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瀬戸内幽霊航路  作者: うよし


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第二章 牛窓、帰れない少年

 朝になっても、乗船券は乾かなかった。


 高松港の待合所で目を覚ましたとき、最初に思ったのは、資料を置き忘れなくてよかった、ということだった。次に、膝の上で眠っていたせいで首が痛いと思った。そのあとでようやく、昨夜の船のことを思い出した。


 潮待ち航路。


 午前零時二十分発。行き先なし。


 濡れた着物の女。鞆の浦。朱塗りの櫛。常夜灯の下で消えた背中。


 夢だと思うには、記憶が細かすぎた。だが、現実だと思うには証拠が少なすぎる。待合所の防犯カメラを確認すれば何かわかるかもしれない。そう考えたが、会社の人間に「深夜に幽霊船を見たので映像を確認したい」と言えるほど、僕はまだ疲れていなかった。


 ポケットの中に、濡れた紙の感触があった。


 取り出すと、昨夜ミオが渡した乗船券がそこにある。厚紙は海水を吸ったように冷たいのに、印字は滲んでいない。


 久坂透。二十七。会社員。


 行き先の欄だけが、空白だった。


 僕はそれを財布の奥へ押し込んだ。


 午前七時半、出社すると、上司の村瀬課長が僕の顔を見て眉をひそめた。


「久坂、寝てないのか」


「少し、資料を見ていて」


「熱心なのは結構だが、倒れられるとこっちが困る」


 村瀬課長は、困るという言葉をよく使う。怒っているわけではない。心配しているわけでもない。業務上、想定外の事象はすべて「困る」に分類される。僕はその言い方が嫌いではなかった。人の感情を細かく扱うより、ずっと楽だからだ。


 課長は僕の机の上に置いた資料を指で叩いた。


「昨日の高松港の防犯カメラ、設備から問い合わせが来ていた」


 心臓が一拍遅れた。


「映像が飛んでいるらしい。零時二十分前後だけ、ノイズが入ってる。おまえ、その時間まで港にいたんだろ」


「資料を見ていました」


「何か見たか」


 幽霊船を見ました。


 濡れた女を鞆の浦へ送りました。


 手元には行き先のない乗船券があります。


 どれも言えるはずがなかった。


「いえ。照明が一度ちらついたくらいです」


「そうか。ならいい」


 課長はそれ以上追及しなかった。


 僕は財布の奥の乗船券を意識しながら、できるだけ普通の顔で頷いた。現実側にも、ほんの少しだけ穴が開いている。その穴を誰かが見つける前に、僕は見なかったことにしようとしていた。


 机に置かれていた今日の出張資料を開く。


 岡山県牛窓方面、小規模航路利用実態聞き取り。


 ページの上部にはそう書かれていた。昨夜見ていた廃止検討資料の関連調査だ。対象は定期航路というより、生活の足として細く残っている船便だった。利用者は少ない。採算は悪い。だが、代わりの交通手段は十分ではない。


