第四話 法廷に残る者
自分に関する証拠を見つけた者が、最初に行うべきことは、それを真実と呼ぶことではない。
証拠は真実そのものではなく、真実へ向かう道の一部であり、その道はしばしば、記録した者の意図、保存した者の都合、発見した者の願望によって曲げられている。まして、自分の名前、自分の身体、自分が千年以上にわたって積み上げてきた生の起点に関わる一枚であれば、文字を読んだ者の側が平静でいられるという前提から疑わなければならなかった。
翌朝、レイヴァンは夜明けより早く風待館を出た。
眠らなかったことは、セイルにも、館の管理人であるメルザにも悟られていた。メルザは食堂の卓上へ灰葉茶と黒パンを置き、何も尋ねず、冷める前に食べろとも言わなかった。問いを差し控えることが思いやりとなる場合もあれば、問いを恐れているだけの場合もあり、受け取る側にその違いを確かめる術はない。レイヴァンは茶を飲み、パンを半分だけ口へ運び、残りを包んで法衣の内側へ入れた。
「昼まで持ち歩いて、夜に固くなったものを食べるつもりでしょう」
背後からメルザの声がした。
「未来について断定するのは、料理人の権限を越えています」
「過去に百回ほど同じことをした者の未来なら、占い師でなくても分かります」
「正確な回数は九十三回です」
「覚えているなら直しなさい」
彼は返答せず、玄関へ向かった。
「レイヴァン」
メルザが、役職でも敬称でもなく名だけを呼んだ。
彼の足が止まった。
それが死んだ兄の名なのか、家族が生き残った弟へ与えた名なのか、記憶を移された子が自分のものとして育てた名なのか、昨夜から何度考えても答えは出ていない。呼ばれた音へ身体が振り返ろうとしたことだけは確かだった。
「朝には戻らないのでしょう」
「倫理監察室の審査が長引けば」
「戻るかどうかを聞いているのではありません」
メルザは食堂の入口に立ち、両腕を胸の前で組んでいた。
「戻る場所があることを、忘れないでください」
レイヴァンは長く彼女を見た。
「忘れることは得意ではありません」
「なら結構です」
風待館と大衡法院を結ぶ回廊には、まだ朝の光が届いていなかった。王都を支える環状浮島の回転によって東の空は判文塔の陰に隠れ、石床を流れる風だけが一日の始まりを知らせている。遠くでは市場の荷車が動き始め、翼人族の配達員が屋根の間を横切り、夜番を終えた警務官たちが外套の襟を緩めながら宿舎へ戻っていた。
世界は、首席衡理官が自分の名前を疑い始めたことを知らない。
知らないまま動いていることに、レイヴァンはわずかな安堵を覚えた。
自分の内側で何が崩れていようと、パンは焼かれ、橋は開かれ、訴状は運ばれ、拘置所では被疑者が朝の点呼を受ける。世界が一人の苦悩へ付き合って停止するなら、その苦悩を抱えた者は自らを世界の中心と誤認する。個人的な悲劇を大きく扱わないことは、感情を否定することではなく、他者の一日も同じ重さで続いていると認めるための慎みだった。
倫理監察室は、判文塔の北側に置かれている。
大衡法院の腐敗や利益相反を調べる部署が、法院の最も陽当たりの悪い区画にあることを皮肉と呼ぶ職員もいた。設計者によれば、監察文書を日光による劣化から守るためであり、建築に象徴を読み込みすぎるのは法学者の悪癖だという。
円形の審査室には、倫理監察官三名、次席衡理官シア・レナト、首席書記官セイル、司法資格医官、そしてレイヴァン自身が着席した。通常、申告を受けた裁判官は審査対象者席へ座る。中央よりわずかに低く作られたその席へ、レイヴァンはためらわず腰を下ろした。
首席衡理官の銀環は着けていない。
法衣も、首席用のものではなく、衡理官が共通して着用する無紋の灰衣を選んでいた。
「申告内容を確認します」
主任監察官のオレム・ハインが文書を読み上げた。
「昨夜、止風庫より取り寄せた異大陸判例資料の中から、申告者自身の出生および人格継承術式の施行を示す可能性のある記録が発見された。記録上、申告者が現在使用するレイヴァン・エル=カディムの名は、出生時の本人ではなく、先に死亡した兄の名である可能性がある。出生時の名はエイル・エル=カディム。幼少期に重度の記憶損傷を負い、家系継承の目的で兄レイヴァンの記憶片を移植されたとの記載がある。術式を行った者はサーヤ・ミル。資料は、静謐冠研究および建国期の秘密記録に関係する調査の過程で発見された。相違ありませんか」
「現時点で確認できる記録内容としては、相違ありません」
「記録を真実と認めますか」
「認めません。否定もしません。原本の成立経緯、筆跡、保存履歴、他資料との整合性を調査する必要があります」
「ご自身の記憶との一致は」
「部分的にあります。幼少期の記憶には欠落が多く、レイヴァンと呼ばれる以前の経験はほとんど残っていません。家族からは高熱によるものと説明されていました」
「エイルという名に記憶は」
「ありません」
「その名を、ご自身の名と認識しますか」
レイヴァンは、机上へ置かれた申告書を見た。
署名欄には、昨夜まで何の疑問も持たず書いてきた名がある。
「出生記録上の名である可能性は認識します。現在の私が、その名へ自発的に応答する感覚はありません」
「レイヴァンという名は」
「呼ばれれば応答します」
「兄の記憶を自分の記憶と誤認してきた可能性があります。それでも、ご自身をレイヴァンと考えるのですか」
「その問いへの私的な答えは、まだ持っていません」
「公的な答えは」
「現在の公籍、司法資格、任官記録、財産管理、著作、判決、契約のすべてが、レイヴァン・エル=カディムの名によって成立しています。記録の真偽が確定するまで、法的名称を変更する理由はありません」
監察官の一人が身を乗り出した。
「真偽が確定し、出生名がエイルであると認められた場合は」
「出生名と現在名の関係を、別の審理によって整理する必要があります。出生時の名が判明したというだけで、千年以上使用した名が無効になるとは考えません。反対に、長く使用したという事実だけで、出生時に何が行われたかを無視してよいとも考えません」
