第三章 尾道、名前のない絵葉書
名前を捨てた人間は、どこへ帰るのだろう。
そんなことを考えたのは、尾道駅の改札を出てすぐ、観光案内所の隅に並ぶ絵葉書を見たからだった。
坂道。踏切。寺の屋根。海に向かって落ちていく路地。対岸へ渡る小さな船。どの絵葉書にも、尾道、と印刷されている。風景は名前を持っている。港も、坂も、島も、誰かが呼ぶ名前を持っている。
では、人はどうだろう。
久坂透という名前は、会社の名簿と名刺と乗船券に印字される。母は僕を透と呼ぶ。父は最近、ほとんど呼ばない。弟は、漢字を書けなかったころ、僕の名前をいつも「とおる」と書いた。
牛窓の夜、乗船券に浮かんだその三文字が、まだ目の奥に残っていた。
僕は駅前で立ち止まり、スマートフォンを取り出した。母の番号を開く。発信ボタンに親指を置く。
押せばいい。
何を話せばいいかわからなくても、まず出ればいい。昨夜、佐伯蓮の母親に向かって、玄関の灯りを消しても息子がいなくなるわけではない、と言ったのは僕だ。なら、自分の母親の電話くらい出ればいい。
親指は動かなかった。
背後で列車の発車ベルが鳴る。画面が暗くなり、僕の顔が映った。寝不足で、ひどい顔をしていた。僕はスマートフォンをポケットにしまった。
仕事で来たのだ。
そう言い訳して、港へ向かった。
尾道での用件は、航路利用に関する追加聞き取りだった。駅前から海沿いを歩くと、向かいの島が近くに見える。海というより、広い川のようだった。水面を渡船が横切り、エンジンの低い音を残していく。乗る人は少ないが、誰も珍しがらない。生活の中に船がある町なのだと思った。
せっかくだから一度乗ってみてください、と聞き取り先へ向かう前に案内所の職員に言われた。仕事の範囲外だったが、断る理由もなかった。短い桟橋から渡船に乗る。料金箱に硬貨を入れると、船はすぐに岸を離れた。
乗っている時間は数分しかない。
自転車の高校生が二人、買い物袋を持った女性、作業服の男性、観光客らしい老夫婦。誰も海を特別なものとして見ていない。信号を渡るように船に乗り、バス停で降りるように対岸へ降りる。
僕はその短さに驚いた。
船というものを、僕はどこか大げさに考えていたのかもしれない。港を離れ、島影を渡り、戻れない場所へ向かうもの。けれどここでは、船は日常の段差を埋める板のように使われている。
対岸へ着くと、高校生たちは自転車にまたがって坂道を上っていった。船がなければ、彼らの朝の形は変わる。資料には「通学利用」としか書けないが、実際には、遅刻しそうでペダルを踏む足や、友人と交わす短い会話や、汗の匂いまで含めての航路なのだと思った。
僕は手帳を開き、通学利用、と書いた。
その下に、小さく付け足す。
日常の段差。
手帳の端で、その言葉だけが少し浮いて見えた。
聞き取り先の商店主は、僕の名刺を見るなり苦笑した。
「また船の話ですか」
「ご負担をおかけします」
「負担いうほどでもないけどね。聞かれるだけ聞かれて、決まることは決まっとるんでしょう」
返す言葉は、用意してあった。
「現時点で決定事項ではありません。利用状況と地域への影響を整理して」
「整理したら、軽うなるんですか」
商店主は、僕の言葉を遮らなかった。ただ、こちらが言い終える前にそう言った。
「船がなくなると困る人の話も、紙に整理したら、持ち運びしやすうなる。持ち運びしやすうなったら、捨てやすうもなる」
牛窓で聞いた言葉と似ていた。
船があるけえ帰れる人もおるんです。
僕は手帳に何も書けなかった。
商店主は、店の奥から古い帳面を出してきた。
「売上の記録じゃないですよ」
開かれたページには、配達先の名前と、船の時刻が細かく書かれていた。豆腐、乾物、雑誌、洗剤、薬。生活感のある品目が、日付ごとに並んでいる。
