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瀬戸内幽霊航路  作者: うよし


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第一章 午前零時二十分発、潮待ち航路

 午前零時を過ぎると、港の時刻表は嘘をつく。


 もちろん、そんな話を本気にしていたわけではない。港にはいくらでも噂がある。霧の日にだけ鳴る汽笛。沈んだ船の灯。最終便のあと、桟橋の端に立っている白い服の女。待合所の隅で夜を明かす船員たちは、眠気と酒と退屈をまぜて、そういう話をいくつも作る。


 僕はそういうものを、業務外の雑音として扱うことにしていた。


 高松港の待合所には、最終便を逃した人間すら残っていなかった。券売機の液晶には「本日の運航は終了しました」と赤い文字が浮かんでいる。売店のシャッターは下り、ベンチの下には誰かが落としたレシートが一枚、空調の風に合わせてゆっくり震えていた。


 窓の外では、黒い海に灯りが散っている。遠くの島影は夜に溶け、フェリーの着かない桟橋だけが、街灯に照らされて白く浮かんでいた。


 僕はベンチに腰掛け、膝の上で資料の束をそろえた。


 瀬戸内連絡汽船、東備・小豆島補助航路、廃止検討資料。


 表紙にはそう印字されている。中身はもっと素っ気ない。乗船率、燃料費、人件費、船体修繕費、自治体補助の推移。赤字の数字は、赤いインクで印刷されるわけではない。ただ黒い数字が、前年度より少しずつ悪くなっているだけだ。だから余計にたちが悪い。誰かの生活が削られていく音は、紙の上では聞こえない。


 航路整理課に配属されて二年になる。僕の仕事は、残す航路と閉じる航路を判断するための材料を作ることだった。判断するのは上の人間だ。僕ではない。そう言い聞かせていれば、たいていの書類は処理できた。


 たいていのものは、数字にすれば終わる。


 昼間の会議でも、同じような言葉が何度も出た。


 効率化。


 持続可能性。


 代替交通。


 どれも必要な言葉だ。船員の人手は足りない。燃料費は上がる。古い船を直すには金がかかる。乗客が少ない便をいつまでも走らせられないことくらい、僕にもわかる。


 会議室の長机には、紙コップのコーヒーと、誰かが開けたままのタブレット端末が並んでいた。画面には航路別の収支グラフが映っている。青い棒が収入、灰色の棒が支出。灰色は年々高くなり、青は少しずつ低くなっていた。


「この便、なくしても大丈夫か」


 部長がそう聞いた。


 大丈夫です、と誰も言わなかった。だが、難しいですね、とも言わなかった。僕は資料をめくり、代替バス路線の時刻表を示した。


「通院時間帯については、一部迂回になりますが代替可能です」


 自分の声は、会議室ではよく通った。


「一部ってどれくらい」


 村瀬課長が聞いた。


「乗り継ぎを含めて、最大で五十八分増です」


「一時間か」


「はい」


 部長は眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。五十八分は、一時間より少し短い。資料の上ではそうだ。けれど、病院へ行く老人にとっての五十八分がどれくらいなのか、僕は知らない。知らないまま、表の脚注に「最大五十八分増」と入れた。


 会議が終わったあと、村瀬課長が僕の席に来た。


「久坂、数字は悪くない」


「ありがとうございます」


「でも、悪くない数字で人を納得させようとするな」


 僕は顔を上げた。


 課長は紙コップを潰し、ゴミ箱へ投げた。外れた。紙コップは床を転がり、会議室の隅で止まった。


「数字は逃げ場にもなる」


 それだけ言って、課長は紙コップを拾いに行った。


 僕はその言葉を、資料のどこにも書かなかった。


 資料の後ろには、利用者アンケートの自由記述が綴じられていた。


 母の通院に使っています。


 朝の便がなくなると、学校に間に合いません。


 墓参りのたびに、船があってよかったと思います。


 こういう文章は、会議では扱いにくい。長い。感情が入っている。誰が書いたのかも、どの程度切実なのかも、数字では測れない。だから僕はいつも、要約欄に短く書き直す。


 医療利用あり。


 通学利用あり。


 帰省・墓参利用あり。


 短くすれば、資料に収まる。資料に収まれば、議題に上がる。議題に上がれば、判断できる。そういう順番で仕事は進む。


 けれど、その夜はなぜか、墓参りという言葉のところで手が止まった。


 悠真の墓はない。


 遺体が見つからなかったからだ。母は墓を作ることに最後まで反対した。父は何も言わず、寺との話も途中で止めた。家には仏壇もない。あるのは、居間の棚に置かれた悠真の写真と、使われないままの子ども用の茶碗だけだ。


