、古い祭りの気配が滲んでいた。彼はそれに気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、赤い靴だけを見ていた。
「七海は綿あめが好きでした」
修二はぽつりと言った。
「買うと手がべたべたになるから、妻は嫌がった。私は、祭りの日くらいいいだろうと言った。何でも、祭りの日くらい、と言えば通ると思っていました」
祭りの日くらい。
夜の港を見に行くくらい。
十四歳の僕が使った「大丈夫」と、よく似た軽さだった。
ミオが乗船券を切った。
「年」
「五十六」
「職業」
「港湾作業員でした」
「行き先」
「七海のいるところ」
ミオの鉛筆が止まった。
乗船券の行き先欄に、文字が浮かぶ。
和布刈。
修二はそれを見た瞬間、首を振った。
「違う」
「船はそう言ってる」
「そこにはいない」
「行ったことあるの」
「何度も探した。あそこにはいない」
ミオは困ったように船長を見た。
船長は短く言った。
「降ろせ」
修二の顔が歪んだ。
「嫌です」
「行き先は出た」
「娘はそこにいない」
「おまえの言う娘が、そこにいないだけだ」
言い方があまりに冷たく聞こえた。
「船長」
僕は思わず口を挟んだ。
「探していると言っているんです」
「聞いた」
「なら、娘さんのいる場所へ」
「案内人」
船長の声が低くなった。
「死者本人の未練と、生者が見たい夢を混ぜるな」
「僕は生きています」
「だから危ない」
修二は僕を見た。縋るような目だった。
「あんた、探してくれるのか」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。
探したい。
それは修二の娘のことなのか、悠真のことなのか、自分でもわからなかった。
修二は、赤い靴を僕のほうへ差し出した。
「これだけ見つかったんです」
「片方だけ」
「ええ。祭りのあとで。港の端に落ちていた。人混みがひどくて、誰も見ていなかった。私は、あの子の手を離した覚えはないんです。ほんの少し、屋台の支払いをする間だけでした」
ほんの少し。
人は取り返しのつかない時間を、よくそう呼ぶ。
「七海は、赤い靴が好きでね。妻はすぐ汚れるからやめろと言った。私は、祭りの日くらい好きなのを履かせてやれと言った。その靴なんです」
修二の手の中で、赤い靴が少しだけ揺れた。
「七海は、靴を買った日、家の中でも履いていました。畳が汚れるから脱ぎなさいと妻が叱って、七海は泣いた。私は笑って見ていた。妻は、あなたはいつも甘やかすだけだと言った」
修二は目を閉じた。
「その言葉にも腹が立った。私は、娘に好かれたかったんです。父親らしいことなんて、何もできなかったから。仕事で遅い。休みの日は寝ている。学校の行事も妻任せ。祭りの日に赤い靴を履かせるくらいで、いい父親になれると思っていた」
修二の声は、淡々としていた。淡々としすぎていた。何度も同じ話を誰かに説明し、そのたびに肝心なところだけを避けてきた人の話し方だった。
「警察にも言いました。海にも入った。岸壁の下も、倉庫の裏も、何度も見た。門司も下関も、小倉も、博多も行った。似た子を見たと聞けば、どこへでも行った」
「何年」
僕が聞くと、修二は赤い靴を胸へ寄せた。
「死ぬまで」
その言葉に、僕は返事ができなかった。
死ぬまで探した人間に、探すなと言えるのか。
船長は言えるのだろう。潮待ち航路の船長として、死者を降ろすために言うのだろう。だが僕には、まだ言えなかった。言いたくなかった。
「行きましょう」
僕は言った。
「七海さんのいる場所へ」
ミオが息を呑んだ。
「だめ」
「なぜ」
「そういう言い方は、だめ」
「正しい場所へ連れていくんだろ」
「正しい場所は、もう出てる」
「本人が違うと言ってる」
「本人がいちばん嘘をつくって、知ってるでしょ」
知っている。
佐伯蓮も、家に帰りたいと嘘をついた。神林宗一も、謝りたいと嘘をついた。真鍋清造も、灯を消したと嘘をついた。
それでも。
探している人間に、探すなと言うことはできなかった。