「自分のことを、随分と冷静に話されますね」
オレムの言葉は非難ではなく確認だった。
「冷静であるかどうかは、外見から判断しないほうがよいでしょう」
「動揺されていますか」
「その質問は、職務能力の審査に必要ですか」
「必要です」
レイヴァンは沈黙した。
夜のあいだ、何度もエイルという名を頭の中で呼んだ。
音としては理解できる。
自分へ向けられたものとしては届かない。
死んだ兄の記憶が移されたという記録を読んでも、自分の内側から兄の声が聞こえるわけではなく、幼いエイルが閉じ込められていたと感じるわけでもない。代わりにあったのは、自分のものと信じてきた思い出を手に取るたび、その裏側へ他人の名が書かれているのではないかと疑う、静かで際限のない不安だった。
母に手を引かれて法学院の門をくぐった記憶。
妹アーシェと中庭で雪を集めた記憶。
父から初めて法典を渡された日の重さ。
兄レイヴァンの記憶であるなら、それを懐かしむ自分は誰なのか。
記憶を受け取ったエイルの生であるなら、なぜエイル自身の幼少期は残っていないのか。
問いは答えを求めているように見え、実際には、どの答えを選んでも何かを失わせる形をしていた。
「動揺しています」
レイヴァンは答えた。
「眠れていません。記憶の一部を自分のものとして信頼できるか判断できず、家族関係、著作上の立場、過去の判決における人格論との利益相反も考えています」
「職務を継続できると」
「現時点では」
「根拠は」
「自分に関する判断を、自分で下さないために申告しました。関連資料への単独接触を停止し、調査担当者を別に置き、私自身の身分、サーヤ・ミル、北部避難院人格継承事件、静謐冠の系譜に直接関係する審理からは外れます。それ以外の事件について、証拠を読み、当事者の主張を聞き、法を適用する能力が失われた兆候はありません」
「内心の混乱が、人格や記憶に関する事件の判断へ影響する可能性は」
「あります」
「それでも継続すると」
「影響の可能性があるという理由だけで、関連するすべての事件から外れるなら、子を失った裁判官は家族事件を扱えず、暴力を受けた裁判官は刑事事件を扱えず、国家に失望した裁判官は行政事件を扱えません。経験が判断へ影響すること自体は避けられない。必要なのは、影響が存在しないと装うことではなく、申告し、監視し、結論の根拠を他者が検証できるようにすることです」
「ご自身の名前さえ確定していない者が、他者の身分や責任を判断できるのかという批判が予想されます」
「予想されます」
「どのように答えますか」
「名前が確定していることを、司法資格の要件とした法律はありません」
「形式論ではなく」
「形式を軽蔑しないでください。形式は、世論が誰かを気に入らない日に、その者を席から引きずり下ろすことを難しくするためにあります。私の出生に疑義が生じたことと、職務能力が失われたことを混同すべきではない。混同するなら、それを可能にする法的理由を示していただきたい」
審査室へ静けさが広がった。
オレムは申告書を閉じた。
「あなたは、首席衡理官の職へ留まりたいのですか」
レイヴァンはすぐに答えなかった。
職へ留まりたいという欲望がないと主張するのは、虚偽になる。大衡法院を離れれば、自分が長い時間をかけて整えた制度、現在進行している事件、封印記録の調査へ関与できなくなる。権限を失う恐怖が、責任感という美しい名前を借りていないか、疑う必要があった。
「留まりたいという意思はあります」
「なぜ」
「未完の事件があるからです」
「後任へ委ねられます」
「そのとおりです」
「あなたでなければならない理由は」
「ありません」
監察官たちの目がわずかに動いた。
「ありません。それでも、私が退けばよい理由も、自動的には生じない。裁判官の職を個人の使命として語りすぎれば、交代できない権力者を作ります。誰でも務められると軽く扱えば、判断へ名前を置く責任が消える。私でなければならないわけではない。現在この席へ任じられ、任期を残し、退く法的理由がまだ認められていない者が私である。それ以上でも、それ以下でもありません」
「過去を調べたいとは」
「思います」
「職務より優先しますか」
「しません」
「ご自身が何者かを知ることよりも」
「私が何者であるか分からない状態でも、今日の法廷へ立つ当事者が何を訴えているかは聞けます」
「私生活へ押し込めると」
「証拠箱へ入れます」
レイヴァンは机上の申告書へ指を置いた。
「捨てません。忘れません。自分へ都合のよい解釈も加えません。封印し、担当者を定め、必要なときに正式な手続で開く。それまでは、私の胸中で騒ぐ声を、事件記録へ入り込ませない。完全にできるとは申しません。完全にできないから、監察と合議があります」
司法資格医官が尋ねた。
「胸中で騒ぐ声、とは比喩ですか。実際の幻聴や記憶混乱は」
「ありません」
「現在と過去の混同は」
「昨夜、古い記憶が繰り返し浮かびました。時刻と場所の認識は保たれています」
「どの記憶です」
レイヴァンは答える前に、閉ざされた審査室の扉を見た。
その向こうには、朝の風が通る回廊がある。
「この国で、初めて法廷へ立った日のことです」
*
それは、現在から七百年ほど前、流暦百四十三年の春に起きた。
セフィラード流邦国が建国されてから、まだ百四十年余り。十二風盟約によって大陸規模の戦乱は収まり、王都イル・ヴァレアには常設の大衡法院が設けられていたものの、諸種族の法的平等は文章に置かれ始めたばかりであり、地方へ行けば旧来の族長法、神殿法、商会規則、血縁慣習が盟約より強い効力を持つ地域も珍しくなかった。
当時の王都は、現在より小さかった。
環状浮島の外周には未舗装の区画が多く、雲海へ張り出した木造の足場に家々が並び、夜になると風灯の光がそのまま空へ流れ落ちた。大衡法院も、現在の開放的な円形建築ではなく、かつて族長会議に使われていた石造館を改修したもので、法廷の窓は狭く、裁判官席は当事者を見下ろすほど高く、王の紋章と十二種族の旗が互いに場所を奪い合うように壁へ掲げられていた。