 墓参りに行ける人は、少なくとも行く場所がある。


 そう考えてしまい、僕は自由記述のページを閉じた。


 けれど、その夜の資料には古い付箋が残っていた。


 明石方面、過去事故記録要確認。


 文字を見た瞬間、指先が止まった。付箋は前任者が貼ったものだろう。僕の字ではない。会社の共有棚から引っぱり出した古いファイルだから、どこで混ざったのかもわからない。


 それでも、胸の奥が冷えた。


 明石。


 その二文字だけで、十年前の夜が喉元まで戻ってくる。濡れた防波堤。風に裏返るビニール傘。名前を呼ぶ母の声。海面を照らすライト。何度も聞かれた「最後に見たのはいつですか」という問い。


 僕は付箋をはがし、資料の最後に押し込んだ。


 スマートフォンの画面をつけると、不在着信が一件残っていた。母からだった。二十三時四十六分。留守番電話はない。


 僕は画面を伏せた。


 母が何を言いたかったのかは、だいたいわかる。来月が悠真の命日だからだ。命日という言い方を、母は嫌う。遺体が見つからなかったのだから死んだと決めつけるな、と十年たった今でも言う。父は何も言わない。何も言わないまま、仏壇のない居間に、悠真が小学生のころの写真だけを飾っている。


 僕は今年も実家に帰るつもりがなかった。


 帰らない理由なら、いくらでもある。


 仕事が忙しい。出張が入っている。航路再編の資料が詰まっている。父も母も、僕が顔を出せば余計につらくなる。実家へ帰る電車の中で、僕はどうせ黙っているだけだ。母は悠真の話をし、父は新聞を読み、僕は食卓の端に置かれた使われない茶碗から目をそらす。


 毎年、そういう理由を少しずつ組み替えて、帰らなかった。


 スマートフォンには、母との短い履歴が残っている。


 今年は帰れそう?


 まだわからない。


 体に気をつけて。


 うん。


 それだけだ。文章にすると、親子の会話というより業務連絡に近い。僕は返信を短くすることで、母を傷つけていないつもりでいた。長く書けば、悠真の名前が出る。名前が出れば、何かを答えなければならない。


 悠真の最後の写真は、小学校の修学旅行のものだった。


 集合写真の端で、少し眠そうな顔をしている。前髪が跳ねていて、名札が傾いている。僕はその写真を見るたび、名札を直してやりたくなる。直せないことはわかっているのに、見るたび同じところが気になる。


 母はきっと、その写真の前に今日も水を置いている。


 仏壇ではない棚に。


 死んだと認めたくないのに、喉が渇かないように。


 資料の束を鞄に入れようとしたとき、待合所の照明が一度だけ瞬いた。


 顔を上げる。


 壁の電光時刻表に、見慣れない表示が混ざっていた。


 零時二十分発 潮待ち航路


 行き先の欄は空白だった。


 僕はしばらく、その文字を見ていた。最初に思ったのは、システムの誤表示だ。港の案内板は、ときどき古いテストデータを吐く。特に深夜のメンテナンス前後には珍しくない。


 腕時計を見る。午前零時十九分。


 馬鹿馬鹿しいと思いながら、スマートフォンを持ち上げた。証拠として撮っておけば、明日の朝に設備担当へ送れる。画面を時刻表へ向ける。


 カメラ越しの時刻表には、何も表示されていなかった。


 通常通り、最終便の時刻で止まっている。肉眼で見ると、そこに「潮待ち航路」の文字がある。画面で見ると、ない。僕は何度か角度を変えた。やはり写らない。


 そのとき、海の向こうから汽笛が聞こえた。


 低く、長い音だった。


 身体が先に覚えていた。膝の裏から力が抜け、手の中のスマートフォンが滑りそうになる。十年前、弟が海に消えた夜にも、僕はこの音を聞いた。


 聞いたはずがない音だった。


 あの夜、港に船は入っていなかった。警察にも、海上保安部にも、会社にも、何度も確認された。汽笛を聞いたという僕の証言は、最後には「混乱による記憶違い」として片づけられた。僕自身も、そう思うことにした。そうでなければ、眠れなかったからだ。