「船長」
僕は操舵室のほうを向いた。
「進路を変えてください」
「断る」
「案内人が必要なんでしょう」
「案内人は、船を従わせる者ではない」
「でも、僕には聞こえた」
自分の声が熱を帯びていくのがわかった。
「汽笛が。十年前からずっと。なら、聞こえた分の役目があると言ったのはあなたです」
船長の目が細くなる。
「その役目を、自分の願いに使うな」
その一言が、逆に僕を動かした。
僕は修二の手を取った。赤い靴が、二人の手の間で冷たく潰れる。
「七海さんのいる場所へ」
言った瞬間、乗船券の文字が黒く滲んだ。
和布刈の三文字が潰れ、紙全体に墨を落としたような染みが広がる。船が大きく揺れた。関門の潮が逆巻き、霧が一気に濃くなる。対岸の灯りが消えた。
ミオが甲板に膝をついた。
「だから、だめって」
船長が操舵室へ駆け戻り、舵輪を握った。だが船は進まなかった。エンジン音のない船が、初めて何かに引っかかったように軋む。木の船腹が悲鳴を上げる。
客席の窓が次々に白く曇った。
そこに、顔が映った。
鞆の浦の志乃。牛窓の蓮。尾道の神林宗一。三津浜の真鍋清造。降りたはずの乗客たちの輪郭が、曇ったガラスの向こうに一瞬だけ浮かび、すぐに消える。船が彼らを呼び戻しているのではない。僕が、降りたはずのものを引きずり戻しているのだとわかった。
客席の忘れ物棚が音を立てた。
最初の夜に見た濡れた傘が床へ倒れる。守り袋の鈴が鳴る。誰かの学生鞄が、内側から押されたように膨らむ。船内に置いていかれたものたちが、持ち主の不安に反応しているようだった。
船長が操舵室から怒鳴る。
「目を閉じるな。見るなと言っているんじゃない。自分が何を曲げたか見ろ」
見たくなかった。
志乃はもう常夜灯へ戻らなくていいはずだった。蓮は玄関の灯りから解放されたはずだった。神林は娘の線を返した。真鍋は灯台の嘘を手放した。修二も、正しい場所へ降りるはずだった。
僕がそれを揺らしている。
僕が悠真を探すために。
客室の奥で、ランドセルが倒れた。
蓮が置いていったものだ。ふたが開き、中からノートが一冊滑り出す。濡れていないはずのページが、風もないのにめくれた。そこには、途中まで書かれた漢字練習が並んでいる。
帰。
帰。
帰。
同じ字が、何度も書かれていた。
僕は目を逸らせなかった。
次に、棚の上の写真立てが倒れた。最初にこの船でミオに触るなと言われたものだ。伏せられていた面がこちらを向く。ガラスは曇っていて、誰の顔かは見えない。ただ、写真の中に二人分の影があることだけがわかった。
船は、僕が触れなかった沈黙まで揺らしている。
「やめろ」
自分に言ったのか、船に言ったのか、わからなかった。
「じゃあ、戻して」
ミオの声がした。
彼女は甲板に片膝をつき、片手で床を押さえていた。床板の隙間から霧が滲んでいる。
「あなたが曲げたんだから、あなたが戻して」
「どうやって」
「修二さんを見る。悠真じゃなくて」
その言葉は、短くて、ひどく正しかった。
ミオの足元から、薄い霧がほどけるように流れた。
「ミオ」
彼女の指先が透けて見えた。
「だいじょうぶ」
声は少しも大丈夫ではなかった。
「案内人が行き先を曲げると、船が迷う。船が迷うと、降りた人の道まで揺れる。だから、だめなの」
「戻せ」
船長が怒鳴った。
「今すぐ、その手を離せ」
僕は修二の手を握ったままだった。赤い靴が、二人の間で潰れている。修二は目を見開き、霧の奥を見つめていた。
「何をした」
船長の声が飛ぶ。
喉が動かなかった。
霧の中から、子どもの声が聞こえた。
兄ちゃん。
全身の血が止まった。
修二が顔を上げる。
「七海?」
違う。
僕にはわかった。あれは七海ではない。
悠真だ。
霧の中で、祭囃子が止まった。
代わりに、雨の音がした。明石の雨。防波堤に叩きつける、細かくて冷たい雨。門司港の湿った石畳も、関門の潮の匂いも消え、僕の足元だけが十年前の防波堤になっていく。
手すりの木目が、濡れたコンクリートの感触に変わった気がした。
兄ちゃん。
