第一話 風紋
その殺人には、死体がなかった。
血痕もなければ、埋められた骨もなく、切り離された手足も、最後の息を聞いた証人もいなかった。残されていたのは、炉の底から回収された七つの金属片と、焼けた木粉、乳白色に濁った一粒の宝石、そして夜ごと一人の少女だけが聞くという、風に紛れた泣き声である。
大衡法院へ事件が持ち込まれた朝、王都イル・ヴァレアは春の回転期を迎えていた。都市を支える環状浮島が季節風に押され、南東へわずかずつ軸を傾けるこの時期には、同じ窓から差し込む朝日でさえ昨日とは異なる角度を持ち、商人たちは店先の庇を付け替え、翼を持たない住民は横風に身体をさらわれぬよう靴底へ重石を仕込み、子どもたちは風路の変化を利用して紙羽根を競わせた。街そのものが動くという事実を、王都に長く住む者は大したこととも思わない。皿の上の豆が一粒転がり、吊り看板が普段とは逆方向へ揺れ、遠くに見えていた西環塔が数日のうちに北側の窓へ移る、その程度の変化を暮らしの一部として受け入れている。
レイヴァン・エル=カディムは、その朝日の角度が昨年の同日より半指ほど低いことに気づいていた。
気づいてはいたものの、それを口に出すつもりはなかった。長く生きた者が細かな変化を逐一指摘すると、聞かされた側は知識を授けられたような顔をするか、年寄りの執着を見せられたような顔をするか、そのどちらかになりやすい。本人にとっては、ほんの少し記憶が勝手に比較を始めただけである。百年前の風向きも、六百年前に似た角度から差し込んだ光も、昨日の食卓に残っていた塩粒も、望む望まないにかかわらず同じ棚へ並んでしまう。記憶の豊かさなどと称賛する者もいるが、棚に収まりきらないものを捨てられない状態を、豊かと呼ぶべきかは疑わしかった。
「お茶が冷めます」
風待館の食堂で、管理人のメルザ・イオンが言った。
レイヴァンは窓から視線を戻し、机上の湯気がすでに細くなっていることを確認した。苦味の強い灰葉茶には、記憶重積症の進行を緩やかにする効能があると医術院は説明している。効いているかどうかを本人が判定することは難しく、効かなかった未来と比較できない以上、薬の恩恵はたいてい信仰に似る。
「冷めた茶にも用途はあります」
「植木にやる用途なら認めません。昨日も鉢植えが迷惑そうな色をしていました」
「植物の感情を代弁する資格を、いつ取得したのです」
「あなたに食事をさせる資格と同じ日に」
メルザは黒パンを二枚、彼の前へ置いた。根菜を潰して香草と練ったものが薄く塗られ、端には白い塩が振られている。首席衡理官の朝食としては簡素すぎると公邸監査官から指摘されたことがある。レイヴァンは、朝食の華美が司法の独立へどう寄与するのか説明を求め、監査官は二度と食卓へ意見を述べなくなった。
「今日の予定は」
「私に尋ねないでください。紙に書いてあります」
「紙は食事を急かしません」
「それなら紙のほうが気立てのよい同居人でしょう」
食堂の扉が開き、首席書記官セイル・アーヴェンが厚い書類束を抱えて入ってきた。五十六歳のセイルは、風待館へ来るたびに一度は自分が朝食を済ませたか忘れ、メルザから何かを食べさせられる。今日も小皿が無言で差し出され、彼は抗議を諦めて椅子へ腰を下ろした。
「首席、開廷前に三件あります。ひとつは東環区の橋梁使用料をめぐる差止め申立て。ひとつは夢継族の証言分離に関する上告受理申立て。最後が、昨夜、公訴庁から送付された殺人被疑事件の緊急審査です」
「殺人事件を大衡法院が直接扱う理由は」
「被害者の法的人格が未確定だからです」
レイヴァンはパンを持ったまま、セイルを見た。
法的人格が未確定であるという言い回しは、司法の記録にしばしば現れる。公文書の上では慎重で中立的に見える一方、その実態は、その存在を殺してよいか、所有してよいか、売ってよいか、証言させてよいか、名前を奪ってよいかを国家がまだ決めていないという意味である。曖昧さが当事者を守る場合もある。反対に、判断が遅れるほど、保護されない時間だけが積み重なることもある。
「種族は」
「風精族とされています」
「されています、とは」
「それが争点です。公訴庁は殺人予備調査として身柄拘束を求めています。被疑者側は、破壊されたのは本人所有の楽器であり、そこに宿った音響現象を人格と呼ぶ根拠はないと主張しています」
「被疑者は」
「楽器職人のノア・ベルゼン。六十二歳。環都楽工組合所属。違反歴は、深夜の騒音で二度、路上演奏許可の失効後に演奏を続けた件で一度。暴力犯罪の記録はありません」
「被害を申告した者は誰です」
「楽器職人の娘、リナ・ベルゼン。十二歳。本人は、父親が笛に宿っていた〈ウィル〉を炉へ入れて殺したと証言しています」
「十二歳の娘が、父親を殺人の被疑者として申告した」
「はい」
「父親は逃亡を」
「否定しています。工房から離れず、炉も現場のまま保存している。警務官へ自ら鍵を渡し、事情聴取にも応じています」
レイヴァンは灰葉茶を口へ運んだ。冷めていた。メルザが見ていたため、表情には出さなかった。
「公訴庁は、なぜ緊急拘束が必要だと」
「被疑者が、同じ工房にある別の楽器二十七点も焼却すると発言したためです。その中に同種の存在が宿っている可能性があると」
「本人は殺人を否定しながら、同じ行為を繰り返す意思を示している」
「本人の言葉では、古い楽器を処分するだけだ、と」
「言葉の選び方が争点を先に決めていますね。殺す者は処分と呼び、処分を止める者は救出と呼ぶ。裁判所がどちらかの語を借りた時点で、半分ほど判決を書き終えることになる」
セイルは書類束の上から薄い青紙を抜き出した。
「公弁院からは、昨夜付で担当者が派遣されています。ミレイア・ソーン。任官二年目」
「知りません」
「知っていたら驚きます。彼女は昨日まで港湾軽罪部にいました」
「なぜ法的人格事件へ」
「当直だったそうです」
「司法は時折、運命より怠惰な方法で担当者を選びます」