若いセフィラードは、自由と平等を語る国だった。
語る必要があるほど、自由も平等も社会へ行き渡っていなかった。
建国前に奴隷とされていた者たちは、盟約によって形式上解放された後も、借財、保護契約、婚姻義務、養育慣習といった別の名で旧主人へ拘束され、土地を持たない種族は移動の自由を得ても移動先で居住権を認められず、風精族は神聖な徴として祭壇へ祀られながら、契約を結ぶ人格とは扱われていなかった。
王都の官吏たちは、諸種族を平等に数えるための統計を作ろうとした。
身体を分裂できる種族を何名と数えるのか。
一つの夢を共有する共同体を一世帯とするのか。
季節によって性質や外見を変える者の公籍をどう記録するのか。
名前を持たず、呼ばれるたび異なる音で応答する者を、どの欄へ書くのか。
平等は理念として美しく、帳簿へ移した途端に困難になった。
レイヴァンは、グラン・ゼルダ法学院から派遣された比較法研究使節の一員として、その王都へ滞在していた。
当時の彼は、まだ故国の司法官ではない。
法学院の研究官として、血統法、身分継承、長命種の契約期間を研究し、セフィラードという新興国が、異なる種族と慣習を一つの憲章へまとめようとする試みを、興味深くも危うい実験として観察していた。
公的な名は、すでにレイヴァン・エル=カディムだった。
エイルという名を、彼は知らない。
自分が死んだ兄の記憶を受け継いだ可能性も、幼少期の空白が術式によって作られたことも、何一つ知らないまま、人格の継続や家名の正統性について論文を書いていた。
故国の法は、変わらないことを価値としていた。
祖先が定めた規則は、長く守られたという事実によって正統性を増し、名は家から与えられ、職務は血統によって継承され、個人の意思は秩序を乱さない範囲でのみ認められる。若いレイヴァンは、その制度へ疑問を抱きながらも、継続性のない社会は信頼を失うと考えていた。
セフィラードの法は、彼の目には未完成だった。
条文は理想を先に書き、制度が後から追いかけている。
裁判所ごとに解釈が異なり、地方官は盟約より慣習を優先し、王でさえ、自らの命令がどこまで法院へ審査されるか理解していない。自由を掲げる国家が、自由の定義について何度も争っている姿は、故国の法学者たちから、風任せの無秩序と嘲笑されていた。
レイヴァン自身も、当初は似た評価を抱いていた。
少なくとも、灰縄橋事件の法廷へ呼ばれるまでは。
灰縄橋は、王都西方の二つの浮島を結ぶ吊り橋だった。
建国戦争以前、敗れた小部族から徴用した労働者が、灰を混ぜた縄を編んで造ったことから、その名が付いた。盟約後も橋の管理権は旧族長家へ残り、通行料と周辺居住区の秩序維持を名目として、土地を持たない者たちへ労役を課していた。
事件当日、旧族長家が管理する保護院から、三十六名の子どもが別の浮島へ移送されようとしていた。
保護院と呼ばれていたものの、収容されていたのは建国戦争で家族を失った者、異なる種族の間に生まれたため双方の共同体から受け入れられなかった者、身体的特徴が公籍分類へ合わず登録を拒まれた者たちであり、一定の年齢に達すると、養育費の返済という名目で農場、鉱山、工房へ長期奉公に出される。
十二風盟約は奴隷制を禁止していた。
旧族長家は、子どもたちは奴隷ではなく保護契約者であり、労働は養育費の返済であり、契約期間終了後には自由になれると主張していた。
契約期間は四十年。
短命な種族にとっては、人生の大半に相当した。
移送中、保護院で働いていた石殻族の女サファ・ネイが、橋の拘束門を開いた。
子どもたちの手首には逃亡防止のための連結紐が結ばれており、サファはそれを切り、橋の東側に待たせていた荷車へ逃がそうとした。旧族長家の警備員が阻止し、争いの中で橋を支える副縄へ火が移った。
灰を混ぜた古い縄は、外側から見える以上に傷んでいた。
橋の中央部が崩落し、警備員四名、子ども七名、通行中の商人二名が雲海へ落ちた。
遺体が見つかったのは三名だけだった。
サファは、子どもたちを救うために拘束門を開いたと主張した。
公訴側は、彼女が橋の構造と火気の危険を知りながら武器を持って警備員へ抵抗し、九名の死を招いたとして殺人罪を求めた。
旧族長家は、三十六名の子どもを財産ではなく保護対象と呼びながら、サファには財産奪取の罪も適用すべきだと訴えた。
王都の議会は事件を恐れた。
サファを無罪にすれば、各地の保護院で拘束される者たちが反乱を起こすかもしれない。
厳罰に処せば、奴隷制廃止を掲げた国家が、別の名前で続く隷属を守ったことになる。
灰縄橋事件は、設置から八十二年目の大衡法院へ持ち込まれた。
裁判長は、マレア・エヴァルという翼人族の女だった。
年齢は二百七十歳ほど。片翼を建国戦争で失い、飛行できなくなってから法学を学び、諸都市を巡る調停官を経て衡理官となった人物であり、法廷では杖を使わず、自分の足で時間をかけて裁判官席へ上がった。
当時の大衡法院では、裁判官の任命制度も整っておらず、彼女は王の指名と六種族の族長会議によって選ばれていた。残る六種族は選定に加われず、彼女の権威そのものが諸種族平等の理念と矛盾していた。
レイヴァンは、外国法の専門家として証人へ呼ばれた。
争点は、盟約以前から存在する保護契約を、奴隷制禁止条項によって無効とできるか。無効とする場合、過去に合法とされていた管理者を処罰できるか。契約が無効であっても、サファが暴力を用いて子どもを逃がした行為は正当化されるか。
若いレイヴァンは、法の予測可能性を重視した。
「十二風盟約の理念は、旧来の保護契約と両立しない可能性があります。しかし、盟約成立時に既存契約を直ちに無効とする移行規定が置かれず、過去八十年以上にわたって行政が契約の存在を承認してきたのであれば、管理者と契約者の双方は、その制度が有効であるとの期待を形成しています。裁判所が事件発生後に初めて無効と判断し、その判断を過去へ及ぼせば、法に従ってきた者へ予測不能な不利益を与えることになります」
公訴官は満足そうに頷いた。