 待合所の自動ドアが開いた。


 誰も立っていない。センサーが風に反応しただけだと考えるには、風はなかった。外から潮の匂いが入り、レシートがベンチの下で一度だけ跳ねた。


 僕は鞄をつかんで立ち上がった。


 桟橋に、船が着いていた。


 古い木造船だった。今どき、あんな船が旅客を乗せられるはずがない。船体は黒ずみ、舷側の塗装はところどころ剥がれている。操舵室には橙色の裸電球がひとつ灯り、濡れた木板が月明かりを鈍く返していた。


 船名は見えない。


 ただ船首の近くに、白くかすれた字で「潮待ち」とだけ書かれていた。


 甲板に、小柄な少女がいた。十三か十四くらいに見える。紺色の古い制服のようなものを着て、竹ぼうきで甲板を掃いている。こんな深夜に、子どもが港にいる。そう思ったのに、声が出なかった。少女はこちらを見ると、まるで遅刻した客を見つけた駅員のように眉を上げた。


「遅い」


 それが第一声だった。


「……君、どこの子」


「乗る人にそれ聞かれるの、好きじゃない」


「乗らない。港湾管理に連絡する」


「連絡しても、たぶん出ないよ。今夜はこっちの時間だから」


 意味のわからないことを言って、少女は桟橋の奥へ顎をしゃくった。


 僕はスマートフォンを握り直した。画面には圏外の表示が出ている。さっきまで待合所では問題なく電波が入っていた。港の無料Wi-Fiの表示も消えている。時刻だけが午前零時二十分で止まっていた。


「故障か」


「便利だね、その言葉」


 少女は竹ぼうきを肩に担いだ。


「わからないもの、だいたい故障ってことにできる」


「実際、故障だろ」


「じゃあ、あなたがここに立ってるのも故障?」


 言い返せなかった。


 桟橋の板は、僕の知っている高松港のものと同じはずだった。けれど、足元を見ると、ところどころ古い木の板が混ざっている。金属製の手すりには錆が浮き、ロープ止めの形も見慣れない。待合所の明かりはすぐ後ろにあるのに、振り返るとガラス越しの空間が妙に遠かった。


 現実は、さっきまでそこにあった。


 だが今は、手を伸ばしても届かない場所へ少しずれている。


 少女は僕の鞄を見た。


「仕事の人?」


「そうだけど」


「じゃあ、ちょうどいい」


「何が」


「船のこと、少しはわかるでしょ」


 僕は古い木造船を見た。船舶検査、運航基準、乗員配置、保険。現実の言葉がいくつも浮かび、どれもすぐ役に立たないことがわかった。


「わからない船のほうが多い」


 少女は少しだけ笑った。


「それ、たぶん正解」


 船から女が降りてきた。


 白地に薄い藍の模様が入った着物を着ていた。髪は長く、肩に張りつき、そこからぽたぽたと水が落ちているように見える。けれど桟橋の板には、水滴がひとつも残らなかった。裸足ではなく白い足袋を履いている。足袋の先は黒く汚れていた。