レイヴァンはパンを食べ終え、立ち上がった。法衣へ袖を通す前に、窓の外をもう一度見た。春の風が王都を押し、遠い雲海の縁から白い光が溢れている。姿のない風を神として尊びながら、同じく姿のない者が生きていたかどうかを裁判所へ持ち込まねばならない国。それを矛盾と呼ぶのは簡単である。文明というものは、掲げた理念に追いつけないまま、それでも理念を下ろさず歩き続ける営みなのかもしれない。追いつけない事実を隠した時点で、理念は旗ではなく覆いになる。
「セイル」
「はい」
「炉の保全命令を。工房内の楽器は、法院の審査が終わるまで破壊も移動も禁止します。ただし所有権を国へ移したと誤解されない文面にしてください。警務官は二名まで。娘の生活空間へ立ち入らせない。被疑者本人の身柄拘束は、午前の予備審理まで保留します」
「公訴庁は反発します」
「反発は権利です。書面でさせなさい」
「承知しました」
「それから、その若い公弁官へ伝えてください。風精族の法的人格に関する過去百年の判例を読んでいる時間はないでしょうから、百年分を読んだふりだけはしないように、と」
「励ましとして伝えますか」
「忠告として」
大衡法院へ続く回廊は、風待館の二階から判文塔の西翼へ伸びている。壁の代わりに細い柱が並び、欄干の外には王都の屋根が幾層にも重なって見えた。浮島の外縁へ近づくほど建物は低くなり、その向こうには雲海と空しかない。地上の国から来た者は、王都のどこからでも世界の終わりが見えると言う。イル・ヴァレアの住民にとって、あれは終わりではなく道である。雲の下には別の風路があり、浮島があり、都市があり、その先には他大陸へ至る空海がある。
レイヴァンが回廊を歩くと、すれ違う職員は立ち止まらずに頭だけを下げた。首席衡理官のために廊下を塞ぐ礼式を、彼が就任直後に禁じたためである。敬意を示すために実務を遅らせる慣習は、たいてい敬意を受ける側だけが好む。若い書記官が両腕いっぱいの記録箱を抱えて走り、翼人族の翻訳官が欄干へ片足をかけて下階へ飛び降り、風精族の職員が白い帯布へ宿った状態で文書筒を宙に運んでいる。
レイヴァンは帯布の前で足を止めた。
「朝からご苦労です、フェウ」
白布が風もないのに波打ち、鈴を二つ重ねたような声が返った。
「首席も。殺された同族の審理をなさるそうですね」
「情報が速い」
「風に口止めはできません」
「職員には守秘義務があります」
「それを風へ説明してください」
「あなたは風ではなく、司法職員でしょう」
「今日はどちらであるべきですか」
帯布の端がゆっくり持ち上がった。風精族フェウは公開記録局の職員であり、法的には成年者、官吏、納税者、二軒の借家の契約者として登録されている。一方、身体と呼べるものを持たず、声、温度、匂い、布の振動などを依代として意思を表すため、その存在を単なる自然現象と区別する基準は今なお完全ではない。
「職員として勤務し、同族として怒ることも妨げません。審理記録へ触れる際には前者でいてください」
「殺されたと認めるのですね」
「認めていません」
「同族という言葉は認めた」
「分類上の呼称を用いたにすぎません」
「法律家は、言葉を狭くする術ばかり上手になりますね」
「広すぎる言葉で誰かを拘束するよりは、多少ましです」
フェウの帯布から、乾いた草を擦り合わせたような音がした。笑ったらしい。
「ウィルは、よく歌いました」
レイヴァンは足を止めたまま、白布を見た。
「知り合いでしたか」
「風路ですれ違ったことがあります。知り合いという語が、どの程度の親しさを必要とするかは存じません。互いの名を知り、同じ鐘の音を好み、三度ほど夜を越えて話しました」
「ウィルは自分を風精族だと認識していましたか」
「自分をウィルだと認識していました」
「種族ではなく、個体として」
「種族を先に尋ねるのは、身体を持つ方々の癖です。何であるかを決めてから、誰であるかを確かめる」
「誰であるかを確かめるには、何であるかが役立つ場合もあります」
「役立つことと、先に決めてよいことは別です」
フェウは文書筒を抱え直し、上階へ向かった。白い布の後ろ姿を見送りながら、レイヴァンは、すでに一つの証言を聞いてしまったことを自覚した。係争中の事件について、裁判官が当事者となり得る者から私的に話を聞くべきではない。審理の公平を害するほどの内容ではないにせよ、記録へ残す必要がある。
「セイル」
「後ろにおります」
「今の会話を面会記録へ」
「公開記録局職員フェウとの偶発的接触。同族とされるウィルとの交流歴について発言あり。首席は実体的な応答を避けた、と」
「最後は不要です。応答したかどうかは記録を読む者が判断します」
「避けたつもりなのですね」
「あなたまで朝から機嫌がよい」
「冷めた茶を最後まで飲んだそうですから」
予備審理は、大衡法院西側の第六法廷で行われることになった。最大の大衡廷と異なり、傍聴席は五十席ほどしかなく、裁判官席も一段だけ高い。通常なら三名の小衡廷で足りる事件であるものの、被害者とされる存在の法的人格が争われ、拘束の可否だけでなく、今後の捜査がそもそも殺人捜査として許されるかを決める必要があるため、五名の中衡廷が招集された。
中央席にレイヴァン、右側に夢継族のシア・レナト、翼人族のエスハル・ヴェイ、左側に人間族のアデル・モーン、石殻族のグロウ・テネクが座った。五名の年齢を単純に足せば二千年を越える。経験の総量が正しい結論を保証するなら、老いた議会ほど誤らないはずであり、歴史はその期待へ十分な反証を積み上げている。
被疑者ノア・ベルゼンは、警務官を伴わず自ら法廷へ入った。
背は低く、肩幅が広く、白髪を後ろへ束ねている。両手は楽器職人らしく節が太く、左の人差し指には深い火傷痕があり、右耳の一部が欠けていた。灰色の上着には煤が染みついており、昨夜から着替えていないことが分かる。彼は被疑者席へ着く前に傍聴席を見回し、最後列に座る娘を見つけると、表情を硬くした。
十二歳のリナは、公弁院の児童支援官と並んで座っていた。父親とよく似た灰色の目をしている。膝の上には細長い布包みを抱え、誰にも渡すまいと両腕で強く押さえていた。
ノアの隣に立つ若い公弁官は、法衣の襟をわずかに曲げていた。
ミレイア・ソーン。
二十代後半ほどに見える。栗色の髪を短く切り、目の下には寝不足の影が濃い。机上には一晩で集めたらしい資料が高さを揃えず積まれ、上から三冊目の法典だけが明らかに新品だった。レイヴァンは、彼女が読んだ量より、読めなかった箇所をどう扱うかを見ることにした。
