宿願への路 前編
この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨
《親睦深まる☆ドキドキ合宿》始まるよ~!
……よろしくお願いします。
騎士団の複数ある詰め所から少し離れた区画に、その医務室はある。
そこは、普段から常軌を逸した狂気的な思考を持つ騎士団の面々でさえ「恐れている」医務官が鎮座する場所だった。
よほどの大怪我や深刻な体調不良でもない限り、自ら進んで近づこうとする者は誰一人として存在しないほど、である。
「よくきたわぁねん♡ レンちゃん♡」
「………………」
「レン! 顔! 顔に出てるから!」
相変わらずの巨体に濃い化粧を施し、清潔な白衣を優雅に翻しているのは、リリアン・ガレノス医務官。
その強烈すぎる性格と見た目のインパクトはともかく、医師として非常に腕の立つ人物であることは疑いようもないのだが……何度診察を受けても、この独特すぎる空気感にだけは慣れそうにない。
「は〜い、お注射するわね♡ ちょっとチクッとしちゃうかも! ウフフ……♡」
「早くしてくれ……」
もう何度目になるかも分からない定期検査であり、麻薬の成分を体外へ抜くための治療薬の投与だ。
医療に関する専門的な知識など一切持ち合わせていない俺だが、直近の任務や活動において身体に異変が生じていないことを鑑みるに、この処置には大いに意味があるらしい。
痛みという感覚を覚えないまま、細い注射針が皮膚を貫く。
シリンダーを満たしていた透明な液体が残らず注入されたことを確認したリリアンは、手慣れた手つきで静かに針を引き抜いた。
「これでおしまい♡ どぉ? 最近の体調は?」
「……別に。おかげさまで何もない」
異変というほどの異変は、少し前に起きた原因不明の幻聴くらいで、身体的な異常は本当に何もなかった。
定期的に注入されているこの薬のおかげなのか、麻薬特有の不快な禁断症状も副作用も、これといって感じたことはない。
一度薬が切れれば発狂するだとか、強烈な依存性が最大の特徴だとか言う割に、俺の身体には特に何の異常も見られないのだ。
やはり、この規格外な医務官が処方する薬の効能が極めて高いのかもしれない。
俺は心の中で密かに感謝の念を覚えた。
もっとも、それを口に出せば一気に距離を詰められた挙げ句、背筋が凍りつくような恐ろしい対応をされるのが目に見えているので、当然のごとく無視を決め込むのだが。
「そう? それならいいんだけど……」
リリアンは一瞬だけ俺を刺すような鋭い視線を向けたものの、何かを納得したのか、すぐにいつもの笑みに戻った。
「じゃあ、何か異変があったらすぐに私の所に来るのよ! リリアンとのや・く・そ・く♡」
「…………はい」
「ラバックちゃん、レンちゃんのことよろしく頼んだわね♡」
「はい! ……レン、なんだよその顔は」
「逆にお前は、よくこの空気に耐えられるな……」
「……そりゃ、俺は何回もお世話になってるからね。レンもそのうち慣れるさ」
「絶対慣れたくないんだが」
こんな不毛な軽口すら日常の一部になっていることに、俺は内心で自嘲する。
王国に来てまだ一ヶ月も経過していないというのに、随分とこの環境に毒され、馴染んでしまったものだ。
それでもどこかで「悪くない」と思ってしまっているのだから、俺も相当なお気楽思考に染まりつつあるのは間違いなかった。
医務室を後にして詰め所へ戻る途中、廊下の曲がり角の先から誰かの激しい怒りを含んだ怒号が響いてきた。
……無視するのが一番である。
どう考えても碌でもない事態を引き寄せる予感しかしない。俺は歩幅を緩めることなく、そのまま詰め所を目指して歩を進める。
隣を歩くラバックも微かに眉をひそめたものの——俺の思考を察したわけではないだろうが、同じように足を止めず歩き続けた。
「団長! 何故なんですか!? 俺はもう騎士団に四年も在籍しているんですよ!! いつになったら正騎士になれるんですか!!?」
近づくにつれて、声は否応なしに大きく鼓膜を叩く。冷静さを完全に欠いているのか、声の主が尋常ではない焦燥感を抱いていることが伝わってきた。
さらに言えば、その会話の相手は騎士団長——ロディ・グランベルクだ。
絶対的な上官に対してあそこまで詰問できるのは、なかなかの胆力の持ち主である。
——まあ、俺も団長相手にはかなり砕けた言葉遣いをしているが……。
自分のことを棚に上げている自覚に苦笑する。
ちょうどここからは死角になっており、団長と詰め寄っている騎士の姿は見えない。
「まあ、落ち着け。そう焦るものでもない。地道な鍛錬こそが——」
「その言葉はもう聞き飽きました! 同期の連中はすでに正騎士になっているのに……! 何で俺だけ【見習い】のままなんですか!?」
