第四章 三津浜、灯台守の嘘
三津浜という名前を聞いてから、ミオはほとんど口を利かなくなった。
潮待ち航路が朝の霧に消える直前、彼女はたしかに言った。あの絵葉書の海は三津浜ではない。でも、三津浜を知っている、と。
知っている。
その言葉は、思い出した、とは違う。ミオは自分がどこで船に乗ったのかを覚えていない。年齢も、死んだのかどうかも、たぶん自分ではっきり言えない。けれど身体のどこかが、港の名前に反応した。
僕はそのことを考えながら、松山行きの列車に乗っていた。
仕事はあった。愛媛方面の航路資料確認と、三津浜周辺の聞き取り。出張理由としては申し分ない。だが、正直に言えば、会社の資料は半分以上言い訳だった。僕は潮待ち航路が次に現れる場所を、仕事で選んだふりをしている。
窓の外を、海が何度も近づいては離れていく。
膝の上には、廃止航路の検討資料がある。余白には、いつの間にか自分の字で書き込みが増えていた。
通院。
通学。
墓参り。
家族の帰省。
以前なら、こういう言葉は資料の最後にまとめて「地域生活への影響」と処理していた。今は、その一語ごとに顔がついてくる。鞆の浦で櫛を受け取った女性。牛窓で玄関の灯りを消した母親。尾道の工房で、父を許さないまま絵葉書を受け取った美和。
船があるから、帰れる人がいる。
船があるから、帰れないことを終わらせられる人もいる。
スマートフォンを取り出す。母から新しい連絡はなかった。昨日、僕は一度だけ電話をかけ、呼び出し音が鳴った瞬間に切った。母の画面には着信履歴が残ったはずだ。かけ直してこないのは、母なりの配慮なのかもしれない。
それとも、もう待つのに疲れたのか。
そう考えた瞬間、胸の奥がざわついた。
三津浜の港は、夕方の光の中で古びて見えた。古い建物と新しい案内板が並び、狭い道を車がゆっくり抜けていく。渡し船の発着場には、近所の人らしい男性が自転車を押して立っていた。観光地というより、生活が先にあって、その隙間に港が残っている場所だった。
渡し船は、こちらが拍子抜けするほど短い距離を行き来していた。乗り込んだ人たちは、景色を眺めるでもなく、スマートフォンを見たり、買い物袋を持ち直したりしている。船が岸を離れ、すぐに向こう側へ着く。その数分のために、船は待ち、ロープは解かれ、また結ばれる。
僕は発着場のベンチに座り、何往復か見ていた。
短い航路ほど、資料では弱く見える。距離が短いなら、ほかの手段で代替できるのではないか。利用者が少ないなら、便数を減らしてもよいのではないか。そういう書き方を、僕自身もしてきた。
けれど短いからこそ、生活に入り込んでいるものがある。
歩くには遠い。車では回り道になる。バスでは時間が合わない。だから船に乗る。それだけのことが、毎日の形を決めている。
聞き取りで訪ねた事務所の女性は、資料を見るなり言った。
「数字だけで見ると、いらん船になるんでしょうね」
僕は返事を探した。
「そう判断するための資料ではありません」
「でも、そう判断できる資料にはなる」
尾道でも似たようなことを言われた。
整理すると、軽くなる。
紙にすると、捨てやすくなる。
僕は手帳に、利用者数ではなく、彼女が言った言葉をそのまま書いた。業務資料として使えるかはわからない。けれど、消す気にはなれなかった。
女性は、古い写真を一枚見せてくれた。
白黒に近い色の港。小さな船。甲板に立つ子どもたち。写真の端には、灯台らしい白い影が写っている。
「昔は、灯を見ると帰ってきた気がしたそうです」
「灯台ですか」
「ええ。今はもう、そんなふうに見る人も少ないでしょうけど」
彼女は写真を資料の上に置いた。
「でも、帰ってくる目印があるのは、大事なことです。家でも港でも」
僕は写真の中の灯台を見た。
ミオの「三津浜を知っている」という声が、また耳の奥に戻ってきた。
夜、港に戻ると、海は静かだった。