「開廷します」
書記官が風鐘を一度鳴らした。
澄んだ音が天井へ上がり、窓から入る風に混じって消えた。傍聴席の誰も立ち上がらない。王も市民も被告人も、裁判官のために起立する義務はない。敬意が強制されるなら、それは敬意ではなく服従の練習になる。
「本件は、ノア・ベルゼンに対する身柄保全申立て、および工房内物品の保全範囲を定めるための予備審理です。現段階で被疑者は起訴されていません。殺人罪が成立すると判断されたわけでもなく、被害を申告された存在の法的人格についても結論は出ていません。傍聴人、報道記録者、当事者は、この点を混同しないよう求めます。公訴官、申立ての要旨を」
公訴側から立ったのは、ヴァレン・ソルという三十代の検察官だった。長身で、言葉を置く速度が一定している。資料の位置も、衣服の皺も、呼吸の間隔まで整って見えた。
「公訴庁は、被疑者を三日間、司法警務部の管理下へ置くことを求めます。理由は三点。第一に、被疑者が昨夜、工房内の笛〈西雲七号〉を炉へ投入し、そこに宿っていたとされる意思存在ウィルを消滅させた重大な嫌疑。第二に、残る二十七点の楽器も処分すると明言し、同種の被害が反復される具体的危険。第三に、工房内の楽器、製作記録、炉、風石など、捜査に必要な証拠へ被疑者が自由に接触できる状態にあることです。公訴庁は現時点で、ウィルが流律憲章にいう人格主体であった可能性が高いと考えます」
「根拠は」
「ウィルは少なくとも十一年間、継続して同一の笛を依代とし、複数の者と会話し、自らの名を名乗り、好悪を示し、将来の予定を語り、契約に基づく演奏報酬の一部を受け取っていました。また、被疑者の娘リナを含む七名が、ウィルとの相互的な交流を証言しています」
「報酬を受け取った方法は」
「楽器の修繕費、演奏会への同行費、ウィルが希望した鐘音石の購入費として管理されていました」
「名義は」
「被疑者の工房名義です」
「ウィル本人の財産ではない」
「法的人格登録がなされていなかったためです」
「登録されていなかった理由は」
「被疑者が申請を拒否していました」
法廷の視線がノアへ集まった。
彼は机上へ両手を置き、正面を向いたまま動かない。ミレイアが何かを囁き、ノアは小さく首を振った。
「弁護側、申立てへの意見を」
ミレイアが立った。資料を一枚落とし、拾おうとして別の束を崩しかけ、最終的に何も持たずに話し始めた。
「身柄拘束に反対します。被疑者は逃亡しておらず、現場を保存し、警務官の聴取にも応じています。工房内の証拠については法院の保全命令を受け入れており、破壊の危険はすでに除かれています。残る楽器を処分するとの発言は、警務官から殺人者と呼ばれた直後の感情的な発言で、具体的計画ではありません。最も重要なのは、公訴側が殺害と呼ぶ行為の対象が、法的に人格主体であったか未確定である点です。被疑者は、自ら製作した笛に生じた音響魔術上の反応を停止させただけであり、殺意を否定しています」
「停止させただけ」
レイヴァンが繰り返すと、ミレイアは唇を引き結んだ。
「依頼人の認識を表現しました」
「あなた自身の評価ではないと」
「はい」
「結構です。依頼人と弁護人の認識が一致しているように装う必要はありません。弁護は同意ではなく、国家に説明をさせる仕事です」
ミレイアの肩から、ごくわずかに力が抜けた。
「被疑者本人へ確認します。ノア・ベルゼン、発言を望みますか」
「望みます」
「弁護人と相談したうえで」
「昨夜から相談しろと言われ続けました。相談した結果、黙れと言われています」
「黙秘は権利です。沈黙が不利益な推認に用いられることはありません」
「黙りたいわけではない」
「それなら話してください。公訴側の質問に答える義務はなく、自分の発言が将来の審理で証拠になる可能性は理解していますか」
「理解しています」
「ウィルという存在を知っていましたか」
「名前は知っていた」
「会話をしたことは」
「会話と呼べるなら」
「何と呼んでいたのです」
「音の返りです。笛へ息を入れれば音が返る。長く吹けば癖が分かる。こちらの気分で聞こえ方も変わる。それを娘が相手だと思い込んだ」
「十一年間、同じ反応が続いた」
「楽器には癖が残る」
「あなた以外の者にも異なる言葉を返したという証言があります」
「聞きたいものを聞いただけです」
「契約した演奏者が曲目を変更した際、ウィルが演奏を拒否したという記録もある」
「風路が合わなかった」
「報酬で鐘音石を求めた」
「娘が欲しがった」
傍聴席のリナが立ち上がった。
「違う!」
児童支援官が腕へ触れようとし、リナはそれを振り払った。
「鐘音石を欲しがったのはウィルよ。西の鐘の音を知らないから、一度聞きたいって。私じゃない」
「着席してください」
書記官の声に、少女は従わなかった。レイヴァンが中央席から呼びかけた。
「リナ・ベルゼン」
少女の顔が上がった。
「いまは父上への質問中です。あなたの話を聞かないという意味ではありません。発言の順序を守らなければ、あなたの言葉が記録から排除される理由を公訴側にも弁護側にも与えます。聞いてほしいのであれば、まず座りなさい」
リナは父親を睨んだまま、ゆっくり腰を下ろした。
ノアの両手がわずかに震えていた。怒りか、恥か、恐怖か、レイヴァンには判断できない。誓言残響を用いれば、言葉へ込められた強さの輪郭くらいは感じ取れるかもしれない。彼はその感覚を意識から遠ざけた。検証できない能力は、裁判官の内側でのみ働く秘密の証人になる。秘密の証人を信じる裁判ほど危険なものはない。
「ノア・ベルゼン。あなたは昨夜、西雲七号を炉へ入れた」
「入れました」
「理由は」
「壊れていたからです」
「どこが」
「全部です」
「具体的に」
「音が狂っていた。吹き手へ返すはずの音を勝手に変え、演奏者の息を奪い、夜中に鳴り、娘へ話しかけた。楽器が持ち主へ逆らい始めたら、それはもう楽器ではない」
「楽器でなくなったのであれば、何になったのです」
ノアは答えなかった。
レイヴァンは待った。
沈黙が長くなるにつれ、傍聴席の衣擦れが目立ち始める。ノアは大きな手を組み直し、爪の間へ残った煤を見つめた。