「昔は、島のほうへ持っていくものを船に預けとったんです。今は宅配もあるし、車もある。便利になった。でも、便利になったぶん、誰が何を待っとるか、見えにくくなった」
商店主は、帳面の端を指で押さえた。
「この人なんか、毎週同じ曜日に味噌を頼んでね。亡くなったあとも、しばらく僕は木曜になると味噌の数を間違えた」
笑い話のように言ったが、声は笑っていなかった。
「間違えるんですね」
「間違えますよ。人がひとりいなくなると、棚の数も、船の荷物も、間違える」
僕はその言葉を手帳に書こうとして、やめた。
人がひとりいなくなると、何が間違うのか。
母は、いまだに悠真の茶碗を捨てられない。父は、悠真の時計を直していない。僕は実家へ帰る日を毎年ごまかす。誰も同じ場所で間違えているわけではない。けれど、いなくなった人の分だけ、どこかの数が合わなくなる。
「若い人は、船がなくても困らんと言うかもしれん」
商店主は帳面を閉じた。
「でもね、困らんことと、さびしくないことは違うんです」
その言葉も、会議資料には向かなかった。
けれど、僕は今度は手帳に書いた。
困らないことと、さびしくないことは違う。
夕方までに三件回り、宿に荷物を置いた。会社が取った安いビジネスホテルは、海から少し離れた通り沿いにあった。窓からは港ではなく、隣の建物の壁が見える。スーツの上着を脱ぎ、机に資料を広げたが、文字が頭に入ってこない。
財布の奥から乗船券を取り出す。
行き先欄は空白だった。
だが、牛窓で見た「とおる」の字を、僕はもう疑っていない。
ホテルの机には、観光案内の冊子が置かれていた。表紙には、坂道と猫と海が写っている。ページをめくると、モデルコース、寺めぐり、カフェ、映画のロケ地。尾道は、外から来た人間が「尾道らしさ」を見つけやすいように整えられていた。
僕は冊子を閉じた。
昼間に乗った渡船の高校生たちは、たぶんそのどれも意識していない。彼らにとっての尾道は、朝の船と、坂のしんどさと、友人の自転車のブレーキ音だ。
冊子の写真はきれいだったが、あのブレーキ音は載っていない。
僕の手帳に残ったのは、写真ではなく音のほうだった。
十年前の夜、悠真は潮待ち航路に近い場所にいたのかもしれない。あの汽笛は、記憶違いではなかったのかもしれない。では、悠真はどこへ行ったのか。なぜ戻らなかったのか。なぜ今、僕の名前を呼ぶのか。
スマートフォンが震えた。
母からではなかった。会社の村瀬課長からのメッセージだ。
明日の午前、追加で尾道市内一件。資料は共有済み。
僕は了解しました、と返した。
続けて、母の番号を開く。
今なら、かけられる気がした。
呼び出し音を聞く前に、画面を閉じた。
夜の尾道は、昼間よりも坂が深く見えた。商店街の明かりはところどころ消え、路地の奥に階段が暗く伸びている。踏切の警報音が鳴ると、赤い光が壁に映り、坂の上の家々が一瞬だけ浮かんだ。
僕は港へ戻る途中、小さな画材店の前で足を止めた。
閉店後のショーウィンドウに、古い絵葉書が並べられていた。尾道の港、坂道、猫のいる路地、向島へ渡る船。どれも少し色褪せている。端に、作家名らしき署名が入っていた。
名前を残したい人間がいる。
反対に、名前を消したい人間もいる。
ガラスには、僕の顔と絵葉書が重なって映っていた。坂道の上に僕の目があり、港の水面に僕の口がある。観光用に切り取られた町の中へ、よそ者の顔が雑に貼りついているようで、少し居心地が悪かった。
店の奥は暗い。だが、棚の上に古いスケッチブックが一冊だけ開かれているのが見えた。売り物なのか、展示なのかはわからない。ページには、船の輪郭だけが鉛筆で描かれていた。色はない。人もいない。ただ、桟橋へ伸びる線だけが何度も引き直されている。
