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瀬戸内幽霊航路  作者: うよし


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第六章 明石、夜明けの汽笛

 明石。


 乗船券に浮かんだ二文字を見た瞬間、海の音が遠くなった。


 関門の霧はまだ濃い。下関の灯りも、門司港の灯りも、橋の明かりも消えている。潮待ち航路はどこへ進んでいるのか、もう外を見てもわからなかった。船は夜の海ではなく、夜そのものの中を進んでいるようだった。


 明石。


 十年前から、僕の中で止まっている場所。


 悠真が消えた海。


 船長は操舵室で舵輪を握っていた。ミオは甲板の隅に座り、両膝を抱えている。関門の霧で消耗したのか、顔色が悪い。いつもの軽口はない。


「どれくらいで着く」


 僕が聞くと、船長は前を見たまま答えた。


「夜明けまでには」


「距離の話をしている」


「この船で距離を測るな」


 そう言われて、言い返せなかった。


 潮待ち航路は、ずっとそうだった。高松から鞆へ、牛窓から見知らぬ桟橋へ、尾道から島の工房へ、三津浜から灯台へ、関門から和布刈の墓地へ。地図の上の距離ではなく、未練の濃さに沿って進む船。


 なら、明石はどれほど遠いのだろう。


 僕にとって、そこは十年分遠い。


 船の窓の外に、これまでの港の灯りが浮かんでは消えた。


 鞆の浦の常夜灯。牛窓の青い屋根の家。尾道の坂道の赤い踏切。三津浜の小さな灯台。和布刈の墓地から見下ろす海峡。実際にそこを通っているわけではない。けれど、それぞれの場所で預かった言葉や物が、夜の海に小さな灯りのように残っている気がした。


 僕は、誰かの未練を終わらせてきたと思っていた。


 今なら、それが少し違うとわかる。


 終わらせたのではない。


 終わったことを、終わったものとして受け取る手伝いをしただけだ。櫛も、髪留めも、絵葉書も、航海日誌も、赤い靴も、誰かを過去から連れ戻したわけではない。ただ、過去がそこにあったことを、残された人の手に返した。


 僕はまだ、悠真を返してもらうつもりでいるのだろうか。


 そう考えると、手の中の乗船券が重くなった。


 船室の棚のものは、静かに収まっていた。蓮のランドセルも、神林の絵葉書も、真鍋の古い航海日誌も、それぞれの場所で眠っている。関門で揺れたあと、船は何もなかったような顔をしていた。


 けれど、よく見ると違った。


 ランドセルの肩紐は、前より少しだけねじれている。絵葉書の角には、薄い水染みのような跡が増えている。航海日誌の表紙には、灯台の砂が一粒だけ残っていた。戻ったものは戻ったが、揺れなかったことにはならない。


 僕は棚の前で足を止めた。


「さっき、ここに写真立てがあった」


 ミオの肩が小さく動いた。


「あるよ」


 彼女は視線を向けない。


 写真立ては、棚のいちばん奥で伏せられていた。木枠の角が欠け、裏板を留める金具が片方だけ錆びている。表を向ければ、また曇ったガラスの中に二人の影が見えるのだろう。


「君のものか」


「知らない」


「でも、触られたくない」


「知らないものでも、触られたくないものはある」


 ミオはそう言い、膝を抱え直した。


 船長が操舵室から出てきた。手には古い紙束を持っている。切符ではない。角の丸まった乗船名簿のようなものだった。紙は湿っていないのに、海の匂いがした。


「見せる気はない」


 僕が聞く前に、船長は言った。


「なら、なぜ持ってきたんです」


「おまえが見たがると思ったからだ」


「見せないのに」


「見たがるものを、全部見せればいいわけじゃない」


 船長は紙束を脇に置いた。表紙には、鉛筆でいくつもの線が引かれている。名前の欄は伏せられていたが、日付だけが見えた。


 十年前の七月。


 指先が冷える。


 その日付を見ただけで、僕の身体は勝手に雨の夜へ戻ろうとした。頭では、まだ何もわかっていない。そこに悠真の名前があるのかも、僕の名前があるのかも、ミオのことが書かれているのかもわからない。


