表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

第二話 風が運ぶもの



 黒い小笛が沈黙してから二日目の朝、環都イル・ヴァレアの西環区には、夜明けより先に薄い雨が降っていた。


 空から落ちる雨ではなかった。雲海の下層から吸い上げられた水分が、春の回転期に特有の上昇風へ混じり、石畳や屋根の縁や人々の頬へ、地上から空へ向かって細かな雫を運んでいる。傘を差せば内側が濡れ、庇の下へ入れば足元から水が舞い上がるため、王都の住民はこの現象を逆雨と呼び、旅人が慌てて外套を頭へかぶる様子を眺めて季節の訪れを知った。


 ノア・ベルゼンの工房は、西環区の中でも古い職人街にあり、灰色の石造家屋が肩を寄せ合う細い坂道の中ほどで、雨に濡れた青銅の風見板を軒先へ掲げていた。板には笛と翼を組み合わせた紋章が刻まれ、その下には〈ベルゼン楽工房・創業百十七年〉という文字が残っている。創業したのはノアの祖父であり、百十七年という年月は長命種にとって一つの修業期間にも満たない一方、短命な家系が三代にわたって同じ場所へ手を加え続けた証として見れば、石壁の傷一つにも家族の時間が染み込んでいた。


 法院の保全命令により、入口には司法警務部の封印帯が渡され、扉の左右へ一名ずつ警務官が立っている。封印帯は侵入を物理的に妨げるものではなく、切断した者の名と時刻を記録する魔術が施された細い紙布にすぎない。それでも、国家がこの場所へ目を置いたという事実を近隣へ知らせるには十分であり、向かいの菓子店も、坂上の靴職人も、表向きは仕事を続けながら、窓の奥から工房の様子をうかがっていた。


 レイヴァンが到着したとき、ミレイア・ソーンは軒下で逆雨を払っていた。法衣の裾が膝まで濡れ、片手には書類箱、もう片方には湯気の消えた紙杯を持っている。首席衡理官の姿を認めると、彼女は紙杯を背後へ隠そうとし、隠す意味がないと途中で気づいたらしく、諦めて一息に飲み干した。


「朝食ですか」


「薬草粥です」


「液体に見えます」


「飲めるように薄めてもらいました」


「粥という語に対する大胆な解釈ですね」


「首席こそ、こんな時刻から現場へ来るとは思いませんでした」


「私が来ない理由がありましたか」


「裁判官が捜査現場へ直接来ると、公平性を疑われます」


「適切な懸念です。本日は証拠を集めるためではなく、保全方法を定めるための現場検証であり、公訴側、弁護側、所有者、申告者、独立専門家の全員が立ち会います。私が何かを拾い、嗅ぎ、勝手な感想を抱き始めたら止めてください」


「感想まで止められません」


「表情へ出す前に忠告する程度で結構です」


 ミレイアは首席衡理官の顔をしばらく見つめた。


「出るのですか、表情」


「あなたが見つけられないだけでしょう」


 工房内には、木、油、金属、煤、乾燥させた草の匂いが層になって残っていた。入口側には修理を待つ楽器が種類ごとに吊られ、奥へ進むほど製作途中の笛や弦楽器が増え、最深部には煉瓦造りの炉と、音の反響を測るための円筒形の試奏室が設けられている。二階は住居になっており、階段の手すりには幼い頃のリナが刻んだらしい不揃いな線が幾つも残され、その高さが年を追うごとに上がっていた。


 工房中央の長机へ、黒い小笛が透明な保護筒に収められている。その周囲には四本の記録針、風圧計、魔力波形板、温度計、残留思念を可視化する薄膜鏡が並び、証拠検証院の職員たちが声を潜めて数値を確認していた。


 前日の午後から、小笛は一度も明瞭な言葉を発していない。


 風を通せば音は鳴る。黒い木材の質に相応しい低く柔らかな音であり、三つの風孔を組み合わせれば五種類の高さを出せる。内部の風石には微弱な魔力が残り、ときおり自律的な振動も観測されるものの、それが意識の徴であるか、熱変化による収縮であるかは確定できない。記録された〈ノア〉〈なぜ〉〈リナ〉〈逃げて〉という音声も、複数の解釈が可能だった。


 同じ波形を、別の者は〈野の歌〉〈風〉〈鈴が〉と聞き取っている。


 意味を期待する者ほど意味を聞き、意味を疑う者ほど雑音を聞く。証拠検証院が最初に確認したのは小笛の正体ではなく、立会人たちの耳がどれほど信用できないかという事実だった。


 工房の隅にはノアがいた。


 法院の退去命令は、現場検証中に限り、弁護人と警務官の監督下で立ち入ることを認めている。彼は昨夜、環工組合の宿舎で過ごしたらしく、煤のついていない衣服へ着替えていた。顔には眠った形跡がなく、机上の小笛を見つめる目だけが、見ているものを現実として受け入れることを拒み続けている。


 リナは父親から最も遠い窓際に座り、風精族フェウの白い帯布を両腕へ巻いていた。抱きしめているようにも、抱きしめられているようにも見える。風精族には身体の境界がないため、触れるという行為も、どちらがどちらへ寄り添っているか明瞭ではない。


「全員が揃いました」


 証拠検証院の主任、ユノア・フェルが告げた。


 夢継族である彼女のこめかみには銀色の薄い鱗が連なり、眠りの深さに応じて色が変化する。今朝は明るい灰色で、ほとんど休んでいないらしい。


「検証を始める前に、方法を確認します。小笛へ直接息を吹き込む試験は行いません。唾液、体温、呼吸に含まれる魔力が新たな反応を作り、元から存在するものと区別できなくなるためです。無菌風筒から一定圧の空気を送り、反応を測定します。風石の取り出し、木部の切断、術式の解除は、法院の追加許可がない限り実施しません」