線は、迷った跡を残す。
資料のグラフは、迷った跡を消してくれる。一本の線で、増えたか減ったかがわかる。だが、本当はその線の下に、いくつもの引き直しがあるはずだった。乗るか乗らないか。残すか閉じるか。電話に出るか出ないか。帰るか帰らないか。
僕はショーウィンドウの前で、母の番号をもう一度開いた。
発信ボタンを押す。
呼び出し音が鳴る前に切った。
画面に、発信履歴だけが残った。母には通知が行ったかもしれない。すぐ折り返しが来るかもしれない。僕はそれが怖くなり、スマートフォンをポケットへ押し込んだ。
そのとき、店のガラスの中で、開かれたスケッチブックのページが一枚めくれた。
風はない。
めくれた先のページには、海と小さな桟橋が描かれていた。青とも灰色ともつかない水面、白い船、奥に低い山。
絵の端に、子どもが引いたような曲がった線が一本あった。
僕は息を止めた。
次の瞬間、踏切の警報音が鳴り、赤い光がガラスを横切った。もう一度見ると、スケッチブックは最初のページに戻っていた。船の輪郭だけの、何も起きていない絵。
見間違いだ。
そう思おうとして、できなかった。
午前零時十九分。
港のベンチに座るころには、僕はもう腕時計を見る前から時刻がわかるようになっていた。海の表面が、時間の変わり目を知っているように静まる。対岸の灯りがかすかに滲み、港の掲示板が一度だけ瞬いた。
潮待ち航路。
汽笛が鳴る。
霧の中から、古い木造船が現れた。
ミオは甲板の上で、空のバケツをひっくり返して座っていた。竹ぼうきは横に置いてある。僕を見るなり、面倒くさそうに片手を上げた。
「三回目」
「数えてるのか」
「数えとかないと、いつからいるのかわからなくなる」
冗談のように言ったが、声は少し硬かった。
船長は操舵室にいる。今夜の乗客は、甲板の端に立っていた。
老人だった。
背は高いが、痩せていて、古いコートが肩から落ちそうに見える。白い髪を後ろへ撫でつけ、片手にスケッチブックのようなものを抱えていた。もう片方の手には、一枚の絵葉書がある。
「お名前は」
僕が尋ねると、老人は笑った。
「忘れました」
ミオが露骨に嫌な顔をした。
「またそういう客」
「忘れたのではなく、捨てたんでしょう」
船長が操舵室から出てきた。
「名前を失くした客は厄介だ。行き先も、待つ者も、船が拾いにくくなる」
老人は悪びれなかった。
「名乗るほどの名ではありません」
「死んだあとまで格好つけるな」
船長の声は低かった。老人はそれでも笑っている。
僕は絵葉書に目を向けた。古い紙だった。表には、海と小さな桟橋が描かれている。青とも灰色ともつかない水面、白い船、奥に低い山。絵の端に、子どもが引いたような曲がった線が一本だけ混ざっていた。
裏面の宛名は、途中までしか書かれていない。
美和へ。
住所はない。差出人名もない。
「この方に届けたいんですか」
「娘です」
「今どこにいるかは」
「知りません」
僕は思わず顔を上げた。
「知らない?」
「長く会っておりませんので」
「どのくらい」
「四十年ほど」
ミオが小さく口笛を吹いた。
「長い家出」
「家出ではありません。出奔です」
「言い方変えても、帰らなかったのは同じ」
老人はミオを見て、初めて少しだけ表情を変えた。怒ったのではない。痛いところを突かれた人間の顔だった。
船が尾道の港を離れる。
夜の水道を、潮待ち航路は音もなく進んだ。対岸の灯りが窓に流れる。渡船の航路をなぞっているようで、どこか別の水面を走っているようでもあった。船内の古い客席には誰もいない。天井から下がった裸電球が、揺れていないのに影だけを揺らした。
ミオが乗船券を切った。
「名前」