 女は僕の前で立ち止まり、両手を胸の前で合わせた。指がひどく白い。


「すみません」


 声は静かだった。近くで聞こえるのに、どこか遠い。


「この船は、鞆まで行きますか」


 僕は女の足元を見た。桟橋の板は乾いたままだった。


 高松から鞆の浦へ行く定期便などない。そもそも、目の前の船が何なのかもわからない。深夜に現れた木造船。水たまりを残さない濡れた女。カメラに写らない時刻表。


 頭の中で、業務上ありえないことのリストが増えていく。


「鞆へ行きたいんです」


 女はもう一度言った。


「夜明けまでに、どうしても」


 僕は少女を見た。少女は竹ぼうきを肩に担ぎ、ため息をついた。


「ほら、困ってる」


「僕に言われても困る。会社の船じゃない」


「会社の船じゃないから、あなたが要るんでしょ」


「どういう意味だ」


 少女が答える前に、操舵室の扉が開いた。


 出てきたのは、痩せた男だった。年齢は六十代にも、もっと上にも見える。濃紺の外套を着て、古い制帽をかぶっている。顔には深い皺が刻まれ、目だけがやけに明るかった。


「聞こえたんだろう」


 男は僕を見て言った。


「汽笛が」


 足元が揺れた気がした。桟橋ではなく、僕の中の何かが。


「あなたは」


「船長で足りる」


「これは何ですか。撮影か何かですか。許可を」


「生きている者は、まず許可の話をする」


 船長は女のほうへ視線を移した。


「死んだ者は、時間の話をする」


 女はその言葉に反応しなかった。自分が死んでいることを聞き飽きているようでもあり、まだ認めていないようでもあった。ただ、胸の前で握った手に力を込めた。


「夜明けまでに降ろす」


 船長は言った。


「それだけだ。降ろす港は、本人にもわからないことがある。言葉は濁る。願いは曲がる。未練は嘘をつく。だから、聞こえた生者がひとり要る」


「聞こえた生者」


「おまえだ」


 逃げるべきだった。


 そう思った。鞄を抱えて待合所に戻り、事務所の電話を使い、警察を呼ぶべきだった。だが、スマートフォンの画面には圏外の表示が出ていた。港のど真ん中で圏外になるはずがない。


 僕は待合所へ駆け戻った。


 自動ドアは開いたままだった。中の蛍光灯は白く、券売機の赤い文字もさっきと同じように光っている。現実に戻ったはずなのに、時刻表だけが「潮待ち航路」を表示していた。


 事務所の内線電話を取る。


 受話器は冷たかった。耳に当てても発信音がしない。港の管理室につながるボタンを押す。反応はない。非常用の赤い電話を見つけ、受話器を上げる。そこから聞こえたのは、波の音だった。


 ざざ、ざざ、と規則的な音。


 それに混じって、誰かが遠くで名前を呼んでいる気がした。


 悠真。


 僕は受話器を置いた。


 待合所の時計は零時二十分で止まっていた。秒針だけが、同じ場所で小さく震えている。


 逃げる道はある。


 たぶん、ある。


 それでも僕は桟橋へ戻った。逃げられなかったのではない。汽笛の音を、もう一度確かめたかった。


 女が顔を上げた。


「お願いします。鞆まで、連れていってください」


 僕は知らない女の願いに動かされるほど、親切な人間ではない。


 けれど、もう一度汽笛が鳴った。


 十年前の夜と同じ音だった。


 弟の名前が、喉の奥でつかえた。


「……乗れば、説明してもらえるんですか」


 船長は笑わなかった。


「説明で済むことならな」


 少女が舷側から手を差し出した。


「わたしはミオ。落ちそうならつかまっていいよ」


「落ちない」


「みんな最初はそう言う」


 僕はその手を取らずに船へ乗った。


 足を踏み入れた瞬間、周囲の音が変わった。港の空調の唸りも、街灯の下で鳴る虫の声も、遠くの車の音も消えた。聞こえるのは波と、木の船腹が軋む音だけだった。


 振り返ると、高松港の待合所がやけに遠く見えた。


 船内は、外から見たよりも広かった。


 甲板の奥に、古い客室がある。引き戸のガラスは潮で白く曇り、中には木の長椅子が向かい合わせに並んでいた。天井には扇風機がついているが、羽根は動いていない。壁には色褪せた航路図が貼られている。瀬戸内の島々を結ぶ線がいくつも引かれていたが、どの線も途中でかすれて、行き先が読めなかった。


 客室の隅には、濡れた傘が一本立てかけられていた。


 持ち主はいない。布地から水がしたたりそうに見えるのに、床は乾いている。反対側の棚には、誰かが忘れていったらしい弁当箱、古い学生鞄、片方だけの軍手、小さな鈴のついた守り袋が置かれていた。


「忘れ物か」


 僕が聞くと、ミオは肩をすくめた。


「降りるとき、持っていけないものもある」


「処分しないのか」


「捨てると怒る人がいる」


「誰が」


「船」


 彼女は本気で言っているようだった。


 棚の上に、古い写真立てが伏せてあった。


 手を伸ばしかけると、ミオが竹ぼうきの柄で僕の手首を軽く叩いた。


「勝手に見ない」


「忘れ物だろ」


「忘れていった人と、置いていった人は違う」


 言い方が少しだけ鋭かった。


「これは、どっちだ」


「知らない。でも、船がまだ伏せてる」


 意味はわからない。けれど、それ以上触らないほうがいいことだけはわかった。写真立ての裏板には、乾いた塩が白く浮いていた。誰かの顔がそこにある。誰かが、まだ見られたくないまま置いていったもの。