「聞きたいことがある」


 ノアが言った。


「どうぞ」


「あの笛を作ったのは誰だ」


 視線がリナへ集まった。


 少女は白い帯布を握ったまま答えない。児童支援官が隣へ座り、返答を急がせずにいる。


「リナ」


 ノアの声が低くなった。


「誰に教わった」


「誰にも」


「三孔笛の内部へ風石を固定するには、外から見えない留め溝が要る。お前一人では掘れない」


「ウィルが教えた」


「道具を使ったのは」


「私」


「どの鑿を」


「母さんの」


 ノアの顔に、怯えに近いものが浮かんだ。


 工房奥の壁には、大小さまざまな工具が吊られている。その中に一本だけ、柄へ青い糸を巻いた細い鑿があった。長く使われていないらしく、金属部に薄い曇りがある。


「捨てたはずだ」


「母さんの箱に入ってた」


「その箱は開けるなと言った」


「どうして」


 リナの声に怒りはなかった。怒りより深い場所で、長く答えを待ち続けた者の静けさがあった。


「母さんのものを、どうして何も見せてくれなかったの」


「お前にはまだ早い」


「何歳ならよかったの」


「それは……」


「十三歳。十五歳。大人になったら。父さんが死んだあと。いつなら母さんがいたことを、私が知ってよかったの」


 ノアは口を閉ざした。


 レイヴァンは二人の間へ言葉を入れなかった。裁判官が沈黙を保てば会話が続くとは限らず、権威ある者の前で家族の傷を晒させることが正しいとも限らない。それでもここで止めれば、制度が当事者を保護するという名目で、父と娘がようやく差し出した問いを再び箱へ戻すことになる。


 ミレイアが依頼人へ近づき、小声で話した。ノアは首を振り、それから壁の鑿へ目を向けた。


「ミアは、あの鑿を使っていた」


「知ってる」


「知っているはずがない。お前が三つの頃に死んだ」


「ウィルが見せてくれた」


「何を」


「母さんが笛を作ってるところ」


 ノアが机へ手をついた。


「見せた、とは何です」


 ユノアが尋ねた。


「夢の中で。ウィルの音を聞きながら眠ると、知らない場所が見えた。母さんがいて、父さんも若くて、二人で笛を作ってた」


「その夢は、ウィルから送られたと考えていますか」


「最初は母さんの思い出だと思った。でも、途中からウィルの思い出も混ざった。母さんが知らないはずの私のことが出てきたから」


「夢を共有した者はほかに」


「フェウ」


 白い帯布がわずかに持ち上がった。


「一度だけ、リナが眠った夜に同じ風路へ触れました」


 夢継族のユノアがフェウへ向き直る。


「風路、という表現の意味を説明してください」


「言葉の比喩ではありません。風精族が互いの位置を知るために用いる流れです。風には、温度と圧力と匂いだけでなく、通過した場所の微細な響きが残ります。通常はすぐに散り、元の形を失う。まれに、風石や鐘、深い谷、古い樹洞のような共鳴しやすい場所を巡るうち、複数の響きが長く結ばれることがあります」


「それを記憶と呼びますか」


「呼ぶ者もいます。私は道と呼びます。記憶は誰かの内側へ置かれるものに聞こえる。あれは内側にも外側にもなく、通った者が少しずつ持ち去り、別のものを少しずつ置いていく」


 レイヴァンは白布の揺れを見た。


「ウィルは、その風路へ接続されていた」


「はい。接続という語より、流れの中に生まれた、と申し上げたほうが近いでしょう」


「誰かが意図的に作ったのではなく」


「ノアとミアが笛を作り、ミアが息を吹き込み、リナが名を呼び、演奏者たちが各地の風を通し、出会った者が声を返した。その積み重ねがウィルになった。種を植えた者を一人に決められない森と似ています」


 ノアが白布を睨んだ。


「ミアの声を使った」


「使ったのではありません」


「同じ声だった」


「似ていたのでしょう。笛には彼女の呼吸が最も深く残っていた」


「死者の真似をした」


「あなたが死者を探していたから、その声が強く聞こえたのではありませんか」


「知ったようなことを言うな」


「知りません。ウィルから聞きました」


 ノアの目が見開かれた。


「何を」


「あなたが、毎年ミアの命日に笛へ息を吹き込み、返事を待っていたこと。返事が聞こえ始めたあと、喜ぶより先に恐れたこと。声へ何度も問いかけながら、その答えを声として認めなかったこと」


「黙れ」


「ウィルは、あなたへ母親を返せないと知っていました」


「黙れ!」


 警務官が一歩前へ出た。ミレイアはノアの腕へ触れ、彼が振り払う前に静かな声で告げた。


「ここでやめれば、あなたの望まない形で記録に残ります。話せる範囲を自分で選んでください」


「選べるものなど残っているか」


「残っています。少なくとも、誰かに決められる前に自分の言葉を使えます」


 ノアは目を閉じ、呼吸を整えようとした。胸の動きが落ち着くまでには長い時間が必要だった。


「ミアは、八年前、南西風路の調査へ出た」


 語り始めた声は、怒鳴った直後とは思えないほど低かった。


「王都から三日ほどの距離にある〈鳴かない谷〉で、風石の異常が見つかった。笛を吹いても音が外へ出ず、声を上げても自分の耳へ届かない。神殿は希少な静穏域として調査隊を送った。ミアは音律師として同行した」