そこでずっと沈黙を守っていたラバックが急に足を止めたため、釣られるように俺の足も自然と止まった。
「おい、どうした?」
「……あぁ、いや……なんでもない」
ラバックの琥珀色の双眸が弾かれたように数回瞬きを繰り返し、再び歩き出そうと一歩を踏み出す。
その直前——
「俺は、アイツ——ラバックより実力は上です! 入団試験だって一発合格だったじゃないですか!!」
どうやら団長に詰め寄っている騎士は、ラバックの知り合い——同期の男らしい。
ラバック本人が相手をどう思っているのかは定かではないが、少なくとも声を荒げている騎士はラバックを一方的に敵視——あるいは猛烈にライバル視しているようだった。
「……レン、詰め所に戻ろう。午後からは王宮内部の見回りもあるし」
「……あぁ、そうだな……」
こんな時、どんな言葉をかければいいのか、俺には分からなかった。
気にすることはない、と無難な言葉をかけるべきなのか。
それとも全く別の話題を振って気を逸らすべきなのだろうか。
答えを見出せないまま、今度こそ詰め所へ向かって足を前へ踏み出す。
廊下の死角からは、まだ鋭い声が届いていた。
「実力は上、ねぇ……カルロス、お前な——」
「団長! 俺は納得できません!」
ラバックは一度も振り向くことなく、ただ黙々と前方の廊下を見つめて歩いている。
話題の中心が自分自身であるにもかかわらず、まるで意に介していないかのような素振りを装って。
「口先だけなら何とでも言える。その傲慢さは、いつかお前の足を掬うぞ」
「俺は————」
その会話を最後まで聞き届けることはなかったが、隣を歩くラバックの横顔だけは、今までに見たこともないほど、重く————険しかった。
◇ ◇ ◇
詰め所へ戻るとやけに部屋が騒がしい。
いや、訂正しよう。いつも以上の騒がしさだ。
また誰かが報告書の提出期限を忘れていたとか、王宮の調度品を壊したとか、重要な任務に遅刻したとか……理由は様々考えられる。
「あ! ラバ! レン! 聞いたか!? ついに来ちまったぞ……!!」
俺たちが詰め所に入ってくるやいなや、脱兎のごとく駆けつけてきたのは、最近よく話すようになった騎士だった。
どうやらラバックとはかなり親しいらしく、愛称で呼び合う仲らしい。
普段は何の悩みもなさそうな顔で呑気に笑っている男が、いまやこの世の終わりのような絶望の表情で捲し立てるように告げてくる。
いつも思うが、この騎士団には常軌を逸した狂気的な行事が多すぎる。
どう考えても王国の騎士たちの頭が軒並みおかしい原因は、数多存在するこれら狂気の行事のせいなのではないだろうか。
「どうしたんだよ、ジッピー……ニーナさんの身だしなみチェックにでも引っ掛かったか?」
「バカ! 冗談でもそんな恐ろしいこと言うんじゃねぇ! アレだ! またあの『合宿』が……!!」
「合宿」という不穏なキーワードが出た瞬間、さっきまで冷静だったラバックの両目がカッ!と見開かれた。
何なんだ一体……この短期間の騎士生活からして、間違いなく厄介極まりない行事であることはもはや疑いようもない。
以前体験した《月例報告会》すら生き地獄だったというのに、もう次の地獄が始まるのか……。
俺は「またか……」という深い脱力感を抱きながら、ジッピーとラバックの次の言葉を静かに待つことにした。諦め混じりの覚悟を固めながら。
「ま、ま、まさか……!! 嘘だろ!? 今年は開催が早すぎないか!?」
「俺もそう思うんだが、マジのマジなんだ! 直接その目で確認してくれよ!!」
捲し立てるように話すと、ジッピーはラバックと俺の腕を引っ張り、男たちが大騒ぎする(中には絶望のあまり膝を折って突っ伏している者すらいる)人集りの中心へと引き入れた。
騒ぎの中心にあるのは、壁に立て掛けられた巨大な連絡掲示板だ。
直近の予定や達しが張り出されるそこに、大々的な太文字で書かれていたのは——
「《聖ラウラント王国騎士団 嶺頂総合適性評価演習》……? 長い名称だな……」
「ついに来てしまうのか……ぐぁぁぁぁ!!!」
「落ち着け! いや、無理だ!! 落ち着けるかこんなもん!!!」
名称から推測するに、どこか過酷な場所での演習——つまり何らかの適性診断を兼ねた訓練や鍛錬のことだと思われるが、周囲の先輩騎士たちのほとんどは、これ見よがしに過激で悲痛なリアクションをとっている。
明らかにやり過ぎだとは思うが……
「ラバック……一応確認のために聞くが、これは何なんだ?」
「別名《親睦深まる☆ドキドキ合宿》だ」
「は?」
「そう呼ばれてるの!」
「正式名称とかけ離れすぎじゃないか?」