声は、もう一度聞こえた。
僕は返事をしようとした。喉が動かない。口を開けば、悠真ではなく修二の娘の名を呼んでしまう気がした。誰の死者を呼ぼうとしているのか、自分でもわからなくなっていた。
霧の奥に、小さな影が見えた。防波堤の上に立つ少年。雨に濡れた髪。細い肩。こちらを向いているのに、顔だけが見えない。
兄ちゃん、もう。
僕は手すりを越えようとしていた。
ミオが叫んだ。
「透!」
初めて、彼女が名前を呼んだ。
次の瞬間、船長に襟首をつかまれ、甲板へ引き戻された。背中を強く打ち、息が詰まる。霧の中の影は消えた。
「降りれば戻れん」
船長の声は怒っていた。
「今のは悠真です」
「だから何だ」
「そこにいる」
「おまえが見たいものが、霧に映っただけだ」
「嘘だ」
「嘘でも、本当でも、今のおまえは見分けられん」
その言葉に、何も返せなかった。
修二は赤い靴を抱え、震えていた。
「七海は」
彼は呟いた。
「七海は、どこにいるんだ」
その声は、さっきまでよりずっと弱かった。
僕は彼を見た。
僕は修二を助けようとしていたのか。
違う。
修二の「娘を探している」という言葉に、自分の願いを重ねた。娘のいる場所へ行けるなら、弟のいる場所へも行けるかもしれない。そう思った。
死者の行き先を、生者の都合で決めた。
「すみません」
僕は修二に言った。
「あなたのためじゃなかった」
修二は僕を見た。
「僕は、弟を探したかっただけです」
言葉にすると、ひどく浅ましかった。
修二の目に、失望が浮かぶと思った。
だが彼は、ただ疲れたように瞬きをした。
「そうか」
それだけだった。
その短さが、かえって苦しかった。
「私も、そうです」
修二は言った。
「娘のためだと言いながら、私が娘を見つけたくなかった」
霧の中で、赤い靴だけが色を持っていた。
船の揺れが少しだけ収まる。霧はまだ濃いが、船腹の軋みは弱まった。
ミオが手すりにつかまりながら立ち上がる。
「修二さん」
彼女の声はかすれていた。
「七海ちゃん、本当に行方不明なの」
修二は赤い靴を握りしめた。
「そうだ」
「見つからなかったの」
「見つからなかった」
ミオは首を振った。
「靴、片方だけじゃない」
修二の顔が歪む。
「もう片方は」
「やめろ」
「どこ」
「やめてくれ」
修二は耳を塞いだ。
船長が静かに言った。
「見つかっていたんだな」
長い沈黙が落ちた。
霧の向こうで、潮が鳴っている。
修二はゆっくりと膝をついた。
「小さな身体でした」
彼は言った。
「警察に呼ばれて、見に行った。妻は泣いていた。私は、違うと言った。七海じゃない。うちの子じゃない。こんな冷たいところにいるはずがないって」
修二の声は、そこで一度途切れた。
「靴を見せられました。もう片方の靴です。濡れて、泥がついて、でも赤かった。私は、それでも違うと言った。妻が、私の腕をつかんで、もうやめてと言いました。七海がかわいそうだと」
彼は赤い靴を見下ろした。
「私は、そのとき妻を恨みました。諦めるのか、と。母親なのに、と。ひどいことを思った。あの人は、私より先に七海を見つけただけだったのに」
赤い靴を見つめる。
「でも、靴があった。片方は足に、片方は私の手に。妻は認めた。私は認めなかった。葬儀も、墓も、全部妻に任せた。私は探し続けた。探していれば、まだ死んでいないことにできた」
僕は赤い靴の皺だけを見ていた。
「妻は先に死にました。最後まで、私に墓へ来いと言った。私は行かなかった。墓へ行ったら、見つけたことになる。見つけたら、七海は本当に死んだことになる」
修二は、そこで初めて泣いた。
涙は落ちなかった。死者の涙は甲板を濡らさない。ただ、顔だけが歪む。
「妻の葬式にも、私は赤い靴を持っていった。七海を探しに行く途中だから、すぐ帰ると言った。何に帰るつもりだったんでしょうね。家にはもう誰もいないのに」
修二は作業着の胸ポケットに手を入れた。
出てきたのは、折り目だらけの小さな紙だった。水に濡れたはずなのに、文字だけは残っている。
「妻が最後に置いていったものです」