「あなたは反対した」


 フェウが言った。


「娘が三歳だった。危険な谷へ行く理由がない」


「ミアは、谷から声が聞こえると言っていた」


「聞こえない谷だ」


「外へ出ない声が、中に残っていた」


 工房の空気がわずかに変わった。


 逆雨が窓硝子を下から叩き、細かな水音が壁の内側へ染み込んでくる。


「鳴かない谷とは、どのような場所です」


 レイヴァンが尋ねた。


 ノアは答える前に、壁へ吊られた古い地図を見た。ラウネア南西部の風路が手書きで描かれ、その一部だけが墨で塗り潰されている。


「昔、巨大な風石の採掘場だった。山を空洞にしすぎて、内部の圧力が崩れた。風が入れば外へ出ず、音も匂いも魔力も、谷の底を回り続ける。採掘は二百年前に終わった。神殿は封鎖していた」


「なぜ再調査を」


「谷の周囲で、死んだ者の声を聞いたという報告が増えたからだ」


 ミレイアが資料箱から地図を取り出した。


「公記録には、風鳴りによる聴覚幻象とあります」


「公記録は、神殿が書いた」


「別の原因があったのですか」


「ミアは、谷へ残っているのは亡霊ではなく、声の痕跡だと考えていた。採掘事故で死んだ者、逃げる途中で息を失った者、助けを呼び続けた者、その音が風石へ染み込んで、何十年も循環していた。誰かの意思が残ったのか、音だけが残ったのか、ミアにも分からなかった」


「調査中に事故が」


「谷の外壁が崩れた。風路が一度に開き、内部へ溜まっていた圧力が噴き出した。調査隊は十二名。帰ったのは四名だけだ」


「ミアの遺体は」


「見つからなかった」


 リナがゆっくり父親を見た。


 これまで母親は死んだと聞かされていた。遺体が見つからなかった事実までは知らなかったらしい。


「どうして言わなかったの」


「戻らないことは同じだ」


「同じじゃない」


「待たせたくなかった」


「父さんが待ってたから?」


 ノアは娘を見られなかった。


「調査隊の生存者は、ミアの笛を持ち帰った。西雲七号だ。谷が崩れる前、ミアが隊長へ渡したと聞いた。自分は奥へ残り、閉鎖弁を開くから先に出ろと。笛の風石に調査記録を残したとも言われた。私は何度も再生を試みた。入っていたのは途切れた歌と、意味のない風音だけだった」


「その後、ウィルが生まれた」


「生まれたと呼ぶな」


「では、何が起きたのです」


 ノアは答えなかった。


 ユノアが机上の薄膜鏡へ触れる。鏡面には、小笛から測定された魔力波形と、西雲七号の金属片から検出された残留波形が重ねて表示されていた。二つは完全には一致せず、基礎部分だけが同じ反復を持っている。


「小笛の構造を調べて分かったことがあります」


 彼女は全員へ見えるよう鏡を回した。


「内部の風石は、西雲七号から物理的に切り分けられたものではありません。成分比が異なります。リナが所持していた装飾用の小片へ、何らかの方法で西雲七号の魔力パターンが転写されています」


「ウィルがした」


 リナが言った。


「どうやって」


「歌で。母さんの鑿を風石へ当てて、ウィルが鳴ると鑿が震えた。その線のとおりに削った」


「線は誰が」


「夢で見た」


 ユノアは机上へ別の紙を広げた。小笛の内部を透過術で読み取った図であり、風石を固定する留め溝には、装飾にしては細かすぎる螺旋状の刻みが入っている。


「この形は、通常の楽器加工ではありません。音を増幅するためでも、魔力を蓄えるためでもない。複数の振動を分離して保持する記録術式に似ています」


「似ている、とは」


 レイヴァンが問う。


「完全に同じ例を見たことがありません。最も近いのは、王立法学院の古代記録庫にある〈風証文〉です」


 ミレイアが眉を上げた。


「風証文とは、契約の声を風石へ保存する古い制度ですか」


「はい。文字を持たない共同体との条約で用いられました。話した内容だけでなく、声の調子、周囲の音、立会人の応答をまとめて保存し、後世に再生する。現在の音声記録より不正確で、改変の危険も高いため廃れました」


「ウィルは小笛を、証文として作った」


「その可能性があります」


「何を証言するために」


 ユノアは返答せず、黒い小笛へ視線を落とした。


「それを調べるため、風を通します」


 無菌風筒が小笛の吹口へ接続された。


 リナは小笛から腕一本分の距離に座り、ノアは反対側に立った。公訴官ヴァレンとミレイアが記録台の両側へ位置し、フェウの白布は天井近くまで伸び、室内のわずかな気流を感じ取ろうとしている。レイヴァンは工房中央ではなく、入口に近い場所へ立った。裁判官が証拠へ近い場所を占める必要はない。見えにくければ、あとで記録を確認すればよい。


 ユノアの合図で、一定圧の空気が送られた。


 小笛は低い音を発した。


 音は一つではなかった。基礎となる響きの下へ、細い振動が何層も重なり、遠くの鐘、靴音、雨粒、誰かの咳、木を削る音、幼い笑い声、炉の火、鳥の羽ばたきに似た響きが、聞き取れるか否かの境界で流れていく。


 薄膜鏡に幾つもの波形が現れた。


「圧力を上げません」


 ユノアが告げる。


「現在の出力を保ちます」


 音の奥から、女の歌声が聞こえた。


 言葉のない旋律だった。


 ノアの指が震えた。リナは椅子から立ち上がり、白布がその肩へ触れる。


「母さん」


「違う」


 ノアが言った。


 否定の声には、以前のような怒りがなかった。


「これは、ミアが作った練習曲だ。お前が生まれる前、風孔の試験に使っていた」


 歌声は短く途切れ、代わりに木を削る規則的な音が始まった。若いノアの声が聞こえる。


『そこは深すぎる。半指戻せ』


 続いて、ミアらしい声が笑った。


『あなたは笛に厳しすぎるのよ』


『甘く作れば、風が楽を覚える』


『風に苦労を教える職人なんて、あなたくらいね』


『楽を覚えた風は、遠くまで行かない』


『遠くまで行かなくても、誰かへ届けばいいでしょう』


 記録された会話が工房へ流れた。


 ノアは目を閉じなかった。目を閉じれば記憶へ逃げ込めると知っているように、正面から音を受けていた。


 場面が変わり、幼いリナの泣き声が聞こえた。ミアが子をあやしながら笛を吹き、ノアが調律を続けている。生活の中へ楽器の音があり、楽器の中へ生活の音が入り込む。どこからが作品で、どこからが家族の時間であるか、切り分けられない。