「故障です」
「故障は存在の分類ではありません。状態です」
「私には、それで十分です」
「あなたが製作したものなら、どのような変化が生じても所有物であると」
「私が作り、私が材料を買い、私の工房で保管していた」
「子を育てた者が、その子の身体を所有するという法律はありません」
「笛と子を同じにするな」
「同じにしていません。製作と所有が常に結びつくかを尋ねています。肖像を描いた画家は、描かれた者を所有しない。文章を書いた者も、読んだ者の解釈を所有できない。国家が法律を作っても、法の下で生きる者を所有してよいことにはならない。作ったという事実が、どこまでの権利を与えるのか、それが本件の一部です」
「笛は笛だ」
「ウィルは、自分が笛であると述べていましたか」
「知らない」
「話を聞かなかったから」
「聞く必要がなかった」
「なぜ」
「必要だと思えば、壊せなくなるからです」
法廷の空気が静まった。
ミレイアが依頼人を見た。公訴官ヴァレンは表情を変えず、手元の記録へ印をつけた。傍聴席では、リナが膝の布包みをさらに強く抱いた。
レイヴァンはノアの言葉を頭の中で繰り返した。
必要だと思えば、壊せなくなる。
法廷では、ときおり長い弁明より短い言葉のほうが、本人の認識を深く示す。ノアはウィルの存在を完全には否定していない。否定しなければ、自分の行為を実行できなかった可能性を認めている。もっとも、それだけで殺意が証明されるわけではない。恐れた対象を人格と認識していたのか、異常な現象として恐れていたのか、両者の境界は本人の内側でさえ明瞭ではないだろう。
「聞けば、何を知ると思ったのです」
「私の娘を奪うつもりだった」
リナが再び身体を起こしかけ、児童支援官に止められた。
「具体的に説明してください」
「あれは娘に、工房を出ろと言った。私から離れて、北の浮島へ行けと。楽師になれる、ここにいても父親の修理仕事を継ぐだけだ、と吹き込んだ」
「リナ本人の希望は」
「子どもの希望は、周りの言葉でいくらでも変わる」
「成人の希望も同じです」
「十二歳だ」
「年齢によって意思決定能力が異なることは認めます。意思が存在しないことにはなりません」
「あの子は、母親が死んでから私と二人で生きてきた。楽器の磨き方も、風孔の測り方も、全部教えた。工房はいずれあの子のものになる」
「本人が望めば」
「ほかに何になる」
「その問いを本人へしたことは」
「ウィルが余計なことを言う前は、何も問題がなかった」
「問題が言葉になっていなかった可能性は」
「首席衡理官」
ミレイアが立ち上がった。
「質問が身柄保全の必要性から離れています。依頼人と娘の関係を、この段階で広く審理することには反対します」
レイヴァンは彼女を見た。
「異議を認めます。親子関係の評価は、本日の判断に必要な範囲へ限ります」
ミレイアは一瞬だけ驚いた顔をした。経験の浅い法曹は、異議を申し立てると裁判官へ逆らったように感じることがある。裁判官へ遠慮する弁護人は、依頼人の権利を礼儀へ交換することになる。
「公訴側、リナ・ベルゼンの聴取を求めますか」
「求めます。ただし児童証人であり、父親の面前では十分に話せない可能性があります。別室からの音声接続を提案します」
リナが首を振った。
「ここで話す」
児童支援官が耳元で何かを説明し、少女はなお首を振った。
「父さんに聞かせる」
「弁護側」
ミレイアはノアと短く相談した。ノアは娘を見ず、机へ視線を固定している。
「父親の在廷を理由に証言の信用性を下げないこと、また児童証人への威圧的な反対尋問を行わないことを条件に、法廷内での聴取へ同意します」
「公訴側も同意します」
「リナ・ベルゼン、前へ」
少女は布包みを抱えたまま証言台へ向かった。書記官が宣誓について説明する。十二歳の証人には成人と同じ文言を用いず、自分が知っていることと知らないことを分け、分からないときは分からないと述べる約束だけを求める。
「約束します」
リナの声は小さかった。
「公訴官、質問を」
「リナ。昨夜、何がありましたか」
「父さんがウィルを炉へ入れました」
「どこで見ていましたか」
「工房の二階。声がして起きて、階段の途中から見た」
「誰の声」
「ウィル」
「何と言っていましたか」
「逃げろって。私にじゃなくて、ほかの笛たちに」
「ほかの笛も話すのですか」
「話せるかは知らない。ウィルは、まだ起きていない子がいるって言ってた」
「起きていない子」
「長く吹かれて、名前を呼ばれて、好きな音を見つけると、いつか起きるかもしれないって」
「ウィルは炉へ入れられる前、抵抗しましたか」
「父さんの手から風を吹いた。棚を倒して、窓を開けようとした。でも、父さんが布で包んだ」
「その布に何か特徴は」
「音を止める布。試奏室の壁に使うやつ」
「その後は」
「炉の蓋を開けて、入れた」
「ウィルは何と言いましたか」
リナの口が止まった。
証言台の縁へ置かれた細い指が震え始める。児童支援官が休憩を申し出ようとしたとき、リナは自分から息を吸った。
「私の名前を呼んだ」
「ほかには」
「ごめんって」
「何について謝ったと思いますか」
「分からない」
「炉へ入れられたあと、声は」
「しばらく聞こえた。熱いとは言わなかった。笛の音が少しずつ低くなって、最後に、父さんを嫌いにならないでって」
ノアが顔を上げた。
「嘘だ」
「被疑者は発言を控えてください」
「それは嘘だ。あれがそんなことを言うはずがない」
レイヴァンはノアを見た。
「ウィルがそのような言葉を使わないと知っているのですか」
ノアの顔が強張った。
「知らない」
「いま、言うはずがないと」
「娘が作った言葉だ」
「理由は」
「私をかばうための言葉じゃない。あれは、私を嫌っていた」
「あなたは、ウィルが自分を嫌っていたと認識していた」
ミレイアが立ち上がった。
「首席衡理官、依頼人はいま混乱しています。発言の趣旨確認は、証言終了後にお願いします」
「認めます。ノア・ベルゼン、今後は弁護人を通してください」