 それでも、紙の端から水音がした気がした。


 ミオが小さく息を吸った。


「その名簿、嫌い」


「読んだことがあるのか」


「ない」


「なら」


「読めないのに、知ってる感じがする」


 彼女は自分のこめかみを押さえた。


「字を見ると、音がする。雨の音。誰かが泣く音。船長が、怒った声」


 船長の横顔は動かなかった。


 ミオは続けた。


「あと、男の子が言った。兄ちゃんに、って」


 僕は息を止めた。


「何を」


「そこから先は、ぐちゃぐちゃ。声が溶ける。海の音と混ざって、誰の声かわからなくなる」


 ミオの手が震えている。僕は近づこうとして、やめた。さっき謝ったばかりの手で、また彼女の記憶を掴みにいくわけにはいかなかった。


 船長は紙束を裏返した。


「この船に長くいれば、降ろした者の声が船底に溜まる。ミオはそれを聞きすぎた」


「それで忘れたんですか」


「忘れなければ、保たないこともある」


 説明ではなかった。言い訳でもなかった。ただ、古い傷の位置を指で示しただけのような声だった。


 僕は写真立てを見た。


 曇ったガラスの向こうにいる二つの影。


 悠真と誰か。


 あるいは、ミオと誰か。


 あるいは、そのどちらでもないもの。


 知りたいと思った。けれど今は、それをめくることが正しいとは思えなかった。


「明石で、わかりますか」


 僕が聞くと、船長はしばらく黙った。


「おまえが知りたいことの全部は、わからない」


「全部じゃなくていい」


「なら、見ろ」


 船長は前方の霧を見た。


「聞きたいことを聞くな。そこにいる者を見る。それだけだ」


「案内人」


 ミオが小さく呼んだ。


「なに」


「思い出したことがある」


 僕は彼女の隣にしゃがんだ。ミオは膝に額をつけたまま、こちらを見ない。


「十年前、男の子が乗ってた」


 息が止まる。


「濡れてた。髪も、服も、靴も。寒いって言わなかった。ずっと、兄ちゃんって呼んでた」


「名前は」


「言わなかった」


「悠真だったのか」


 ミオは首を振った。


「わからない。でも、今はわかる気がする」


「何を話した」


「あんまり話さなかった。子どもの乗客は、最初はたいてい帰りたがる。でも、その子は違った。帰りたいって言わなかった」


 ミオの声が震えた。


「兄ちゃんが来ちゃだめだって言ってた」


 胸の奥を強くつかまれた。


「兄ちゃんは来ちゃだめ。僕が先に行くからって」


 僕は手すりを握った。


 ミオは顔を上げた。目は赤くない。けれど泣いたあとみたいに、まぶたが重そうだった。


「その子、ずっと濡れたままだった。船に乗っても乾かなかった。寒いはずなのに、歯を鳴らさなかった。手だけ震えてた」


「悠真は、寒がりだった」


「うん。たぶん寒かった。でも、寒いって言わなかった。兄ちゃんに聞こえると困るからって」


 僕は息を吐けなかった。


「わたし、毛布を持ってきた。でも、かける前に船長に止められた」


「なぜ」


「生きていたときに戻そうとするなって。冷たいなら、冷たいまま降ろすしかないって」


 ひどい、と思った。


 ミオの膝の横に、見えない毛布の角が残っているように見えた。


 ミオは膝を抱え直した。


「でも、わたしは毛布を置いた。すぐ隣に。かけてない。置いただけ」


「悠真は」


「ありがとうって言った」


 僕は目を閉じた。


 知らなかった十年前が、船の上にあった。


 僕が防波堤で泣き叫び、母が名前を呼び、父が警察と話していた夜、悠真はこの船で濡れたまま座っていた。ミオが隣に毛布を置き、船長が舵を取り、汽笛が鳴った。


 胸の奥が詰まった。


 悠真の隣に毛布があったことまで、痛かった。


 十年前、僕は悠真を探した。警察も、海上保安部も、近所の人も、父も母も探した。見つからなかった。遺体がないから、母は今も死んだと認めない。僕は認めたふりをして、心のどこかで同じように探し続けていた。


 悠真は、僕が来ることを拒んでいたのか。


 それは、助けを求めなかったということではない。


 僕まで同じ場所へ来るなと言っていたのだ。


「どうして忘れてた」


 自分でも責める声になった。


 ミオは肩を縮めた。


「わからない。船に長くいると、乗せた人の顔が混ざる。降りた人は、降りた場所へ置いていかないといけない。全部持ったままだと、船が重くなるって船長が」


 船長の背中を見る。


「都合がいいな」


 僕は言った。


「忘れれば済むのか」


 船長は振り返らなかった。


「忘れなければ進めんこともある」


「残されたほうはどうする」


「残された者の痛みを、死者に背負わせるな」


 怒りが込み上げる。


「あなたは何度それを言うんですか」


「おまえが何度も間違えるからだ」


 操舵室の窓に、船長の横顔が映っている。疲れているように見えた。初めて、そう見えた。


「悠真を奪ったのか」


「死んだ者を奪うことはできん」


「じゃあ、何をした」


「降ろした」


「どこへ」


「本人が降りるべき場所へ」


「なぜ僕に知らせなかった」


 船長はようやくこちらを見た。


「知らせれば、おまえは乗った」


「当たり前だ」


「だから知らせなかった」


 その理屈は冷たすぎた。


 だが、関門の霧の中で、僕は確かに船を降りかけた。悠真の声が聞こえたというだけで、どこへ続くかもわからない霧の中へ身を投げようとした。


 十年前なら、もっと簡単にそうしただろう。


 いや、今でもした。


 船が大きく揺れた。


 霧の向こうに、光が見える。灯台ではない。街の灯りでもない。雨に濡れた防波堤を照らす、白いサーチライトのような光だった。


 明石の海が近づいていた。


 僕は甲板に立った。


 夜明け前の空は、まだ青黒い。けれど東の端だけが薄く白んでいる。海の向こうに、橋の灯りがかすかに見えた。記憶の中の明石より静かだった。十年前の夜は、もっと雨が強く、風が鳴っていた。


 それでも、匂いは同じだった。


 濡れたコンクリート、海藻、遠くの車道、どこかの船の油。十年たっても、港は同じ匂いを少しだけ残している。僕はその匂いを避けて生きてきた。仕事で港へ行くことはあっても、明石だけは理由をつけて外した。資料上の地名としてなら見られる。路線図の端なら見られる。けれど、実際の潮の匂いの中には立てなかった。


 今は逃げられない。


 潮待ち航路は、僕のためにここへ来た。


 それが怖かった。


 ここまで来ても、まだ怖いと思う自分に、少しだけ安心もした。怖くなくなっていたら、たぶん悠真に会う資格がない。


 でも、防波堤の形は同じだった。


 足元が冷える。


 雨の記憶が戻る。


 あの日、僕は十四歳だった。悠真は十二歳。母には、友達の家へ行くと言って出た。夜の港を見に行こうと言ったのは僕だ。悠真は嫌がった。ほんとは家にいたかったのだと思う。