 僕は手を引いた。


 この船には、死者だけでなく、死者が持っていけなかった沈黙も積まれているのだと思った。


 ミオが甲板の端に吊るされた箱から、古い乗船券を一枚抜いた。厚紙の切符だ。端が少し湿っている。


「名前」


「久坂透」


「年」


「二十七」


「職業」


「……会社員」


「つまんない」


「必要な情報か?」


「船に聞かれたことを言ってるだけ」


 ミオは切符に鉛筆を走らせた。行き先の欄は空白のままだった。彼女はそれを僕に渡さず、胸ポケットにしまった。


「客じゃないから、まだ渡さない」


「じゃあ僕は何なんだ」


「臨時の案内人」


 嫌な響きだった。


 船が桟橋を離れた。


 エンジン音はしない。櫓を漕ぐ音もしない。ただ船は、黒い海の上を滑るように進み始めた。高松の灯りが後ろへ流れていく。女は甲板の中央に立ち、両手を胸に当てていた。着物の裾は濡れているのに、やはり床には水が落ちない。


 僕は手すりにつかまり、息を整えた。


「鞆へ行く理由を聞いてもいいですか」


 女は少し迷ったあと、口を開いた。


「待っている人がいます」


「誰が」


「亮一さん」


 その名前を言うときだけ、女の声に温度が戻った。


「約束したんです。祭りの夜に、常夜灯の下で会おうと。あの人は、きっと待っています。わたしが行かなければ」


 ミオが僕の隣に来て、小さく言った。


「待っている人がいる死者は、嘘をつきやすい」


「嘘?」


「嘘というより、ほんとうの形を間違える。会いたいのか、謝りたいのか、許されたいのか、本人にもわからなくなる」


 僕は女を見た。彼女は夜の海を見つめている。髪から落ちない水が、月のない空にかすかに光っていた。


「あの人は、どのくらい待っているんですか」


 質問した瞬間、女の肩が震えた。


 海の上を風が渡った。工場の灯りが遠くに見える。島と島の間を抜けるたび、船の周りだけ霧が濃くなる。時間の感覚が薄れていった。腕時計を見ると、針は零時二十分で止まっている。


「長くはありません」


 女は言った。


「ほんの少しです」


 ミオが目を伏せた。


 船長は操舵室の中で、何も言わず舵輪に手を置いている。進行方向の先に、小さな港の灯りが見え始めた。常夜灯のような、古い石の明かりが霧の中に浮かんでいる。


 鞆の浦だと、直感した。


 行ったことは一度しかない。会社の研修で、港町の観光動線を調べに行った。古い町並み、石段、潮の匂い、狭い路地。資料の中では「歴史的景観」とまとめられていたが、夜明け前の海から見ると、町そのものが眠ったまま水に浮かんでいるようだった。