昼間見た渡し船は、もう桟橋に繋がれていた。ロープが二重に巻かれ、船体の横腹が岸壁にゆっくり当たっている。こん、こん、と乾いた音がする。待合所のベンチには誰もいない。自動販売機の明かりだけが、足元のコンクリートを青白く照らしていた。
僕はそのベンチに座り、母の番号を開いた。
発信ボタンを押す。
呼び出し音が鳴る前に、切った。
尾道で一度、同じことをしている。進歩がない。そう思ったが、画面には一秒にも満たない通話履歴が残った。母の画面にも、きっと残る。何かを言う勇気はないのに、痕跡だけを残す。卑怯だと思った。
すぐにメッセージが来るかもしれないと思って、しばらく画面を見ていた。
何も来なかった。
その沈黙に、少しだけほっとした自分がいた。
港の向こうで、どこかの家の窓がひとつ消えた。最後まで残っていた白い光だった。三津浜の町が、ゆっくり眠りに沈んでいく。
午前零時二十分が近づくにつれて、灯りの少ない水面が黒く沈んでいく。三津浜の町は眠りかけていて、どこかの家の窓にだけ白い光が残っていた。僕は桟橋の端で、財布から乗船券を取り出す。
行き先はまだ空白。
だが、紙は冷えていた。
零時二十分。
汽笛が鳴った。
霧の中から潮待ち航路が現れる。船首の「潮待ち」の文字は、何度見ても同じようにかすれている。甲板にミオの姿はなかった。代わりに、船長が舷側に立っていた。
「乗れ」
「ミオは」
「船内だ」
「具合でも悪いんですか」
「死者に具合の話をするな」
死者。
船長はミオをそう言ったのか。それとも、ただ潮待ち航路の住人をまとめてそう呼んだのか。問いただす前に、今夜の乗客が姿を見せた。
老人だった。
背は曲がっているが、立ち方には妙な硬さがある。古い作業服の上に黒い外套を羽織り、片手に錆びた鍵束、もう片方に革表紙の帳面を抱えていた。潮の匂いと、油の匂いがする。
「真鍋清造」
老人は自分から名乗った。
「灯台守をしておりました」
ミオが船室の入口から顔を出した。その顔を見て、僕は言葉を失った。いつもの皮肉っぽさが消え、唇が白くなっている。
「灯台」
彼女は小さく言った。
真鍋はミオを見たが、特に反応しなかった。
「行き先は」
僕が尋ねると、真鍋は鍵束を握りしめた。
「灯台です。あそこへ戻らねばならん」
「何をするために」
「灯を消した罪を、認めるために」
船長が低く笑った。
愉快そうではなかった。
「また、そういう嘘か」
真鍋の顔が強ばった。
「嘘ではありません」
「では、行って確かめろ」
船は三津浜の港を離れた。岸の灯りが後ろへ下がる。夜の海の上で、遠くに小さな光が見えた。灯台というには低く、頼りない。けれど、闇の中ではそれだけが目印だった。
ミオは甲板の端に立ち、その光から目を離さない。
「知ってるのか」
僕が聞くと、彼女は首を振った。
「覚えてない」
「でも、怖い?」
「怖いんじゃない」
ミオは自分の胸を押さえた。
「ここが、先に知ってる」
真鍋は船室の古い席に腰を下ろした。僕は向かいに座る。ミオは少し離れた場所に立っている。船長は操舵室に戻ったが、扉は開いたままだ。
「灯を消したというのは」
僕が切り出すと、真鍋は革表紙の帳面を膝に置いた。
「濃い霧の夜でした。三十年以上前のことです。小さな船が岩に当たって沈んだ。三人死にました。そのうち一人は、私の弟でした」
帳面の表紙には、航海日誌、と書かれている。角は擦り切れ、金具は黒く錆びていた。
「私は灯台を見ていた。あの夜、灯が弱かった。霧笛も遅れた。私がもっと早く気づいていれば、船は沈まなかった」
真鍋の手は、帳面の角をなぞっていた。
「弟の晃は、私よりずっと海に向いた男でした。私は灯を見る。あいつは船を出す。そういう役割でした。子どものころから、あいつは私より先に海へ入った。私より先に泳ぎ、私より先に遠くへ行った」
彼は苦く笑った。
「私は兄なのに、いつも岸にいた」
その言葉に、僕は反応してしまった。
兄なのに。
真鍋は僕の顔を見て、何かを察したようだったが、深くは踏み込まなかった。
