第三話 空と地上のあいだ
ノア・ベルゼンに対する裁判が終わったのは、ウィルの声が七つの鐘へ向かって流れ始めてから、四十三日後のことだった。
大衡法院は、炉へ入れられる以前のウィルが継続した自己認識、自ら選んだ名前、他者との関係、過去の経験に基づく好悪、将来へ向けた意思を備えており、身体を持たず複数の音や記憶を起源とし、笛を依代としていたという理由だけで法の保護から除外することは許されないと判断した一方、炉による破壊の後、小笛と二十七点の楽器へ分かれた存在が以前と同一のウィルであるか、それぞれが新たな人格へ分かれつつあるのか、あるいは元の人格を受け継ぎながら互いに異なる選択を始めたのかについては裁判所が一つの定義へ閉じ込めるべき段階にないとした。
ノアはウィルが自らに語りかけることで好意と拒絶を示し、リナへ工房を離れるよう勧めていた事実を理解しながら聞けば破壊できなくなると考えて声を退け、音を遮る布で包んで炉へ入れたのであり、単なる物品を処分したとの主張は認められなかった。ただし当時の法律には、複数の者が残した記憶と自然魔力の結合から生じた存在を法的人格として登録する明確な手続がなく、風精族に適用される従来の基準も単一の核を持たず、依代とともに自己を変化させるウィルへそのまま当てはめることは困難であり、ノアが自らの行為を死に至らせるものとどこまで認識していたかについても合理的な疑いが残るとされた。
殺人罪は成立しなかった。
判決がノアの行為を無害な物品処分として認めたわけでも、ウィルが生きていなかったと宣言したわけでもない。法院は人格を有する可能性を認識しながらその意思を確認せず、自己の所有権を優先して依代を不可逆に破壊した行為について人格的存在への重大侵害および保護責任違反を認定し、ノアへ三年間の楽工資格停止、ウィルから分かれた存在に対する無償修繕義務、風精族および新生人格のための依代保護基金への拠出、リナに対する生活費と教育費の負担を命じた。
ノアは控訴しなかった。
公訴庁も控訴しなかった。
どちらの側にも不満は残り、双方が勝利を宣言するには判決文の内容が複雑すぎたため、王都の新聞はこれを〈誰も勝たなかった裁判〉と呼んだ。
レイヴァンはその見出しを見た朝、誰も勝たないことを失敗と考えるなら、裁判を競技として扱いすぎている、と偏見録へ書いた。その一文の下へ被害を受けた者が戻らず、責任を負う者も自らの過去から自由にならない以上、裁判に勝者を期待すること自体が法へ慰めを求めすぎているのかもしれないと付け加え、さらにその下へ慰めを求める者を傲慢だと裁く権利も自分にはない、と記し、結局一頁を使って最初の言葉を疑い続けた。
ウィルは判決を聞かなかった。
正確には、法院がウィルと呼んだ複数の存在のうち、どれが聞き、どれが聞かなかったのか、誰にも確かめられなかった。
黒い小笛へ宿った声は西の第一鐘が鳴った夜から沈黙し、代わりに遠方の風路で奇妙な報告が増え始めていた。使われなくなった古い鐘が誰も綱へ触れていない時刻に一度だけ鳴り、旅人の笛から知らない少女の歌が流れ、空輸船の帆柱へ結ばれた風鈴が鳴かない谷へ近づくほど多くの声を重ねる。いずれもウィルが移動した証拠とは断定できず、単なる噂、模倣、気象現象、判決によって関心を集めた風精族が自らの存在を訴えるために起こした演奏運動である可能性もあった。
それでも七つの鐘のうち二つ目が鳴った翌朝、王都の神殿は〈静謐冠〉に関する研究資料の一部を自主的に公開した。
公開された資料は制度の安全性を強調し、鳴かない谷の残留声を研究した事実を認めながら人格を持つ存在を実験に使用したことはないと説明していた。説明文には、残留思念、自然反響、集合音響、演算資源という語が繰り返され、声という言葉は一度も用いられていなかった。
レイヴァンはその文書を最後まで読み、静かに閉じた。
存在を認めたくないとき、制度はまず名詞を変える。
誰かの痛みを現象と呼び、拒絶を反応と呼び、記憶を資源と呼び、失われた者を損耗と呼ぶ。そこに虚偽が含まれない場合ほど言葉は強く働く。誤りを一つも書かず、何が起きたかを見えなくする文章は露骨な嘘より長く生きる。
ウィル事件の後も、大衡法院へ運ばれてくる争いは止まらなかった。