「つまり、保護院の契約は有効であると」
「有効と断定してはいません。立法府が明確な廃止手続を設けるべきであり、裁判所が一件の刑事事件を通じて社会制度全体を遡って変更することには慎重であるべきだと述べています」
「サファ・ネイには、子どもを連れ出す権限がなかった」
「従来の制度に従えば」
「子どもたちは保護院へ戻されるべきである」
「契約が有効である限りは」
傍聴席から声が上がった。
「四十年を返せというのか!」
警務官が発言者を探し、マレア裁判長が片手を上げて制した。
「警務官、座らせなさい。発言者を退廷させる必要はありません」
「審理妨害です」
「一言で壊れる審理なら、最初から大した審理ではないでしょう」
傍聴席のざわめきが収まると、マレアはレイヴァンへ向き直った。
「異大陸の研究官。あなたは、法へ従ってきた者の期待を守るべきだと述べました」
「はい」
「保護院の子どもたちは、何を期待していたのです」
「質問の意味を」
「制度を管理する側が、契約は有効だと信じてきた。その期待は、予測可能性として保護される。拘束される側が、盟約によって自由になれると信じた期待は、どこへ置くのです」
「両者を調整する必要があります」
「どのように」
「即時の全面無効ではなく、契約期間の短縮、補償、移行措置を」
「その間、子どもたちは働く」
「急激な制度変更による混乱を避けるためには」
「混乱するのは誰です」
レイヴァンは答えようとし、言葉を止めた。
旧族長家。
農場主。
鉱山主。
保護院。
労働力を失う者たち。
子どもたちは、すでに混乱の中へ置かれている。
「法の安定を語るとき、安定した場所にいる者の景色だけを見ていないか、確認したかったのです」
マレアはそれ以上追及しなかった。
被告人サファ・ネイは、石殻族としては若く、百歳に届いていなかった。右の頬から首へかけて淡い鉱石質の皮膚が広がり、保護院で火傷を負った左手の指は三本しか残っていない。
弁護人が尋ねた。
「あなたは、子どもたちをどこへ連れていくつもりでしたか」
「東風修道院です」
「修道院は受け入れを約束していた」
「正式な書面はありません。院長が、来れば匿うと」
「法的な保護を受けられる見込みは」
「ありませんでした」
「それでも連れ出した」
「移送されたら、戻らないからです」
「戻らないとは」
「保護院の帳簿から名前が消える。新しい働き先では番号で呼ばれる。四十年を終えて戻った者を、私は見たことがありません」
公訴官が反対尋問へ立った。
「橋を崩すつもりでしたか」
「ありません」
「副縄の近くで火器を用いた」
「警備員が子どもを斬ろうとした」
「警備員は、あなたが拘束門を破壊し、保護対象者を違法に連れ去ろうとしたため制止した」
「剣で子どもの腕を切るのが制止ですか」
「質問に答えなさい。あなたは火器を用いた」
「使いました」
「橋が古く、縄へ火が移れば崩落する危険を知っていた」
「知っていました」
「九名が死亡する可能性を承知で行動した」
「九名が死ぬとは思いませんでした」
「誰かが死ぬ可能性は」
サファは沈黙した。
「ありました」
「それでも続けた」
「はい」
「自分が正しかったと考えますか」
「分かりません」
「九名を死なせておきながら」
「死なせたから分からないのです」
「子どもを救った英雄として扱われたいのでは」
「七人は救えませんでした」
「保護院へ置かれていれば、生きていた可能性が高い」
「四十年を番号で呼ばれても、生きていると言うなら」
「あなたが決めることではない」
「保護院が決めることでもない」
「だから殺してよいと」
「殺してよいとは言っていません」
「あなたの行為で死んだ」
「はい」
「責任を認めますか」
「認めます」
「では有罪を」
「私が責任を認めることと、あなたが何の罪を当てはめるかは別でしょう」
傍聴席の一部から笑いが起こり、公訴官の顔が赤くなった。
マレア裁判長は笑いを止め、サファへ尋ねた。
「あなたは、殺人罪を認めない」
「殺すつもりはありませんでした」
「危険を知っていた」
「はい」
「別の方法は」
「請願を出しました。六度」
「回答は」
「三度は受理されず、二度は旧族長家へ照会され、一度は保護契約は適法だと返されました」
「王都へ直接訴えることは」
「通行証がありませんでした」
「通行証を得るには」
「保護院管理者の許可が要ります」
「子どもたち自身が拒否することは」
「契約上、成人まで意思能力なしとされます」
「成人は何歳です」
「奉公を終えた年です」
「四十年後」
「はい」
法廷が静まり返った。
拒否する資格を得るためには、拒否したい契約を完了しなければならない。
法は道を残しているように見え、その道の入口へ鍵を掛けていた。
審理の四日目、保護院から救出された子どもの一人が証言台へ立った。
年齢は十五歳前後と推定された。
推定とされたのは、出生記録がないためである。
名を尋ねられると、少年は三つ答えた。
「保護院では三十七号。母にはルゥと呼ばれていたらしいです。サファはフィンと呼びます」
「どれがあなたの名ですか」
公訴官が尋ねた。
「分かりません」
「法廷記録には一つを記さなければなりません」
「どうして」
「身元を確定するためです」
「三つあると、私ではなくなりますか」
「そうではない。審理上の便宜です」
「便宜のためなら、三十七号でいいです」
傍聴席がざわめいた。
公訴官は困惑し、書記官は記録欄の上で筆を止めた。
マレア裁判長が少年へ尋ねた。
「呼ばれたとき、最も自分へ向けられたと感じる名は」
「フィンです」
「ルゥは」
「母が呼んだらしいので、捨てたくありません」
「三十七号は」
「嫌いです。嫌いでも、そこで生きていた私の番号です。なかったことにはしたくない」
「では記録には、フィン、旧称ルゥ、保護院登録三十七号と記しましょう」
「長いです」
「法廷の記録は、時折、真実より長くなります」
少年は少し笑った。
証言を終えた後、休廷中の廊下で、彼はレイヴァンを呼び止めた。
「異国の先生」
「私ですか」