絶望の悲鳴を上げる先輩騎士たちに混じり、何も知らない(?)俺と同じ見習い騎士服に身を包んだ一団が掲示板を囲み、何なら楽しげな声を上げていた。
あの惨状を見てあんな明るい顔ができるあたり、あいつらもすでに相当な勢いで精神が毒されているらしい。
「合宿だって! 夜はキャンプファイヤーとかするのかな?」
「お菓子の持ち込みはOKだよね!?」
「トランプとボードゲーム持っていこうぜ!!」
「名案!! 今から楽しみだなぁ!!」
どう考えても楽しみに思える要素など微塵もない俺とは裏腹に、見習いの一団は浮かれた予定を立てて盛り上がっている。
その輪の中からひょっこり姿を現したのは、エアリアルブルーのツインテールを愛らしく揺らすエルンだった。
「あ! ラバ先輩、レン先輩、お疲れ様です! 聞きました!? 合宿ですって! 今から待ちきれません!!」
「…………エルン。悪いことは言わないから、その能天気な考えは今すぐ捨てなさい」
「そうだぞエルン!! あれは合宿じゃない!! 人間の尊厳をドブに捨てた、血生臭い家畜小屋なんだよ!!」
「あながち間違えてなさそうな例えなのが本当に嫌だ」
きょとんとした顔をするエルンに対し、ラバックとジッピーが必死に現実を説得する一方、少し離れた場所では熟練のベテランと思しき騎士たちが、見習いたちへ哀れみの視線を向けていた。
ある者は天に向かって祈りを捧げ、ある者は痛々しそうに顔を歪めている。
「見習いたちは楽しそうでいいな……」
「今は、な……」
「よせよ……俺たちだって、彼らのように純粋に合宿を楽しみにしていた時期があっただろう……」
漏れ聞こえてくる会話だけで、この行事が「親睦(地獄を共に乗り越えて互いの絆を嫌でも深めさせられる)」「ドキドキ(極度の恐怖と心臓麻痺による生命の危機)」なのは間違いない。
だが、まだ心が完全に汚染されきっていないピュアな見習い騎士たちは、楽しい合宿(と思っている)に向けてキラキラとした予定を立て続けている。
一度も参加したことがない俺でも、聞こえてくるベテランたちの会話とラバックたちの絶望ぶりから、楽しくも何ともない危険行事であることは痛いほど理解できた。
「えぇー! 肝試しとか枕投げとか……そういう楽しいイベントはしないんですか!?」
エルンの悲しげな叫びは、ラバックの至極真剣なトーンの声によって容赦なく掻き消される。
「……心臓を直接鷲掴みにされるような死の恐怖と、殺意に満ちたナイフ投げならあるよ」
「それ肝試しでも枕投げでもないですよ!?」
ガヤガヤと騒がしい詰め所内は、見習い騎士たちのお気楽思考組と、経験者による絶望組の二つに分断されていた。
……中には魂が抜けたように椅子へ崩れ落ちる者までいる。
加えて、ベテラン騎士たちの漏らす会話もどこか焦燥じみていて笑えない。いや、最初から笑える要素などどこにもないのだが……。
「今年の開催が例年より早いって話、マジだったんだな」
「状況が状況ですので」
「今回はどれだけの奴が生き残ると思う? 賭けようぜ」
「くだらない賭け事はしない主義ですので、遠慮させていただきます」
詰め所の隅では、偵察部隊の面々が静かに佇んでいた。その中でクリスが、ミカの肩に親しげに手を置いている。
ミカはその手を払いのけようとはしないものの、氷のように冷ややかな視線と共にその軽薄な提案を一括して退けていた。
「なんだよ、つまんねえなぁ……」
「毎年『田舎に帰って羊飼いになりたい』と退団を申し出る騎士が後を絶たない行事ですよ。忘れたわけではないでしょう」
「まぁな? でもそれは、それ! これは、これ!だろ?」
「全く違います。履き違えもはなはだしい」
二人の会話がより合宿の恐怖を煽り立てる中、ラバックが大きく深呼吸をした後、俺とエルンに向き直った。
「いいか、レン、エルン。洗剤は絶対持っていくんだ! あと遺書も書いた方がいい。……後悔がないように……な」
「もう! ラバ先輩ってば怖がらせ過ぎですよ! 合宿に遺書なんて必要ないと思います! 洗剤は……お皿洗いでもするんですか?」
純粋無垢と言わんばかりのエルンの訴えはラバックとジッピーには届かず、二人は黙って静かに首を振るだけだった。
「それで、その演習は何処でやるんだ? 城外に出るんだろ?」
「うん。ここから馬車で二時間の所にある《ベルモデス山》でね……期間は七日間。入れ替わりで各部隊長が演習を担当するんだ」
「七日か……思ったより長いんだな」
「まぁね……団長自らが指揮を執るから容赦ないよ」
「それだけじゃないぜ! あの筋肉書記官も同行するんだ……!」
「あの書記官、意外に多忙なんだな……」
俺はそこまで聞いて、とある疑問を覚えた。
騎士団の最高責任者が七日も王城、もとい騎士団を空けてもいいのだろうか?