 資料の後ろには、地元から集めた意見が添付されていた。


 病院に行くのに必要です。


 高校生の通学時間を考えてください。


 船がなくなるなら、島に残れません。


 どの声も、会議用の資料に入ると短くなる。短くなると、扱いやすくなる。扱いやすくなると、削りやすくなる。


 僕はページを閉じた。


 隣の席の後輩が、僕の資料を覗き込んだ。


「久坂さん、自由記述まで読むんですか」


「読むだろ」


「僕、正直あそこ苦手です。読むと判断しにくくなるんで」


 間違ってはいなかった。


 後輩は悪気なく続けた。


「数字だけなら、まあ仕方ないですよねって言えるんですけど。おばあちゃんの通院とか、高校生の通学とか書かれると、こっちが悪いことしてるみたいで」


「悪いことをしているわけじゃない」


 僕は反射的に言った。


 それは、少し前まで自分に言い聞かせていた言葉だった。


「ですよね」


 後輩は安心したように笑い、自分の席へ戻った。


 悪いことではない。


 でも、誰かの困ることではある。


 その二つを同じ箱に入れないようにするのは、思ったより難しい。


 机の上でスマートフォンが震えた。母からだった。


 昨日の夜に続いて、二度目の着信。僕は画面を見たまま、指を動かさなかった。五回、六回、七回。震動が止まる。留守番電話は、また残らない。


「出なくていいのか」


 隣の席の後輩が言った。


「あとでかけ直す」


 その「あとで」を、僕は何年も使っている。


 午後、牛窓へ向かった。岡山駅からバスに揺られ、窓の外に低い山と田畑と、ところどころに光る海が見え始める。港町に近づくにつれて、空気の中に潮の匂いが混ざった。


 牛窓は、穏やかな町だった。


 穏やか、という言葉は便利だ。人が少ないことも、店のシャッターが下りていることも、港に停まった船が動かないことも、そう言えば少しだけ美しく聞こえる。僕は仕事用の手帳に、港周辺の動線、待合所の状態、掲示物の古さを書き込んだ。


 待合所の壁には、古い時刻表が重ねて貼られていた。新しい紙の下から、前の時刻表の端が見えている。減便前の便、季節運航だった便、いつの間にか消えた便。港の時刻表は、嘘をつかなくても、少しずつ黙ることがある。


 ベンチには、買い物袋を膝に置いた老婦人が座っていた。僕が掲示物を見ていると、彼女は何の前置きもなく言った。


「この便、なくなるんですか」


「まだ決まっていません」


 最近、同じ答えばかりしている気がする。


「決まってから聞かれても、困りますけどね」


 老婦人は笑った。責める笑いではない。そういうものだと知っている人の笑いだった。


「息子のところへ行くのに使うんです。車はもう怖いし、バスは乗り継ぎが悪い。船なら、海を見ているうちに着く」


 僕は手帳に、買い物・通院・親族訪問、と書いた。


「親族訪問なんて、堅い字にせんでください」


 老婦人は僕の手元を見て言った。


「孫に会いに行く、でええでしょう」


 僕はペンを止めた。


 孫に会いに行く。


 資料の言葉としては使いにくい。けれど、そのほうが正確だった。


 聞き取りは予定通りに終わった。


 漁協の事務所で、年配の男性が言った。


「船は数字で見たら赤字でしょうな。でも、船があるけえ帰れる人もおるんです」


 僕は頷き、手帳に「生活維持の観点」と書いた。


 それ以上の言葉を、僕は持っていなかった。


 漁協の壁には、古い写真がいくつも貼られていた。大漁旗を掲げた船。港祭りの神輿。台風で傾いた桟橋を直している男たち。写真の中の人たちは、みんな日焼けしていて、笑うと目尻に深い皺が寄っている。


「それ、もう半分はおらん」


 事務所の男性が、僕の視線に気づいて言った。


「亡くなった方ですか」


「死んだのもおるし、町を出たのもおる。船を降りたのもおる。写真だけ見たら、みんな同じや」


 男性は壁の一枚を指差した。桟橋に子どもたちが並んでいる写真だった。小学生らしい子どもが、釣り竿を持って笑っている。ひとりだけ、こちらを見ずに海のほうを向いていた。


「子どもは海が好きに見えるでしょう」


「違うんですか」


「好きな子もおる。怖い子もおる。でも写真を撮ると、みんな港の子になる」


 その言い方が妙に残った。


 港の子。


 悠真は、港の子ではなかった。海の近くに住んでいたわけでもない。僕が連れ出さなければ、あの夜、防波堤に立つこともなかった。そう考えかけて、僕は手帳を閉じた。


「すみません、もう一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「船がなくなると、子どもたちは困りますか」