「名前に詳しいのでしょう」
「詳しいと誰が」
「公訴官が、あなたは家名と身分の研究をしていると言ってた」
「研究はしています」
「どの名前を使えばいいと思いますか」
若いレイヴァンは、答えを持っていると思った。
法的には、公籍へ登録される一名が必要である。出生名が分かるならそれを優先し、分からなければ本人が継続して使用する名を選び、旧名は身分証明のため併記する。
整然と説明しようとして、少年の顔を見た。
彼が求めているのは、登録技術ではない。
「あなたは、どの名で呼ばれたときに振り返りますか」
「全部」
「なら、すべてあなたの名でしょう」
「一つを選ばなくても」
「制度が一つを求める場合はあります。それは制度があなたを一つにできたという意味ではありません」
「先生は、一つしかないの」
「レイヴァン・エル=カディムです」
「それだけ」
「それだけです」
「迷わないの」
彼は答えた。
「迷いません」
七百年後、その記憶を思い出すことになるとは知らなかった。
自分に別の名がある可能性も、レイヴァンという名が最初から自分へ与えられたものではない可能性も知らず、迷わないと言い切った。
少年は羨ましそうな顔をせず、むしろ少し気の毒そうに彼を見た。
「一つしかないのも、狭そうだね」
その言葉を残し、証言台へ戻るため廊下を走っていった。
灰縄橋事件の審理は、二十三日間続いた。
旧族長家は、保護契約によって救われた子どもの例を示した。
飢餓から守られ、技術を学び、奉公先で家族を得た者もいた。
保護院の医師は、制度がなければ路上で死亡した子が多いと証言した。
農場主は、四十年の労働が過酷であることを認めながら、養育には費用がかかり、返済の仕組みがなければ誰も孤児を引き取らないと訴えた。
保護院を単純な悪として描けば、そこで食事を与え、病を治し、冬を越させた者たちの働きが消える。
善意を認めれば、自由を奪う制度まで善いものとなるわけではない。
サファの行為を英雄的救出と呼べば、橋から落ちた九名が物語のための犠牲になる。
殺人としてのみ扱えば、彼女が暴力を選ぶ前に六度差し出した請願と、国家が何もしなかった時間が消える。
判決の日、法廷の外には数千人が集まった。
サファの処刑を求める者。
無罪を求める者。
保護院の存続を求める者。
保護契約の全面廃止を求める者。
誰もが自分の正しさを掲げ、異なる正しさを持つ者の声を風の騒音として扱っていた。
マレア裁判長は、片翼の身体で高い裁判官席へ上がった。
判決文は、当時としては異例の長さだった。
「十二風盟約は、奴隷制を禁じた。法が名称だけを見て、実態を見ないのであれば、奴隷という語を保護、奉公、養育、返済へ置き換えるだけで禁止は空文となる。契約を拒む資格が与えられず、離脱する道が閉じられ、労働期間が生涯の大半へ及び、身体拘束と移送が管理者の判断だけで行われる制度は、その名称にかかわらず、盟約が禁じた支配に当たる」
旧族長家の代理人たちが立ち上がった。
マレアは読み続けた。
「保護契約は、盟約成立の日に遡って無効とする。管理者の刑事責任については、行政が長年制度を承認し、適法との信頼を与えた事情を考慮し、過去の行為を直ちに処罰しない。ただし本日以後、契約に基づく拘束、移送、強制労働は違法となる」
法廷の外から歓声が上がり、続いて怒号が聞こえた。
「サファ・ネイについて、保護対象者を盗んだとする罪は成立しない。人格を有する者は、管理契約の目的物ではなく、自らを他者から奪うこともできない」
サファは目を閉じた。
「一方、被告人は橋の構造と火気の危険を知り、死傷者が生じ得る状況で火器を使用した。子どもたちを救う目的は認められる。請願を拒まれ、合法的な離脱経路が閉じられていた事情も認める。それらは、死亡した九名の生命を存在しなかったことにはしない」
歓声が止んだ。
「被告人は、殺人罪について無罪。重大過失による致死罪について有罪とする」
サファへ言い渡された刑は、五年間の公的奉仕と、遺族および生存者へ向けた被害回復手続への参加だった。
投獄ではない。
無罪でもない。
英雄として称えることも、悪人として切り捨てることもしない判決だった。
法廷の一部は寛大すぎると怒り、別の一部は救助者を犯罪者にしたと怒った。
マレアは最後に、判決文へ記されていない言葉を述べた。
「本件で被告人席へ座った者は一人です。それによって、罪が一人分しか存在しないという意味にはなりません。被告人が火を使う前に、行政は六度の請願を退けた。議会は移行規定を作らず、法院は過去八十年、保護契約の実態へ目を向けなかった。国家が自らの責任を、被告人の犯罪によって清算することを、当法院は認めない」
法廷が静まり返った。
若いレイヴァンは、裁判官席を見上げた。
彼が知る故国の裁判所では、国家の誤りは被告人の刑事責任と切り分けられ、審理の対象外とされた。裁判官は法を適用する者であり、立法や行政の失敗を論じれば権限を越えると教えられてきた。
マレアは、被告人の責任を認めながら、国家の責任も同じ判決へ置いた。
どちらかを選ばなかった。
サファを救助者と認めるために死者を忘れず、死者を悼むために保護制度の暴力を正当化しなかった。
判決後、マレアは自らの職を辞した。
保護契約を八十年にわたって見過ごしてきた法院の一員として、制度改革を監督する資格がないという理由だった。
レイヴァンは、閉廷後の回廊で彼女を呼び止めた。
「辞任すれば、あなたの判決へ反対する者が後任を選ぶかもしれません」
「その可能性はあります」
「残るべきでは」
「私が残るほうがよいと、なぜ言えるのです」
「この国の理念を理解している」
「今日まで保護契約を止めなかった裁判官です」
「それでも、今日止めた」
「遅すぎました」
「遅くても、止めた者が必要です」
マレアは片翼を背へ畳み、若い異邦人を見た。
「あなたは、裁判官へ何を期待しているのです」
「正しい判断を」
「正しい判断をする者が裁判官なら、誤った日には裁判官でなくなるのでしょうか」
「誤りを正すことを」