幸いにも、その疑問はすぐに解決することになる。
「まぁ、ずっと山に張り付いてるわけじゃないけどな! 団長は忙しいし……何かあればバッ!といってシュッ!って帰ってくるよ」
「馬車で二時間と言ってなかったか?」
「?そうだけど?」
「何言ってるんだお前」とジッピーの呆れ顔が物語っている。
馬車で片道二時間かかる距離をそんな簡単に行き来できるとは到底思えないが、以前エルンから聞いた情報によれば、団長は齢百を越えている人外らしいので、あるいは可能なのかもしれない。
…………普通に考えておかしいが。
「さすが団長ですねぇ……!」
「まぁ、魔術師監理局が開発した《転移門》があるからね。それで簡単に行き来できるんだよ」
「今のは聞きたくなかったです……」
ラバックにより夢と幻想を容赦なくぶち壊されたエルンが、ジト目をラバックに向けるが、当のラバックはにこやかに笑うだけだった。
「ともかく、準備は念入りに——」
ラバックの言葉が終わりきる直前、またもや厄介な事態が押し寄せてきた。
詰め所の大扉が、物凄い勢いで勢いよく開け放たれたからだ。
この国は毎日騒ぎを起こさないと死ぬ呪いにでもかかっているのでは?と、俺は本気で思っている。
「大変だ!!緊急事態発生!! ニーナさんが来るぞ! お前ら!今すぐ身だしなみを整えろ!!」
「なっ、なにぃ!!!?」
「くそ! ラバ! お前がさっきあんなこと言うからだぞ!!」
「俺のせい!? どう考えても定期的な巡回だろ!?」
「おい! 誰だ!?ここにパン屑を落としたのは!!」
「ロッカーに汚れた隊服ぶち込んだままだ! 精神的に抹殺される前に何とかしないと!!」
突如知らされた身だしなみチェックとやらに、先ほどまで楽しげだった見習い騎士も、絶望していた騎士も、哀れみの視線を向けていたベテラン騎士も、揃いも揃って慌てふためき自身の騎士服を整え始めた。
中には「ボタンが外れた!」だの「ベルトが緩んで……あ! パンツが……!」と、とんでもない危機的状況に陥っている集団までいる。
「ラバ先輩! 寝癖が……!」
「え! 本当!? まずい!!」
「落ち着いてください! 動かないで!!」
「頼むエルン! 俺を救ってくれ! お前だけが頼りなんだ!!」
「任せてください! 必ず救います!! 騎士の誇りにかけて!!」
「寝癖直すだけだろ? 馬鹿馬鹿しい……」
俺は目の前で繰り広げられる茶番劇に呆れ果て、大きな溜め息をこぼした。
一方、慌てふためく連中とは一線を画すように澄ました顔をしているのが、偵察部隊である。
鉄仮面の表情はともかく、実力に見合った集団であることは疑いようもなく——
「やれやれ……あいつらも学ばねぇな……」
「あ、あの、クリス様……ボタンは一番上まで留めないと……」
偵察部隊の一人と思わしき少女が遠慮がちに指摘するが、本人は手をヒラヒラと振りながら余裕綽々といった様子で返した。
「大丈夫、大丈夫。ニーナさんが回ってきたらその時だけ——」
「ニーナ様には僕から直々に報告しておきますので、安心してください、シリカ」
「は?? お前には人の心がないのか?」
「君には人としての矜持がないと? 同じ爵位を持っていると思われたくありませんね。恥ずかしいこと、この上ない」
「み、ミカ隊長……」
シリカと呼ばれた少女が反応に困る一方で、クリスとミカの応酬は続いている。
親しいゆえの会話ではあるのだが……相変わらずミカの吐く毒は強烈極まりない。
「あ゙ー!! 分かった! 分かりましたよ! ——ほら! これでいいんだろ!?」
「最初からそうしてください。みっともない」
「お前は! マジで!!」
「クリス様! 抜刀はいけません! 詰め所での抜刀はー!!」
そんな騒がしくも親しげな雰囲気を、嗜めるかのように。
コツ、コツ、と……規則正しい靴底が廊下を鳴らす足音が、刻一刻と近づき始めていた。
◇ ◇ ◇
開かれた大扉。
一つのシワもない完璧なメイド服。
ただ立つだけの姿すら、優雅そのもの。
「皆様、おはようございます」
「「「お、おはようございます……」」」
ライトゴールドの髪は丁寧にハーフアップに整えられており、化粧は——多分ナチュラルとかそういう類いだろう。