「ありません」
「年」
「覚えていません」
「職業」
「絵描きでした」
「めんどくさい」
ミオは鉛筆を止め、こちらを見た。
「案内人、聞いて」
「何を」
「この人が誰に覚えられたいのか」
老人は客席に腰を下ろし、絵葉書を膝の上に置いた。指先は細く、ところどころ絵具が染みついているように見えた。死者になっても残る汚れがあるのだろうか。
「娘さんに謝りたいんですか」
僕は尋ねた。
老人は窓の外を見た。
「謝るべきことは、たくさんあります」
老人のスケッチブックは、表紙が擦り切れていた。膝の上に置かれたそれは、絵葉書よりもずっと重そうに見える。
「それも届けるんですか」
僕が聞くと、老人は首を振った。
「これは違います」
「見せてもらっても」
老人は少し迷ったあと、スケッチブックを開いた。
港の絵が続いた。尾道、牛窓、鞆の浦らしき町、どこかの灯台、知らない島の斜面。どれも上手いのだと思う。だが、どの絵にも人がいなかった。船はある。家もある。灯りもある。けれど、人だけが抜けている。
「人を描かなかったんですね」
「描けなかったんです」
老人は言った。
「描くと、帰らなかった人間の顔になる」
ページの端に、小さな子どもの手の落書きがあった。丸とも波ともつかない線。老人はそのページだけ、指で触れなかった。
ミオが横から覗き込んだ。
「人がいない」
老人は少しだけ眉を上げた。
「よく見ていますね」
「見ればわかる」
「人を描くと、嘘になる気がしまして」
「風景だって嘘になるよ」
ミオはあっさり言った。
「見たいところだけ残して、見たくないところを外すなら、同じ」
老人は黙った。
僕は少し驚いてミオを見た。彼女はスケッチブックから目を逸らさない。そこに描かれていない人影を探しているようだった。
「君は絵を見るんだな」
「見ないよ」
「今、見ている」
「これは絵じゃなくて、いない人の跡でしょ」
老人の指が、子どもの落書きのあるページの端で止まった。
「手厳しい船員さんだ」
「船員じゃない」
「では」
ミオは答えなかった。
自分が何者かを聞かれると、彼女はいつも少しだけ遅れる。その遅れに気づくたび、僕は踏み込むべきか迷う。迷っているあいだに、たいていミオのほうが先に話題を変える。
「娘さんは」
ミオは言った。
「この絵、好きじゃないと思う」
老人は苦笑した。
「でしょうね」
「でも、その線は見ると思う」
ミオは子どもの落書きを指した。
「自分の線なら」
その言い方には、いつもの皮肉がなかった。
ミオ自身も、どこかに自分の線を置き忘れているのだと思った。
本人はまだ、それを線とは呼べないだけで。
僕も同じかもしれない。
なくした形に、まだ名前をつけられない。
「たとえば」
「家を出たこと。妻を一人にしたこと。娘の入学式にも卒業式にも出なかったこと。母親が死んだときにも戻らなかったこと」
「それを謝りたい」
「そう言えば、あなたは納得しますか」
質問に質問で返されると腹が立つ。
「納得するかではなく、行き先を決めるために必要です」
「行き先なら、娘のところでしょう」
「どこにいるか知らないんですよね」
「船が知っているのでは」
老人は平然と言った。
僕は息を吐いた。
「都合がいいですね」
「死者ですから」
「死んだら何でも許されるわけじゃない」
言ってから、声が強すぎたことに気づいた。
老人は少し目を細めた。
「あなたは、誰に怒っているんです」
僕は黙った。
船長が操舵室で舵輪に手を置いている。こちらを見ていないようで、聞いている。ミオは絵葉書をじっと見ていた。
「これ」
ミオが言った。
「ここ、知ってる」
空気が変わった。
船長の手が、わずかに止まる。
「どこだ」