「自分の誤りを自分で正した者は、次も自分だけで正せると思い始めます。私は今日、法を変えた。明日には、自分が法より正しいと信じるかもしれない。その危険を、この国は一人の善良さへ預けてはならない」
「それでは、誰が席へ残るのです」
「残るべき者が残ります」
「答えになっていません」
「答えは、あなたが考えなさい」
マレアは回廊の先へ歩き始めた。
片翼のため身体の均衡が取りにくく、歩みは遅かった。
「一つだけ申し上げるなら」
彼女は振り返らずに言った。
「法を信じる者だけで法廷を満たしてはいけません」
「なぜ」
「信じているものが傷んだとき、見えないふりをするからです」
「法を信じない者が、裁判官になれると」
「法を疑いながら、それでも他者を裸の力へ渡さないために席へ残る者なら」
彼女はそこで振り返った。
「裁判官とは、正しさを知る者ではありません。正しさを知らないという理由で、判断の責任から逃げない者です」
その日の夕暮れ、灰縄橋の崩落現場には、死者の名を記した九枚の布が吊るされた。
名が分からない二名の布には、空欄が残された。
フィンは、自分が使った三つの名を小さな木片へ刻み、橋の支柱へ結びつけた。
三十七号。
ルゥ。
フィン。
風が吹くたび木片は支柱へ触れ、三つの名が同じ音を立てた。
レイヴァンは王都を去り、故国へ戻った。
法を疑いながら席へ残る者となることを、そのときは選ばなかった。
研究官として論文を書き、数十年後に司法官となり、さらに長い年月を経て、支配民族のために作られた法律を適用する特別法廷へ座った。
灰縄橋事件で見たものを、忘れてはいなかった。
忘れていないまま、故国の法へ従った。
法廷を離れれば、もっと残酷な者が後任になる。
自分が手続を守ることで、刑を軽くできる者もいる。
裁判官が法を越えて善を語れば、私的な支配が始まる。
どれも完全な虚偽ではなかった。
完全な虚偽でない言葉ほど、自分を許すために使いやすい。
マレアは国家の責任を被告人の罪と同じ判決へ置いた。
後年のレイヴァンは、法律自体の不正を理解しながら、被告人だけを裁いた。
あの法廷で見た道を、歩かなかった。
それが、彼がセフィラードへ戻った理由の一つだった。
流暦五百十五年、異邦人として再び風の大陸へ渡ったとき、灰縄橋はすでに架け替えられ、マレアは亡くなり、フィンの名を刻んだ木片も残っていなかった。
それでも、彼女の言葉は残っていた。
法を疑いながら、それでも他者を裸の力へ渡さないために席へ残る。
レイヴァンが法廷へ立つ理由は、法を信じているからではない。
法が善を実現すると信じているからでも、正しい判決によって世界を救えると考えているからでもない。
法が誤り、裁判官が迷い、制度が弱者を見落とし、正義を名乗る者が他者へ沈黙を求める場で、誰も席へ残らなければ、最後に判断するのは、より強い声、より多い人数、より鋭い刃となる。
彼は、それを知っていた。
自らも刃の側へ立ったことがあるからこそ、知っていた。
*
「首席衡理官」
倫理監察室で、司法資格医官の声がレイヴァンを現在へ戻した。
「今、過去との混同がありましたか」
「いいえ。記憶を辿っていました」
「七百年前の法廷を」
「はい」
オレム監察官が尋ねた。
「その記憶と、現在の職務にどのような関係がありますか」
「私が、なぜ席へ残るのかを確認していました」
「答えは」
レイヴァンは、首席用の銀環が置かれていない自分の襟元へ触れた。
「法を信じているからではありません」
審査室にいる者たちが、彼の言葉を待った。
「法は誤ります。私も誤る。私が自分だと思ってきた存在さえ、別の者の名と記憶によって形作られている可能性がある。正しい者だけが裁判官になれるのであれば、法院は今日中に空になります」
「それでも他者を裁くと」
「裁くという言葉を、権威の所有と考えるなら、資格はありません。国家が力を行使する前に理由を求め、その理由を当事者へ示し、異議を残し、国家自身の責任を被告人の罪で隠さないために席へ着くのであれば、まだ務められます」
「ご自身の過去は」
「調査へ委ねます」
「胸中へしまうと申告されました」
「他人事として扱います」
セイルが初めて口を開いた。
「本当に可能ですか」
「不可能でしょう」
「では」
「不可能であることを知ったうえで、手続によって距離を作ります。自分の痛みだけを特別な真実と扱わない。出生記録も、サーヤの注記も、家族の沈黙も、一人の当事者に関する証拠として読む。私自身が当事者である事実を隠さず、当事者であるから結論を所有できるとも考えない」
「苦しくは」
「質問の目的は」
「私個人の質問です」
レイヴァンはセイルを見た。
「苦しいですよ」
その言葉に、審査室の空気が少しだけ変わった。
彼は続けた。
「千年を越えて自分のものだと思ってきた記憶へ、別人の名札が付けられた。幼い頃に失ったものが何であるかも分からない。兄を奪ったのか、兄に救われたのか、エイルという子を自分の中で殺し続けたのか、それともエイルがレイヴァンとして生き延びただけなのか、答えはありません。苦しくないと申せば、職務能力より先に誠実さを疑われるべきでしょう」
「それを抱えて、開廷するのですか」
「本日、三件の審理が予定されています。一件は、風路封鎖によって診療所へ行けなかった者の国家賠償。二件目は、故郷の慣習によって改名を認められない少女の申立て。三件目は、記憶共有契約から離脱した者へ共同体が損害賠償を求めた事件です」
「改名」
監察官の一人が呟いた。
「現在のあなたには、影響が大きすぎるのでは」
「その可能性があります。合議体のほかの衡理官へ申告し、私の発言を最後にし、判決理由の草案を単独で作成しません。必要なら忌避申立ても受けます」
「自ら外れる選択もある」
「あります」
「なぜ選ばない」
レイヴァンは、灰縄橋の支柱へ結ばれた三つの名を思い出した。
制度は一つを求める。
生は、一つへ収まらない。
「自分が名前について迷い始めた日に、名前を変えたいと訴える者の声を聞けないと決めるのは、私の苦悩をその者の事件より上へ置くことになるからです」