彼は紙を開いた。
そこには、短い字で書かれていた。
七海は、あなたを待っていません。
私も、もう待てません。
墓に来てください。
「怒っていました」
修二は言った。
「当たり前です。でも、私はこれを読んで、妻は冷たいと思った。娘を諦めろと言うのかと思った。そうじゃなかったんですね」
彼は紙を畳み直せず、震える指で何度も折り目をなぞった。
「妻は、私を墓へ連れていこうとしていた。七海がいない場所じゃなくて、七海がいると認めた場所へ」
修二は笑った。
泣くよりひどい顔だった。
紙の裏には、別の文字が薄く残っていた。
七海の好きだった歌、まだ覚えていますか。
それだけだった。
修二はしばらく、その裏面を見ていた。
「忘れていました」
彼は言った。
「探す場所ばかり覚えていて、あの子の声を忘れていた。歌も、笑い方も、寝る前に水を飲みたがることも。赤い靴だけ握って、あの子のことを覚えているつもりだった」
赤い靴は、修二の手の中で小さく歪んでいた。
「妻は、墓に来いと言ったんじゃないんです。七海の話をしろと言っていた。私はずっと、それを断っていた」
その言葉は、僕の中にも落ちた。
悠真の話を、僕はしていない。
母とも、父とも。悠真がどんなゲームを好きだったか、どんな声で笑ったか、宿題をどこでさぼったか、母に叱られたあとどんな顔をしたか。そういう話を、十年していない。
死んだ人間を忘れないために、名前を避ける。
それがどれほどおかしなことか、修二の赤い靴を見て初めてわかった。
「私は、娘を探していたんじゃない。見つけたことを、認めたくなかった」
乗船券の黒い染みが、少しずつ引いていく。
下から文字が戻った。
和布刈。
ミオが息を吐いた。
「戻った」
船長は舵輪から手を離さずに言った。
「案内人」
「はい」
「今度は、間違えるな」
船はゆっくり動き出した。霧が左右に割れ、関門橋の灯りが遠くに戻ってくる。和布刈の岸が近づく。夜明け前の空は、まだ青黒い。
港ではなく、小さな寺の裏手に着いた。
石段を上がると、墓地があった。海峡を見下ろす場所に、古い墓石が並んでいる。修二は船を降りることができた。最初の一歩に長い時間がかかったが、降りると足取りは意外なほどしっかりしていた。
僕とミオは少し離れてついていく。
墓地には、夜明け前の湿った草の匂いが満ちていた。遠くで車が橋を渡る音がする。関門の海は、ここから見ると穏やかだった。さっきまで船を止め、霧を呼び、声を返してきた海と同じものには見えない。
ミオは僕の隣を歩きながら、何度か自分の手を見ていた。
「まだ透けてるか」
僕が聞くと、彼女はすぐ手を後ろに隠した。
「見ないで」
「悪かった」
「ほんとに悪い」
短い言葉だったが、怒りよりも疲れが濃かった。
「さっき、降りた人たちが見えた」
僕は言った。
ミオは頷いた。
「見えたんじゃない。揺れたんだと思う。あなたが、降りた道を逆に引っ張ったから」
「僕のせいで」
「うん」
彼女は容赦なく言った。
「でも、戻った。まだ」
まだ。
その言葉が、ずっと残った。
石段の途中に、古い手水鉢があった。寺のものなのか、墓参りのために誰かが置いたものなのか、水面には朝の薄い光が浮いている。柄杓は一本だけで、持ち手の竹が割れていた。
修二はそこで足を止めた。
水を汲むでもなく、ただ手水鉢の縁に指を置いた。指先は石をすり抜けなかった。死者なのに、冷えた石に触れているように見えた。
「一度、ここまで来たことがある」
修二が言った。
「生きていたころです。妻が亡くなったあと、近所の人に場所を聞いた。夜に来た。昼間だと、誰かに会う気がして」
彼は手水鉢の中を見たまま、薄く笑った。
「この石段の下まで来て、戻りました」
「どうして」
「上がったら、墓があるからです」
当たり前のことを言う声だった。
「墓があれば、名前がある。名前があれば、七海はそこにいる。そうなるのが嫌だった」
手水鉢の水面に、修二の顔は映らなかった。僕とミオの影だけが揺れている。