僕が聞くと、ミオは絵葉書を両手で持ち上げた。いつもの軽口が消えている。眉間に皺を寄せ、紙の中の小さな桟橋を睨む。
「知らない」
「知ってるって言った」
「知ってる感じがするだけ」
「ミオ」
「知らない」
彼女は絵葉書を老人へ突き返した。
船長は何も言わなかった。その沈黙が、かえって気になった。
老人は絵葉書を受け取り、表の絵を指でなぞった。
「これは、娘が引いた線です」
「娘さんが?」
「ええ。まだ小さかったころ、私の画帳に勝手に鉛筆で線を引いた。私はひどく怒りました。せっかく描いた絵を台無しにしたと」
老人は笑った。自分を笑っているのだとわかった。
「今見ると、あの線が一番いい」
絵の端にある、曲がった線。
子どもの落書きにしか見えない。だが老人は、それを消さずに絵葉書にして持っていた。
「家を出たのは、絵を描くためですか」
「そうです」
「売れたんですか」
「売れませんでした」
あまりにあっさり言うので、返事に困った。
「名前も変えた。師についた。賞に出した。旅をした。尾道も、倉敷も、松山も、長崎も行った。描いた絵は山ほどあります。残ったものは、ほとんどない」
「家族は」
「残してきました」
「残したんじゃなくて、捨てたんでしょう」
老人は僕を見た。
ミオが少しだけ目を伏せた。言いすぎだと思ったのだろう。僕もそう思った。けれど、止まらなかった。
「四十年会わなかった娘に、今さら絵葉書を渡して何になるんですか。謝りたいと言えば、相手が楽になると思ってるんですか。自分が楽になりたいだけじゃないんですか」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「あなたは、連絡しない相手がいる」
胸の奥を指で押されたようだった。
「関係ありません」
「ありますよ。怒り方でわかる」
「わかったようなことを」
「謝るのが怖いのではない。許されないのが怖いのでもない。もっと怖いことがある」
老人の目は、夜の水面のように暗かった。
「自分がいないあいだに、相手が自分なしで生きていたと知ることです」
言葉が出なかった。
母は、僕なしで生きている。
当然だ。僕はもう大人で、家を出ている。母には母の生活がある。だが、悠真のことに限っては違うと思っていた。母は今も十年前の夜にいる。僕と同じ場所に立っている。だから電話に出られないのだ、と僕は思っていた。
もし違ったら。
もし母が、僕より先に何かを受け入れ始めていたら。
それを知るのが怖いのかもしれない。
船が揺れた。
乗船券の行き先欄に、薄い文字が浮かぶ。ミオが目を凝らす。
「向島、じゃない。もっと先」
「娘さんのいる場所か」
僕が聞くと、老人は首を振った。
「わかりません。ただ、妻が亡くなる前に一度だけ手紙をくれました。美和は海の近くで、器を作っていると」
「器」
「絵ではなく、器を選んだ。私の娘なのに」
「あなたの娘だから、ではないですか」
老人は苦笑した。
「手厳しい」
船は尾道水道を抜け、島影の間へ入っていった。どの島なのか、夜の海ではわからない。けれど、絵葉書の港に近づいていることだけはわかった。ミオが黙っているからだ。
いつもなら軽口のひとつでも挟む彼女が、窓の外を見たまま動かない。
「本当に覚えてないのか」
僕が小声で聞くと、ミオは唇を尖らせた。
「覚えてたら言ってる」
「言わないこともあるだろ」
「あなたと一緒にしないで」
痛い返しだった。
船長が短く告げた。
「着くぞ」
小さな港だった。防波堤の先に灯りがひとつあり、斜面に家の明かりが点々と続いている。夜明け前の空はまだ暗い。潮待ち航路が桟橋に近づくと、絵葉書の紙がかすかに震えた。
老人は立ち上がろうとして、膝をついた。
「降りられない」