天空を巡る風は誰かの悲劇が終わるまで別の悲劇を待ってはくれない。法廷へ提出される訴状も、王都の回転も、店の開閉も、子どもの成長も、死者を悼む時間も、それぞれ異なる速度で流れ、互いの事情を知らないまま同じ一日の中へ重なっていく。
判決から三日後、レイヴァンは翼人族の配達人が飛行禁止区域へ侵入した事件を審理した。
被告人は大雨によって橋が崩れた地区へ薬を届けるため、王宮上空に設定された飛行禁止区域を横切った。薬が届いたことで五名の患者が助かり、同じ航路上で王族護衛隊の訓練飛行を妨げ、若い騎手が翼を負傷した。
配達人は、助けるために飛んだと述べた。
負傷した騎手は、自分も薬が必要な者を助ける訓練中だったと述べた。
公訴側は規則を破ることが常態化すれば空域の安全を守れないと主張し、弁護側は緊急時に規則を守った結果として命が失われるなら規則の目的が逆転すると反論した。レイヴァンたちは、薬の緊急性、代替航路の有無、護衛隊への連絡可能性を検討し、配達人へ軽い過失を認めながら刑罰を科さず、空域管理局へ緊急通行申請制度の設置を命じた。
閉廷後、配達人は助けた患者から贈られた羽飾りを負傷した騎手へ渡し、騎手は受け取らなかった。
拒絶は憎しみではない、と騎手は言った。
まだ痛みがあるうちは、感謝へ変えたくない、と。
レイヴァンはその言葉を記録へ残すよう書記官へ命じなかった。
判決の理由ではなく、法廷の外で一人の者が自分の感情を守るために述べた言葉であり、国家の文書へ保存されることを本人が望むとは限らなかった。風に乗った言葉をすべて捕らえて記録することも、声を守る方法ではない。
さらに二日後、石殻族の老夫婦が離縁を求めて法院へ来た。
二人は百八十年間連れ添い、同じ崖へ家を築き、十二人の子を育て、七十年前に最後の子が旅立ってからも暮らしを共にしていた。妻は海沿いの都市へ移住したいと望み、夫は祖先の墓を離れられないと訴えた。
石殻族の婚姻慣習では、一度混ぜ合わせた家石を割ることは双方の魂を傷つけるとされ、共同体の長老は離縁を認めなかった。流律憲章は共同体から離れる自由を保障し、妻が望めば婚姻を解消できる。法的な結論は難しくなかった。
難しかったのは、夫が妻の自由を否定しながら彼女の荷物をすでに箱へ詰め、海沿いの湿気で身体を傷めないための薬まで用意していたことだった。
「行かせたくないことと、行くなら無事でいてほしいことは、同時にあってはいけませんか」
夫は尋ねた。
「法は、感情の矛盾を禁じません」
レイヴァンは答えた。
「禁じられるのは、その感情の一方を理由として、相手の選択を奪うことです」
妻は離縁を選び、夫は家石を割る儀式へ立ち会わなかった。法院の職員が手続を代行しようとした夕方に夫が戻ってきて、自分で石へ鑿を入れた。
百八十年を一つにまとめていた石は、一度では割れなかった。
夫は何度も鑿を振るい、妻は途中で見ていられなくなり、彼の手へ自分の手を重ねた。二人で打った最後の一撃によって石は左右へ分かれ、断面には互いの色が入り混じった模様が残った。
別れた後も、どちらの石にも相手の色が残る。
慣習法はそれを魂の傷と呼び、妻は道と呼んだ。
レイヴァンはどちらの呼び名も訂正しなかった。
その翌週には夢継族の少年が、集団で共有した夢の中で犯した窃盗について訴えられた。
現実の倉庫から宝石が失われ、少年は夢の中で保管場所を見たと認めたものの、身体を動かして盗んだ者は別の構成員であり、誰が最初に計画を立てたかは共有の過程で分からなくなっていた。十一名が同じ記憶を持ち、全員が自分の発案ではないと述べ、全員の言葉に虚偽の兆候はなかった。
公訴官は共同責任を主張し、弁護側は行為を選ばなかった者まで処罰すれば夢を共有する種族そのものを犯罪能力のある集団として扱うことになると反論した。
レイヴァンは少年へ尋ねた。
「宝石を盗もうという考えが夢へ現れたとき、あなたはどう感じましたか」
「面白いと思いました」
「止めようとは」
「誰かが止めると思いました」
「十一名全員が同じように考えた可能性は」
「あります」
「自分が止めなかった責任をほかの十名へ分ければ、一人分は軽くなると思いますか」
少年はしばらく考えた。
「軽くなるんじゃなくて、見えなくなると思います」
「何が」
「自分で選ばなかったことが」