知らんが。
見た目は二十代前半くらいだと思われるが、それにしても纏う空気は熟練のメイド長もかくや、といった具合だ。
彼女が、騎士たちが底知れぬ恐怖を抱く「ニーナさん」であることは疑いようもない。
以前から名前だけは聞く機会があったが、実際に顔を合わせるのはこれが初めてだ。
普段なら公害レベルの騒音を撒き散らしている連中も、今は借りてきた猫のように静まり返っており、気味が悪いくらいである。
「呼吸が乱れておりますわね。どうかなさったのですか?」
「いえ……なんでもありません! ハハッ……(貴女の威圧感のせいです!)」
「気のせいですよ……(いつも急に現れやがって!)」
大根役者を通り越した見苦しい演技力ではあったものの、ただ者ではない佇まいのメイド——ニーナは「そうですか」と冷ややかに一言呟いただけで視線を外した。
ホッと誰かが安堵の息を吐いたのも束の間。
「貴方、なんですの、それは?」
「え? おらでぇーか?」
——それが、本日一人目の犠牲者だった。
「えぇ、貴方です。ベルトの位置が左に0.6cmずれておりますわ。王国の矜持まで傾いて見えますけれど?」
「わわ!すみまでぇん!」
——ミリ単位で注意してくるのかよ……。
ちなみに、聞き馴染みのない口調には触れないでおく。
俺は内心、「面倒くさすぎる」と感じていた。ベルトの位置がミリ単位でずれていたとして、目視でそこまで気になるか? そもそも身だしなみと王国の矜持は全くの別問題だろ……
しかし犠牲者は一人、また一人と着実に増えていく。
さながら国境線の荷物検査で脱税者を片っ端から摘発するが如く。
「襟ぐりの角度が左右で二度ずれています。風紀の緩みは心の緩み、即刻お直しなさい」
「ヒュッ……! は、はいぃ!!」
肉眼では判別不能な微細な変化すら即座に見抜くので、さながら猛禽類か、あるいはダチョウ並みの視力だ。
しかも細か過ぎるチェック。いつの間にか俺たちは横一列に整列させられており、順に摘発されていく。
最初は男特有のだらしなさを咎められるのかと思いきや、相手が女子であっても容赦はないらしく、大人しそうな少女騎士に対しても
「前髪が眉に0.5ミリかかっていますわね。視界を遮る前髪で、どうやって民を守るおつもりかしら?」
という容赦のない言葉が飛び出すのだから、これが噂の男女平等というやつなのかもしれない。
「(おいラバック、なんだよこれ……)」
「(身だしなみチェックだよ、この前話したろ)」
確かに以前ラバックやエルンから「変態(クラスの実力と精神性を持つ騎士)や精神健常者(隊長)でも奥歯をガタつかせる身だしなみチェックがある」と教えられたことはある。
その時はまた訳の分からないことを……と本気で思っていたし、一部の馬鹿と阿呆と精神に問題のある騎士が過剰に騒いでいるだけだろうと高をくくっていた。
だが、実際に直面してみればあながち間違ってもいない気がする。まるで厳格な検問だ。
一瞥しただけで服装などのわずかな乱れを的確に指摘される。驚くべきは視力だけでなく、異常なまでの嗅覚の鋭さだ。
「……ほのかに漂う甘い香り。昨晩配給された夜食の焼き菓子ですわね? 騎士団の制服は焼き菓子の屑を入れる袋ではありませんのよ」
「な、なんで分かったんだ……! たった五枚しか食べてないのに……!」
「食いすぎだろ!お前のせいかよ!オレが半欠片しか食べれなかったのは!!」
「靴底に微細な土汚れが残っていますわ。靴の輝きは騎士の誠実さそのもの。やり直しです」
「くっ……! 朝礼に遅刻しそうになって、裏道を通ったのが仇になったか……!」
「お前、遅刻しそうだったの!? ぼくには『上官に報告がある』って言ってたのに!」
「(もう怖ぇよ……実際に見てたとかじゃなきゃ説明つかないぞ)」
「(しっ! レン……ニーナさんはすごく耳が良いんだ……この距離でも聞こえるぞ……!)」
挙げ句の果てに、一人の騎士の嘘と裏切りまで暴いてしまう始末。
ここまでする必要は果たしてあるのか。
俺が思考を巡らせる間にも、少しずつその魔の手は俺の元へと迫ってくる——!!