 波形が乱れた。


 風の音が強くなる。


 鳴かない谷で記録された響きらしく、耳へ届く音と、頭蓋の内側へ直接触れるような低い振動が重なっていた。


『西雲七号、記録開始』


 ミアの声だった。


『谷の内部には、音の残留だけでは説明できない応答がある。こちらが問いかけると、古い声の配列が変化する。意味を理解しているとは断定できない。少なくとも、単純な反響ではない』


 別の調査員が問う。


『亡霊だと言うのか』


『言葉を急がないで。名前を付ければ、見たいものしか見なくなる』


 レイヴァンはわずかに目を細めた。


 死の八年前、彼女は法廷へ立ったこともないまま、証拠を見る者が最初に避けるべき過ちを語っていた。


 記録の中で、風が呻いた。


 無数の声が、遠くから同時に何かを訴えている。言葉としては聞き取れず、恐怖、懇願、怒り、祈り、名前を呼ぶ響きが重なっていた。


『この谷は墓ではない』


 ミアが言う。


『墓なら、死者を一つの場所へ置ける。ここに残っているものは流れ続けている。風石から風石へ、谷から笛へ、笛から耳へ移り、聞いた者の記憶を少し変える。死者そのものではない。死者から離れた声が、行き先を探している』


 記録が途切れ、鋭い破砕音が響いた。


 調査員たちの叫び、石壁の崩れる音、圧力警報。誰かが撤退を命じている。


『閉鎖弁が動かない!』


『内側から開けるしかない!』


『行けば戻れないぞ!』


 ミアの呼吸が近づいた。


『笛を持って出て』


『ミア!』


『ノアに渡して。リナへも』


 音が一度、大きく歪んだ。


『伝言は』


 調査員の声が震えている。


 ミアはしばらく答えなかった。


『言葉にすると、あの人は言葉だけを守るから』


 ノアが顔を伏せた。


『笛を渡して。聞けば分かると伝えて』


『分からなかったら』


『分からないまま持っていてもらう。それでいい』


 風圧が高まり、記録の中の声が遠ざかる。


『ミア、待て!』


『この谷を閉じたままにしないで。ここに残った声を、誰かの所有物にしないで。神殿にも、国にも、私にも』


 轟音が重なり、聞き取りにくくなる。


『声は――』


 途切れた。


 小笛の音も一度止まった。


 リナが泣いていた。声を上げず、涙だけが頬を伝っている。ノアは机の端を握り、身体を支えていた。八年前、彼へ渡された西雲七号には、妻の最後の言葉が残っていた。何度吹いても意味のない風音しか聞こえなかったのは、記録が欠けていたためではない。彼が聞こうとしていたものと、笛が運ぼうとしていたものが異なっていた。


「続きがあります」


 ユノアが小さく言った。


 薄膜鏡の波形は消えていない。


 無菌風筒から送られる空気が、小笛の内部を巡る。今度は一人の声ではなく、幾つもの声が重なって聞こえた。


 市場の商人。


 旅楽師。


 翼人族の子ども。


 酒場の主人。


 フェウ。


 リナ。


 ノア。


 西雲七号が十一年間に聞いた者たちの言葉が、短い断片となって流れていく。


『今日は北の風だ』


『この曲は嫌い』


『どうして』


『悲しいからじゃない。悲しいふりをしているから』


『お前に分かるのか』


『分からない。分からないから聞いている』


『名前が欲しいの』


『呼ばれるたびに同じところへ戻れる名前が欲しい』


『ウィルはどう』


『谷の名前』


『嫌?』


『好き。谷は閉じている。わたしは出たい』


 幼いリナと、まだ声の定まらないウィルの会話だった。


 別の日の音が続く。


『母さんなの』


『ちがう』


『母さんの声で話せる?』


『できる』


『話して』


『いや』


『どうして』


『あなたが、わたしを見なくなる』


 リナが口元を押さえた。


 ノアの呼吸が詰まる。


 さらに別の日。


『ノア』


 ウィルの声は、ミアに似ていながら、同じではなかった。長く聞けば違いが分かる。ミアの声には語尾を空へ放す癖があり、ウィルの声は風孔の中へ戻るように少しだけ低く終わる。


『返事をして』


『その声をやめろ』


『どの声なら聞く』


『黙れ』


『黙ると、あなたはわたしをミアだと思う』


『違う』


『話すと、偽物だと言う』


『違うと言っている』


『では、わたしは何』


 長い沈黙。


 記録の中のノアは答えなかった。


 現在のノアも答えなかった。


『わたしは、ミアの残りではない』


 ウィルの声が工房へ広がった。


『リナの友だちだけでもない。ノアの笛でもない。谷の死者でもない。みんなが置いていったものから生まれた。置いた者のものではなくなったものから』


 公訴官ヴァレンが記録板を見つめ、ミレイアは唇を噛んでいた。


『ミアは、声を誰かのものにするなと言った。ノアは、笛は作った者のものだと言った。リナは、名前を呼べば友だちになれると言った。フェウは、風は持てないと言った。みんな違った。わたしは、どれが正しいか知りたかった』