 男性は少し考えた。


「困る子もおるでしょうな。でも、子どもは案外すぐ慣れる。自転車で遠回りする。親が送る。学校を変える。そうやって形を変えていく」


 彼は窓の外の港を見た。


「ただ、町が子どもに見せる背中は変わる。船に乗って島へ渡る大人を見るか、車で橋を渡る大人だけを見るか。どっちがええとか悪いとか、簡単には言えんけど」


 僕は手帳に書いた。


 町が子どもに見せる背中。


 書いてから、線を引くか迷った。


 結局、端に小さく丸をつけた。


 外へ出ると、港の隅で小さな男の子が母親に手を引かれていた。母親は買い物袋を持ち、子どもは紙パックのジュースを抱えている。歩く速度が合わず、子どもが何度もつまずきかける。そのたびに母親は振り返り、叱るでもなく、少し手を緩めた。


 僕はその様子を、見すぎないようにした。


 子どもが母親の手を離す場面を、僕の身体はまだうまく受け取れない。


 事務所を出ると、港のそばに小さな文具店があった。入口のガラス戸に、色褪せたシールや、子ども向けのくじの紙が貼られている。店先のワゴンには、髪留めやキーホルダー、安いボールペンが並んでいた。


 青いガラスの髪留めが、ひとつだけ残っていた。


 僕はそれを見て、なぜか足を止めた。まだ蓮には会っていない。だから、その髪留めが何を意味するのか知るはずもなかった。ただ、海の色に似ていると思った。晴れた昼の海ではなく、夜の船の窓に映る、少し暗い青だった。


 店の奥から、年配の店主が顔を出した。


「それ、昔よう売れたんですよ。子どもが母の日や誕生日に買っていくんです」


「今は」


「今は、子どもが少ないけえね」


 店主は笑った。


「でも、たまに売れる。小さい子が握りしめた小銭で買っていく。包装してやると、宝物みたいに持って帰るんです」


 僕はその髪留めを買わなかった。


 買う理由がなかったからだ。


 代わりに、安いボールペンを一本買った。


 レジ横に置かれていた、青い軸のものだ。百円もしない。店主はそれでも、紙袋に入れようかと聞いた。


「そのままで大丈夫です」


「仕事で使うんですか」


「はい」


「ええこと書いてください」


 冗談のように言われたのに、うまく笑えなかった。


 店を出て、僕はそのボールペンで手帳に線を引いた。インクは少しかすれていた。新品なのに、最初の数センチだけ色が薄い。何度か試し書きをすると、ようやく青が濃くなった。


 文具店のガラス戸の向こうで、青い髪留めがまだ光っている。


 誰かに渡されるはずだったもの。


 誰かが買いに来るかもしれないもの。


 その時点では、ただそれだけだった。


 それなのに、夜になって蓮がランドセルから同じ色の髪留めを出したとき、昼間の文具店のガラス戸と、店主の声が急に戻ってきた。


 夕方、帰りのバスまで少し時間があった。港のベンチに座って資料を整理する。海は凪いでいて、細かい光が水面に散っていた。観光案内板には、前島、オリーブ園、古い町並みの写真が並んでいる。どれも、昼の顔をしていた。


 財布の奥が、冷たくなった。


 取り出すと、乗船券が湿っている。朝よりも、はっきりと濡れていた。行き先の空白に、薄い灰色の線が浮かぶ。文字になりかけて、また滲む。


 牛窓。


 そう読めた気がした。


 僕は立ち上がった。


 帰ればいい。そう思った。昨夜のことは体調不良だ。睡眠不足と、弟の命日が近いことと、母からの電話が重なって、ありもしないものを見た。そう片づけることはできる。


 だが、乗船券は手の中で冷たかった。


 バスは行ってしまった。


 夜の牛窓港には、人の気配がほとんどなかった。昼間は穏やかに見えた海が、夜になると急に深くなる。係留された船のロープが、風もないのに小さく鳴った。遠くの島影は黒く、港の灯りは水面に細く伸びていた。