その事件で、少年は窃盗の共犯とは認められなかった。
一方、違法な計画を知りながら警告せず、その計画から得られる利益を期待して共有状態を維持した責任について、共同体内での修復手続へ参加することを命じられた。宝石は返還され、倉庫の所有者は謝罪を受け入れなかった。受け入れない権利もまた、修復手続の一部として記録された。
幾つもの裁判が始まり、終わり、その間に王都では子が生まれ、店が潰れ、旅人が入り、別の者が去った。
ウィル事件を報じる新聞は市場の包装紙となり、判決文の一部は法学院の講義で引用され、工房の前へ花を置いていた者たちも日を追うごとに減っていった。ノアは資格停止中のため楽器を商売として修理できず、ウィルから分かれた楽器の調整だけを続けている。リナは公弁院の保護宿舎から王立音律院の寄宿舎へ移り、父親の工房へ週に一度戻った。二人は以前より多く話すようになったとは言えず、以前より相手の返答を待つようになった。
それだけでも、関係が変わったと呼べるのかもしれなかった。
風は大きな出来事だけを運ぶのではない。
洗濯物から落ちた糸、食卓で言えなかった謝罪、閉じた窓の内側で交わされた短い笑い、旅立つ者の髪に残る家の匂い、名も知られない死者が最後に吐いた息まで、運べるものを選ばずに受け取り、運んだ先で別の時間へ混ぜていく。
どこで生まれた風かを知ることは難しい。
雲海の熱が上昇を始めた場所、氷原で冷やされた空気が斜面を下った場所、翼が一度だけ空を押した場所、誰かが言葉を発するために肺から息を吐き出した場所、そのすべてが一つの流れへ加わり、王都の法廷を抜ける頃には、始まりを一つへ決める意味を失っている。
レイヴァンは開廷前の大衡廷で、一人きりの時間を過ごすことがあった。
十三の裁判官席、当事者席、証言台、遺族席、傍聴席、中央の未在者席。誰もいない法廷にも、過去の声は残っている。怒鳴った者の声が石壁へ保存されているわけではなく、泣いた者の涙が床下へ染み続けているわけでもない。それでも、どの席で誰が立ち上がり、何を言えず、何を言わされ、どの言葉によって自由を失ったかを知っている者にとって、空席は空ではなかった。
ある朝、レイヴァンは未在者席へ一枚の白紙が置かれていることに気づいた。
職員が置いたものではない。
紙の端には小さな笛と七つの鐘が描かれ、その下へ不揃いな文字で一文だけ記されていた。
――声は、聞かれたあと、誰のものになりますか。
リナの字に似ていた。
本人へ確かめることはしなかった。
問いが誰のものかを先に決めれば、答える相手まで狭めることになる。
レイヴァンは紙を公開記録へ移さず、未在者席へ残した。
その日の審理は、王都の水路へ毒性のある染料を流した工房主の行政訴訟だった。工房主は規制値を知らなかったと主張し、行政側は知らなかったこと自体が管理責任の放棄であると訴えた。被害を受けた下流の農園主たちは、謝罪より水質の回復を求めた。
審理の途中、開かれた外壁から風が入り、未在者席の白紙を持ち上げた。
紙は床へ落ちずに法廷の中央を横切り、レイヴァンの足元へ滑ってきた。
声は聞かれたあと、誰のものになりますか。
問いを読み直したとき、遠い過去の光景が記憶の底から浮かび上がった。
それは彼が裁判官席へ着くより前に経験した法廷だった。
グラン・ゼルダ大陸北部、黒い山脈の麓に築かれた旧都ネレイアの第三継承法院。セフィラードの法廷とは異なり、壁は厚く、窓はなく、声が外へ漏れぬよう天井にも吸音布が張られていた。
故国では、風は秩序を乱すものと考えられていた。
外から入る風は塵と異国の匂いを運び、室内の言葉を遠くへ持ち去る。重要な契約や裁判は風を完全に遮断した場所で行われるべきだとされ、法廷の扉が閉じられたあとは、判決が出るまで誰も開けることを許されなかった。
その日、若いレイヴァンは裁判官ではなく、証人席に座っていた。
現在の彼より角の年輪は少なく、法衣の代わりに灰色の研究官服を着ており、腰には家名を示す銀鎖を下げていた。
名は、レイヴァン・エル=カディム。
少なくとも、そのときの彼は、自分がその名を持つ一人の存在であることを疑っていなかった。
被告人席に立っていたのは、サーヤ・ミルという長命種の女だった。
年齢は六百七十二歳。