「貴女……」
「は、はい!」
——次はエルンか……可哀想に。
真面目で勤勉な少女に対しても一切の容赦なく、首席メイド——別名『王宮の裏の支配人』の手は止まらない。
というか誰が名付けたんだこの二つ名は。
初めて聞いた時には部署の予算を着服したり、私腹を肥やすクズ権力者かと思ったぞ。
「よろしい。問題ありませんわね」
「ありがとうございます!」
そんな俺の思考を嘲笑うかのように、エルンは華麗に身だしなみチェックをクリアしていた。
どうやらエルンはお眼鏡に叶ったらしい。
実に羨ましい限りである。恐怖の身だしなみチェッカーは、すでに俺のすぐ前にまで迫っている……
あと一人のチェックが終われば、次は俺の番なのだ……。
——指摘されるのは回避できないとしても、頼むから穏便に終わってくれ……!
「フッ……まぁ私ほどになれば当然クリアするに決まっているがね」
「誰だお前」
「あら、そちらで涼しい顔をしておられる方? 一番上のボタンを今まさに留めたばかり、という指の動きでしたわね」
「!? そ、そんな事はありませんよ! ほら!」
俺の隣でちょうどチェッカーに引っ掛かった騎士(まったく話したことのない知らない奴)は否定しつつも、その指先は騎士服の一番上——つまりボタンに触れていた。
苦し紛れの言い訳も虚しく、ボタンの留めが不十分だったのか、その騎士が手を離した瞬間にボタンがみっともなく宙を舞った。
静まり返る詰め所。
誰かが笑いを堪えるような苦しい呼吸音。
……おい、今笑ったの誰だ。
気恥ずかしさから、靴底を鳴らしてソワソワと揺れる音。
「お止めなさい。足音が普段より0.2秒早いですわ。疚しさの表れです」
「……ッ!」
矜持もプラスチック並みに軽いプライドもすべてかなぐり捨てて逃げ出そうとしたことさえ即座に見抜かれ、容赦なくしょっぴかれた謎の騎士。
——この茶番劇のような流れの後に身だしなみチェックを受けるのが俺とは……とことん不運の極みだった。
ついに恐怖の身だしなみチェッカー~ダチョウ並みの視力を添えて~は、俺の前でピタリと寸分違わず立ち止まった。
まだ一言も発せられていないというのに、俺の心臓はバクバクと煩い。
背中を嫌な汗が伝う感覚。
目の前の人物はメイドだ。歴戦の猛者でもなければ、先日王宮の壁をぶち壊した《十二勇士》とやらでもない。
——なのに。
「————貴方」
「……はい」
短い応答が精一杯である。
我ながら情けないが、実際に目の前で薄荷色の双眸に検分紛いの視線を受ければ、呼吸は自ずと薄く、短くなる。
数秒か、もしかしたら数十秒が経っていたかもしれない。
今までならすぐに容赦ない指摘の言葉が降ってくる頃合いだが、ニーナは表情の読めない顔で俺を見つめている。
——もしや……指摘する部分が多すぎて呆れているのか?
「……曲がっていますわ」
「え?」
「剣の鞘が定位置より0.4㎝ずれています」
てっきり服装の乱れや髪型について糾弾されると思っていた俺は、素っ頓狂な声を上げることになった。
彼女は流麗な眉をわずかに傾けると、支給されている剣が納められた鞘を元の位置であろう場所へと手際よく戻し、そのまま俺の隣に並んでいたラバックの元へスッと移動した。
どうやら今ので俺の身だしなみチェックとやらは終わったらしい。
思った以上に何もなかったことに心底安堵しつつ、ラバックの横顔を盗み見る。
「——————」
「…………………」
ガクガク、ブルブルという擬音がこれほど似合う様子もない。
全身が小刻みに震えているのは気のせいなどではない。「早く終わってくれ!」と顔全体に書かれている。
幸いにも恐怖のチェッカーは「よろしい」と一言だけ発すると、次の標的へ向かった。
「……はぁ……! よか——…………ゴホン」
「別にいいだろ……そのくらい」
安堵のあまり歓声を上げそうになったラバックが、咄嗟に言葉を飲み込むように咳払いをする。
私語厳禁なわけでもないのに……完全に身だしなみチェッカーへ心を支配されているとしか思えない。
その後も続々と犠牲者は出続けた。
中には「は?」と思わず口に出してしまうほどのおぞましい事態になっている騎士もいたが……口を挟むのも憚られるので割愛する。
「なんですか、これは? ロッカーはゴミ箱ではありませんわ」
「……いや、その……つい……時間がなくて……」
「言い訳ですわね。汚れた服をそのままロッカーに投げ込むなんて……野蛮で溝鼠のような思考はお止めになってください」