 午前零時十九分。


 僕は待合所の前で腕時計を見た。


 何をしているのか、自分でもわからなかった。幽霊船を待つ会社員など、どう考えても正常ではない。けれど帰れなかった。帰らない理由を、乗船券のせいにしていた。


 零時二十分。


 時刻が変わった瞬間、港の掲示板が一度だけ瞬いた。


 潮待ち航路。


 今度は驚かなかった。驚かないことに、驚いた。


 海の向こうから、低い汽笛が聞こえる。


 霧が出た。さっきまで晴れていたはずなのに、桟橋の先から白い霧が流れ込み、港の輪郭を曖昧にしていく。その中から、古い木造船の灯りが浮かんだ。


 船首に「潮待ち」とある。


 甲板では、ミオが竹ぼうきを持って立っていた。


「来ると思った」


「呼んだのか」


「呼ぶのは船。わたしは待つだけ」


「船長は」


「機嫌悪い」


「なぜ」


「あなたが来るか来ないかで賭けて、わたしが勝ったから」


 ミオは少しだけ得意そうに言った。昨夜と同じ制服、同じ短い髪、同じ年齢のまま。だが、港の霧の中で見ると、彼女もまた本当に生きているのかわからなくなる。


 船長は操舵室の窓越しにこちらを見ただけだった。


「今夜は誰を」


 僕が言うと、ミオは桟橋の奥を指した。


 そこに、少年が立っていた。


 小学校高学年くらいだろうか。背中にランドセルを背負っている。髪は額に張りつき、半袖のシャツから伸びた腕は細い。膝まで水に浸かっていたように、ズボンの裾が濡れている。


 少年は僕を見ると、ほっとしたような顔をした。


「あの」


「どうした」


「家に帰りたいんです」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が嫌な形で縮んだ。


 悠真も、死んだときは十二歳だった。


 いや、死んだと決めつけるな。母ならそう言う。けれど目の前の少年は、間違いなくこちら側の子どもではなかった。濡れた靴の下に水たまりができない。背負ったランドセルの金具が錆びているのに、本人はそれに気づいていない。


「名前は」


「佐伯蓮」


「住所は言えるか」


「言えます。牛窓の、えっと、港から坂を上がったところで、青い屋根の家です。お母さんが待ってるから」


 ミオが小さく首を振った。


「たぶん、そこじゃない」


「なぜ」


「帰りたいって言う子は、だいたいそこじゃない」


 少年、蓮は不安そうに僕たちを見比べた。


「帰れないんですか」


「帰れる」


 僕は反射的に答えていた。


「帰れるようにする」


 ミオが僕を見た。その目には、責めるような色があった。


「簡単に言わないほうがいい」


「子どもを不安にさせる必要はない」


「子どもだから嘘をつかない、と思ってるなら違うよ」


 船長の声が操舵室から落ちてきた。


「乗せろ。夜明けは待たん」


 蓮を船へ乗せると、船はすぐに桟橋を離れた。牛窓の灯りが後ろへ流れていく。霧は船の周りだけ濃く、少し離れた海は黒く澄んでいた。ミオが乗船券箱から切符を一枚抜き、蓮に尋ねる。


「佐伯蓮。十二歳。ほかには」


「ほか?」


「行き先」


「家」


 ミオは鉛筆を止めた。


 切符の行き先欄に、黒い染みが広がる。文字になりかけて、すぐ消えた。


「ほら」


 ミオは僕に切符を見せた。


「船が迷ってる」


「住所を聞けばいい」


「住所で降ろせるなら、案内人はいらない」


 苛立ちが湧いた。


 昨夜から、この船の連中は肝心なことを言わない。わからないことを謎めいた言葉で包み、こちらが間違えるのを待っているように見える。


「説明しろ」


「してる」


「してない」


「じゃあ、あなたが聞いて」


 ミオは蓮のほうを見た。


「この子が、本当にどこへ帰りたいのか」


 蓮は甲板の隅で、ランドセルを膝に抱えていた。濡れているはずのランドセルからも、水は落ちない。僕は隣にしゃがむ。


「お母さんは、待ってるんだな」


「うん」


「最後に会ったとき、何か言った?」


 蓮は目を逸らした。


「普通」


「普通って」


「いってきますって」


 嘘だと思った。


 理由はわからない。ただ、言葉が軽すぎた。死者の言葉は重いものだと、勝手に思っていたのかもしれない。だが蓮の「いってきます」は、机の端から落ちそうな鉛筆みたいに不安定だった。