医術官であり、記憶術師であり、内戦中には北部避難院の院長を務めた。小柄な体格と穏やかな声を持ち、法廷へ入る際には警備官へ礼を述べ、手枷が重すぎるため机を傷つけるかもしれないと心配した。
起訴された罪は四十七件の殺人、八十三件の人格破壊、国家記録の偽造、禁制記憶術の使用、身分秩序の侵害。
救われたとされる者は百二十一名。
殺されたとされる者も、同じ百二十一名だった。
内戦末期、北部の諸都市では特定の血統、言語、宗派に属する子どもたちが、将来の反乱を防ぐという理由で収容されていた。処刑の記録は残されず、移送、再教育、保護的隔離という語が用いられた。
サーヤは収容対象となった子どもたちを救うため、彼らの名前、母語、家族の記憶、習慣、恐怖、声の抑揚を術式によって分解し、支配側の家系で死亡した子どもたちの記録と組み合わせ、別の身分として登録した。
検問を通過した子どもたちは生き延びた。
自分が誰だったかを覚えていた者は、ほとんどいなかった。
術式は完全ではなく、複数の記憶が一つの身体へ入り込んだ例、元の名前を聞くと激しい発作を起こす例、存在しない家族を探し続ける例、まったく新しい人格が形成された例もあった。
戦争終結後、サーヤの記録庫が発見され、救出された者たちの本来の身元が判明した。
家族は再会を望んだ。
生き延びた者の中には、知らない者から本当の親だと呼ばれ、知らない言語を話すよう求められ、現在の配偶者や子を捨てて失われた共同体へ戻るよう迫られた者もいた。
ある者は元の名前を取り戻し、サーヤへ感謝した。
ある者は現在の名前を守るため、過去の家族から逃げた。
ある者は、自分の中に二つの幼少期が存在することへ耐えられず、崖から身を投げた。
法廷ではサーヤが子どもたちを救ったのか、元の人格を殺したのかが争われた。
生命を残すために名前を奪うことは、救済か。
名前を残したまま死なせるより、善い選択だったのか。
将来、記憶を取り戻す可能性があると信じて術式を使ったサーヤの判断は、当時の状況下で許されるのか。
救われた者が現在の生を愛している場合、その幸福は過去の人格破壊を正当化するのか。
元の家族が自分たちの子を返せと求める権利と、現在の人格が自分は別人だと拒む権利のどちらを優先するのか。
公訴官は善意による人格破壊を許せば、国家も家族も医師も、本人のためという理由で記憶を作り替えられるようになると主張した。
弁護側は、サーヤが何もしなければ百二十一名は処刑されており、死よりも変化を選ぶことが犯罪であるなら法は救助者へ不可能な完全さを求めていると反論した。
証人席へ呼ばれた者の多くは、サーヤを罰してほしいとも、罰してほしくないとも言えなかった。
自分を生かした者を憎むことに罪悪感を抱き、自分を変えた者へ感謝することに屈辱を感じていた。
レイヴァンは、法学院の記憶法研究官として呼ばれていた。
彼の役割は、禁制術式によって元の人格がどの程度失われ、新たな人格がどのように形成されたかを説明することだった。
当時の彼は、人格とは記憶の連続、自己認識、身体の継続、他者との関係の四要素によって判定できると考えていた。
記憶が失われても身体と関係が続けば同一人物と呼べる場合がある。身体が変化しても記憶と自己認識が続けば同一性は保たれる。すべてが断絶し、新たな名と記憶と関係が生じたなら、法的には別の人格として扱うべきである。
整った理論だった。
何人もの教授が称賛し、判事たちも理解しやすいと評価した。
公訴官は彼の理論を用い、サーヤの術式によって元の子どもたちは死亡し、現在の人格が身体を受け継いだと主張した。
弁護側も同じ理論を用い、死亡が生じたとしても、それは処刑による肉体の死を避けるための緊急行為であり、新たな人格を誕生させたことは殺人と同一ではないと主張した。
レイヴァンの言葉は、両側の刃となった。
彼はどちらの使用法も理論上は誤りでないと証言した。
自分が正確であることへ満足していた。
法廷の後方席で、一人の女が立ち上がるまでは。
彼女は四十歳ほどの外見を持ち、支配側の家名と衣服を身につけていた。記録上の名は、エリサ・ヴァン=ロウ。内戦中に病死した軍務官の娘として登録され、現在は二人の子を持つ教師だった。
彼女は救出された百二十一名の一人であり、元の名はアーシェ・エル=カディムとされていた。