「あの夜、晃は薬を届けると言いました。島で子どもが熱を出したと。私は止めた。霧が濃い。潮も悪い。朝まで待てと。あいつは聞かなかった。子どもは朝まで待てないと言った」
真鍋の声は平らだった。
「私は、正しかった。たぶん、航海判断としては」
そこで言葉が止まった。
「公式には、どう記録されたんですか」
真鍋は答えない。
代わりに、鍵束を見つめた。
「私のせいです」
「記録は」
「私のせいです」
同じ言葉を繰り返す声は、祈りというより、錆びた釘のようだった。何度も打ち込まれ、抜けなくなっている。
船が灯台に近づくにつれ、ミオの呼吸が浅くなった。呼吸をしていること自体が不思議だった。彼女は死者なのか、船の一部なのか、それとも別の何かなのか。考えてもわからない。
灯台は小さかった。今は使われていないのか、光はかすかにしか回っていない。船が近づくと、石造りの足場が現れた。濡れた階段が海面から伸びている。
近づくほど、灯台は建物というより古い骨のように見えた。白かったはずの壁は潮で灰色にくすみ、手すりの鉄は赤く錆びている。小さな窓の内側で、光がゆっくり回るたび、海面に細い線が引かれた。
ミオはその線を目で追っていた。
「同じ」
「何が」
「光の回り方」
彼女は自分でも何を言ったのかわからない顔をした。
「三回、ゆっくり。少し空いて、また三回」
僕は灯台を見る。確かに、光は三度海をなぞり、間を置いてまた三度回った。
「覚えてるのか」
「覚えてない」
ミオはすぐに否定した。
「でも、数えられる」
それは、記憶より深いところに残っているもののように聞こえた。
真鍋は立ち上がろうとして、膝をついた。
「降りられない」
ミオが呟いた。
「まだ、嘘ついてる」
真鍋は怒ったように顔を上げた。
「嘘ではない」
「じゃあ、これ開いて」
ミオは航海日誌を指した。
真鍋の手が止まる。
僕はその反応を見逃さなかった。
「開けてもいいですか」
「いけません」
「なぜ」
「読めば、死んだ者が戻るのですか」
「戻りません」
「なら、意味はない」
僕はその言葉を聞いて、胸の奥が冷えた。
戻らないなら、意味はない。
僕自身が、どこかでそう思っていた。悠真が戻らないなら、何を知っても意味はない。母に電話しても、父と話しても、海で何が起きたのかを調べても、弟は戻らない。
だから何もしないでいた。
船長が操舵室から出てきた。
「この船は、戻す船ではない」
真鍋は顔を上げない。
「救う船でもない」
船長の声は、夜の海より冷たかった。
「降ろす船だ」
真鍋の指が震えた。
僕は航海日誌に手を伸ばした。彼は抵抗しなかった。革表紙を開くと、古い紙の匂いがした。日付は三十年以上前。天候、風向、視界、灯火確認、霧笛作動。細かい字で記録が並んでいる。
事故の夜の欄を見つけた。
灯火、異常なし。
霧笛、作動。
出港警告、発信済み。
僕は顔を上げた。
「灯は消えていない」
ページの端には、別の筆跡で短い書き込みがあった。
晃、出港強行。
薬箱二つ。
島、子ども発熱。
その文字だけ、強く紙に刻まれていた。ペン先が引っかかったのか、ところどころ紙が破れかけている。記録ではなく、その場で誰かが歯を食いしばって残した傷のようだった。
「これも、あなたの字ですか」
真鍋は目を閉じたまま、頷かなかった。否定もしなかった。
「薬を届けるためだったんですね」
「それでも、出てはいけなかった」
「でも、灯は」
「灯が消えなかったからといって、私が正しかったことにはならない」
真鍋の声が少しだけ荒れた。
「私は止めた。兄としてではなく、灯台守として止めた。あいつは弟としてではなく、船乗りとして出た。どちらも正しかったのかもしれない。どちらも間違っていたのかもしれない。そんな話では、残った者は立っていられない」
彼は鍵束を握りしめた。
「だから、私が灯を消したことにした」
真鍋は目を閉じた。
「記録が間違っている」
「あなたの字です」