「喧嘩したのか」


 蓮は答えない。


 船が大きく揺れた。牛窓の港に近づいているように見えたが、次の瞬間、灯りは遠ざかった。船は同じ場所をぐるぐる回っている。


 船長が操舵室から言った。


「帰りたいという言葉は、いちばん曲がりやすい」


「どういう意味ですか」


「帰りたい場所と、帰らねばならん場所は違う」


 蓮の顔が青ざめた。


 ミオがその変化を見逃さなかった。


「蓮。お母さんと何を喧嘩したの」


「喧嘩じゃない」


「じゃあ、何」


「僕が悪いだけ」


 ランドセルの中で、何かが小さく鳴った。金属かガラスがぶつかる音。蓮は慌ててランドセルを抱きしめる。


「それ、何」


「何でもない」


 ミオが僕を見た。


 聞け、という目だった。


「蓮」


 僕はできるだけ静かに言った。


「何でもないものなら、船は迷わない」


 蓮は唇を噛んだ。子どもらしい顔だった。怒られたくない、でも黙っているのも苦しい。そういう顔を、僕は知っている。


 悠真もよく同じ顔をした。


 兄ちゃん、ほんとは。


 記憶の奥で、弟の声がした。


 ほんとは、何だ。


 僕はその続きを知らない。知らないのではなく、聞かなかったのだ。十年前の夜、悠真が言いかけた何かを、僕は「あとで」と遮った。早く港へ行きたかったから。雨が降る前に帰れば平気だと思っていたから。


 蓮がランドセルを開けた。


 中から出てきたのは、小さな紙袋だった。店の名前は滲んで読めない。中には、青いガラスの髪留めが入っていた。安いものだ。けれど、夜の船の灯りを受けると、海の底から拾い上げた欠片のように光った。


「お母さんの誕生日だった」


 蓮は言った。


「でも、お金、勝手に持っていった。あとで返すつもりだった。お母さん、財布のお金がないって言って、僕が取ったんでしょって。僕、違うって言った。ほんとは違わないのに」


「それで家を出たのか」


「こんな家、帰らないって言った」


 蓮の声が震えた。


「お母さん、じゃあ勝手にしなさいって。僕、ほんとに勝手にした。港まで走って、船を見て、髪留め買って、帰ろうとして」


 言葉が途切れた。


「雨が降ってた」


 僕は息を止めた。


 雨。


 濡れた防波堤。滑る靴底。弟の背中。


「お母さん、僕が怒って出ていったと思ってる。ずっと、そう思ってる。僕、違うって言いたい。ちゃんと帰るつもりだったって」


「じゃあ、家へ」


「だめ」


 蓮は首を振った。


「家の前まで行くと、足が動かない。お母さんがいるから。お母さん、まだ僕の部屋をそのままにしてる。夜になると、玄関の電気つける。僕が帰ってくるかもしれないからって」


 家に帰りたい。


 それは嘘ではなかった。


 でも、本当でもなかった。


 蓮は家に帰りたいのではなく、帰ってくるはずの子どもを待ち続ける家を終わらせたいのだ。


「案内人」


 ミオが言った。


「わかった?」


「たぶん」


「たぶんじゃ困る」


「お母さんに、これを渡せばいい」


 僕は髪留めを見た。


「蓮は帰らない。帰れない。でも、帰るつもりだったことを伝える」


 蓮は泣きそうな顔で僕を見た。


「お母さん、怒るかな」


「怒るかもしれない」


「やっぱり」


「でも、怒れるなら、そのほうがいい」


 言いながら、自分でも驚いた。


 僕は母に怒られることから逃げ続けている。責められるのが怖い。泣かれるのが怖い。まだ悠真は帰ってくるかもしれないと言われるのが怖い。どんな顔をすればいいかわからないから、電話に出ない。