レイヴァンの妹と、同じ名だった。
彼の妹アーシェは、内戦中、避難輸送隊の襲撃によって死亡したと記録されていた。
遺体は発見されていない。
レイヴァンは、後方席の女を見た。
髪の色は違い、瞳の形も、頬の線も、立ち方も、記憶の中の妹とは似ていなかった。
長命種の血統を示す角は切除され、痕跡を隠すための皮膚術が施されていた。
女は彼を知らない目で見た。
その視線によって、彼女が妹ではないと感じた。
同時に、左手の親指を握り込む癖を見て、妹以外ではあり得ないと思った。
アーシェは幼い頃、怖いことがあると左の親指を手の内側へ隠した。
母に叱られたときも、初めて法学院の門を見上げたときも、兄が遠征へ出る朝も、同じ仕草をした。
女は証言台へ進み、宣誓を行った。
「あなたの名は」
裁判長が尋ねた。
「エリサ・ヴァン=ロウです」
「アーシェ・エル=カディムという名を知っていますか」
「記録で知りました」
「自分の名であると認めますか」
「認めません」
法廷の一部でざわめきが生じた。
元の家族たちは、失われた者が戻ってきたと信じていた。現在の名を拒む証言は、家族にとって二度目の死に見えただろう。
「記憶術の検査では、あなたの深層記憶にエル=カディム家の住居、家族、幼少期の経験と一致する断片が確認されています」
「それが誰の記憶か、私は知りません」
「あなたの身体も、アーシェのものと一致する」
「この身体で生きてきた時間は、誰のものですか」
「質問に答えてください」
「答えています」
女は静かに裁判長を見た。
「身体が同じで、奥に記憶が残っているなら、私はその子なのでしょう。そう決める法律も理解できます。私には、夫がいて、子がいて、教え子がいて、四十年分の記憶があります。そのすべてを偽物と呼び、知らない兄のもとへ戻ることが正しいのであれば、正しいと命じてください。従うかどうかは、別に考えます」
裁判長はレイヴァンを見た。
「証人。あなたは記憶と身体の連続性に基づき、元の人格が法的に存続している場合があると述べた。この者を、アーシェ・エル=カディムと判定するか」
法廷の全員が彼を見た。
被告人サーヤも。
女も。
妹を失った兄も。
研究官として証言台へ立つ者も。
すべてが一つの身体の中にいた。
レイヴァンは答えられなかった。
理論へ従えば、身体は連続し、深層記憶も残っている。
妹と認める根拠は十分だった。
現在の自己認識と関係を重視すれば、彼女はエリサであり、アーシェとして扱うことは現在の人格を否定する。
どちらかを選べば、自分が望む結論へ理論を曲げたと見られる。
妹だと認めれば、家族を取り戻せる。
妹ではないと認めれば、彼女の現在を守れる。
守るという言葉の中に、自分の願いが混じっている。
長い沈黙の後、レイヴァンは言った。
「判定できません」
裁判長の顔に不満が浮かんだ。
「専門家として、判断を求めている」
「判断に必要な要素は説明できます。どの要素へ優先を与えるかは、法的、倫理的な選択です。術式から自動的に答えが出るものではありません」
「あなたは、この者の兄ではないのか」
弁護人が立ち上がり、利益相反を理由に質問の中止を求めた。
裁判長は退けた。
「本人の関係性は、人格の連続を判断する証拠となる。証人、もう一度尋ねる。証言台の者を、妹と認識するか」
レイヴァンは女を見た。
彼女は左手の親指を握っていた。
「分かりません」
「感情を尋ねている」
「感情であるほど、分かりません」
女が初めて、レイヴァンへ直接語りかけた。
「あなたは、私に妹であってほしいですか」
答えられなかった。
「妹でなければ、悲しいですか」
答えられなかった。
「妹なら、うれしいですか」
その問いにも答えられなかった。
女は親指を握ったまま、小さく笑った。
「それなら、私たちは似ています。私も、自分があなたの妹なら悲しいのか、うれしいのか、分かりません」
法廷の空気が動かなくなった。
風を遮断した部屋でありながら、レイヴァンは頬へ何かが触れたように感じた。
存在しない風だった。
あるいは、遠い幼少期の記憶に残る、故郷の中庭を渡る風だったのかもしれない。
女は被告人サーヤへ向き直った。
「あなたは私を救いましたか」
サーヤは手枷を机の上へ置いた。