 あの日の午後、悠真は台所で母の手伝いをしていた。野菜の皮をむくのが下手で、じゃがいもが不格好に小さくなっていく。僕はそれを笑った。悠真はむっとして、兄ちゃんだって家庭科の成績悪いじゃん、と言い返した。


 夕方、テレビで港の夜景が映った。


 僕はそれを見て、実物を見に行こうと言った。悠真は、雨が降るかもしれないよ、と言った。僕は、大丈夫だと答えた。十四歳の大丈夫には、何の根拠もない。


 母には、近所の友達の家へ行くと言った。


 悠真は玄関で靴を履きながら、何度も後ろを振り返っていた。今ならわかる。あれは、行きたくないという合図だった。僕は気づかなかった。気づかなかったのではなく、見なかった。


 兄ちゃん、ほんとは。


 悠真はそう言った。


 僕は振り向かずに、あとで聞く、と返した。


 あとで。


 そのあとで、雨が強くなった。防波堤の上は滑りやすかった。悠真が僕を呼んだ。振り返ったとき、弟の片足が空を踏んでいた。


 僕は手を伸ばした。


 届かなかった。


 そこから先を、僕はずっと思い出せなかった。


 いや、思い出さなかった。


 潮待ち航路が防波堤のそばに着いた。


 水面に桟橋はない。けれど、船から防波堤へ、濡れた板が一本渡されていた。船長が何も言わず、顎で示す。


「降りろということですか」


「おまえの港だ」


 ミオが立ち上がった。


「わたしも行く」


 船長は止めなかった。


 ミオは板の前で一度だけ足を止めた。


「怖いのか」


 僕が聞くと、彼女はむっとした顔をした。


「あなたほどじゃない」


「僕は怖がってない」


「嘘。さっきから右手だけずっと握ってる」


 言われて、自分の手を見た。乗船券を握っていたほうの手だ。もう切符はポケットにしまったのに、指だけが同じ形で固まっている。


「怖いなら怖いって言えばいいのに」


「言ったら何か変わるのか」


「少なくとも、わたしが少し安心する」


「なぜ」


「わたしだけ怖いんじゃないってわかるから」


 ミオは板の先を見た。


「ここ、嫌な感じがする。でも、嫌いじゃない。たぶん、誰かがちゃんと怖がった場所だから」


 意味は少し分からなかった。


 けれど、僕は頷いた。


「怖い」


 声に出すと、足元の板が少しだけ現実の重さを取り戻した。


 ミオは短く頷き、先に板へ足を乗せた。


 板は、見た目よりずっと細かった。古い渡し板に似ている。端に巻かれた縄はほつれ、釘の頭がいくつか浮いていた。けれど、足を置くと不思議なほど沈まない。


 ミオが一歩進むたび、板の下で水が鳴った。


 ちゃぷ、という軽い音ではない。防波堤の内側に溜まった雨水が、コンクリートの隙間で行き場をなくしているような、鈍い音だった。


 僕はその音を知っている。


 十年前、悠真が落ちたあと、僕は防波堤に這いつくばった。手のひらを擦りむきながら、下を覗き込んだ。海は黒く、雨粒だけが白かった。弟の姿は見えなかった。代わりに、コンクリートの割れ目を伝う水音だけが耳に残った。


 母の声より先に、その音を覚えている。


 父の怒鳴り声より先に、その音を覚えている。


 僕が最初に覚えてしまったのは、悠真の声ではなく、水がどこかへ逃げていく音だった。


「透」


 ミオが振り返った。


 僕は板の途中で止まっていた。足が動かない。足の裏が、板ではなく十年前の防波堤に貼りついている。


「大丈夫」


 そう言おうとして、言えなかった。


 ミオは戻ってこなかった。戻れば板が揺れると思ったのかもしれない。彼女は向こう側に立ったまま、片手だけを差し出した。


「ここまで来て」


「手、届かない」


「知ってる」


 ミオは短く言った。


「でも、出してる」


 僕は息を吐いた。


 届かない手。


 伸ばすだけの手。


 それに何の意味があるのか、十年間わからなかった。届かなかったなら、伸ばさなかったのと同じだと思っていた。


 けれど、ミオは届かない距離で手を出している。僕を引っ張ることはできない。僕の代わりに歩くこともできない。ただ、向こう側にいると知らせるためだけに、手を上げている。


 僕は板を踏んだ。


 一歩。


 水音がした。


 二歩。


 膝が震える。


 三歩目で、雨の匂いが濃くなった。背中で潮待ち航路が軋む。船長が何か言った気がしたが、言葉にはならない。


 板を渡りきると、ミオは手を下ろした。


「ほら」


「何が」


「来た」


 それだけのことのように言われて、僕はしばらく返事ができなかった。


 防波堤に立つと、靴の裏に雨の感触が戻った。今は雨など降っていないのに、コンクリートは濡れている。十年前の夜が、ここだけに残っているようだった。


 防波堤の先に、少年が立っていた。


 十二歳のままだった。


 濡れた髪。細い肩。少し大きいパーカー。僕のお下がりだった。袖が長くて、いつも手の甲が隠れていた。


 右の靴紐がほどけている。


 それを見た瞬間、息が止まった。


 悠真はよく右の靴紐だけをほどけさせた。結び方がゆるいのだと母に言われ、何度も結び直していた。僕はからかって、ほどけても転ばないから大丈夫だと言った。悠真は真面目に、転んだら痛いじゃん、と返した。