 船が進路を変えた。


 牛窓の港が近づく。さっきまで遠ざかっていた灯りが、今度はまっすぐこちらへ伸びてきた。蓮の切符の行き先欄に、ゆっくり文字が浮かぶ。


 青い屋根の家。


 地名ではなかった。


 ミオが頷いた。


「今なら降りられる」


 夜明け前の町は静かだった。僕は蓮から髪留めを受け取り、港から坂を上がった。蓮は船を降りられない。ミオもついてこない。船長はいつものように何も言わない。


 青い屋根の家は、すぐにわかった。


 玄関の灯りがついていたからだ。


 午前三時を過ぎている。普通なら消えているはずの灯りが、帰りの遅い子どもを待つように、ぼんやりと足元を照らしていた。


 門柱の脇には、小さな傘立てがあった。大人用の傘が二本、その隣に、骨の曲がった子ども用の傘が一本。黄色い持ち手には、名前シールの跡だけが残っている。表札の下には、古い防犯ブザーのステッカーが貼られていた。


 玄関先の鉢植えは手入れされている。枯れてはいない。だが、どれも少し伸びすぎていた。家が荒れているわけではない。生活は続いている。ただ、どこか一箇所だけ、時間が止まっている。


 僕はインターホンを押せなかった。


 手の中の紙袋が軽すぎる。こんなものを持って、知らない母親の前に立ち、あなたの息子は死者の船に乗っていましたと言えるはずがない。昨夜の櫛のときは、流れに押されてできた。今は違う。考える時間があるぶん、足が止まる。


 玄関の向こうで、物音がした。


 引き戸が細く開く。


 出てきた女性は、まだ四十代に見えた。髪を後ろで雑に結び、カーディガンを羽織っている。目の下に濃い隈があった。寝ていなかったのだと思った。


「どちらさまですか」


 僕は名刺を出そうとして、やめた。


 会社名を名乗っても意味がない。


「佐伯蓮くんのことで」


 女性の顔が固まった。


 僕は紙袋を差し出した。


「これを、渡すように頼まれました」


 彼女は受け取らなかった。


「誰に」


「蓮くんに」


 自分の声が、ひどく頼りなかった。


 女性は僕を見た。疑い、怒り、恐れ。そのすべてが一瞬で通り過ぎる。深夜に突然現れた男が、死んだ息子の名前を出している。警察を呼ばれても仕方がない。


 それでも彼女は、紙袋から目を離せなかった。


「中を」


 僕が言うと、彼女は震える手で袋を開けた。


 青いガラスの髪留めが、玄関の明かりを受けて光った。


 女性は息を呑んだ。


「これ」


「お誕生日に渡すつもりだったそうです」


 女性は首を振った。


「あの子、お金を取って」


「買いに行ったんです。黙って持ち出したことは、謝っていました」


 言葉を選ぶ余裕はなかった。


「帰らないと言ったけど、帰るつもりだったと。怒って出ていったままじゃないと。それを伝えてほしいと」


 女性の膝が崩れた。


 僕は慌てて支えようとしたが、彼女は玄関の框に手をつき、自分で踏みとどまった。髪留めを両手で包み込む。


「帰ってくると思ってた」


 彼女は小さく言った。


「怒らなければよかったって。玄関の灯り、消したら、あの子が本当に帰れなくなる気がして」


 紙袋の角が、指の汗で柔らかくなっていた。


「あの子、寒くなかったですか」


 その問いに、どう答えればいいのかわからなかった。


 寒かったと思います、とは言えない。大丈夫でした、と言うのも違う。だから僕は、蓮が船の上で髪留めを大事に抱えていたことだけを話した。家に帰るのを怖がっていたこと。怒られるかもしれないと心配していたこと。それでも、渡してほしいと言ったこと。