「そう願いました」
「願ったことを聞いていません」
「あなたの身体を、処刑から救いました」
「私を救ったのですか」
サーヤは答えなかった。
「アーシェを殺したのですか」
「分かりません」
「エリサを作ったのですか」
「あなたが生きた時間を、私が作ったとは言えません」
「では、あなたは何をしたのです」
サーヤは長く沈黙した。
「選びました」
「何を」
「名前と記憶を保ったまま死ぬ可能性と、名前と記憶を失って生きる可能性の間で、あなたの代わりに選びました」
「私へ尋ねずに」
「尋ねる時間がなかった」
「時間があれば、尋ねましたか」
サーヤは目を閉じた。
「分かりません。あなたが死ぬほうを選ぶと答えたなら、私は従えなかったかもしれません」
「それを善いことだと思いますか」
「当時は」
「いまは」
「あなたがここに立っていることを、善かったと思います」
「アーシェがここにいないことは」
サーヤの唇が震えた。
「悲しいと思います」
「善かったことと、悲しいことが同じ行為の中にあるのですか」
「あります」
「なら、あなたは善人ですか。悪人ですか」
公訴官が異議を申し立てた。
裁判長は質問を止めなかった。
サーヤは女を見た。
「どちらかであったなら、あなたへ答えるのがもう少し楽だったでしょう」
その言葉を聞いたとき、若いレイヴァンは初めて、善悪という区別が行為を評価するためだけでなく、評価する側が苦しみを整理するためにも使われることを知った。
被告を悪と定めれば、救われた生を否定せずに怒ることができる。
善と定めれば、失われた人格を犠牲として受け入れられる。
どちらにも定めなければ、救済と破壊が一つの手から生じた事実を、そのまま抱え続けなければならない。
法廷は結論を必要とする。
生は、ときに結論へ収まることを拒む。
審理の終盤、公訴官はレイヴァンへ最後の質問をした。
「証人。被告人の術式によって、アーシェ・エル=カディムは死亡したと考えるか」
レイヴァンは女を見た。
彼女の顔ではなく、左手を見た。
親指は、もう握られていなかった。
「法的な死を、どの地点に置くかによります」
「質問へ答えなさい」
「身体の停止を死とするなら、死亡していません。記憶と自己認識の不可逆な断絶を死とするなら、死亡した可能性があります。現在の人格に元の記憶が残存している事実を継続とみなすなら、生きているとも言える。どれを選ぶかは、術式ではなく法が決めます」
「法が決めれば、事実になるのか」
「なりません」
「それなら、法は何を決める」
若いレイヴァンは答えた。
「誰の喪失を、公に認めるかを決めます」
その答えは、当時の法学者たちから高く評価された。
後に論文へ引用され、彼の名を広めた。
現在のレイヴァンは、その言葉を思い出すたび、半分しか答えていなかったと考える。
法が公に認めた喪失の陰で、認められなかった存在はどこへ行くのか。
アーシェの死を認めれば、エリサの身体へ死者の名を結びつけることになる。
アーシェの生存を認めれば、エリサが築いた四十年を、失われた記憶の仮住まいと扱うことになる。
どちらの喪失を認めても、別の者が数えられなくなる。
その日の審理は、裁判長が女へ一つの質問をしたところで終わった。
「エリサ・ヴァン=ロウ。あなた自身は、被告人の処罰を望むか」
女は長く考えた。
「望みます」
サーヤの顔は動かなかった。
「理由は」
「私を生かしたからではありません。私に尋ねなかったからです」
「緊急時であったことは認めるか」
「認めます」
「尋ねる余裕がなかったことも」
「認めます」
「それでも処罰を」
「はい」
「死ぬより、生きるほうがよかったとは思わないのか」
「いまの生を愛しています」
「ならば」
「愛している生が、正しい方法で与えられたとは限りません」
女は自分の胸へ手を置いた。
「この生を愛するために、されたことまで善いと呼ばなければならないなら、私は一生、救われた者として被告人へ感謝し続けなければならない。感謝しない自由を、罰によって買いたいのではありません。私のために選んだ者へ、選んだ責任があると認めてほしいのです」
レイヴァンは、その言葉を何百年も忘れなかった。
法廷の記録が戦火で失われても、裁判長の名も、公訴官の顔も、判決文の細かな文言も曖昧になっても、彼女の声だけは鮮明に残った。