「私が嘘を書いた」
「では、なぜ持っているんですか」
真鍋は答えなかった。
ミオが一歩近づいた。
「灯は消えてなかった」
「黙れ」
「船は、止めた。行くなって言った。なのに出た」
ミオの声が変わっていた。いつもの少女の声ではなく、どこか遠くの霧の中から響くようだった。
彼女の目は、真鍋を見ているのに、別の夜を見ていた。
「霧が濃かった。鐘みたいな音がして、誰かが走ってた。男の人が怒鳴って、女の人が泣いて、子どもが咳をしてた。灯は、消えてなかった。ずっと回ってた」
ミオは自分のこめかみに手を当てた。
「でも、誰の記憶かわからない。わたしのじゃない。船のかもしれない。誰かが置いていったのかもしれない」
船長が鋭く言った。
「それ以上拾うな」
「拾ってない。落ちてくるの」
ミオは怒ったように返した。
その声は震えていた。
船長が鋭く言った。
「ミオ」
彼女ははっとして口を閉じた。
真鍋は、崩れるように笑った。
「そうです。灯は消えていなかった。霧笛も鳴っていた。私は止めた。出るなと言った。弟は聞かなかった」
鍵束が床に落ち、乾いた音を立てた。
「あいつは薬を届けると言った。島で子どもが熱を出していると。無理だと言った。朝まで待てと言った。喧嘩になった。私は最後に、言ったんです」
真鍋は両手で顔を覆った。
「そんなに行きたいなら、帰ってくるな、と」
誰も何も言わなかった。
「本当に帰ってこなかった」
その言葉だけが、船内に残った。
灯を消したわけではない。
船を沈めたわけではない。
けれど、帰ってくるなと思った。そのときの自分を、真鍋は許せなかった。だから別の罪を作った。灯を消したという、わかりやすい罪を。
わかりやすい罪は、人を縛る。
「遺族には」
僕が聞くと、真鍋は頷いた。
「私のせいだと言いました。弟の妻にも、娘にも。憎まれるほうが楽でした。あいつが無理に出たことも、私が帰ってくるなと思ったことも、誰も知らずに済む」
「それは」
言葉が詰まる。
それは償いではない。
だが僕に、それを責める資格があるのか。
僕も、悠真の死を自分だけの罪にしてきた。母に責められたいと思っていた。父に殴られたいと思ったことさえある。そうされれば、話は簡単になる。僕が悪い。僕だけが悪い。そう言い続ければ、母が何を感じているのか、父が何を飲み込んでいるのか、考えずに済む。
「誰か一人が悪いことにすれば」
真鍋が言った。
「残った者は、少し息ができます」
船長が首を振った。
「違う。息をしているふりができるだけだ」
船が灯台の足場へ寄った。今度は真鍋の身体を縛るものが少し緩んだように見えた。それでも、彼はまだ降りられない。
「行き先は灯台じゃない」
ミオが言った。
「帳面を返す場所」
乗船券の行き先欄に文字が浮かぶ。
沙也。
地名ではなく、人の名前だった。
「弟さんの」
「娘です」
真鍋は目を閉じた。
「私を、ずっと憎んでいる」
「会いに行きます」
「許しを乞うつもりはありません」
「たぶん、許されません」
真鍋は小さく頷いた。
「それでいい」
三津浜の町へ戻ると、夜明け前の空がうっすら白み始めていた。沙也という女性は、港近くの小さな資料室にいた。かつての航路や灯台の写真、古い切符、船具を集めた部屋だった。こんな時間に開いているはずはないのに、灯りがついていた。
窓から中を覗くと、壁一面に古い写真が貼られていた。船の進水式、港祭り、灯台の点検、霧の中で撮られた白い航跡。ガラスケースには、錆びた羅針盤、切符鋏、古い救命胴衣、小さな船名板が並んでいる。
資料室というより、誰かが忘れないために作った部屋だった。
入口の横には、古い時刻表が額に入れられていた。便名と出発時刻が細かく並び、赤鉛筆でいくつも丸がついている。廃止、減便、季節運航。会社の資料で見慣れた言葉なのに、ここで見ると印象が違った。紙の端が日に焼け、誰かの指で何度もなぞられた跡がある。
その下に、小さな来館者ノートが置かれていた。