 女が急に膝をついた。


「降りられない」


「どうしました」


「あの人が、いない」


 船は港に近づいているのに、女の身体は甲板に縫いつけられたように動かなかった。船長が操舵室から出てきた。ミオが女の前にしゃがむ。


「亮一さんに会いに行くんじゃないんだよね」


 女は首を振った。


「会いたい」


「うん」


「会いたいんです」


「でも、会ったら、また待たせる」


 女の顔が歪んだ。


 僕はそのとき初めて、彼女の手に何かが握られていることに気づいた。小さな朱塗りの櫛だった。ところどころ塗りが剥げ、歯が一本欠けている。


「約束したんです」


 女は櫛を見つめた。


「戻ったら、これを返すって。あの人のお母さまのものだから、わたしが持っていてはいけないって。でも、船が」


 言葉が途切れた。


「乗っていた船が、沈んだんですね」


 僕が言うと、女はゆっくり頷いた。


「わたしは戻れなかった。だから、あの人はずっと待った。わたしが逃げたと思って。死んだと聞いても、信じなかった。わたしが約束を破ったから」


「亮一さんは」


「もう、いません」


 その言葉を口にした瞬間、女の着物から水の匂いが強くなった。


「でも、あの家にはまだ残っているんです。わたしを待つ約束が。あの人の娘さんが、孫が、ずっと。亮一さんは誰も責めなかった。だから余計に、家の中に残ってしまった」


 会いたいのではない。


 待たなくていいと伝えたいのだ。


 志乃は、そこから少しずつ話した。


 亮一とは、戦後間もないころに出会ったという。港の近くで、亮一の家は小さな船具店をしていた。志乃は親戚を頼って鞆へ来て、針仕事を手伝っていた。二人は、常夜灯のそばでよく会った。灯りの下なら、夜でも顔が見えるからだと、志乃は言った。


「あの人は、待つのが上手な人でした」


 志乃は櫛を両手で包んだ。


「わたしが遅れても怒らない。雨の日でも帰らない。だから、わたしは甘えたんです。あの人なら待ってくれると、どこかで思っていた」


 船は夜の海を滑っていく。志乃の声は、波音に混じって途切れそうになりながらも続いた。


「最後の日、わたしは船に乗りました。親戚の用で、少し離れた港まで行くことになっていた。戻ったら、亮一さんにこの櫛を返すつもりでした。あの人のお母さまのものを、わたしが持っていてはいけないから」


 でも、戻れなかった。


 その言葉を、彼女はもう一度言った。


 亮一は待った。最初の一年は毎日港へ行き、そのあとも祭りの日には必ず常夜灯の下に立ったという。志乃が死んだという知らせを受けても、櫛が戻らないから信じられなかった。やがて亮一にも家族ができ、娘が生まれ、店を継いだ。それでも家の中には、待つという形だけが残った。


「わたしは、あの人の人生を止めたかったわけではないんです」


 志乃は言った。


「でも、止めてしまった」


 その言葉は、僕の胸に残った。


 止めるつもりがなくても、誰かを止めてしまうことがある。


 ミオが僕を見た。


「案内人」


「僕が?」


「死者の手は、生きている家の戸を叩けない」


 船は港の石段に近づいていた。夜明けまで、どのくらい残っているのかわからない。東の空はまだ暗いが、黒の底に薄い灰色が混ざり始めている。


 僕は女から朱塗りの櫛を受け取った。


 冷たかった。


 港に降りると、足元の石畳が濡れていた。振り返ると船はすぐそこにあるのに、灯りが霞んで見えた。ミオは船縁からこちらを見ている。船長は動かない。女は甲板に立ち、両手を胸の前で握っていた。


 路地を上がる。どの家なのか、知らないはずなのにわかった。櫛がかすかに震えていたからだ。古い格子戸のある家の前で、それはぴたりと止まった。


 表札には、かすれた文字で「浜野」とあった。


 どうするつもりなのか、自分でもわからなかった。深夜に知らない家の戸を叩くのは、非常識を通り越している。けれど、僕が迷っている間にも空は白んでいく。


 格子戸の内側で、物音がした。


 戸が細く開いた。


 出てきたのは、白髪の女性だった。八十は過ぎているだろう。寝間着の上に薄い上着を羽織り、片手で柱につかまっている。僕を見ると驚いた顔をしたが、すぐに視線を下げた。


 僕の手の中の櫛を見て、息を呑んだ。


「志乃さん」


 女性は、そう呼んだ。


「あなた、志乃さんを知っているの」


 名乗る言葉が、喉の奥で引っかかった。


 櫛を差し出す。女性は震える手で受け取った。受け取った瞬間、櫛は水に溶けるように輪郭を失った。女性の手の中には、何も残らなかった。


 それでも彼女は、何かを抱くように両手を胸へ寄せた。


「父が、ずっと」


 女性は目を閉じた。


「ずっと、港を見ていました。もう待たなくていいと、誰かに言ってほしかったんです」


 僕はようやく口を開いた。


「志乃さんは、逃げたわけじゃありません」


 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


「約束を、破ったわけでもありません。戻れなかっただけです」


 女性の目から涙が落ちた。


 その涙は、ちゃんと畳の上に落ちた。


 女性は、櫛の消えた手をしばらく見つめていた。


「父は、母に悪いことをしたと言っていました」


 ぽつりと、彼女は言った。


「結婚して、子どもが生まれて、店を継いで、それでも祭りの日になると港へ行く。母は何も言いませんでした。言わない人でした。でも、祭りの夜だけは、夕飯を一人分多く作らなかった」