ミオが言った。
「名前がないから」
老人は苦しそうに笑った。
「やはり、そうですか」
「名乗れ」
船長の声が低く響いた。
「誰として、その葉書を渡す」
老人は黙っていた。
僕は待った。急かしても意味がないと思った。だが、東の空は少しずつ白んでいる。夜明けまでの時間は長くない。
「神林」
老人が言った。
「神林宗一」
その名前が甲板に落ちた瞬間、乗船券の空白に文字が浮かんだ。
神林美和。
ミオが切符を見て頷く。
「行ける」
「あなたは」
僕は老人を見た。
「謝りたいんですか」
神林宗一は首を振った。
「謝れば、私は少し楽になるでしょう。でも美和は楽にならない」
「では、何を」
「返したい」
彼は絵葉書を差し出した。
「あの子が私の絵に引いた線です。私は怒った。消そうとした。でも消せなかった。消したくなかった。私は家族を捨てたくせに、その線だけをずっと持っていた」
紙を受け取る。
「これを返して、どうなるんですか」
「何も」
神林は言った。
「何もならなくていい。許してくれなくていい。父親を名乗る資格もない。ただ、あの子が私の絵の中にいたことを、私だけのものにして死ぬのは違うと思った」
彼は絵葉書の裏へ目を落とした。
「美和は、小さいころから手がよく動く子でした。紙があれば線を引く。粘土があれば丸める。料理を手伝えば、団子の形をいつまでも直している。私はそれを見て、勝手に期待したんです。この子は絵を描くかもしれないと」
「それで」
「自分の続きにしようとした」
神林は言った。
「娘を見るのではなく、私の続きとして見た。だから、あの子が私の絵に線を引いたとき、怒った。絵を汚されたからではありません。私の思い通りの線ではなかったからです」
彼は苦く笑った。
「そのくせ、私はその線を消せなかった。勝手なものです」
それは謝罪よりも身勝手で、謝罪よりも正直に聞こえた。
港へ降りる。
ミオがついてきた。
「来るのか」
「この港、気になる」
「船を離れていいのか」
「ちょっとなら」
彼女はそう言ったが、船長は止めなかった。
港から坂を上がると、小さな工房があった。看板には「神林陶房」とある。窓の内側に、焼き上がった器がいくつか並んでいた。薄い青の釉薬がかかった器だ。夜明け前の光を受けて、海の色に見えた。
軒先には、乾ききっていない器が板の上に並べられていた。丸い皿、小さな湯呑み、片口の鉢。どれも少しずつ歪んでいる。機械で作ったものではないと、素人目にもわかった。青い釉薬は均一ではなく、縁のところで薄くなり、底に近い場所で濃く溜まっている。
工房の奥から、かすかに土の匂いがした。
ミオは器のひとつを覗き込み、指で触れようとして、途中で手を止めた。
棚には同じ形の皿がいくつも並んでいた。けれど、よく見ると一枚ずつ線が違う。縁の薄さ、釉薬の溜まり方、底に刻まれた小さな印。工業製品のように揃っているわけではない。手で作ったものが、手で作ったまま同じ顔をしようとしている。
「きれい」
ミオが小さく言った。
「触ればいい」
「割れたら嫌」
「君が触っても、割れないだろ」
「わからないじゃん」
ミオは真剣な顔で言った。
「わたしがどれくらい重いのか、わたしにもわからない」
返す言葉がなかった。
彼女は死者なのか、船の一部なのか、それともまだ別の何かなのか。軽口を叩き、竹ぼうきで僕の手を叩き、乗船券を切る。そのくせ、器ひとつに触れることを怖がっている。
ミオは指先を握り込んだ。
「こういうの、作った人は覚えてるのかな」
「器を?」
「どの線を、いつ引いたか」
「全部は無理だろ」
「だよね」
彼女は息を吐いた。
「全部覚えてなくても、自分のものって言えるんだ」