風でページがめくれる。
子どもの字で、ふねがかっこよかった、と書かれている。別のページには、祖父がこの航路で通学していた、という短い文章があった。さらに前のページには、事故の日のことを母から聞きました、という一文があり、そこで筆跡が乱れている。
僕はノートから目を離せなかった。
記録には種類がある。
会社に残る利用者数。自治体に残る補助金の額。新聞に残る事故の見出し。航海日誌に残る風向と視界。そして、こういうノートに残る、誰がどこで泣いたかまでは書かない短い言葉。
どれも正しい。どれか一つだけでは足りない。
ガラスケースの奥に、古い弁当箱があった。アルミ製で、ふたの端がへこんでいる。説明札には、灯台勤務者の携行品、とだけ書かれていた。誰のものかはわからない。けれど、その隣に置かれた小さな箸箱のふたには、かすかに「まなべ」と読める傷があった。
真鍋はそれを見ていない。
見れば、きっと違う顔をしただろう。
彼が抱えている罪は、灯を消したかどうかという一点に固まっている。だが、この部屋には、それ以外の時間がいくつも残されていた。弁当箱。時刻表。点検用の手袋。夏祭りの写真。灯台の前で笑っている若い男。その横で、目つきの似た青年が不機嫌そうに立っている。
兄弟だ。
写真の端に、真鍋清造、と鉛筆で書かれていた。
僕はその不機嫌そうな青年をしばらく見た。弟の隣にいる兄の顔。笑えばいいのに笑えない顔。相手がまぶしすぎて、どうしていいかわからない顔。
自分にも、そんな顔をした写真があるかもしれない。
悠真の隣で。
ミオが窓の外から部屋を覗き込み、すぐに目をそらした。
「入らないのか」
僕が小声で聞くと、彼女は首を振った。
「ここ、いっぱいある」
「何が」
「見られたかったものと、見られたくなかったもの」
ミオは胸のあたりを押さえた。
「どっちも同じ棚に入ってる。気持ち悪い」
言い方は乱暴だったが、わかる気がした。
資料室は、忘れないための部屋だ。けれど、忘れないことはきれいなことだけではない。残したくなかった一言も、誰かを恨んだ日も、開けたくない引き出しも、いっしょに残る。
僕はガラスに映った自分の顔を見た。
忘れないという言葉を、僕はずっと逃げ道にしていたのかもしれない。忘れていないから話さない。忘れていないから帰らない。忘れていないから、許されなくていい。
忘れないことと、向き合うことは違う。
灯りの下の机には、新聞の切り抜きが広げられていた。三十年以上前の日付。濃霧、衝突、三名死亡。見出しの横に、小さく若い男性の写真が載っている。真鍋の弟、晃だろう。
戸を叩くと、五十代くらいの女性が出てきた。短い髪に、作業用の上着。目つきが鋭い。
「真鍋清造さんのことで来ました」
彼女の表情が固まった。
「伯父は死にました」
「はい」
「では、もう結構です」
戸が閉まりかける。僕は航海日誌を差し出した。
「これを、返すように頼まれました」
沙也は帳面を見た瞬間、動かなくなった。
「どこで」
「預かりました」
「伯父から?」
「はい」
嘘ではない。だが、説明はできない。
沙也は帳面を奪うように受け取り、ページを開いた。事故の夜の記録にたどり着くまで、そう時間はかからなかった。彼女は読み、もう一度読み、やがて低く笑った。
「灯は、消えていなかった」
「そのようです」
「じゃあ、私は何を憎んでいたんでしょうね」
帳面の端が、沙也の指の下でかすかに鳴った。
沙也は帳面を胸に抱いた。
「父が無理に出たことは、知っていました。母は薄々わかっていたと思います。でも、伯父が自分のせいだと言うから、みんなそれに乗った。誰か一人を憎んでいれば、話が簡単だったから」
沙也はガラスケースの下段を開けた。
そこには、小さな薬箱が置かれていた。革の持ち手は擦り切れ、金具は黒ずんでいる。ふたには、薄く真鍋晃の名が残っていた。
「父が持っていった薬箱です。中身は海水でだめになっていました。でも、箱だけ戻ってきた」