 女性は泣かなかった。


 ただ、玄関の灯りを見上げた。


「もう、消してもいいんでしょうか」


 僕は頷いた。


「たぶん」


 たぶん、という言葉しか出なかった。


「消しても、蓮くんがいなくなるわけじゃないと思います」


 女性はスイッチに手を伸ばす前に、廊下の奥を振り返った。


 そこに、半開きの扉があった。子ども部屋だとすぐにわかった。机の上に、教科書が積まれている。壁には、夏休みの工作らしい紙の船が貼ってあった。ランドセルを置くための棚だけが空いている。


 扉の隙間から、鉛筆削りの赤いハンドルが見えた。机の端には、使いかけの消しゴムと、キャップのない水性ペンが転がっている。カレンダーは、蓮がいなくなった月のままだった。母親がめくり忘れたのではない。そこから先を、めくれなかったのだろう。


 床には、小さなスリッパが揃えて置かれていた。


 帰ってきたら履くためのものなのか、掃除のたびに邪魔にならないよう揃え直しているうちに、そういう形で固まってしまったのかはわからない。


 壁の紙の船は、折り紙ではなく画用紙を切って貼ったものだった。青いクレヨンで波が描かれ、船体には「れん」とひらがなで名前が書いてある。字は少し右に傾いていた。


 僕はその字を見て、悠真の「とおる」を思い出した。


 子どもの字は、いなくなったあとも子どものままだ。


 大人だけが、その字を見るたびに年を取っていく。


「片づけようとしたんです」


 女性は言った。


「何度も。服も、教科書も、靴も。でも、片づけるたびに、私があの子を追い出したみたいで」


 彼女は青い髪留めを握りしめた。


「あの子、嘘が下手でした。財布のお金を取ったんでしょうって聞いたとき、目を逸らした。私はそれで腹が立って。嘘をつく子に育てた覚えはないって、言いました」


 蓮が船の上で見せた顔を思い出す。


 怒られるかもしれないと、まだ心配していた顔。


「嘘じゃなかったんですね」


 女性は言った。


「嘘だったけど、私が思っていた嘘じゃなかった」


 青い髪留めの金具が、女性の爪に当たって小さく鳴った。


 蓮が船の上で、ランドセルを抱え直したときと似た音だった。


 女性はしばらく黙っていた。それから、玄関脇のスイッチに手を伸ばした。


 灯りが消えた。


 暗くなった玄関で、青い髪留めだけが、少しの間、海の色を残していた。


 港へ戻ると、蓮は船の縁に立っていた。さっきまで濡れていたランドセルは、もう軽そうに見える。


「怒ってた?」


「怒ってた」


 蓮は肩を落とした。


「でも、受け取った」


「泣いた?」


「泣いてはいなかった」


「そっか」


 蓮は少し笑った。


「お母さん、泣くの嫌いだから」


 船が港を離れた。


 蓮はもう怖がっていなかった。ミオが切符を渡すと、彼はそれを両手で受け取った。行き先欄には、青い屋根の家、ではなく、小さく「ただいま」と浮かんでいた。


「これ、どこに着くの」


 蓮が聞く。


 船長が答えた。


「おまえが、もう帰らんでいい場所だ」


 蓮は考えるように首を傾げた。


「変なの」


「死んだあとまで、わかりやすい場所ばかりではない」


 ミオが蓮のランドセルを軽く叩いた。


「いってらっしゃい」


「ただいまじゃないの」


「今は、いってらっしゃい」


 蓮は笑った。


 それから、ランドセルを下ろした。


「これ、持っていける?」


 ミオは首を振った。


「たぶん無理」


「そっか」


 蓮は少し残念そうに、ランドセルのふたを撫でた。角のところに、小さな傷がある。名前シールの端は剥がれかけていた。


「宿題、入ってる」


「やってないの」


「やってる途中だった」


「じゃあ、先生に怒られるね」


 ミオが言うと、蓮は困ったように笑った。


「もう怒られないの、変だね」