「妻は、七海に黄色い花を供えていました。菊じゃなくて、店先にあるような小さい花です。七海が、菊はお葬式みたいで嫌だと言ったことがあって」
修二は眉を寄せた。
「私はそれを覚えていたのに、墓には来なかった。覚えていることを、探す理由にだけ使っていた」
墓地のほうから、花の匂いがかすかに流れてきた。潮と草の匂いに混ざると、それは少し苦かった。
僕は、悠真の好きだったものを思い出そうとした。
ゲーム。カレー。青いラムネ。夏休みの朝に見る再放送のアニメ。雨の日に履くのを嫌がった古い靴。
いくつかは出てくる。けれど、それを最後に誰かと話したのがいつなのかは思い出せない。
覚えているのに、話さない。
忘れたくないから、口に出さない。
そうやって、少しずつ輪郭だけを固くして、中身を薄くしてきたのかもしれない。
ミオが手水鉢を覗き込んだ。
「花、覚えてるなら、持ってくればよかったのに」
修二は苦笑した。
「死んでから言われると、こたえますね」
「生きてる人には、言いにくいことあるから」
ミオはそう言って、すぐに口を閉じた。自分でもなぜそんなことを言ったのかわからない顔をしていた。
船長は少し離れた場所で待っている。急かさない。止めもしない。死者が自分の足で墓へ向かう時間を、ただ黙って測っているようだった。
修二は手水鉢から手を離した。
「行きます」
その声は、さっきより少しだけ軽かった。
修二は一つの墓の前で止まった。
高瀬家之墓。
墓石の横に、小さな名前が二つ刻まれている。
七海。
その隣に、妻の名。
修二は赤い靴を墓前に置いた。片方だけの靴は、石の上でひどく小さく見えた。
墓前には、古い花立てがあった。花は枯れていない。誰かが今も来ているのだろう。修二の妻の親族か、近所の人か、それとも修二が生きているあいだに一度も訪ねなかった場所を、別の誰かが守っていたのか。
修二は、その花を長い時間見ていた。
「妻は、来ていたんですね」
「たぶん」
「一人で」
僕は答えなかった。
修二は墓石の前に膝をつき、赤い靴を両手で整えた。靴の向きに迷っているようだった。家に上がるときのように揃えるのか、どこかへ歩き出すように置くのか。
最後に彼は、つま先を海のほうへ向けた。
「七海」
彼は名前を呼んだ。
「見つけた」
声は震えていた。
「見つけていたのに、見つけないふりをして、すまなかった」
海峡を渡る風が、墓地の草を揺らす。
「もう、探さない」
その言葉を言うまでに、彼は長い時間をかけた。
「だから、行っていい」
赤い靴の色が、朝の光の中で少しだけ鮮やかになった。
修二の身体が透け始める。
彼は僕を振り返った。
「あんたも、探しているのか」
乗船券を握る指に力が入った。
「探すなとは言わん」
修二は言った。
「ただ、見つけたものまで、違うと言うな」
彼は少しだけ視線を下げた。
「私は、妻が泣いているのを見た。七海の名前が墓に刻まれているのも見た。赤い靴も見た。見つかっていたものは、いくらでもあった。それでも違うと言い続けた」
修二の輪郭が朝の光に薄れていく。
「見つけるより、認めるほうが怖いこともある」
その言葉を残して、彼は消えた。
墓前には、赤い靴だけが残っていた。
風が吹くと、靴の中に溜まっていた小さな砂がこぼれた。
修二が何十年も持ち歩いていたあいだに入り込んだ砂なのか、それとも七海が履いていた最後の日の砂なのかはわからない。赤い布地の内側から、さらさらと音を立てて石の上へ落ちる。
ミオがしゃがみ込み、その砂を指先でつついた。
「持っていかないんだ」
「誰が」
「修二さん」
確かに、靴は残っている。
櫛は消えた。蓮の髪留めは母親の手に残った。神林の絵葉書も美和の手に残った。航海日誌は沙也に渡った。赤い靴は、墓前にある。
「置いていったんだろ」
「うん」
ミオは頷いた。
「探すためのものじゃなくなったから」
その言葉が、ゆっくり胸に沈んだ。
探すためのもの。
僕にもある。乗船券。汽笛。十年前の記憶。悠真の名前。どれも、弟を探すためのものにしてきた。本当は、別の使い道があるのかもしれない。