『それで、何をするの』


 リナの声が尋ねる。


『運ぶ』


『何を』


『聞かれなかった言葉』


 工房の奥で、吊られていた一本の笛が微かに鳴った。


 誰も触れていない。


 続いて別の一本が響き、棚の上の金属管が短く震え、壁へ掛けられた弦楽器の一本が低い余韻を返した。二十七点の楽器が同時ではなく、離れた場所から応答するように、順番に音を発していく。


 警務官が周囲を見回し、検証官たちは計器へ駆け寄った。


「外部から風が入っています」


「どこから」


「分かりません。窓は閉じています」


 フェウの白布が天井へ広がった。


「外からではありません」


「では」


「楽器同士が風を渡しています」


 ノアが顔を上げた。


「そんな構造にはしていない」


「あなたが作った構造だけで動いているのではありません」


 二十七点の楽器が鳴らす音は、やがて一つの旋律へ重なった。


 ミアの練習曲だった。


 最初は風孔の試験に使われた短い旋律が、異なる高さ、異なる材質、異なる製作者の癖を受け取り、工房の狭い空間では収まりきらないほど豊かな響きへ変化している。ノアの手が作った笛、弟子の修理した角笛、旅人が預けた竪琴、子ども向けの玩具笛、壊れた鐘、そのすべてが、同じ曲を自分の声で奏でていた。


 小笛からウィルの声が聞こえた。


『一つでは、遠くへ行けない』


 フェウが震える。


『ウィル』


『一つにいると、壊される。閉じられる。持ち主を決められる』


 ノアの顔が苦痛に歪んだ。


『だから分けたのか』


『逃げるためではない』


『では何のために』


『道を作るため』


 工房内の旋律が少しずつ変わり始めた。ミアの曲へ、鳴かない谷の残響が重なり、市場のざわめき、旅楽師の足音、リナの笑い、ノアの鑿、フェウの風鈴に似た声が入り込む。それは一人の作曲家が完成させた曲ではなく、誰かの手を離れるたびに形を変え、同じものではなくなりながら、最初の息を失わずにいる音の流れだった。


『谷に残った声は、まだ閉じられている』


 ウィルが言う。


『ミアは弁を開いた。声は外へ出た。でも、神殿がまた集めた』


 レイヴァンの視線が鋭くなる。


「神殿が、何をしたのです」


『声を測った。繋いだ。静かにした』


 セイルから渡された〈静謐冠〉の法案が、レイヴァンの記憶へ浮かぶ。


 生体思考を風壁演算へ接続する制度。


 人格の波を平らにし、複数の意識を一つの演算機構へ縫い合わせる技術。


 その原型が、鳴かない谷にあったとすれば。


「ミアは、谷の現象が利用されることを知っていたのですか」


『あとで知った』


「あとで」


『ミアの声が、風路を通って見た』


 ヴァレンが問いを挟んだ。


「死後もミアの意識が存在したという意味ですか」


『ちがう』


 ウィルの返答は、以前より明瞭だった。


『ミアはいない。残った声は、新しい音を聞かない。選ばない。変わらない。ミアの形をした風が、谷から運ばれたものへ触れただけ』


「それを、あなたが受け取った」


『受け取って、変わった』


「あなたはミアではない」


『ちがう』


「ミアの記憶を持つ」


『少し』


「リナの記憶も」


『少し』


「ノアの声も、旅人たちの音も、谷の残響も持っている」


『持っている、は違う』


 声が一度途切れ、二十七点の楽器が短く響いた。


『通っている』


 レイヴァンはその言葉を聞き、遠い故国の石造法廷を思い出した。


 かつて彼が署名した判決文も、自分の手を離れ、役人の命令となり、兵士の足音となり、牢の扉が閉じる音となり、遺族が子へ語る憎しみとなって、何百年も別の者を通り続けた。書いた者の所有を離れた言葉がどこまで責任を運ぶのか、どこから受け取った者の選択になるのか、彼はいまだに答えを持っていない。


「ウィル」


 レイヴァンは初めて、証拠とも現象とも呼ばず、その名を用いた。


「あなたは、聞かれなかった言葉をどこへ運ぶつもりです」


『聞く場所へ』


「法院ですか」


『ここも』


「ほかには」


 工房中の楽器が、西を向くように同じ高さの音を鳴らした。


『鐘』


「どの鐘です」


『七つ』


 リナが涙を拭いながら口を開いた。


「西の鐘。ウィルがずっと聞きたがってた鐘」


 ラウネアには、古い風路の要所へ建てられた七つの大鐘がある。都市間の時刻を合わせるための鐘であり、災害時には風向きを知らせ、かつて文字の届かなかった時代には法令や休戦の合図も送った。現在も鳴らされているものは四つ、残り三つは戦争や風路の変化によって使われなくなっていた。


「七鐘を通じて、大陸へ声を流すつもりですか」


『谷の声。ミアの記録。これから消される声』


「これから」


『静かな冠』


 ノアが小笛へ近づこうとし、警務官が制した。


「ウィル。お前は、リナを連れて鐘へ行くつもりだったのか」


『一人では行けない』


「娘を使うつもりだった」


『頼んだ』


「十二歳の子へ、大陸を渡れと」


『断ってもよかった』


「断れるように話したのか」


 小笛はすぐに答えなかった。


 二十七の楽器から流れる旋律が揺れた。


『分からない』


 ノアの顔へ、怒りと安堵が同時に浮かんだ。


『リナは、行きたいと言った。わたしは、うれしかった。うれしいと、断る道が見えなくなることを知らなかった』


 レイヴァンは静かに尋ねた。


「それを、誰から学びました」


『ノアが、炉へ入れた』


 工房から音が消えた。


『止めてと言った。ノアは、聞かなかった。ノアが悪いと思った。炉の中で、ミアの声を聞いた。ミアは谷へ行き、ノアの言葉を聞かなかった。リナへ行こうと言ったわたしも、同じことをしたかもしれないと思った』