それは美和のことを言っているのか、神林のことを言っているのか、ミオ自身のことなのかわからなかった。
工房の土間には、乾きかけの粘土が布をかけられて置かれている。水を含んだ土の匂いは、海とは違う湿り方をしていた。潮の匂いは外へ引っ張る。土の匂いは、そこに留まらせる。
ミオはもう器に触ろうとしなかった。
指先を握ったまま、土間の奥を見ている。
「割れそう」
「触るな」
「触ってない」
いつものやり取りに近かったが、声にはまだ緊張が残っていた。
僕は戸を叩いた。
返事はすぐにはなかった。もう一度叩くと、奥で足音がした。
戸を開けたのは、五十代半ばくらいの女性だった。髪を短く切り、作業着の袖に白い土の粉がついている。眠っていた顔ではなかった。夜通し作業していたのかもしれない。
「どちらさま」
「神林美和さんですか」
女性の目が細くなった。
「そうですが」
「お父様のことで」
その言葉を出した瞬間、空気が固まった。
美和は戸にかけた手に力を込めた。
「父はいません」
「はい」
「死んだと聞きました」
「はい」
「なら、もう話すことはありません」
戸が閉まりかける。
僕は絵葉書を差し出した。
「これだけ、受け取ってください」
美和の視線が紙に落ちた。
彼女の顔色が変わった。
「どうして」
「お父様からです」
「父が、これを」
美和は絵葉書を受け取らなかった。ただ、表の絵を見つめている。曲がった一本の線。子どもの落書き。
「覚えていますか」
僕が聞くと、美和は笑った。笑ったというより、息が漏れた。
「覚えています。怒鳴られました。絵を台無しにしたって。母が泣いて、私も泣いて、父はそのまま部屋を出ていった」
「この線を、消さずに持っていました」
「だから何です」
返事は鋭かった。
「それで、父が本当は私を愛していたとでも?」
「そうは言っていません」
「許せと?」
「いいえ」
美和は僕を見た。
その目には、怒りがあった。怒り続けてきた人の、疲れた怒りだった。
「父は勝手でした。絵を描くと言って家を出て、母が病気になっても帰らなかった。私が手紙を書いても返事はなかった。私は父の絵が嫌いでした。父の名前も嫌いでした」
彼女はそこで言葉を切った。
「でも、器を作るとき、いつもこの港の色を選んでしまう」
窓の中の青い器を見た。
「嫌いなのに、残るんですね」
美和は小さく言った。
「家族って、そういうものなんでしょうか」
彼女は工房の奥へ目を向けた。
「母は、父の絵を全部捨てました。父が戻らないとわかったあと、押し入れに残っていたスケッチブックも、絵具も、額も。私は手伝いました。捨てるたびに、母は少しずつ元気になるように見えた」
美和は絵葉書から目を離さない。
「でも、一枚だけ、捨てられなかった絵があります。港の絵でした。父が描いたものではなく、私が真似して描いたものです。下手な線で、海が斜めになっていて、船も沈みかけている。母はそれを見て笑いました。父がいなくなってから、初めて笑った」
「その絵は」
「焼きました」
彼女は自分の手を見た。爪の間に白い土が残っている。
「焼き物を始めたころ、試しに小さな皿の底へ線を彫ったんです。そのとき、子どものころの絵を思い出しました。父の線じゃない。私の線です。でも、思い出すと、父のこともついてくる。腹が立ちました」
美和の声は淡々としていた。
「それでも、作るのをやめられなかった」
窓辺の青い器が、夜明け前の光を受けてかすかに白んだ。
僕は窓辺の青い器から目を離せなかった。
ミオが僕の隣で、絵葉書をじっと見ている。顔色が悪い。
美和はようやく、絵葉書を受け取った。
「許しません」
彼女ははっきり言った。
「父にも、あなたにも、そう伝えてください」
「わかりました」
「でも、これは受け取ります。これは、私の線だから」