「残していたんですね」
「捨てられませんでした。父が誰かを助けようとして出た証拠だから。伯父を憎むためだけなら、こんなものは邪魔でした」
沙也は箱のふたを閉じた。
「父は無謀だった。伯父は意地を張った。母は止められなかった。港の人たちも、最終的には船を出す父を見送った。誰か一人だけを悪くできる話ではなかった。でも、そういう話は、子どもには重すぎます」
彼女は、僕を見た。
「あなたにも、そういう話があるんですか」
質問は静かだった。
僕はすぐには答えられなかった。
「あります」
ようやく、それだけ言った。
沙也はそれ以上聞かなかった。
彼女は資料室の壁を見た。古い灯台の写真が飾られている。
「母は、伯父の名前を聞くたびに黙りました。怒鳴るより怖い黙り方でした。私は子どもだったから、伯父が父を殺したんだと思った。そう思っていれば、父が無理をしたことも、母が止められなかったことも、港の人たちが出港を見送ったことも、考えなくてよかった」
沙也は航海日誌のページを指で押さえた。
「この部屋を作ったのは、父を忘れないためじゃありません。伯父を憎む理由を、ずっと保管しておくためでした」
彼女は自分で言って、少し笑った。
「嫌な資料室でしょう」
「でも、残した」
「ええ。捨てたら、何を憎んでいたのかわからなくなる気がして」
「簡単な話は、長持ちしますね」
その言葉が、胸に刺さった。
僕の話も、簡単だった。
兄が弟を夜の海に連れ出した。弟は消えた。だから兄が悪い。
そのほうが、考えなくて済む。悠真が何を言いかけたのか。母がなぜ死んだと言うなと繰り返すのか。父がなぜ黙り続けるのか。全部、僕が悪いという箱に入れておけば、開けなくて済む。
「伯父を許す気はありません」
沙也は言った。
「父が帰らなかった夜から、私たちの家は変わりました。伯父が何を背負おうと、変わったものは戻らない」
「はい」
「でも、これ以上、伯父一人のせいにするのはやめます」
彼女は航海日誌を机の上に置いた。
「父にも、海にも、天気にも、仕事にも、家族にも、たぶん少しずつ責任がある。そういう面倒な話に戻します」
面倒な話。
それが、生きている人間の現実なのだと思った。
船へ戻ると、真鍋は灯台の鍵束だけを持って立っていた。僕が頷くと、彼は深く息を吐いた。
「許しませんでしたか」
「はい」
「でしょうね」
「でも、あなた一人のせいにするのはやめるそうです」
真鍋は泣かなかった。
ただ、長い時間をかけて背中を伸ばした。
「それで十分です」
最近、死者はよくその言葉を言う。
十分。
生きている者には、とてもそう思えないことばかりなのに。
船は再び灯台へ向かった。今度は真鍋も足場へ降りることができた。彼は錆びた鍵で古い扉を開け、中へ入った。僕とミオは入口で待った。
灯台の中から、かすかな光が漏れる。
ミオが震えていた。
「思い出したのか」
「違う」
「何が見える」
「白い光」
彼女は目を閉じた。
「誰かが、泣いてる。男の子。濡れてる。名前を呼ばれてる」
ミオの声は、灯台の壁に反響するように細くなった。
「船の上じゃない。海でもない。どこかの明るいところ。白い光が回って、目が痛い。男の子は、膝を抱えて座ってる。誰かが毛布を持ってくる。でも、かけちゃだめって言われる」
僕は息を止めた。
「その男の子は」
「わからない」
「ミオ」
「わからないって言ってるでしょ」
彼女は怒鳴った。
怒鳴ったあとで、自分の声に驚いたように口を閉じた。
「ごめん」
その謝罪は、僕に向けたものなのか、自分の中の記憶に向けたものなのかわからなかった。
心臓が強く打った。
「悠真か」
ミオは目を開けた。
「わからない」
「ミオ」
「ほんとに、わからない」
その声は、初めて年相応の子どものように聞こえた。
灯台の中から真鍋が出てきた。鍵束は持っていなかった。置いてきたのだろう。彼の輪郭は、もう朝の光に透け始めている。
「ありがとうございました」