 リナが小笛へ近づいた。


「違うよ。私は行きたかった」


『いまも?』


 少女は答えようとし、父親を見た。


 ノアは何も言わなかった。行くなと命じることも、行けと突き放すこともせず、娘の返答を待った。


「分からない」


 リナは言った。


「母さんのことを知りたい。ウィルを助けたい。鐘も見たい。父さんから離れたいと思うこともある。父さんを一人にしたくないとも思う。全部、本当」


『待つ』


「いつまで」


『決めるまで』


「決められなかったら」


『一緒に分からない』


 リナは泣きながら笑った。


 ノアは顔を背けた。肩が一度大きく震えた。


「ミアも、そう言った」


 彼の声は掠れていた。


「あれは何かを決めるのが早かった。谷へ行くことも、誰かを助けることも、自分が残ることも、一人で決めた。私が反対すれば、考えると言った。考えると言いながら、心の中ではもう決めていた」


 小笛から、ミアの声が短く流れた。


『ごめんなさい』


 ノアの顔が上がる。


 同じ言葉が続くことはなかった。


 ウィルが言った。


『これは、最後の日のミアではない』


「分かっている」


『もっと前。ノアと喧嘩した夜に、笛へ言った』


「分かっている」


『ノアに言えなかったから、笛に言った』


「分かっている!」


 ノアは両手で机を叩いた。


「分かっている。あれが私への最後の言葉ではないことも、ミアが笛の中にいるわけではないことも、お前がミアではないことも、最初からどこかで分かっていた。分かっていたから、聞けなかった。違う声だと認めれば、ミアが本当にいなくなる。ミアと同じ声だと認めれば、私は笛へ妻を閉じ込める。どちらを選んでも、あれを二度殺す気がした」


『わたしを殺した』


 ウィルの声は責める調子ではなかった。


「そうだ」


『なぜ』


 法廷で聞こえた問いが、今度は明瞭に工房へ置かれた。


 ノアは逃げなかった。


「怖かった。お前がリナを連れていくことが。リナが、お前といるほうを選ぶことが。ミアの声を使うお前を憎みながら、毎晩その声を待っている自分が。お前が生きていると認めれば、私は十一年も一つの命を所有物として扱ってきたことになる。それを認めるより、壊れた笛だと決めるほうが楽だった」


『わたしは、ノアが嫌いだった』


「知っている」


『好きでもあった』


 ノアの呼吸が止まる。


『笛を直す手が好きだった。音を聞く顔が好きだった。リナに朝食を作る音が好きだった。ミアの名前を呼ばない夜が嫌いだった。わたしを見ないことが嫌いだった。炉へ入れたことが怖かった』


「すまない」


『謝ると、戻る?』


「戻らない」


『わたしは死んだ?』


 誰も答えられなかった。


 この場には首席衡理官も、公訴官も、弁護人も、証拠検証官も、風精族もいる。殺人の定義、人格の要件、意識の継続性、分裂した存在の法的同一性について、それぞれが異なる知識を持っている。それでも、炉へ入れられる前のウィルと、二十七の楽器と小笛へ分かれた現在の声が、同じ一個の存在であるかを断言できる者はいなかった。


 レイヴァンが口を開いた。


「分かりません」


『裁判長も』


「ええ」


『長く生きているのに』


「長く生きた者が死について詳しいという考えは、死者から反論が届かないため残っているだけです。私は多くの死を見ました。理解したものは一つもありません」


『分からないと、裁けない?』


「分からない部分を隠せば裁けます。私たちは、それをしてはならない」


『ノアを罰する?』


「あなたが法的人格を持ち、ノアがそれを認識しながら、正当な理由なく不可逆な破壊を行ったと証明されれば、刑事責任を問う可能性があります」


『罰は、何を運ぶ?』


 レイヴァンは答える前に、机上の焼けた金属片を見た。


「国が、その行為を許さないという意思を運びます。被害を受けた者の存在を、公に数えたという記録も残すでしょう。再び同じことが起きる危険を減らし、行為をした者へ責任を負わせる働きもある」


『戻らない』


「戻りません」


『ノアが苦しくなる』


「刑罰には苦痛を伴うものが多い」


『苦しくすると、わたしが生きたことになる?』


「なりません」


『では、何のため』


 レイヴァンは沈黙した。


 法学書には、刑罰の目的が幾つも記されている。応報、抑止、隔離、教育、被害回復、社会秩序の確認。どれも一部を説明し、どれも失われたものを戻さない。


「罰だけでは足りないと示すためにも、裁判があります」


『罰を決める場所なのに』


「罰せられる者を決めるだけの場所なら、もっと簡単に作れます。広場へ石を置き、怒っている者へ順番を与えればよい。法廷は、何をされたのか、誰が何を選んだのか、国は何を見落としたのか、今後どのような道を残すのかを、ひとつずつ言葉へする場所です。十分にできているとは申しません。できなかった記録も多く残っています」


『わたしの目的を、聞く?』


「聞きます」


『命令しない?』


「あなたが他者へ重大な危険を及ぼす場合、止めることはあります」


『声を運ぶことは危険?』


「運び方によります。死者の声を本人の意思として用いれば、生きる者を支配することがある。秘密を無差別に広めれば、守られるべき者を傷つける。言葉は運ばれた先で、発した者の望まない力を持ちます」