 そんな小さなことを、僕は忘れていた。


 忘れても生きていけることばかり覚えていて、本当に忘れたくなかったことを落としていた。


 悠真。


 名前を呼ぼうとして、声が出なかった。


 少年は振り返った。


「兄ちゃん」


 十年分の時間が、ひとつの声で崩れた。


 僕は走り出していた。ミオが何か叫んだ気がする。船長の声も聞こえた気がする。でも止まれなかった。


 悠真の前で膝をつく。


 手を伸ばす。


 触れられないと思った。これまでの死者たちは、物を残したり、言葉を預けたりはしたが、生きている人間と同じようには触れられなかった。


 けれど、悠真の手はそこにあった。


 冷たかった。


「ごめん」


 最初に出た言葉は、それだった。


「ごめん、悠真。僕が連れていった。僕が、あとでって言った。僕が」


「兄ちゃん」


 悠真は困ったように笑った。


 昔と同じ顔だった。ゲームで負けたときや、母に怒られたときや、僕が無茶を言ったときにする顔。


「それ、ずっと言ってたの」


「言うに決まってる」


「長いよ」


 その言い方があまりに悠真で、胸が痛くなった。


「兄ちゃんのせいじゃない」


 聞きたかった言葉だった。


 十年間、誰かにそう言ってほしかった。母でも、父でも、警察でも、海でもいい。おまえのせいじゃない、と。


 でも、悠真の口から聞いても、救われなかった。


 救われたいと思っていた自分に、腹が立った。


「それを言われたら、僕が楽になる」


 僕は言った。


 悠真は首を傾げた。


「楽になっちゃだめなの」


「わからない」


 正直に言うと、悠真は少し笑った。


「兄ちゃん、そういうところ変わってない」


「どこ」


「わからないのに、わかったふりするところ」


 ひどいことを言う。


 でも、悠真らしかった。


「僕、兄ちゃんを許しに来たんじゃないよ」


「じゃあ」


「許すとか、許さないとか、僕よくわかんない。あのとき怖かったし、兄ちゃんに腹も立った。帰りたいって言ったら、きっと兄ちゃんは嫌な顔すると思った」


 胸の奥が痛んだ。


「したと思う」


「うん。すると思った」


 悠真は少し得意そうに言った。


「でも、兄ちゃんは手を伸ばした。そこも覚えてる。怖かったのと、腹が立ったのと、手を伸ばしてくれたのと、全部ある」


 全部ある。


 その言葉は、真鍋清造の「面倒な話」と同じ場所に落ちた。


 僕はずっと、ひとつの答えがほしかった。


 僕のせいなのか。僕のせいではないのか。悠真は怒っているのか。許しているのか。母は待っているのか。諦めているのか。


 でも、たぶん全部ある。


 生きている人間も、死んだ人間も、ひとつの答えだけではできていない。


「それを言いに来たのか」


 僕は聞いた。


 悠真は首を振った。


「それだけなら、もっと早く言えたと思う」


「じゃあ、何を」


「兄ちゃん、僕を使って止まってる」


 言葉が刺さった。


 十二歳の弟に言わせるには、あまりに重い言葉だった。けれど、悠真は大人びた顔をしていなかった。ただ、ずっと言えなかったことを、やっと口にしている子どもの顔だった。


「僕が死んだから、会社も家族も、自分のことも、全部あとでにしてる」


「そんなこと」


「してるよ」


 悠真は防波堤の向こうの海を見た。


「母さんの電話、出てないでしょ」


 僕は黙った。


「父さんとも話してない。僕の部屋、まだあるんだよ。兄ちゃん、帰ってこないから、母さん一人で片づけられない」


「見たのか」


「見たっていうか、わかる」


「ずるいな」


「死んだ弟だから」


 弟は胸を張った。


「父さん、僕の机の上にある電池の切れた時計、ずっと直そうとしてる。でも直してない。直したら時間が動くから、嫌なんだと思う」


 父の顔が浮かんだ。


 黙っている父。葬式のない十年前、警察署の廊下で自販機の缶コーヒーを握り潰していた父。僕を責めなかった父。責めないことで、何かを押し殺した父。


 父の沈黙を、僕は罰として数えていた。


「母さんは、おまえが帰ってくると思ってる」


「うん」


 悠真は頷いた。


「でも、兄ちゃんも同じだよ」


 違う、と言いたかった。


 僕は悠真が死んだことを認めている。命日も知っている。警察の記録も、事故の書類も、全部見た。


 潮待ち航路に乗ってからの僕は、霧の中に、乗船券の文字に、ミオの記憶に、船長の沈黙に、ずっと悠真を探していた。


 母の待ち方を、違う顔でなぞっていた。


「あのとき」


 僕はようやく言った。


「何を言おうとしたんだ」


 兄ちゃん、ほんとは。


 その続き。


 悠真は少し恥ずかしそうに目を逸らした。


「帰りたいって言おうとした」


 胸の中で、何かが割れた。


「海、怖かった。雨も強くなってきたし、母さんに怒られると思ったし。でも兄ちゃん、楽しそうだったから」


「言えばよかった」


「うん」


「聞けばよかった」


「うん」


 悠真は僕を責めなかった。


 責めないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


「僕、兄ちゃんのこと嫌いになってないよ」


 悠真が言った。


 その言葉を聞いた瞬間、僕は首を振っていた。


「そういうことを言わせたいわけじゃない」


「知ってる」


「じゃあ、言うな」


「でも、言わないと兄ちゃん、ずっと勝手に嫌われてることにするでしょ」


 十二歳の弟に図星を指されて、何も返せなかった。


 僕はずっと、悠真に嫌われていることにしていた。憎まれていることにしていた。そうすれば、自分を責めるだけで済む。家にも、電話にも、父の沈黙にも近づかなくていい。


 握っていた悠真の手が、さっきより冷たく感じた。


「ずるいな」