彼女は絵葉書を胸に抱かなかった。泣きもしなかった。受け取った紙を、作業台の上に置いた。そこには、まだ焼かれる前の小さな皿が並んでいる。美和はそのうちの一枚を取り、竹串の先で、皿の底に短い線を引いた。
曲がった線だった。
絵葉書の端に残っていた線と、よく似ていた。
「これで終わりにするわけじゃありません」
美和は言った。
「たぶん、また怒る。思い出して、腹が立つ。でも、この線は私のものです。父に持っていかれたままにはしません」
絵葉書の端が少しだけ光った。紙は消えなかった。昨夜の櫛や、蓮の髪留めとは違った。美和の手の中に、確かに残った。
許しではない。
受け取り。
それだけで足りることもあるのだと、僕は初めて知った。
港へ戻る途中、ミオは一言も喋らなかった。坂を下る彼女の足音は軽い。生きている人間の足音ではないのかもしれない。けれど、今は確かに隣を歩いている。
「ミオ」
「なに」
「この港、思い出したのか」
彼女は首を振った。
「思い出してない」
「じゃあ、何でそんな顔をしてる」
「知らない場所なのに、帰り道みたいだった」
その言葉は、本人にも予想外だったらしい。ミオは口を閉じ、足を速めた。
船に戻ると、神林宗一は甲板に立っていた。僕の顔を見て、結果を察したようだった。
「許さないそうです」
「でしょうね」
「でも、受け取りました」
神林は目を閉じた。
長い息を吐く。
「それで十分です」
「十分なんですか」
「許されるために来たのなら、十分ではないでしょう。でも、あの線を返すためなら、十分です」
彼の身体が少しずつ透けていく。朝の光が、コートの輪郭を抜けて見えた。
「久坂さん」
「はい」
「電話は、出たほうがいい」
僕は眉をひそめた。
「余計なお世話です」
「ええ。死者の言葉は、だいたい余計です」
神林は笑った。
「ただ、生きている人は、まだ返事ができます」
その言葉を残して、彼は朝の霧の中へ消えた。
船は尾道へ戻らず、直接高松へ向かった。理由を聞くと、ミオは「船がそう決めた」とだけ言った。船長は操舵室から出てこない。
海の上で、僕はスマートフォンを取り出した。
圏外だった。
わかっていた。潮待ち航路の上では、現実の電波は届かない。それでも、母の番号を開いた。発信ボタンを押すことはできない。だが、画面に表示された名前を見ているだけで、胸の奥がざわついた。
高松港に着いたとき、朝の五時を少し過ぎていた。
桟橋に降りると、電波が戻る。スマートフォンが震え、未読の通知がいくつか入った。その中に、母からのメッセージがあった。
今年は帰ってこられますか。
それだけだった。
責める言葉はない。悠真の名前もない。帰ってこいとも、どうして電話に出ないのとも書かれていない。
僕はその短さに、かえって動けなくなった。
発信ボタンを押す。
呼び出し音が一回鳴った。
二回目が鳴る前に、僕は切った。
手のひらに汗が滲んでいた。
何もできなかったわけではない。
でも、何かができたとも言えなかった。
船のほうを見ると、ミオが甲板からこちらを見ていた。彼女の手には、神林の絵葉書があったはずの空白が残っているように見えた。
「案内人」
ミオが呼んだ。
「あの港」
「思い出したのか」
「違う。あそこじゃない」
彼女は自分の胸元を押さえた。
「あの絵葉書の海、三津浜じゃない」
操舵室の扉が開いた。
船長が初めて、はっきりとミオを見た。
「ミオ」
その声には、制止の響きがあった。
ミオは振り返らなかった。
「でも、三津浜を知ってる」
朝の港に、始発便の案内放送が流れ始めた。潮待ち航路の船体が霧に薄れていく。
僕は消えかける船を見つめながら、次の港の名前を胸の中で繰り返した。
三津浜。