 その一言で、甲板の空気が少しだけ冷えた。


 蓮はランドセルをミオに差し出した。


「置いていく」


「船に?」


「うん。家に持って帰ったら、お母さんまた片づけられないと思うから」


 ミオは珍しく、すぐには受け取らなかった。


「いいの」


「うん」


 蓮は頷いた。


「髪留めは渡せたから」


 ミオはランドセルを受け取り、客室の忘れ物棚ではなく、自分の足元に置いた。


「あとで船に聞く」


「船、怒る?」


「たぶん、ちょっとだけ」


 蓮は安心したように笑った。


 霧の向こうに、小さな桟橋が見えた。どこの港でもない。街灯も、看板も、待合所もない。ただ、朝焼けのような薄い光だけがある。蓮はそこへ降りていった。一度だけ振り返り、僕に頭を下げた。


 弟と同じ年の子どもが、知らない場所へ去っていく。


 手すりを握った指だけが、しばらく離れなかった。


 船がまた動き出す。


 ミオが隣に立った。


「子どもの乗客は嫌いだ」


「君も子どもだろ」


「見た目の話をしてるなら、そうかもね」


「違うのか」


 ミオは答えなかった。


 沈黙のあと、彼女はぽつりと言った。


「子どもは、帰りたがるから」


 その言い方に、胸の奥が引っかかった。


 僕は十年前の夜を思い出していた。


 雨が降っていた。悠真は傘を両手で握りしめて、僕の後ろを歩いていた。港まで行こうと誘ったのは僕だ。夜の海が見たいと言ったのも僕だ。悠真は本当は乗り気ではなかった。


 兄ちゃん、ほんとは。


 あのとき、悠真は言った。


 僕は振り向きもせずに答えた。


 あとで聞く。


 あとで。


 そのあとで、汽笛が鳴った。


 僕は手すりに額を押しつけた。木の冷たさが皮膚に染みる。


「悠真は」


 名前を出した瞬間、ミオの気配が変わった。


「僕の弟は、あの夜、何か言おうとしていた」


「わたしに言われても」


「君は、知ってるんじゃないのか」


 ミオは唇を結んだ。


「知らない」


「昨夜もそう言った」


「まだ知らないって言った」


「まだ?」


 ミオはしまった、という顔をした。すぐにそっぽを向く。


「船に聞いて」


「船は答えない」


「じゃあ、まだ聞くときじゃない」


 苛立った。ミオに怒っているのではない。何も知らないまま十年を過ごし、知るのが怖いくせに答えだけを欲しがっている自分に腹が立った。


 高松港へ戻ったとき、空は白み始めていた。


 船長は僕を降ろす前に、短く言った。


「今夜の子は、嘘をついた」


「悪意はなかった」


「悪意のある嘘より、悪意のない嘘のほうが、深く沈むことがある」


 船長の目は、僕を見ていた。


「生者も同じだ」


 返す言葉がなかった。


 桟橋に降りる。船は霧の中へ遠ざかる。ミオが何かを投げた。反射的に受け取ると、僕の乗船券だった。


「また忘れてる」


「わざとだ」


「捨てても戻るって言った」


 切符は昨夜より冷たかった。行き先欄は空白のまま。そう思った瞬間、そこに薄い文字が浮かんだ。


 とおる


 子どもの字だった。


 僕は息を止めた。


 悠真は、僕の名前を漢字で書けなかった。小さいころ、何度教えても「透」ではなく、ひらがなで「とおる」と書いた。誕生日のカードも、夏休みの宿題の家族紹介も、いつもそうだった。


 文字はすぐに消えた。


 顔を上げると、ミオがこちらを見ていた。血の気の引いた顔をしている。


「今の」


 僕が言う前に、船は霧に隠れた。


 朝の港には、鳥の声と、始発便の準備をする作業員の足音が戻ってくる。


 手の中の乗船券は、何事もなかったように空白だった。


 だが僕はもう、見間違いだとは思えなかった。

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