 それがどういう意味なのか、僕にはすぐわからなかった。


「志乃さんの分です」


 女性は苦く笑った。


「父が勝手に待っている人の分まで、母は作らなかった。怒っていたんだと思います。父にも、志乃さんにも。父が死んだあと、私も同じように常夜灯を見るようになりました。待っているつもりはないのに、見てしまうんです」


 家に残る約束。


 本人たちが死んでも、次の世代の手に渡ってしまうもの。


「もう、見なくていいんでしょうか」


 女性は聞いた。


 僕に答えられることではなかった。それでも、黙っていることはできなかった。


「見たいときだけで、いいんだと思います」


 自分でも頼りない答えだった。


 けれど女性は、小さく頷いた。


 港へ戻ると、女は船の上で深く頭を下げた。もう濡れていなかった。着物の藍の模様が、夜明け前の光の中で薄くほどけていく。


「ありがとうございました」


 女は言った。


「あなたも、待たせている人がいますね」


 僕は手すりの湿りを親指でなぞった。


 女は石段へ降りた。けれど、港の町へは向かわなかった。常夜灯の下で足を止め、海のほうを振り返る。誰かの名前を呼んだように見えたが、声は聞こえなかった。


 白い霧が常夜灯の下で一度濃くなり、彼女の姿はその中に紛れて消えた。


 船長が汽笛を鳴らした。


 高松へ戻る海は、行きよりもずっと静かだった。ミオは甲板に座り、膝を抱えている。僕は手すりにもたれ、東の空が明るくなっていくのを見ていた。


「あれは、本当に死んだ人なんですか」


 自分でも間の抜けた質問だと思った。


 ミオは笑わなかった。


「死んだ人だよ。でも、終わっていない人」


「終わるって何だ」


「降りること」


 船長の声が背後からした。


「生きている者は、死者が戻れば終わると思う。だが、死者は戻るために乗るんじゃない。降りるために乗る」


 僕はその言葉を聞き流せなかった。


 降りる。


 悠真は、どこにも降りていない。


 十年前の夜、僕は弟を連れて明石の海沿いを歩いていた。母に内緒で、夜の港を見に行こうと誘ったのは僕だった。悠真は怖がりのくせに、兄の誘いを断れなかった。途中で雨が降り出し、風が強くなった。僕は先に防波堤を走り、悠真は少し遅れてついてきた。


 そこで記憶はいつも途切れる。


 けれど、今は違った。


 悠真が何かを言いかけていた。


 兄ちゃん、と呼ぶ声。


 それから汽笛。


 低く、長い、今夜と同じ音。


 僕は振り向いた。ミオがこちらを見ていた。顔色が悪い。


「ミオ」


「なに」


「十年前に、明石でこの船を見たことがあるか」


 ミオの指が、制服の裾をぎゅっと握った。


「知らない」


 早すぎる返事だった。


「まだ、知らない」


 船長が何も言わないことが、答えのように思えた。


 気づけば、高松港の桟橋が近づいていた。待合所の灯りはいつも通りで、券売機の液晶も、壁の時刻表も、何事もなかったように朝の始発便を表示している。船が桟橋につく直前、ミオが胸ポケットから切符を一枚取り出した。


「これは?」


「忘れもの」


「誰の」


「船がそう言ってる」


 彼女は僕の手に切符を押しつけた。


 湿った厚紙だった。名前の欄には、久坂透。年齢、二十七。職業、会社員。行き先の欄は空白のままだった。


「いらない」


「捨てても戻ってくるよ」


「脅しか」


「注意」


 船長が短く汽笛を鳴らした。僕が瞬きした次の瞬間、船は消えていた。


 桟橋には朝の風だけが残っている。


 僕はしばらく、そこに立っていた。スマートフォンの電波は戻っていた。時刻は午前五時二分。母からの着信は一件のまま。資料の束は待合所のベンチに置いたままだった。


 すべて夢だった、と言うことはできた。


 だが、手の中には濡れた乗船券がある。


 行き先のないその切符から、乾くはずのない潮の匂いがした。

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