騎士の苦しい言い訳も、裏の支配人の前では一切無力。
最後は声が掠れ、白目を向いて倒れそうに——なっただけで何とか持ちこたえた。
おかしい……頭は当然おかしいのだが、肉体構造までおかしい。やはりこの国は狂ってry
「……あら? ミカ様……」
「!? オイオイ……! 嘘だろ? あのミカ様もニーナさんの餌食に!?」
「大変だ! これは歴史的瞬間だぞ! 王族新聞にネタを売って晒し上げようぜ!!」
「お前ら人の心はないのか? 逆恨みにもほどがあるだろ」
「仕方ないよレン……溝鼠だからね。陽だまりの下で過ごす人間が羨ましいんだよ」
「日頃の行いだろ」
ミカがニーナに呼び止められたことで、日頃の私怨——主に溝鼠騎士たちがやらかした不始末による自業自得なのだが——を爆発させ、王族新聞に売り込むという悪魔的思考に染まった連中が、歯茎を見せてニタニタと不気味に嗤い始める。
だが当人のミカに焦った様子はない。
いつもの冷静沈着そのものなので、内心では焦っているという可能性も——
——いや……ない。絶対にないな。
それだけは、この短い期間を共に過ごしただけで確信できた。
「ニーナ様、僕は……」
「ミカ様、いけませんわ……」
「さぁ墜ちろ! いつも人様の弱みを握って恥ずかしい思いさせやがって!」
「そうだ! 女子にモテてるのもいけすかねぇ!!」
「そうだ! そうだ! お菓子よこせー!!」
「人間って本当に醜いよな」
「『人の不幸は蜜の味』って言葉があるくらいだし……」
「本当に楽しそうですよね……先輩方」
ラバックとエルンの呆れ返った呟きは、野郎共の私怨100%な野太い怒号に容赦なく掻き消された。
いよいよニーナが直接的なお咎めの言葉を紡ぎ——
「……やはりいけませんわ。今夜パイ生地を仕込むなんて……ご多忙でしょう?」
「確かに……昨夜、談話室の机を破壊した馬鹿と、大浴場の洗髪香油を湯船に入れて泡だらけにした阿呆についての報告書を片付けなければなりません……加えて未明に奇声を上げた変質者のせいで寝不足です」
「……大浴場の件は初耳だぞ」
「明け方の奇怪な声、動物じゃなかったのかぁ……」
予想以上の不始末と変態的奇行の数々に頭を悩ませるミカだが、その栗色の双眸は確固たる使命感に燃えている……気がする!
「それでも……! 僕は今夜パイ生地を仕込みます! 明日の糖分補給がかかっているんです!」
「ミカ様……! 貴方はそこまでの覚悟で……!!」
「パイ生地の話だよな?」
「そこ! 煩いぞ!! 明日パイが焼き上がるか否かで偵察任務の進捗率が劇的に変わるんだ!! ——糖分は正義!!」
「「「糖分は正義!!!」」」
なにやら壮大な話になっているが、交わされている内容はどこまでもパイ生地の仕込みについてだ。
先ほどまで歯茎を見せて嗤っていた溝鼠騎士たちは、ミカがチェッカーに捕まっていないと知るや否や一気に興味を失ったようだった。
そして先ほどの不始末を聞き、心当たりのある者は影のようにコソコソと押し黙った。
都合が良すぎる。やはり溝鼠である。
さらに恐ろしいのは、普段は精密な機械人形かと疑いたくなるほど無心を貫いている偵察部隊の面々が、目を血走らせながら「糖分は正義!!!」と一斉に叫んだことだ。
それも唐突に、である。
怖すぎる。偵察部隊というのは、実のところ魔境なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「洗剤、折り畳みナイフと……マッチ、ロープ……」
一日の行動を終えて、俺たちは《銀狼の館》の自室へ帰ってきた。
《聖ラウラント王国騎士団 嶺頂総合適性評価演習》……あまりに長いので演習と呼ぶことにする——の開催には、まだ多少の期間がある。いくら狂った王国でも「じゃあ明日からね」とはならないらしい。
にもかかわらず、ラバックは演習の準備に早くも取りかかっている。
いくらなんでも気が早すぎる気がするが、これまで衣食を共にしてきたラバックの性格を鑑みるに、何かそれなりの理由があるのだろうと思えた。
「救急キット……あ! 包帯が少ないな、補充しなきゃ……」
「なぁラバック、一応、訓練合宿なんだろ? 物資の配給くらいあるんじゃないのか?」
俺の疑問に、救急箱の中身を確認していたラバックの手がピタリと止まった。
しかしそれも一瞬のこと。
消毒液の残量を確認する作業に戻りながら、俺の質問にいつもの調子で答えてくれた。