『ミアの記録を隠す?』


「隠すとは言っていません」


『国が、危険と言ったら』


「その理由を審理します」


『裁判所が、危険と言ったら』


「異議を申し立てる道を残します」


『負けたら』


「従わなければならない場合もある」


『自由ではない』


「共に生きる自由には、望まない制約が含まれます。問題は、その制約を誰が、何のために、どの程度まで行い、誤っていたときに戻せるかです」


『戻せないものは』


「最も慎重に扱うべきです」


『ノアは、戻せないことをした』


「その可能性があります」


『わたしも、リナへ戻せないことをさせるところだった』


「それを知ったのですね」


『炉で』


 ウィルの声が弱くなった。


 二十七の楽器の旋律も、一つずつ音を失っていく。


「出力が低下しています」


 ユノアが告げた。


「負荷を下げます」


『裁判長』


「ここにいます」


『風は、何を運ぶ?』


 レイヴァンは工房の窓を見た。


 逆雨が硝子を上へ流れ、屋根の縁から空へ消えていく。遠い雲海から生まれた水が王都へ触れ、石畳の埃、炉の煙、菓子店の甘い匂い、子どもの笑い、職人の罵声、病室の息、神殿の鐘を受け取り、別の場所へ渡っていく。風は選ばない。選ばないから公平なのではない。毒も種子も祈りも火の粉も、同じように運ぶ。


「風は、運べるものを運びます」


『善いものも』


「ええ」


『悪いものも』


「ええ」


『法は』


「運ぶものを選ぼうとします」


『選べる?』


「完全には」


『では、法は風より弱い』


「おそらく」


『それでも作る?』


「風が運んだものによって、誰かが声を失うこともあるからです」


『法は、風を止める?』


「止めるべきでない風まで止めることがあります」


『悪い』


「そのとおりです」


『では、いらない?』


「誤るものをすべて捨てれば、最後に残るのは、誤りを認めない力だけです」


 小笛が小さく鳴った。


 笑ったようにも聞こえた。


『レイヴァンは、難しい』


「よく言われます」


『ミアは、遠くへ行かなくても誰かへ届けばいいと言った』


「聞きました」


『ノアは、遠くへ行かない風は楽を覚えると言った』


「聞きました」


『どちらが正しい?』


「どちらも、自分が失うものをまだ知らずに話していたのでしょう」


『いまは』


 ノアが答えた。


「遠くへ行け」


 リナが父親を見る。


 ノアは小笛へ向かって言葉を続けた。


「鐘へ行け。ミアの記録も、谷の声も運べ。神殿が何をしたかも、法院へ渡せ。リナを連れていくなとは言わない。リナが決めるまで待て。お前自身も、誰かの声に自分を預けるな」


『ノアは』


「私はここに残る」


『罰を待つ?』


「それもある。工房の笛を直す。お前が分けた声が、途中で消えないようにする」


『所有しない?』


「所有しない楽器を、どう直せばいい」


 フェウの白布が柔らかく揺れた。


「借りればよいのです」


「誰から」


『わたしから』


 ノアは目元を押さえた。


「修理代は高いぞ」


『鐘の音で払う』


「七つ全部だ」


『欲張り』


「職人だからな」


 小笛から、今度こそ笑い声に聞こえる音が流れた。


 それはミアの声に似ていなかった。


 幼いリナにも、ノアにも、フェウにも似ていない。幾つもの声を通りながら、そのどれでもない響きを得た、ウィル自身の声だった。


 ユノアの計器が急に大きく振れた。


 二十七点の楽器から、細い光が糸のように伸びる。光は物理的な線ではなく、魔力波形が空気中の水滴へ反射して見えているにすぎない。それでも、工房の各所から生まれた光が黒い小笛へ集まり、そこで終わらず、窓の外へ向かって一本の流れを作った光景は、古い宗教画のような荘厳さを帯びていた。


 逆雨の雫が窓硝子を上り、光を受けて星のように輝く。


『見つけた』


 ウィルが言った。


「何を」


『最初の鐘への道』


 西環区のはるか彼方、雲海の向こうから、低い鐘の音が届いた。


 実際に鳴ったのか、工房の楽器が遠い記憶を再生したのか、誰にも分からない。音は一度だけ空を渡り、王都の屋根を越え、大衡法院の開かれた回廊を抜け、風神の神殿に吊られた無貌の旗を揺らした。


 レイヴァンは、鐘の余韻に別の響きが混じっていることに気づいた。


 言葉ではない。


 数え切れない息が、同じ場所へ向かおうとする気配だった。


 鳴かない谷へ取り残された声なのか、静謐冠の原型となった術式へ繋がれた者の残響なのか、それとも、風が大陸中から集めてきた、生きていながら聞かれなかった者たちの呼吸なのか。


 ウィルは、そのすべてを一つの主張へまとめようとはしなかった。


 一つへまとめれば、違いが失われると知ったからである。


『裁判長』


「何です」


『わたしが、たくさんになっても、わたし?』


 レイヴァンはすぐには答えなかった。


「その問いを、あなたの代わりに決めるべきではないでしょう」


『法は、決める』


「決めなければ守れない場面があります」


『決めると、変わる』


「ええ」


『では、わたしが決める』


「何を」


『わたしは、一つではない。みんなでもない。通るたびに変わる。変わっても、呼ばれたら戻る』


「名前へ」


『ウィルへ』


 リナが小笛を両手で包んだ。


「呼ぶよ」


『遠くても?』


「呼ぶ」


『変わっても?』


「呼ぶ。返事が前と違っても、聞く」


 ノアが娘の隣へ歩み寄った。


 警務官が制止しようとし、レイヴァンは小さく首を振った。接触禁止命令は証拠を守るために出されたものであり、父親が娘の肩へ触れることまで禁じてはいない。ノアは手を伸ばし、触れる寸前で止めた。