真鍋は船長に向かって頭を下げた。
「礼は案内人に言え」
「久坂さん」
真鍋は僕を見た。
「罪は、背負えばよいというものではありません」
「……わかりません」
「私も、死んでからようやく少しわかりました」
彼は苦く笑った。
「背負うふりをして、死んだ者に自分を背負わせることがある」
真鍋の姿は、灯台の光に溶けるように薄れていった。
最後に、彼は海のほうを向いた。
「晃」
弟の名前だろう。
「帰ってこなくていい。もう、行け」
その言葉のあと、真鍋清造は消えた。
潮待ち航路へ戻ると、夜明けが近かった。船長は操舵室に戻らず、甲板に立っていた。ミオは船室の奥へ引っ込み、出てこない。
僕は船室を覗いた。
ミオは客席の一番奥に座っていた。膝の上に竹ぼうきを横たえ、窓の外を見ている。窓には灯台の光がもう映っていない。それでも彼女の目は、まだ何かの光を追っているようだった。
「大丈夫か」
「その聞き方、便利だね」
「便利?」
「答えが決まってる。大丈夫って言えば終わる」
返す言葉に詰まった。
ミオは少しだけ笑った。笑ったというより、口の端を動かしただけだった。
「大丈夫じゃない。でも、壊れてもいない」
「さっきの記憶は」
「記憶って呼んでいいのかもわからない。誰かの声が、船の底に溜まってるみたいだった。わたしが覗いたら、向こうからも覗き返された」
彼女は竹ぼうきの柄を握った。
「透の弟かもしれない男の子も、いた」
胸が詰まった。
「いた、って言えるのか」
「わからない。だから嫌なんだよ」
ミオは初めて、子どもらしく苛立った顔をした。
「わからないものを、みんなわたしに聞く。船長も、透も。わたしだって、自分がどこの誰かもわからないのに」
僕は謝ろうとして、やめた。
謝れば、また便利な言葉になる気がした。
「次は、聞き方を考える」
「今考えて」
「……怖かったか」
ミオは少し驚いた顔をした。
それから、窓の外へ視線を戻した。
「怖かった」
短い答えだった。
僕は頷いた。
何かを解決したわけではない。それでも、今はその短さで十分だった。
僕は船長の背中に向かって言った。
「十年前」
声が震えた。
「明石へ行きましたか」
船長はすぐには答えなかった。
海の上に、朝の光が細く伸びている。三津浜の灯りは遠ざかり、灯台はもう小さな点になっていた。
「行った」
たった二文字だった。
それだけで、足元が崩れたように感じた。
「悠真を乗せたんですか」
「名は知らん」
「嘘だ」
「名は知らん。乗せた死者の数だけ名を抱えていては、船は沈む」
怒りが込み上げた。
「助けられたんじゃないのか」
「この船は救う船ではないと言った」
「じゃあ、何をした」
船長はこちらを見た。
「降ろした」
耳の奥で、汽笛が鳴った気がした。
悠真を、降ろした。
どこへ。
なぜ。
僕は手すりをつかんだ。指に力が入りすぎて、木が軋む。
「どこに降ろした」
「今のおまえに言えば、引き戻しに行く」
「当たり前だ」
「だから言わん」
船長の声は冷たかった。
だが、その冷たさの奥にあるものを、僕はまだ受け取れなかった。
高松港が見えてくる。朝の始発便の準備が始まっていた。現実の船員たちがロープを運び、エンジンの音が低く響く。潮待ち航路は、そのすぐ隣にいるのに、誰にも見えていない。
桟橋に降りる直前、船長が言った。
「久坂透」
初めて、名前を呼ばれた。
「罪を背負うふりをして、死者を背負わせるな」
返事はできなかった。
ミオが船室の影からこちらを見ている。何か言いたそうだったが、結局何も言わない。
船は霧の中へ消えた。
手元には、乗船券が残っている。行き先欄には何もない。だが、紙の端に、かすかに灯台の光のような白い線が浮かんでいた。
母に電話をかけるべきだと思った。
だが、僕がスマートフォンを握りしめたまま立っていると、画面に会社からの通知が入った。
関門方面、追加調査依頼。
下関、門司港。
次の港が、もう決まっていた。