リナは父親を見ていた。怒りを向けているようにも、何かを待っているようにも見える。子どもの沈黙を純粋な感情として扱う者は多い。実際には、幼い者ほど相反する願いをうまく言葉へ分けられず、黙るしかないことがある。父親を罰してほしい願いと、連れていかないでほしい願いが、同じ胸の中に存在しても不思議ではない。
公訴官は質問を続けた。
「リナ、ウィルとはいつから話していましたか」
「覚えてない。小さい頃から」
「最初に話した言葉は」
「母さんの歌を知ってるって」
ノアの肩が動いた。
「母上の歌を、なぜウィルが」
「母さんが笛を吹いてたから。西雲七号は母さんの笛だった」
「母上が亡くなられたのは」
「八年前」
「ウィルが自分の名前を名乗ったのは」
「母さんが死んだあと。私が夜に笛を吹いたとき、風の音に混じって言った」
「ウィルという名は誰が付けたのです」
「自分で選んだ。母さんが昔、行ってみたいと言ってた谷の名前から」
「ウィルは母上の記憶を持っていましたか」
「少しだけ。歌と、好きだった匂いと、父さんが若い頃に失敗した話」
傍聴席から小さな笑いが起こりかけ、すぐに消えた。
「どんな失敗です」
「大きな演奏会で笛の風孔を逆に開けて、最初の音が鳥の鳴き声みたいになったって」
ノアが低く呟いた。
「ミアしか知らない」
ミアは、亡くなった妻の名だろう。
公訴官は追及せず、一歩下がった。
「法院から質問します」
レイヴァンはリナへ向き直った。
「あなたはウィルを、母上と同じ存在だと思っていましたか」
「違う」
「母上の魂だとは」
「思ってない。ウィルも怒った。母さんじゃないって」
「それでも母上の記憶を持っていた」
「笛の中に残ってた音を聞いただけだって言ってた。自分の思い出じゃないって」
「ウィル自身の思い出は」
「私と市場へ行ったこと。西の鐘を聞いたこと。初めて雪へ触ったこと。父さんに音がよくなったって褒められたこと」
ノアの唇がわずかに開いた。
「褒めた記憶がありますか」
レイヴァンが尋ねると、彼は答えなかった。
「リナ。あなたが抱えている布包みは何です」
「ウィルの子」
法廷がざわめいた。
リナは布を開いた。中から現れたのは、掌ほどの短い笛だった。黒い木で作られ、風孔は三つしかない。装飾もなく、玩具のように見える。
「昨夜、ウィルが自分の音を分けたの。父さんが来る前に。これを持って逃げてって」
「その笛から声が聞こえますか」
「まだ。ときどき温かくなる」
「公訴側は把握していましたか」
「昨夜の聴取では、証人が布包みの提出を拒否しました。児童支援官と相談し、強制的な押収は見送っています」
「適切です。リナ、その笛を証拠として調べる必要が生じる可能性があります。取り上げるという意味ではありません。あなたの立会いのもとで、傷つけない方法を選びます。協力できますか」
「父さんに渡さないなら」
「父上にも、公訴庁にも、法院の許可なく触れさせません」
「裁判所は」
「検査を行う者には触れる必要があるでしょう。誰が、何のために、どこまで触れるかを、あなたへ先に説明します」
リナは考え、布を閉じた。
「それなら」
「ありがとう。公弁官、反対質問を」
ミレイアは立ち上がり、証言台へ近づかなかった。子どもとの距離を保ち、声を低くする。
「リナ、つらいことを話してくれてありがとう。いくつか確かめます。分からないものは、分からないと言ってください。ウィルの声は、耳で聞こえましたか、それとも頭の中で」
「両方みたいな感じ」
「ほかの音と聞き分けられた」
「うん」
「お父さんにも聞こえていたと思いますか」
リナは父親を見た。
「聞こえてた」
「そう思う理由は」
「ウィルが話すと、父さんはいつも音を大きくしたから。金槌で机を叩いたり、窓を開けたり」
「聞きたくない様子だった」
「うん」
「お父さんがウィルと話しているのを、直接聞いたことは」
「ある」
「いつ」
「母さんの命日。父さんが一人で工房にいて、ウィルに、ミアを返せって言ってた」
ノアが立ち上がった。
「もういい」
「座ってください」
「子どもへ何を言わせる。これは殺人の審理だろう。私の妻の話は関係ない」
警務官が法廷の端で身構えた。レイヴァンは手を上げ、動きを止めた。
「ノア・ベルゼン。声を荒らげれば、娘の証言が消えるわけではありません。妻上の記憶をウィルがどのように保持し、あなたがそれをどのように認識していたかは、人格認識と行為の動機に関わります。無制限に扱うつもりはありません。弁護人を通じて異議を申し立てなさい」
ノアは立ったまま、ミレイアを見た。
若い公弁官は小さく頷き、中央席へ向き直った。
「質問の目的は理解します。一方、児童証人へ家族の死と父親の言動を繰り返し語らせる負担は重い。妻の記憶に関する部分は、成人証人と記録によって補える可能性があります。これ以上の質問を制限してください」
「認めます。公弁側は残り二問まで」
ミレイアはリナへ目を戻した。
「ウィルは、お父さんを怖がっていましたか」
「最後の頃は」
「それより前は」
「好きだったと思う」
「なぜ」
「父さんが笛を直すと、いちばんきれいな音がしたから。ウィルは、自分を作ったのは母さんの息と父さんの手だって言ってた」
ミレイアは質問を終えた。
リナが証言台を降りる際、ノアは娘の名を呼びかけた。声にはならず、口の形だけが動いた。少女は気づいたように見えたものの、足を止めなかった。
五名の衡理官は短い休廷を取り、法廷奥の合議室へ入った。
合議室には窓がなく、外の風音も届かない。判断が天候や傍聴人の反応へ引きずられぬよう作られた部屋である。中央の円卓には席順がなく、首席も他の衡理官も同じ椅子へ座る。
「拘束は不要です」
最初に言ったのはアデル・モーンだった。
「逃亡の兆候なし。証拠は保全命令で足りる。残る楽器への危険も、法院が管理すれば防げます。人格性について重大な疑いがあるとしても、それは拘束の必要性とは別です」
翼人族のエスハルが翼を小さく畳んだ。
「私は一日だけ認めたい。被疑者は感情的になっている。娘の証言後、工房へ戻せば、保全命令を破る危険がある」
「警務官を配置すればよい」
「二十七点すべてへ監視を置くのですか。楽器が依代なら、一本持ち出すだけで足りる」
石殻族のグロウが指先で円卓を叩いた。皮膚の一部が鉱物化しており、石同士が触れる音がする。