愛している生が、正しい方法で与えられたとは限らない。
現在の大衡廷へ風が入り、足元の紙を裏返した。
水路汚染事件の公訴官が、レイヴァンへ呼びかけていた。
「首席衡理官」
過去の法廷が遠ざかった。
「失礼しました。続けてください」
「被告側から提出された浄化計画について、専門官の証言を求めます」
審理は続いた。
染料の濃度、土壌への影響、回復までの年数、工房閉鎖によって職を失う者の数が議論される。目の前の事件と、遠い故国の記憶は直接つながっていない。それでも、毒を流した工房主が下流の農園主を害する意思はなかったと述べ、農園主が悪意の有無で枯れた作物は戻らないと答えたとき、サーヤの穏やかな声が記憶の底で重なった。
救うつもりだった。
守るつもりだった。
害するつもりはなかった。
その言葉が真実であっても、受けたものは消えない。
悪意がなければ責任もないとすれば、善意は最も安全な凶器になる。
結果だけで責任を決めれば、危険を引き受けて誰かを救おうとする者は、何もしない者より重く罰せられる。
法は意図を見る。
結果も見る。
選べた道も、選べなかった道も見る。
そのどれも完全には見えないまま、最後には一つの結論を言い渡す。
閉廷後、レイヴァンは未在者席の紙を手に取った。
声は、聞かれたあと、誰のものになりますか。
エリサの声は、彼の中へ残った。
残っているからといって、彼のものではない。
判決文へ引用すれば法の言葉となり、法学院で教えれば理論の一部となり、自分の罪を語るために使えば贖罪の道具となる。
聞いた声を忘れないことと、声を所有しないことを同時に行う方法を、彼はまだ知らなかった。
その夜、風待館へ戻ると、止風庫から封印文書が届いていた。
ウィルが言い残した〈閉じた風〉に関する調査の一環として、建国期および静謐冠研究の前身となる資料を取り寄せたものであり、黒い封蝋には大衡法院の印と風神殿の印が並んで押されていた。
セイルが封印記録を読み上げる。
「流暦七百三十六年の火災後、移管された資料です。表題は〈人格継承術式に関する異大陸判例と応用可能性〉。作成者は記録上不明」
レイヴァンの手が止まった。
「異大陸判例」
「グラン・ゼルダの第三継承法院から入手した記録とあります」
黒い封蝋の下に、故国の古い紋章が見えた。
風の存在を認めない法廷で用いられていた、閉じた円環の印。
「開封しますか」
「私が行います」
封印を切ると、乾いた紙と古い薬品の匂いが立ち上った。
最初の文書には、北部避難院人格継承事件と記されていた。
サーヤ・ミルの裁判。
失われたはずの記録。
レイヴァンは一枚目をめくった。
判決文ではない。
被術者名簿だった。
百二十一名の元の名、術式後の名、移植された記憶の出所、身体の状態、家族関係、術後の経過が、細かな文字で並んでいる。
彼は、アーシェ・エル=カディムの名を探した。
名簿の七十三番目に、その名はあった。
元の名、アーシェ・エル=カディム。
術式後の名、エリサ・ヴァン=ロウ。
使用された記憶片は三名分。
身体提供者の欄には、アーシェ本人と記されている。
その下に、兄に関する注記があった。
レイヴァンは文字を追った。
――対象七十三号の深層記憶より、兄レイヴァン・エル=カディムに関する重大な不一致を確認。家族記録上、同名の第一子は出生後九年で死亡。現在レイヴァンを名乗る者の身体識別は、第二子エイル・エル=カディムと一致する。
彼は紙から手を離した。
室内の風が止まったように感じた。
「首席」
セイルが呼んだ。
レイヴァンは返事をしなかった。
文書の文字は変わらない。
現在の名を持つ前の記憶を、彼はほとんど持っていなかった。
幼少期の最も古い景色は、弟を失った母の泣き声と、自分がレイヴァンと呼ばれ始めた頃の食卓だった。家族は、幼い彼が高熱によって記憶を混乱させたのだと説明した。弟エイルという名は家系記録に残っていたものの、死産した子であると教えられていた。
文書の続きを読んだ。
――第二子エイルは重度の記憶損傷により自己認識を喪失。家の継承を維持する目的で、死亡した第一子レイヴァンの記憶片を移植。術者署名、サーヤ・ミル。
セイルが何かを言っている。