 僕が言うと、悠真は少し目を丸くした。


「僕が?」


「いや、僕が」


 悠真は困ったように笑った。


「兄ちゃん、昔からそういうとこある」


「どこ」


「自分で決めて、自分で怒って、自分で落ち込む」


「そんなにひどかったか」


「ひどかった」


 即答だった。


 涙が出ているのに、笑いそうになった。死者になっても、悠真は必要以上に優しい弟にはならなかった。昔のまま、少し遠慮がちで、言うときは妙に容赦がない。


「だから、僕も言えなかった」


 悠真はほどけた靴紐を見下ろした。


「帰りたいって言ったら、兄ちゃんがつまらなそうな顔すると思った。怒るかもしれないと思った。母さんに嘘ついたのも怖かったけど、兄ちゃんに嫌われるほうが怖かった」


 その言葉は、刃物のようには刺さらなかった。


 もっと小さい。


 針の先で何度も同じところを突かれるような痛みだった。


「ごめん」


「うん」


「それは、僕が悪い」


「うん」


 悠真は否定しなかった。


 否定されない謝罪は、逃げ場がなかった。


 僕は濡れた袖口を握りしめた。


「でも、海に落ちたのは」


「うん」


 悠真は僕の言葉を待った。


 僕は喉の奥に残っていた固いものを、ゆっくり飲み込んだ。


「僕が全部やったことじゃない」


 声に出すと、足元の雨が弱くなった。


 悠真は頷いた。


「うん」


「兄ちゃんは手を伸ばしたよ」


 悠真が言った。


「覚えてる?」


「届かなかった」


「でも、伸ばした」


 それは慰めではなかった。事実だった。


 僕は悠真を連れ出した。言葉をあと回しにした。手は届かなかった。どれも消えない。


 消えないまま、雨の中に置かれている。


 真鍋清造の言葉が戻ってくる。


 罪は、背負えばよいというものではありません。


 背負うふりをして、死んだ者に自分を背負わせることがある。


 悠真の小さな肩に、十年分の僕が乗っていた。


 船のほうで、汽笛が鳴った。


 夜明けが近い。


 悠真の身体が、朝の光に透け始めた。僕は反射的に手を強く握った。今度は離したくなかった。


 悠真が痛そうに顔をしかめた。


「兄ちゃん」


「待て」


「だめだよ」


「まだ話してないことがある」


「いっぱいあるよ」


「じゃあ」


「でも、もう行く」


 悠真は海のほうを見た。


 防波堤の先に、小さな桟橋が現れていた。どこの港でもない。蓮が降りた桟橋に似ていた。けれど、そこには朝の光が満ちている。


 僕は首を振った。


「行くな」


 言った瞬間、背後で船が軋んだ。


 潮待ち航路が止まりかけている。木の船腹が重い音を立てる。ミオが船と防波堤の間で苦しそうに膝をついた。


「透」


 ミオが言った。


「引き留めたら、だめ」


「わかってる」


 わかっていなかった。


 わかっているつもりで、少しもできていなかった。


 志乃は、待たなくていいと伝えに来た。蓮は、玄関の灯りを消すために来た。神林宗一は、許しではなく線を返しに来た。真鍋清造は、わかりやすい罪を手放しに来た。高瀬修二は、探すのをやめるために来た。


 みんな、戻るために乗ったのではない。


 降りるために乗った。


 悠真も同じだ。


 僕は弟の手を握ったまま、泣いていた。


「兄ちゃん」


 悠真の声は優しかった。


「僕、帰ってこないよ」


 その言葉を、母にはまだ言えない。


 父にも言えない。


 自分にも、ずっと言えなかった。


 けれど、ここで僕が言わなければ、悠真はまた僕を背負う。


 僕は手を離した。


 指が冷たくなる。


「悠真」


 声が掠れた。


「もう、帰ってこなくていい」


 悠真は少しだけ目を見開いた。


「行っていい」


 言えたのは、それだけだった。


 悠真は笑った。


 十年前のままの、少し照れたような笑い方だった。


「うん」


 彼は防波堤の先へ歩き出した。


 途中で一度だけ振り返る。


「兄ちゃん」


「なに」


「母さんに、怒られて」


 こんなときに何を言うのかと思った。


「ちゃんと怒られて。それで、ご飯食べて」


 涙の中で、笑いそうになった。


「父さんにも?」


「父さんは、たぶん黙ってる」


「そうだな」


「でも、隣に座ってあげて」


 悠真は少し考えてから、袖の中に隠れていた手を出した。


「あと、僕の机」


「机?」


「引き出しの奥に、兄ちゃんのキーホルダー入ってる」


「僕の?」


「うん。勝手に借りた」


 思い出せなかった。


「ゲームセンターで取ったやつ。青い船の」


 そこでようやく、記憶が戻った。安っぽいプラスチックの船のキーホルダー。僕はすぐに飽きて、机の上に放っておいた。悠真が欲しそうに見ていた気がする。


「返そうと思ってた」


 悠真は言った。


「でも、怒られると思って言えなかった」


「そんなことで怒らない」


「怒るよ。兄ちゃん、あのころすぐ怒った」


 否定できなかった。


「母さんが机を片づけたら、出てくると思う。泥棒って言わないで」


「言わない」


「父さんには言っていい。たぶん笑う」


 父が笑うところを、僕はうまく想像できなかった。


 でも、見たいと思った。


「それも、話す」


「うん」


 悠真は満足そうに頷いた。


 大きな真実だけが、残された人間を動かすわけではない。青い船のキーホルダーみたいな、どうでもいいもののほうが、閉じた部屋の空気を動かすこともあるのだと思った。


 悠真はそう言って、桟橋へ降りた。


 朝の光が強くなる。


 弟の姿は、その中に溶けるように薄れていった。最後まで手は振らなかった。子どものころから、悠真は別れ際に手を振るのが苦手だった。振ると泣きそうになるからだと、一度だけ言っていた。