「拘束より、工房からの一時退去命令が適切でしょう。居住場所は別に確保する。本人を罪人として扱わず、証拠との接触だけを断てる」
「娘の居所は」
シア・レナトが尋ねた。
「児童支援院へ移すべきです。父親と同居させるのは危険」
「身体的な危険の証拠はありません」
「精神的影響は明らかです」
「父親から離すこと自体が、別の影響になる」
「では娘へ選ばせますか。十二歳に、自分を養う父親との同居継続を自由意思で決めさせると」
「選ばせるのではなく、意向を確認する」
「言葉を変えても重さは変わりません」
議論はしばらく続いた。レイヴァンは最後まで自分の意見を述べなかった。首席が先に結論を示すと、若い衡理官だけでなく経験ある者まで、その意見へ寄せて考える危険がある。権威は命令しなくても働く。沈黙さえ方向を持つため、本来なら首席という役職そのものが合議の平等と相性が悪い。
「首席は」
アデルに問われ、レイヴァンは指を組んだ。
「身柄拘束は認めません。逃亡、証拠隠滅、再行為の危険は、より弱い制約で管理できます。工房から三日間の退去、楽器および製作設備への接触禁止、旅券と風路許可証の一時預託。居所は本人が選べます。娘については児童支援官立会いのもと意向を確認し、父親と別の場所を選ぶ場合は国費で確保する。父親との連絡を全面禁止する必要まではありません」
「人格性について、どこまで触れますか」
シアが尋ねた。
「拘束判断に必要な限度で、ウィルが法的保護の対象となり得る相当な可能性があると示します。人格と断定はしない。物品と断定もしない」
「曖昧ですね」
「曖昧な段階で明確な言葉を使えば、事実のほうが言葉へ従わされます」
「残る笛については」
「法院の管理下へ置く。ただし押収ではなく、所有権をノアへ残したまま、独立保全人を選任する。検査には公訴側、弁護側、風精族の専門家、依代魔術の研究者を立ち会わせる。いずれか一方だけが検査方法を決めないように」
全員の意見は完全には一致しなかった。最終的に四対一で身柄拘束を退け、限定的な退去命令と証拠保全を認めることになった。エスハルは、再行為の危険を理由に一日の拘束を認める反対意見を書くと述べた。
法廷へ戻り、レイヴァンが決定を読み上げた。
「公訴庁による三日間の身柄拘束申立ては、これを退けます。被疑者が重大な行為を行った疑いは存在し、同種行為を繰り返す旨の発言も認められるものの、逃亡の兆候はなく、現場保全へ協力し、より制限の少ない方法によって証拠と対象存在を保護できます。法は危険を避けるために自由を制約し得ますが、便利であるという理由で強い制約を選んではなりません」
ノアの肩がわずかに下がった。
「一方、工房内にある楽器二十七点については、単なる所有物と断定することもできません。そこへ法的人格が成立しているか、成立しつつあるか、あるいは意思のない魔術反応にすぎないか、現時点では不明です。不明であることは、破壊してよい理由にはならない。裁判所が判断を終えるまで、不可逆な行為を止める必要があります」
傍聴席から、静かな息が漏れた。
「ノア・ベルゼンには三日間、工房から退去し、楽器、製作設備、記録、炉へ接触しないことを命じます。違反した場合、身柄拘束を再検討します。工房の所有権、楽器の所有名義は変更されません。法院は独立保全人を選任し、検査方法を当事者双方へ開示します」
「首席衡理官」
ノアが立った。
「発言を許可します」
「三日後、あれがただの笛だと分かったら」
「保全命令を解除します」
「私の工房へ風精族や学者を入れた損害は」
「国へ補償を求められます」
「娘が嘘をついていたら」
「嘘であるかを調べます。意図的な虚偽と、誤認と、異なる知覚を同じものとして扱いません」
「ウィルが生きていたと判断したら」
レイヴァンはノアを見た。
「その場合、何が起きたかを殺人事件として調べます」
「私は殺人者になる」
「裁判所が人格性を認めるだけで、あなたの有罪が決まるわけではありません。あなたが何を認識し、何を意図し、他の手段があったか、責任能力、緊急性、権利関係を審理します」
「笛を燃やした。それ以上に何がある」
「法廷へ来る者の多くが、事実は単純だと言います。刺した、盗んだ、燃やした、命じた、従った。行為を一語へ縮めれば、世界は裁きやすくなる。裁きやすいことと、正しく裁けることは別です」
「正しい裁きなどあるのか」
ノアの声には、反抗より疲れがあった。
レイヴァンは少し考えた。
「完全なものは見たことがありません。私が見落としてきただけかもしれませんが、千年以上探して見つからないものを、明日見つけると約束するほど楽観的でもない。裁判所にできるのは、何を見たか、何を見られなかったか、なぜ一方の自由を制約したかを記録し、異議を申し立てる道を残すことです。それを貧しい答えと思うなら、その評価は否定しません。貧しいから捨ててよいとも思いません」
ノアはゆっくり座った。
決定の読み上げが終わり、書記官が閉廷を告げた。風鐘は鳴らない。開かれた裁判が、判決とともに完全に閉じることはないという古い慣習である。
傍聴人が立ち上がり、報道記録者が出口へ急ぎ、法曹たちは机上の資料をまとめ始めた。リナは布包みを抱えたまま、児童支援官と話している。ノアは警務官から退去命令の条件を説明され、何度も工房の鍵へ手を伸ばしかけては止めていた。
レイヴァンが法廷奥の扉へ向かおうとしたとき、かすかな音が聞こえた。
笛の音だった。
短く、息が漏れただけのような音。音階と呼ぶには不完全で、風が細い穴を通り抜けただけにも思える。
法廷内の何人かが振り返った。
リナの腕の中で、黒い小笛を包んだ布がわずかに膨らんでいる。
「触らないで」
少女が叫んだ。
警務官は近づかず、レイヴァンもその場に立ったまま動かなかった。
もう一度、音がした。
最初より長い。低く震え、途中で二つに分かれ、片方は少女の名に似た響きを作り、もう片方は意味にならないまま消えた。
風精族の職員フェウが、法廷入口の外で白い帯布を大きく揺らした。
「首席」
「聞こえました」
「あれは呼吸を探しています」
「風精族の見解として」
「同族として」
「法廷で証言してください」
「その頃まで残っていれば」