「同情によって判断が傾く危険は」
「同情がない者だけを裁判官へ選ぶわけにはいきません。同情を結論へ直結させず、理由へ分解し、他者の反論へさらすことが合議の役目です」
審査は二刻に及んだ。
結論として、レイヴァンの職務停止は行われなかった。
出生と人格継承に直接関係する資料への単独接触は禁止され、サーヤ・ミル事件、グラン・ゼルダから移管された記録、静謐冠研究との関係については、独立調査官が選任される。記憶と人格を争点とする事件については、当事者へ事情を申告し、忌避を申し立てる機会を与える。週ごとの職務能力診察も命じられた。
審査室を出る際、オレム監察官が銀環を差し出した。
「暫定的な職務継続が認められました」
レイヴァンは銀環を受け取った。
それは昨日までと同じ重さだった。
重さが変わらないことに、彼は少し驚いた。
役職の印は、身につける者が誰であるかを知らない。レイヴァンであろうと、エイルであろうと、兄の記憶を受け継いだ別の存在であろうと、銀は銀のまま襟元へ留まる。
法もまた、条文だけなら相手を知らない。
知らないから平等に適用できると称される。
知らないままでは救えない違いもある。
その二つの間に立つことが、裁判官の仕事だった。
最初の法廷では、改名を求める少女が待っていた。
少女は石殻族の伝統共同体に生まれ、出生時に祖母の名を継いだ。共同体の慣習では、家名と個人名は祖先から一時的に預かるものであり、本人の意思による変更は祖先との契約違反とされた。
少女は王都へ移住し、別の名で暮らしたいと申し立てた。
「どの名を望みますか」
担当衡理官が尋ねた。
少女は、緊張した声で答えた。
「ネアです」
「出生名は」
「記録に残さなければなりませんか」
「現在の公籍との照合に必要です。公開記録では非開示とできます」
少女は迷い、出生名を告げた。
その音を聞いた共同体の代理人は、祖先の名を法廷で軽々しく捨てたと非難した。
「名前は本人だけのものではありません」
代理人は言った。
「先に生きた者から受け取り、後の者へ渡すものです。彼女が名を変えれば、祖母の生は系譜から切り離される」
少女の弁護人が答えた。
「受け継いだものを守る義務があるとしても、それによって現在を生きる本人を名の器として拘束することはできません」
代理人はレイヴァンへ向いた。
「首席衡理官は長命種と聞きます。名が世代をつなぐ重みを理解されるでしょう」
法廷へ視線が集まった。
レイヴァンは、自分の襟元へ触れなかった。
「私の出生名と現在名に関する疑義が、昨日発見されました」
傍聴席がざわめいた。
彼は事情を簡潔に説明し、忌避を申し立てる権利を双方へ告げた。
共同体側は協議を求め、少女側も弁護人と話した。
どちらも忌避を申し立てなかった。
「それでは質問します」
レイヴァンは少女を見た。
「ネアという名は、誰が付けましたか」
「自分で」
「意味は」
「古い言葉で、夜明け前の薄い風です」
「なぜ、その風を」
「夜明けそのものだと、大きすぎると思ったから。まだ暗くて、何も変わっていないように見える時間に、少しだけ匂いが変わる風なら、自分に近いと思いました」
「出生名を嫌っていますか」
「嫌いではありません」
「捨てたいのでは」
「祖母の話は好きです。祖母が使った道具も、歌も、家も好きです。名前を呼ばれると、私ではなく、祖母の続きを求められているように感じます」
「祖母とのつながりを切りたい」
「切りたくありません」
「それでも名を変える」
「つながっていることと、同じ名でいることは、同じではないと思います」
共同体側の代理人が反対尋問に立った。
「あなたの祖母は、共同体を飢饉から救った方です。その名によって、あなたは教育と住居を与えられた」
「知っています」
「恩恵だけを受け、義務を捨てるのですか」
「名前を返します」
「名は物ではない」
「私も物ではありません」
少女の声は震えていた。
「祖母の名を大切にする方法を、私が一生その名前で呼ばれることだけにしないでください」
レイヴァンは、七百年前のフィンを思い出した。
三十七号。
ルゥ。
フィン。
七百年後の自分の名を思った。
エイル。
レイヴァン。
首席衡理官。
灰角卿。
異邦人。
魔人。
法官。
加害者。
どれも一部であり、一つだけを真実とすれば、ほかの何かが見えなくなる。
「代理人へ尋ねます」
レイヴァンは共同体側を見た。
「祖母の名を守る権利は、誰にありますか」
「共同体全体に」
「本人には」
「本人も含まれます」
「本人が、その名を自分の公的名称として使用しないことで守りたいと考えた場合は」
「それは名の継承を断つ行為です」
「継承とは、同じ形を保つことですか」
「少なくとも名は」
「祖母が共同体を救ったとき、祖先と同じ行動を繰り返したのですか」
「いいえ」
「祖母自身が選んだ行動によって、その名へ新たな意味を加えたのでは」
「そうです」
「ならば、孫が自らの名を選ぶ行為も、祖母から受け継いだ自由の使い方である可能性を、なぜ認められないのです」
代理人は答えなかった。
審理は日没近くまで続いた。
判決は後日となり、少女は法廷を出る前に、書記官から確認を求められた。
「記録上、現段階では出生名を使用します。よろしいですか」
少女は少し考えた。
「申立人ネア、現公籍名は非公開、と書けますか」
書記官がレイヴァンを見た。
「書きなさい」
少女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ認められたわけではありません」
「それでも、法廷で呼ばれました」
ネアはそう言い、弁護人とともに退出した。
誰もいなくなった法廷で、レイヴァンはしばらく裁判官席に残った。
自分の過去を胸の中へしまうとは、忘れることではない。
痛みをなかったことにすることでも、職務のために感情を殺すことでもない。
私的な傷を、他者の事件を照らす唯一の灯にしないこと。
自分の経験と似た訴えを特別に尊び、似ていない訴えを遠ざけないこと。