 だから僕も、手を振らなかった。


 ただ、そこに立って見送った。


 汽笛が鳴った。


 低く、長い音。


 十年前、僕が聞いた音。


 悠真を奪った音だと思っていた。


 違った。


 見送るための音だった。


 気がつくと、僕は潮待ち航路の甲板に戻っていた。どう戻ったのかは覚えていない。ミオが隣に座っている。彼女の頬にも、涙のようなものが光っていた。


「ごめん」


 ミオが言った。


「何が」


「忘れてた。悠真のこと」


 僕は首を振った。


「思い出してくれた」


「でも」


「それでいい」


 ミオは不満そうに唇を噛んだ。


「案内人のくせに、死者みたいなこと言う」


「君の影響だ」


「最悪」


 その言い方がいつものミオに少し戻っていて、僕は息を吐いた。


 船長が近づいてきた。


 僕は立ち上がる。


「まだ、納得はしていません」


「しなくていい」


「あなたが十年前に何をしたのかも、全部わかったわけじゃない」


「全部わかれば見送れる、というものではない」


 船長は海を見た。


「残された者は、わからないものを抱えて生きる。だから厄介で、だから生きている」


 反論はできなかった。


「ミオは」


 僕は彼女を見る。


「いつか降りるんですか」


 ミオが目を逸らした。


 船長は答えた。


「本人が行き先を思い出せばな」


「三津浜ですか」


「それも、答えの一部だ」


 ミオは顔をしかめた。


「勝手に謎っぽくしないで」


「事実だ」


「むかつく」


 船長は初めて、少しだけ笑ったように見えた。


 潮待ち航路は明石の港へ近づいた。現実の朝が戻ってくる。漁船のエンジン音、遠くの車の音、鳥の声。船が桟橋に着くと、僕のポケットの乗船券が軽くなった。


 取り出すと、紙は乾いていた。


 初めてだった。


 行き先欄にはもう何もない。久坂透の名前も、年齢も、職業も薄くなっている。濡れた厚紙ではなく、ただの古い切符になりかけていた。


「これで終わりですか」


 僕が聞くと、ミオが肩をすくめた。


「終わった人には終わり」


「僕は」


「生きてる人は続く」


 それは、祝福というより面倒な宣告だった。


 桟橋に降りる。


 振り返ると、潮待ち航路は霧の中にいた。船長が操舵室へ戻り、ミオが舷側からこちらを見ている。


「案内人」


 ミオが呼んだ。


「もう呼ばれないことを祈ってる」


「僕もだ」


「でも、もし聞こえたら」


「乗るかどうかは考える」


「そこは乗るって言うところでしょ」


 僕は少し笑った。


「考える」


 ミオは呆れた顔をした。


 船長が汽笛を鳴らす。


 短い音だった。


 潮待ち航路は朝の霧の中へ消えた。


 明石の港には、現実の時間が戻っていた。時刻表は始発便を表示している。午前零時二十分の潮待ち航路など、どこにもない。スマートフォンの電波も戻っていた。


 母からのメッセージが、一件残っている。


 電話、間違いでしたか。


 僕は画面を見つめた。


 発信ボタンを押す。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。二回。


 今度は切らなかった。


「もしもし」


 母の声がした。


 十年分、老けた声だった。けれど、母の声だった。


 言葉を探す間、港の風が頬を冷やした。朝の海が、何事もなかったように光っている。


「透?」


「うん」


「どうしたの」


 責める声ではなかった。


 それが苦しかった。


「今日、帰る」


 僕は言った。


 電話の向こうで、母が息を止めたのがわかった。


「仕事は」


「あとで連絡する」


 あとで。


 あとで、という音が口の中に残った。


「いや、違う。会社には今から連絡する。昼過ぎには帰れると思う」


「そう」


 母の声が震えていた。


「悠真の話をしよう」


 長い沈黙があった。


 僕は続けた。


「帰ってきたわけじゃない」


 その言葉を言うのに、喉が痛んだ。


「でも、話したいことがある」


 電話の向こうで、母が小さく泣いた。


 泣かせた。


 その事実から逃げずに、僕は立っていた。


「待ってる」


 母はそれだけ言った。


「父さんは」


 僕は聞いた。


 電話の向こうで、少し物音がした。母が受話器を持ち替えたのかもしれない。


「いるわよ」


「今日、仕事は」


「休み。朝から、悠真の時計を触ってる」