リナの顔が青ざめた。
「消えるの」
フェウは答えなかった。
レイヴァンは証拠検証院の職員を呼ぶよう書記官へ命じた。笛へ直接触れず、周囲の風圧、温度、魔力濃度、音響波形を測る準備が始まる。ノアは被疑者席から立ち上がり、娘のもとへ行こうとして警務官に止められた。
「離せ」
「接触禁止命令が出ています」
「あれは私の笛だ。呼吸孔が狭すぎる。あのままでは音が詰まる」
「近づかないでください」
「直さなければ壊れる!」
ノアの声が法廷へ響いた。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
自ら焼いた存在の一部かもしれない笛を、彼は壊れると呼んだ。物品が損傷する意味なのか、生き物が死ぬ意味なのか、本人にも区別できていないように見えた。
レイヴァンは警務官へ命じた。
「拘束は不要です。距離を保ち、発言だけを聞きなさい。ノア・ベルゼン、修繕に必要な指示を、触れずに説明できますか」
「できる」
「検証官が作業します。あなたの指示はすべて記録し、公訴側と弁護側の立会いを求めます」
「検証官に分かるものか」
「ならば、分かるように話してください」
ノアは歯を食いしばり、黒い小笛を見た。
「布を外す。急に風へ当てるな。左側の孔を下へ向けろ。栓を半回転だけ緩める。全部抜くな。中の風石が落ちる」
検証官が慎重に従った。リナは布を手放すことを拒み、自分の膝の上で作業させた。小笛の端にある細い銀栓が半回転すると、内部から溜まっていた空気が吐息のように漏れた。
小さな声がした。
『ノ……ア』
音としては不鮮明だった。
名前に聞こえたのは、聞く側がそう望んだからかもしれない。
ノアの顔から色が消えた。
『な……ぜ』
法廷の誰も動かなかった。
それが問いであったかどうか、まだ確定はできない。音響現象が偶然に言葉と似た形を取ることはある。残留思念が、過去に記録した音声を再生した可能性もある。ウィルという人格が分割され、ここへ移されたという結論には、いくつもの検証が必要だった。
ノアは被疑者席の前で立ち尽くし、やがて低い声で答えた。
「お前が、ミアの声で話したからだ」
小笛から返事はない。
「お前が娘を連れていこうとした。私から、工房から、全部を奪おうとした」
レイヴァンは止めなかった。ノアの発言は記録されている。弁護人は青ざめながらも、依頼人の肩を掴まなかった。
「ミアは死んだ。死んだ者の声を使って、生きている者を動かすな。私に、あれがまだどこかにいると思わせるな。娘に、母親が笛の中へ残っていると思わせるな」
黒い笛がかすかに震えた。
『ちが……う』
「何が違う」
『わたし……は』
音が途切れた。
検証官が魔力計を確認する。
「出力が落ちています」
「風石へ負荷をかけるな」
ノアが叫んだ。
「何もしていません」
「孔を塞げ。三つ目だけ半分。息を溜めさせろ」
「どの程度」
「私にやらせろ」
「認められません」
「死ぬぞ!」
その言葉は、法廷の中央へ落ちた。
誰も拾わなかった。
ノア自身が、何を口にしたか理解していないように見えた。やがて両手を見下ろし、炉の煤が残る指を震わせた。
ミレイアが静かに尋ねた。
「ノアさん。何が死ぬのですか」
彼は答えなかった。
小笛から、細い音が漏れた。
『リナ』
「ここにいる」
少女が布の上へ顔を近づけた。
『にげ……て』
「どこへ」
『かぜ……が』
音はそこで切れた。
検証官の計器に刻まれていた光が消え、笛はただの黒い木片のように静かになった。
リナは何度も名を呼んだ。
返事はなかった。
ノアは被疑者席へ座り込み、両手で顔を覆った。泣いているのかは見えない。傍聴席の者たちも、職員も、五名の衡理官も、しばらくその場を動かなかった。
レイヴァンは机上の決定書を見た。
そこには、ウィルが人格主体であった可能性、不可逆な破壊を防ぐ必要性、より弱い制約を選ぶべき理由が整然と記されている。数刻をかけて議論し、五名がそれぞれの経験と法解釈を持ち寄り、現時点でもっとも損害の少ない方法を選んだつもりだった。
その審理の最中に、守ろうとした存在は消えたかもしれない。
法が間に合わないことはある。
法が遅いと非難されるたび、手続を短くすればよいと考える者が現れる。証拠を待たず、反論を聞かず、危険と名づけたものを先に拘束する。速さによって救われる命もある。速さによって奪われる自由もある。慎重さは美徳ではなく手段であり、手段である以上、失敗する。急ぐことも、待つことも、結果だけを見れば罪になり得る。
「検証を続けてください」
レイヴァンは言った。
「反応が消えても、終了とは判断しない。残留魔力、音響記録、風石内部の構造を、非破壊の方法で調べる。ウィルが消滅したのか、休眠したのか、別の依代へ移ったのか、結論を急がないこと」
検証官が頷いた。
「ノア・ベルゼン」
彼は顔を上げなかった。
「先ほどの発言により、あなたがウィルを生命またはそれに類するものと認識していた可能性が高まりました。公訴庁は拘束の再申立てを行えます」
公訴官ヴァレンが立った。
「公訴庁は再申立てを留保します。被疑者の精神状態、娘への影響、工房保全の実効性を確認し、書面を提出します」
「弁護側」
ミレイアは依頼人を見つめた。
「書面を受けて反論します。現時点で、依頼人の身柄を拘束する必要はありません。発言が不利益であっても、それだけで逃亡や再行為の危険が増したとは言えません」
声は震えていた。それでも言葉を止めなかった。
レイヴァンは小さく頷いた。
「本日の予備審理は終了しています。以後の発言は補充記録として扱います。公訴庁は日没までに方針を提出してください」
ノアが両手を顔から外した。
「裁判長」
「何です」
「私は、あれを殺したのか」
法廷に残っていた者の視線が、中央席へ集まった。
答えを求める問いに聞こえる。実際には、赦しを求めているのか、断罪を求めているのか、本人にも分からないのだろう。
「分かりません」
レイヴァンは答えた。
ノアの顔が歪んだ。
「それが裁判官の答えか」
「現時点では」
「見ただろう。声を聞いただろう」
「聞きました。見ました。見聞きしたものを、理解したとは限りません」