苦しみを知っているという理由で、他者の苦しみまで理解したと決めないこと。
何より、自分が被害を受けた可能性を知った途端、過去に他者へ与えた加害の責任から逃げないこと。
エイルであったとしても、レイヴァンの名で下した判決は消えない。
兄の記憶が彼を形作ったとしても、法廷で選んだ言葉は現在の彼の選択だった。
自分の生が不正な術式から始まったとしても、その後に行った不正が正当化されるわけではない。
愛している生が、正しい方法で与えられたとは限らない。
エリサの言葉が戻ってくる。
レイヴァンは、現在の自分の生を愛しているかと考えた。
愛という語を用いるには、彼の生は長く、失ったものが多く、悔恨が深すぎた。
それでも、風待館へ戻ればメルザが食事を用意し、セイルは読みにくい判決文を削り、ミレイアは無謀な異議を申し立て、リナは自分で選んだ音を学び、ノアは所有しない笛を修理し、ウィルはどこかの鐘へ向かっている。
その世界に明日も立ち会いたいという願いを、愛と呼ぶのかもしれなかった。
開いた外壁から夕風が入り、机上の記録をめくった。
レイヴァンは銀環を外さなかった。
自分がこの役職にふさわしいと確信したからではない。
確信できない者が、確信できないまま理由を示し、誤れば異議を受け、自分の判断さえ後世へ問い直させるために、席へ残る必要があると考えたからだった。
七百年前、マレアは彼へ答えを与えなかった。
残るべき者が残ると言い、誰が残るべきかを彼自身に考えさせた。
いまなら、少しだけ答えられる。
正しい者が残るのではない。
善い者が残るのでもない。
過去に罪のない者、迷いのない者、傷を持たない者が残るのでもない。
自らの正しさを法より上へ置かず、自らの誤りを理由として責任から逃げず、被告人の罪によって国家を無罪にせず、国家の不正によって被告人を英雄へ変えず、何一つ完全に救えない判決へ、それでも自分の名を記す者が残る。
その名が、最初から自分のものだったかどうかは、別の問いだった。
呼ばれたときに応答し、その名で行ったことの責任を引き受ける限り、少なくとも今日の判決へ署名する者は、彼自身でなければならない。
レイヴァンは判決草案の末尾へ、いつもの名を書いた。
レイヴァン・エル=カディム。
筆を置いたあと、その下へ小さく一行を加えた。
――出生名に関する調査継続中。
記録を隠さないための一文。
現在の名を直ちに捨てないための一文。
二つの名の間に、結論を急がないための余白を残す一文だった。
法廷の外では、王都を巡る風が暮れ始めた市場の匂いを運び、遠い西の空から三つの鐘の余韻を連れてきた。
第一鐘。
第二鐘。
第三鐘。
音は互いに異なり、重なることで一つの和音となる。
一つだけを残せば、曲は簡潔になる。
簡潔になった曲が、失った音まで正しく表しているとは限らない。
レイヴァンは法廷を出た。
廊下の先でセイルが待っていた。
「お帰りになりますか」
「風待館へ」
「メルザ殿が、昼食を持ち歩いたまま戻れば、夕食を出さないと」
レイヴァンは法衣の内側から、朝に包んだ黒パンを取り出した。
まだ半分残っていた。
「証拠を処分すべきでしょうか」
「隠滅はお勧めしません」
「それなら、提出します」
「ご自分で食べてください」
二人は回廊を歩いた。
石床の上を風が抜け、レイヴァンの法衣と、セイルの抱えた記録紙を同じ方向へ揺らした。
風は役職を知らない。
名前も知らない。
善い裁判官と悪い裁判官を選び分けず、正しい判決だけを遠くへ運ぶこともしない。
誤った言葉も、遅すぎた謝罪も、聞かれなかった異議も、同じように次の時代へ渡していく。
だからこそ、法廷に立つ者は、風へ任せる前に言葉を選ばなければならない。
選んだ言葉が、自分の意図とは異なる場所へ流れ、別の者の生を変えることまで引き受けなければならない。
レイヴァンは、その責任から一度逃げた。
故国の法廷で、不正な法律へ従うことを職務と呼び、自らの判断を条文の陰へ隠した。
セフィラードへ戻り、再び法廷へ立ったのは、過去を償えると考えたからではない。
失われた者へ判決を返すことも、処刑された者の時間を戻すこともできない。
贖罪という言葉を、自分が救われるための道具にしたくなかった。
彼が席へ立つ理由は、もっと貧しく、もっと不完全だった。
今日、自分が逃げれば、誰かが代わりに判断する。
その者が自分より善いとは限らず、悪いとも限らない。
それでも、自分が見た誤り、自分が犯した誤り、自分が知りながら選ばなかった道を、何も知らないことにはできない。
知った者には、知ったことによって生じる責任がある。
それが特権となる前に、自らを法の下へ置くため、彼は法廷に立つ。
王も神官も罪人も同じ高さへ座らせるなら、裁判長自身もまた、その法廷の外へ立ってはならない。
風待館の扉が見えた頃、四つ目の鐘が鳴った。
これまで沈黙していた北西の旧鐘だった。
音は弱く、途中で一度途切れ、壊れた喉からようやく声を絞り出すように王都へ届いた。
レイヴァンとセイルは同時に足を止めた。
「四つ目です」
セイルが言った。
「聞こえました」
「ウィルでしょうか」
「分かりません」
「調べますか」
「調べます」
四つ目の鐘の余韻に、言葉のようなものが混じった。
名を呼んでいるようにも聞こえる。
レイヴァンか。
エイルか。
まったく別の音か。
彼は意味を決めなかった。
決めずに聞き、聞いたことを記憶へ置き、明日、証拠として調べる。
法廷に立つとは、おそらく、その繰り返しだった。
風が何を運んできても、最初から善悪の名札を付けず、何も分からないという理由で耳を閉ざさず、答えを出す日が来れば、失われるものを知りながら自分の名を記す。
その名が誰から始まったとしても。
その名を使って生きてきた時間と、その名によって行った選択の責任は、いまの彼から離れない。
レイヴァンは再び歩き始めた。
夕風が背中を押したのではない。
法廷へ戻る理由を、風に決めさせるつもりはなかった。
それでも風は、彼の歩みと同じ方向へ流れていた。