 僕は目を閉じた。


 悠真が言った通りだった。


「まだ、直してないの」


「直す気はあるみたい」


 母は、泣きながら少し笑った。


「ずっとね」


 僕は港のベンチに座り込んだ。足に力が入らなかった。父がずっと時計を直そうとしていたことを、僕は知らなかった。知らないままでいることを選んでいた。


「母さん」


「なに」


「僕、怒られに帰るのかもしれない」


 母は黙った。


「怒れるかどうか、わからない」


「うん」


「でも、話す」


 電話の向こうで、母が息を吸う音がした。


「ご飯、炊いておく」


 その一言で、胸が詰まった。


「うん」


「透」


「うん」


「気をつけて帰ってきなさい」


 帰ってきなさい。


 その言葉を、僕は十年ぶりにまともに受け取った気がした。


 通話を切ったあと、僕は会社へ連絡した。体調不良でも、出張延期でもなく、実家へ戻る必要があると伝えた。村瀬課長は少し黙り、わかった、と言った。


「資料は」


 僕が言うと、課長はいつもの調子で返した。


「戻ってからでいい。倒れられると困る」


 困る。


 僕はスマートフォンを耳から離してからも、しばらく画面を見ていた。


 明石駅へ向かう電車の中で、僕は鞄から廃止航路の資料を取り出した。赤字、補助金、乗船率。数字は必要だ。数字がなければ、何も決められない。


 それでも、数字だけでは、何を失うのかがわからない。


 僕は余白に書き込んだ。


 船は、人を運ぶだけではない。


 通院。通学。墓参り。帰省。謝罪。受け取り。見送り。


 資料としては、整っていない言葉だった。会議でそのまま通るとは思えない。だから、その下に具体的な項目を書き足す。


 代替交通があっても、移動時間が倍になる利用者。


 通院日の朝便を利用する高齢者。


 学校行事や部活動で最終便に間に合わない学生。


 墓参、法事、盆正月の帰省。


 船がなくなることで、家族内の役割が変わる世帯。


 ページの端に、乾いた乗船券を挟む。


 ただの古い切符になったそれには、もう潮の匂いはほとんど残っていない。


 書きながら、僕はそれぞれの顔を思い出していた。志乃を知っていた女性、蓮の母、美和、沙也、修二。彼らの話は会議資料には入らない。入れるべきではない話もある。死者の船のことなど、誰にも説明できない。


 それでも、現実の航路を閉じるなら、現実の人間の時間を閉じることになる。


 その重さだけは、資料から落としたくなかった。


 電車の窓に、自分の顔が映っている。


 十年前より大人になった顔。


 けれど、明石の防波堤で泣いていた十四歳の自分も、まだその奥にいた。


 僕はスマートフォンを開き、父宛てのメッセージ画面を出した。何を書けばいいかわからない。父とは、短い事務連絡しかしてこなかった。帰る。今日。悠真の話をする。どれも違う気がした。


 結局、こう打った。


 時計、まだ直してないって聞いた。


 送信するまでに、かなり時間がかかった。


 電車が次の駅に着く直前、返信が来た。


 部品が合わない。


 父らしい短さだった。


 僕は画面を見ながら、少し笑った。


 今度一緒に探そう。


 そう送ると、今度はなかなか返事が来なかった。来なくてもよかった。けれど、駅を二つ過ぎたころ、短い返信が届いた。


 わかった。


 それだけで、十分ではなかった。


 十分ではないが、始めるには足りた。


 昼過ぎ、実家の最寄り駅に着いた。


 改札を出ると、風の匂いが少し違った。明石の港ほど強くはないが、どこかに海がある。駅前のロータリーには、昔からある菓子屋と、新しくできたドラッグストアが並んでいた。僕が知っている店がいくつか消え、知らない看板がいくつか増えている。


 十年は、町を全部変えるほど長くはない。


 けれど、何も変えないほど短くもなかった。


 家まで歩く途中、ランドセルを背負った子どもたちとすれ違った。まだ授業中の時間のはずなのに、今日は何か行事でもあったのだろう。ひとりが靴紐を踏みそうになり、隣の子に肩を叩かれている。


 僕は立ち止まりかけて、やめた。


 見えるもの全部を悠真に結びつけたら、たぶん歩けなくなる。けれど、何も見ないふりをしても、家には帰れない。


 玄関の前で、しばらく立っていた。


 表札は変わっていない。郵便受けの横に、小さな鉢植えがある。母が好きだった薄紫の花だ。昔はもっとたくさん並んでいた気がする。今は三つだけで、そのうち一つは土が乾いていた。