「あれが生きていたなら、私は殺した。生きていなければ、娘が狂っている。どちらかだ」
「二つしかないと決める理由はありません。ウィルが人格を持ちながら、死ではなく分裂や休眠に至った可能性もある。リナが一部を誤認しながら、別の部分では正しく知覚していた可能性もある。あなたが人格性を認識しつつ、死ぬとは考えていなかった可能性もある。法は、耐えやすい二択だけを選ぶためにあるのではありません」
「分からないまま、私はどうすればいい」
「工房から離れ、娘の意向を尊重し、弁護人と話し、逃げずに待ってください」
「待てば答えが出るのか」
「出ないかもしれません」
「それでも待てと」
「ええ。分からないことに耐えられず、自分に都合のよい答えを先に選んだ結果が、炉の中に残っています」
ノアは何も言わなかった。
レイヴァンは法衣の袖を整え、席を立った。法廷中央の机には黒い小笛、七つの焼けた金属片、乳白色の風石が並んでいる。そのどれが死体で、どれが抜け殻で、どれが単なる物品なのか、まだ誰にも分からない。
法廷を出たところで、ミレイアが追ってきた。
「首席衡理官」
彼女は走ったため息を切らしていた。
「廊下を走ると、書記官に叱られます」
「あなたへ話すためです」
「理由になっていません」
「ノアさんを、最初から疑っていましたか」
「質問の意味が広すぎます」
「ウィルが生きていたことを、信じていたのですか」
「信じるという語を、裁判官へ向けないほうがよい」
「では、予想していた」
「何を」
「ノアさんが、本当はウィルの声を聞いていたことです」
レイヴァンは回廊の欄干へ目を向けた。外では春の風が強まり、王都の旗が同じ方向へ流れている。遠くの市場から鐘の音が届き、その余韻が空の広さへ溶けていく。
「必要だと思えば壊せなくなる、と彼は言いました」
「それで」
「存在しないものを壊すために、存在を否定し続ける必要はありません」
「では、なぜすぐ指摘しなかったのです」
「指摘すれば認めたと思いますか」
「少なくとも記録には残る」
「記録へ残すことと、本人が真実へ近づくことは別です。追い詰められた者は、前より強く否定することがある。裁判官の役目は、自白を引き出すことではありません」
「殺人者かもしれない者にも」
「殺人者であるかもしれないからこそです」
ミレイアはしばらく黙り、法衣の曲がった襟を直した。
「私は昨夜、ノアさんへ、黙っていれば拘束を避けられると説明しました」
「適切な助言です」
「話したいと言っていたのに」
「依頼人の利益を守ろうとした」
「話させるべきだったのでしょうか」
「結果を見て過去の助言を善悪へ分けるのは簡単です。話せば不利になることを伝えるのがあなたの仕事であり、決めるのは依頼人です。黙秘を勧めることと、沈黙を強いることの境界には注意してください」
「弁護人は、真実を明らかにしなくてもよいのですか」
「真実という語を、誰が所有していますか」
「所有の話ではありません」
「法廷で真実を明らかにすると言う者の多くは、自分が真実へ近い場所に立っていると想定します。弁護人は、国家の立証が足りているかを問い、依頼人の権利を守り、本人の言葉が歪められないようにする。それによって明らかになるものもあるでしょう。隠れるものもある。公訴官も、裁判官も同じです。役割を誠実に果たしたからといって、世界のすべてが法廷へ現れるわけではありません」
「それでは、何のために」
「分からない者を、分かったふりで罰しないためです」
ミレイアは回廊の先を見た。
「ウィルが死んでいたら」
「捜査が始まります」
「ノアさんは有罪になりますか」
「それを審理するために、あなたがいます」
「首席は」
「私は、あなたが失敗する権利も守ります」
「励ましていますか」
「忠告です」
彼女は少しだけ笑った。疲れと不安が消えたわけではなく、それでも笑える余地が残っているという程度の表情だった。
判文塔へ戻る途中、セイルが新しい書類を持って待っていた。
「公訴庁から別件です」
「今日は殺人が多い日ですね」
「殺人ではありません。北環区で、非常風害対策令の改正案が提出されたそうです。将来的な大規模暴風へ備え、風壁演算に生体思考を接続する制度を設けると」
レイヴァンは足を止めた。
「生体思考」
「神殿は〈静謐冠〉と呼んでいます。候補者の選定、同意手続、解除後の回復措置を法律で整える予定だと」
「法学院へ資料を回してください。人格と身体の分離、同意能力、非常時の拒否権について意見を求める」
「まだ法案です」
「法律になる前に読むべきです。成立してからでは、制度に生活を預けた者が生まれる」
「反対なのですか」
「読んでいません」
「顔が反対しています」
「私の顔に立法上の権限はありません」
セイルは書類を渡し、先へ歩いた。
レイヴァンはその場に残り、表紙に記された〈静謐冠〉という名を見つめた。静けさを冠する装置。名づけた者は、穏やかな救済を思い描いたのだろう。危険な制度ほど、最初から悪意ある名を持つわけではない。保護、安定、慈悲、秩序、救済。後世に恐れられる仕組みの多くは、当時もっとも善良に聞こえた語を与えられている。
遠くで、風鐘が鳴った。
別の法廷が開かれた音である。
今日も誰かが、自分の言葉を国家へ差し出し、国家はそれを記録へ変え、記録から事実を選び、事実から責任を作る。そこに間違いがないと信じることはできない。間違うから裁かないという選択も、すでに誰かを強い者の判断へ委ねることになる。
レイヴァンは書類を閉じた。
黒い小笛から最後に聞こえた言葉が、耳の奥へ残っている。
風が。
その先を、ウィルは語れなかった。
風が何をするのか。逃げろと言いたかったのか、来ると警告したのか、運ぶと伝えたかったのか、それとも、風そのものへ何かを託したのか。
言い終えられなかった言葉を法廷が補ってはならない。
補わなければ、永遠に意味を持たないかもしれない。
意味を与えることも暴力となり、意味を与えないことも忘却となる。
レイヴァンは千年以上を生き、そのどちらからも完全に逃れる方法を知らなかった。
だからこそ、彼は判文塔へ戻った。
分からないという言葉を、判決の終わりではなく、審理の始まりとして残すために。