「触ってもいいか」


 リナは父親を見上げた。


 短い問いだった。


 これまで彼が娘へ与えてこなかった、選ぶための小さな余白だった。


 リナは頷いた。


 ノアの手が、娘の肩へ置かれた。


 工房の楽器が一斉に鳴った。


 響きは窓を震わせ、封印帯を揺らし、逆雨の中へ流れ出した。職人街の者たちが店から顔を出し、坂道を歩いていた者が足を止め、遠くの屋根では鳥が一斉に飛び立った。


 その音に、明確な言葉はなかった。


 ミアの死を悼む歌とも、ウィルの誕生を祝う歌とも、ノアの罪を告発する声とも、リナの旅立ちを予告する旋律とも聞こえた。


 どの解釈も一部であり、全体ではない。


 風は意味を一つに定めないまま、それを運んでいった。


 西の鐘へ。


 鳴かない谷へ。


 大衡法院へ。


 まだ名を持たない者のもとへ。


 そして、いつか一つの国家が、自らの法律によって奪った声と向き合わねばならない日へ。


 光が消える直前、ウィルはレイヴァンへだけ届くほど小さな声で言った。


『止風庫にも、声がある』


 レイヴァンは黒い小笛を見た。


「どの声です」


『閉じた風』


「誰が閉じた」


『あなたも知っている者』


 音は途切れた。


 今度の沈黙は死のようには聞こえなかった。


 遠くへ行くために息を吸い込んだ者の、短い静けさに聞こえた。


 検証終了後、公訴官ヴァレンは、ウィルの法的人格を認める方向で捜査を進めると表明した。ミレイアは、人格性の成立時期、分裂後の同一性、ノアが破壊時に認識していた範囲を争うと答えた。ユノアは、二十七点の楽器と黒い小笛を一つの証拠物として扱わず、それぞれに独立した反応と意思が存在する可能性を調べるべきだと提案した。フェウは、ウィルを風精族へ分類することに反対した。


 リナは、その日の夕方、父親と同じ家へ戻らないことを選んだ。


 公弁院の保護宿舎に三日滞在し、その後を考えると告げた。


 ノアは引き止めなかった。


「朝は食べろ」


 代わりに、それだけを言った。


「父さんも」


「分かった」


「本当に」


「粥くらい作れる」


「薄めすぎたら飲み物になるよ」


 ミレイアが咳払いをし、レイヴァンは窓の外へ視線を逃がした。


 逆雨は止んでいた。


 雲海から吸い上げられた水分は王都の上空へ集まり、夕日の中で薄い虹を作っている。その虹は地面から空へ伸び、どこが始まりでどこが終わりか分からなかった。


 工房を出る前、ノアは炉の前へ立った。


 西雲七号を焼いた炉には、まだ灰が残っている。証拠保全のため清掃は許されず、乳白色の風石片と焼けた木粉が、事件当夜の位置を保っていた。


「ミア」


 ノアは小さく呼んだ。


 返事はない。


 以前なら、その沈黙へ耐えられず、笛を吹き、風の音から妻の声を探したのだろう。


「行ってこい」


 今度は、死者ではなく、灰の中から生まれ、すでに別の場所へ流れ始めた者へ向けて言った。


 返事はなかった。


 返事がないことを、ノアは拒絶とも死とも決めなかった。


 ただ、炉の蓋を閉じずにその場を離れた。


 レイヴァンは最後に工房を出た。


 警務官が封印帯を戻し、扉を閉める。坂道の先では、リナが児童支援官と歩き、その少し後ろをミレイアが大量の書類を抱えて追っていた。ノアは入口に立ち、娘の姿が曲がり角へ消えるまで見送っている。


 レイヴァンは、二日前の偏見録へ自分が書いた一文を思い出した。


 ――形を持たない存在を守ろうとするとき、形を持つ者の孤独を軽視してはならない。


 今夜は、その下へ新たな一文を加える必要がある。


 ――孤独を理解することは、その孤独が他者を所有する理由になることを認めることではない。


 法律は、失った者へ忘れろとは命じられない。


 忘れられない者へ、失ったものを別の存在の中へ閉じ込める権利も与えられない。


 死者の声を残すことと、死者を生者の代わりに語らせることの間には、目に見えない境界がある。その境界は一度引けば終わる線ではなく、声が誰かへ渡るたびに問い直さなければならない。


 風は、ミアを運ばなかった。


 ミアの息、歌、後悔、選択、聞かれなかった警告を運び、それらがノアの手、リナの名、フェウの風路、見知らぬ旅人の音へ触れた場所で、ミアではない誰かを生んだ。


 それを奇跡と呼ぶ者もいるだろう。


 冒瀆と呼ぶ者もいる。


 証拠と呼ぶ者、財産と呼ぶ者、生命と呼ぶ者、危険な現象と呼ぶ者も現れる。


 法は、いずれ一つの呼び名を選ばなければならない。


 一つを選ぶたび、選ばれなかった呼び名の中にあった真実が、少しずつ零れ落ちる。


 ゆえに判決には理由が必要であり、異議が必要であり、後世が読み直す余白が必要になる。


 レイヴァンが坂道を下り始めると、西から再び鐘の音が聞こえた。


 一度。


 間を置いて、もう一度。


 二度目の音には、最初にはなかった高い響きが加わっている。


 ウィルが鐘へ辿り着いた証拠とは言えない。風の状態によって、遠い鐘が偶然聞こえただけかもしれない。


 レイヴァンは足を止めず、結論を急がなかった。


 急がなくとも、音は届いた。


 届いたものを、届かなかったことにはできない。


 それが希望であるか、災いの始まりであるかを、風は教えない。


 教えないからこそ、聞いた者が答えなければならない。


 世界はそのように、誰かが置いていった息を別の誰かの責任へ変えながら紡がれていく。


 そして遠い西の空で、七つの鐘のうち最初の一つが、長い眠りから覚めるように鳴り続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