 インターホンを押す前に、扉が開いた。


 母が立っていた。


 電話の声より、さらに小さく見えた。髪には白いものが増え、顔の線も細くなっている。けれど、僕を見た瞬間の目だけは、十年前と変わらなかった。


「おかえり」


 母はそう言った。


 僕はすぐに返せなかった。


 ただいま。


 その二音が、喉の奥で何度も引っかかった。


「ただいま」


 やっと言うと、母は泣かなかった。泣きそうな顔のまま頷いた。


 玄関には、父の靴があった。きちんと揃えられている。昔から、父は靴だけはいつもまっすぐ置いた。僕と悠真の靴が曲がっていると、黙って直す人だった。


 居間に入ると、父は座卓の前に座っていた。古い時計を分解している。小さなドライバー、ピンセット、綿棒、電池。白い皿の上に、細かいネジが二つ並んでいた。


 僕を見ると、父は手を止めた。


「帰ったか」


「うん」


「飯は」


「まだ」


 父はそれだけ聞いて、母のほうを見た。


「炊けてる」


 母が答えた。


 三人で台所へ移動した。食卓には、白いご飯と味噌汁、卵焼き、焼き魚が並んでいる。特別な料理ではない。けれど、箸を持つ手が震えた。


 悠真の席は、もう席ではなくなっていた。


 そこには新聞と薬の袋が置かれている。母が慌ててどかそうとして、途中で手を止めた。


「そのままでいい」


 僕が言うと、母は僕を見た。


「いいの?」


「うん」


 新聞の端が、薬袋にかかっていた。


 母はそれを直さず、席へ戻った。


 僕は味噌汁を飲んだ。


 熱かった。


 十年ぶりに食べる母の味は、記憶より少し薄かった。母のせいではない。僕の記憶が、都合よく濃くしていたのだと思う。


「悠真に会った」


 食事の途中で、僕は言った。


 箸の音が止まった。


 父は顔を上げなかった。母は息を吸い、何も言わなかった。


「夢みたいなものかもしれない。そうじゃないかもしれない。説明はできない」


 僕は続けた。


「でも、会った。悠真は、帰ってこないって言った」


 母の手が膝の上で固まった。


 父は時計のほうを見た。食卓まで持ってきたわけでもないのに、居間に置かれた時計の位置を確かめるような目だった。


「そうか」


 父が言った。


 それだけだった。


 怒鳴られたほうが、まだ受け止め方を知っていた。けれど父は、そうか、と言っただけだった。


「僕が連れていった」


 今度は、自分から言った。


「悠真は帰りたいって言おうとしてた。僕は聞かなかった。あとでって言った。雨が強くなって、あいつは落ちた。僕は手を伸ばしたけど、届かなかった」


 十年、頭の中で何度も繰り返した言葉だ。


 けれど、声に出すと違った。


 言葉の途中で、当時の自分がただの悪者ではなかったことも、ただの被害者ではなかったことも、逃げられなくなる。


「ごめん」


 僕は頭を下げた。


「ごめんなさい」


 母が椅子から立つ音がした。


 叩かれると思った。


 抱きしめられるとも思った。


 どちらでもなかった。


 母は僕の前にしゃがみ、テーブルの下に落ちた箸を拾った。僕が知らないうちに落としていたらしい。母はそれを台所へ持っていき、新しい箸を持って戻ってきた。


「食べなさい」


 母は言った。


「話は、食べてからでもできる」


 その声で、僕は泣いた。


 大人になってから、声を上げて泣くことはほとんどなかった。けれど、味噌汁の湯気の向こうで、母が新しい箸を置く、その小さな音に耐えられなかった。


 父は黙っていた。


 でも、僕が顔を上げたとき、父の目も赤かった。


 食事のあと、三人で悠真の部屋へ入った。


 部屋は、思っていたより片づいていなかった。机の上には古い教科書が積まれ、棚には漫画とゲームソフトが並んでいる。ポスターは少し色褪せ、カーテンの端には日焼けの跡があった。


 時間が止まっている、という言い方は簡単だ。


 でも実際には、止まった部屋にも埃は積もる。窓枠は汚れる。紙は湿気を吸って反る。母はそれを拭き、父は時計を直そうとし、僕は見ないふりをしていた。


 机の引き出しを開けると、奥に小さな缶があった。


 悠真が集めていたシールや、折れたシャープペンの芯ケース、ゲームセンターの古いメダル。その下に、青い船のキーホルダーが入っていた。


 安っぽいプラスチックの船。


 塗装は少し剥げている。金具は錆びかけていた。僕が昔、すぐに飽きて放り出したものだ。


「あった」


 僕が言うと、母が口元を押さえた。


 父はキーホルダーを手に取り、しばらく見ていた。


「おまえのだったのか」


「うん。悠真が勝手に借りたって」


 父はそこで、本当に少し笑った。


 大きな笑いではない。息が漏れただけのような、短い笑いだった。けれど、悠真が言った通りだった。


「あいつらしい」


 父が言った。


「返すつもりで、忘れたんだな」


「怒らないでって」


「怒るか」


 父は青い船を僕に返した。


「そんなもんで」


 その言い方があまりに父で、僕はまた泣きそうになった。


 時計は、その日のうちには直らなかった。


 部品が合わないという父の言葉は本当だった。古い型で、同じものはもう簡単には手に入らないらしい。僕はスマートフォンで部品を探し、父は横から品番を読み上げた。母はその後ろで、悠真の机の上を少しだけ拭いた。


 全部が解決したわけではない。


 母は夜になっても、何度か泣いた。父は結局、僕を責めなかった。そのことに、僕はまだうまく耐えられない。悠真の部屋は、片づいたとは言えない。時計も動いていない。


 それでも、青い船のキーホルダーは、居間の座卓の上に置かれた。


 誰かの遺品としてではなく、昔のくだらない貸し借りの証拠として。


 母はそれを仏壇へ持っていかなかった。


 父も、時計の横に並べようとはしなかった。


 夕飯のあと、青い船はテレビのリモコンと新聞の間に置かれていた。母が湯飲みを運ぶときに少し横へずらし、父が新聞を畳むときにまた少し動かした。誰も特別に扱わない。けれど、誰も引き出しへ戻そうとはしない。


 その中途半端な場所が、いちばんよかった。


 青い船の影が、湯飲みの丸い跡と重なっていた。


 夜、風呂上がりに台所で水を飲んでいると、母が小さな声で「青い船、あの子ずっと持ってたのね」と言った。僕は頷いた。母はそれ以上泣かなかった。ただ、食器棚のガラスに映った青い船を見て、少しだけ目を細めた。


 翌朝、実家を出たあと、港の時刻表を見た。


 そこに嘘はなかった。午前零時二十分発、潮待ち航路の文字はない。あるのは、現実の船の時刻だけだ。


 時刻表の前を、通勤客が一人通り過ぎた。


 歩き出すと、海の向こうで一度だけ汽笛が鳴った気がした。


 振り返っても、船は見えなかった。


 僕はもう一度だけ海を見て、それから駅へ向かった。

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