「置いていけるかな」
思わず言うと、ミオがこちらを見た。
「何を」
「わからない」
「わからないなら、まだ無理」
彼女は立ち上がった。
「でも、何を持ってるか分かったら、少しは軽くなる」
ミオの言い方は、船長ほど冷たくない。だから余計に、逃げ場がなかった。
船へ戻ると、ミオはひどく疲れた顔をしていた。船長は舵輪の前に立っている。僕は甲板の白い爪痕に目を落とした。
船長が黙っていることに、初めて救われた気がした。
責められれば、謝れば済む。怒鳴られれば、うつむけば済む。けれど船長は、何も言わずに舵輪の前に立っていた。その沈黙の中で、僕は自分がしたことを自分で見ていなければならなかった。
修二を利用した。
娘を探している父親の未練を、自分の弟へ続く道に変えようとした。
それは、死者を悼むことではない。
死者を使うことだった。
甲板の板目に、僕の爪痕が残っていた。霧の中へ身を乗り出したとき、無意識に掴んだのだろう。木は湿っているのに、そこだけ乾いた白い筋になっている。
僕はしゃがみ、指でその筋をなぞった。
「消したほうがいいかな」
ミオは隣に立ったまま、僕を見下ろした。
「消えないよ。たぶん」
「船に悪い」
「船は怒らない」
「君は」
ミオは答えなかった。
しばらくして、彼女は船室から古い布巾を持ってきた。僕に渡すわけでもなく、自分で床を拭き始める。霧で濡れてもいない板を、何度も同じところだけ。
「ごめん」
僕が言うと、布巾の動きが止まった。
「謝るの、遅い」
「うん」
「でも、謝らないよりはいい」
ミオはそれだけ言って、また床を拭いた。
僕は別の布を探し、蓮のランドセルをもとの棚へ戻した。ノートのページは閉じても、表紙の端が少し曲がっている。直そうとして、やめた。完全にもとには戻らない。戻らないものを、戻ったことにするほうがよくない。
写真立てはまた伏せられていた。
ガラスの曇りの向こうに見えた二人分の影が、まぶたの裏に残っている。ひとりは小さく、ひとりは少し背が高かった。顔は見えない。けれど、ミオがそれを見るのを嫌がった理由だけは、前よりわかる気がした。
「触らないで」
背中越しにミオが言った。
「触らない」
「見るのも、今はだめ」
「わかった」
ミオは僕を疑うように見ていたが、やがて布巾を絞る真似だけして、船室の奥へ戻った。水桶などない。布巾も濡れていない。けれど、彼女はそうしなければ落ち着かないのだろう。
僕も同じだ。
何かを拭くふりをしていないと、自分の手が何を掴もうとしたのか、見ていられなかった。
潮待ち航路は関門の海へ戻った。
修二を降ろしたのだから、霧は晴れるはずだった。だが、海峡の中央に出ても、白い霧は薄くならなかった。むしろ船の周囲だけ濃くなっていく。
ミオが顔を上げた。
「まだ、いる」
「誰が」
聞く前に、声がした。
兄ちゃん。
今度は、はっきり聞こえた。
声は近くなかった。耳元ではない。海の底でもない。十年前の雨の中、少し先を歩いていた弟が、風に向かって呼んだときの距離だった。
兄ちゃん。
もう一度。
僕は手すりを握った。さっきのように越えようとはしなかった。足は震えていたが、動かなかった。動かせなかったのではない。今度は、自分で止めた。
船長が舵輪を握り直す。
僕の手の中で、乗船券が熱を持った。濡れているはずの紙が、火に近づけたように熱い。行き先欄に、黒ではなく白い文字が浮かぶ。
明石。
ミオがそれを見て、息を止めた。
「次が」
船長が言った。
「おまえの港だ」
僕は乗船券を握ったまま、しばらく返事ができなかった。
明石へ行けば、何かがわかる。
その期待は、まだあった。どうしようもなくあった。悠真に会えるかもしれない。声だけではなく、顔を見られるかもしれない。十年前の「あとで」の続きを聞けるかもしれない。
だが、もうひとつ別の恐怖もあった。
見つけたものまで、違うと言うな。
修二の言葉が、胸の中で重く沈んでいる。
明石で僕が見つけるものは、僕が欲しいものとは限らない。
それでも、船は進み始めていた。