声は届いているのに、言葉として形を結ばなかった。
レイヴァンは、自分の手を見た。
千年以上、自分のものとして使ってきた手。
判決へ署名し、死刑を言い渡し、国境を越え、セフィラードの公籍を受け取り、首席衡理官の銀環を身につけた手。
その身体は、レイヴァンのものではなかった。
少なくとも、最初からは。
自分が弟だったのか。
死んだ兄の記憶を持つ別の者なのか。
両方が混ざった存在なのか。
サーヤが救った百二十一名の中に、自分も含まれていたのか。
あの法廷で人格の連続性を語り、妹かもしれない女へ判定できないと答えたとき、彼自身も同じ術式によって作られた存在だった。
サーヤは知っていた。
証言台へ立つ彼を見ながら、知っていた。
エリサも、知っていた可能性がある。
だから彼女は尋ねたのかもしれない。
あなたは、私に妹であってほしいですか。
あの問いは、兄へ向けられただけではなかった。
自分を兄だと信じていた者へ、あなたは何者なのかと問い返していた。
文書の最後に、サーヤの手書きと思われる短い注記があった。
――エイルへ真実を知らせることを、家族は拒否した。レイヴァンとして生きることが本人の安定に資すると判断。私も同意した。この選択を救済とは記さない。
その下へ、別の筆跡で一文が加えられていた。
――本人が法官となった場合、この記録を必ず開示すること。
開示された形跡はなかった。
レイヴァンは法官となり、判事となり、多くの者の名前と責任を法によって決めた。
自分の名が誰のものであるかを知らないまま。
風待館の窓が小さく鳴った。
外では夜の風が王都を巡り、遠い鐘の音を運んでいる。
一つ。
二つ。
そして、これまで沈黙していた三つ目の鐘が、初めて鳴った。
その余韻の中に、ウィルの声が混じったように聞こえた。
『名前は、呼ばれた者のもの?』
レイヴァンは答えなかった。
答えようとすれば、どの名で答えるべきか分からなかった。
セイルが机の向こうに立ち、彼を見ている。
「首席衡理官」
その呼び名は役職だった。
「レイヴァン卿」
それは他者が与えた敬称だった。
「レイヴァン」
その名は、死んだ兄のものだった。
紙の上には、彼が知らなかった名が残されている。
エイル・エル=カディム。
風はどちらの名も区別せず、開いた窓の隙間から入り、古い文書の頁を静かにめくった。
そこには、サーヤ・ミルの判決が記されていた。
レイヴァンはまだ読まなかった。
彼女が善であったか、悪であったかを決めた古い法院の言葉より先に、自分が誰を被告人席へ置くべきなのかを考えなければならなかった。
サーヤか。
真実を隠した家族か。
記録を封じた故国か。
その記録を七百年以上保有しながら、彼へ知らせなかった大衡法院か。
兄の名を使い続け、その名によって権威と経歴を築いた自分自身か。
窓の外で、三つ目の鐘がもう一度鳴った。
美しい音だった。
美しいからこそ、どこかで誰かが閉じ込められているように聞こえた。
レイヴァンは、死んだ兄の名が記された自分の署名を見つめた。
やがて椅子から立ち上がり、首席衡理官の銀環を外した。
机の上へ置かれた銀環は、風に触れても動かなかった。
「セイル」
ようやく声を出した。
「明朝、倫理監察室を招集してください」
「何を申告なさるのです」
レイヴァンは、エイルという名へ指を置いた。
「私が、私に関する事件の証拠を見つけたことを」
「事件とは」
夜の風が文書をめくり、サーヤの判決文の最初の一行を露わにした。
――被告人が救った生命と、被告人が奪った人格とを、同一の秤で量ることはできない。
レイヴァンは、その先を読まなかった。
「まだ分かりません」
遠い鐘の余韻へ、自分の声が混じっていく。
「だから、法廷を開きます」
その夜、王都を渡った風は、首席衡理官が銀環を外したことも、千年以上使われなかった名が一枚の紙から目覚めたことも知らず、眠る者たちの窓を順に撫で、灯りの消えた大衡法院を抜け、未在者席に残された白紙を一度だけ揺らした。
声は、聞かれたあと、誰のものになりますか。
名前は、与えられたあと、誰のものになりますか。
そして、生かされた者は、救われるために失った自分を、誰の罪として裁けばよいのでしょうか。
答えのない問いを乗せたまま、風は空と地上のあいだを流れ続けていた。