「あるにはあるんだけどね……それすらも訓練——というより適性診断の一環なんだよ」
「そういや『適正評価』とかいう大層な名前だったな……」
「《親睦深まるドキドキ☆合宿》ね」
「現実逃避やめろ」
ふざけた名前で嫌な現実から目を背けようとするラバックだが、こいつの言葉通りに解釈するなら、文字通りの意味で『適性』を見るのだろうか。
物資に関する適性と言えば、極限状態での優先順位を見極める能力……例えば、持ち込める物資の重量や種類に厳しい制限があるとか、そういった類の。
「まぁ色んな適性診断があるからね……ともかく、準備を万全にしておいて損はないよ」
「まぁ、そうだな」
これに関しては大いに共感できる意見だった。
演習場は山だと聞くし、どう考えても普通の場所ではないはずだ。
山には多種多様な危険がつきまとう。
獰猛な野生動物は当然生息しているだろうし、場合によっては魔獣や魔物との遭遇だって十分あり得る。
もし傷を負った場合、適切な処置を怠れば傷口から感染症を引き起こすリスクだってあるのだ。
「それで……適性とは具体的に何なんだ? 騎士としての素質や力量を見るのか?」
「半分正解……かな? 正騎士はともかく、見習い騎士はこの合宿を通して『どの部隊に配属されるのが適切か』を判断されるんだよ」
「つまり、正騎士になった時の正式な配属先を決めるための判断材料にされるってことか?」
「そそ! レンくんは理解が早くて助かるなぁ……!」
わざとらしく手をパチパチと叩くラバックに、言いようのない微かな苛立ちを覚えたものの、それを口に出さなかった自分を心の中で褒めてやりたい。
そこで、ふと一つの疑問が頭に浮かんだ。
ラバックは「演習で将来の大まかな部隊配属が決まる」と言ったも同然だが、見習いであるはずの俺とエルンは、すでに前線部隊である第六小隊に所属しているのだ。
仮入隊のような扱いなのだろうか? だがラバックの説明と比較すると、やや引っかかるのは事実だった。
「俺とエルンは、もう前線部隊に組み込まれているんじゃないのか?」
「そうだよ? ……あぁ、そっか!」
合点がいったのか、ラバックは物資を確認する手を今度こそ止めて向き直った。
「エルンは剣術大会の優勝者だから、ちょっと他の子とは扱いが違うんだ。お前の場合は……まぁ、傭兵としての経歴から考えて、前線向きだからじゃないかな? 遊撃部隊って可能性もあったけど、あそこはまぁ……色々あるからね」
「聞かないぞ。絶対聞かない」
「……ともかく! お前とエルンはすでに所属が決まっている珍しい例外なんだよ。他の見習い騎士たちにとっては、この演習こそが将来の部署を決める一番大事な行事なんだ」
遊撃部隊の件は、深追いせずにさらりと触れずに済んだ。ラバックも珍しくそれ以上は語らず、最後まで俺の疑問に答えてくれたわけだが——
「適性診断ってことは当然、他部隊の訓練や鍛錬のメニューも組み込まれているのか?」
「前線部隊はもちろん、騎馬隊、後方支援部隊、物資管理部隊……ゆ、遊撃部隊に遠距離小隊……あとは調査小隊かな」
ラバックが次々と挙げる部隊や小隊の名前に聞き入っていたが、俺にとってはある意味馴染み深い部隊の名前が出てこなかった。
——偵察部隊。
あの若き天才たちが率いる部隊は、適性診断の選択肢には入っていないのだろうか?
俺はまたしても抑えきれない好奇心から、ラバックに再度問いかけていた。
我ながら随分とこの王国に興味を抱くようになってしまったものだ。少し前まで「俺には関係ない」「興味がない」と突っぱねていたというのに。
「偵察部隊は……」
「偵察部隊!? いやいや……あの部隊はそう簡単に入隊できる場所じゃないよ。高度な偵察や潜入の技術はもちろん、敵と遭遇した時の咄嗟の戦闘も状況によっては、一人でこなさなきゃいけないし……何よりスカウト制なんだ。『入隊したいです!』って直訴しても絶対に無理だよ」
——なるほど、確かに筋が通っている。
敵に見つからないことが大前提ではあるが、持ち帰る情報の価値を守るためには、状況に応じて戦闘をこなさなければならない。
高い判断能力に加え、敵の偽情報や陽動に惑わされることなく「正しい情報」だけを選択し続ける事を常に求められるわけだ。
「理解した。確かに、この手の演習の適性検査で測れるような能力じゃないな」
「そういうこと。まぁ、ごくたまーーーーに異常な素質を買われて引き抜かれることもあるらしいけどね!」
ラバックの前向きな声が部屋に響く。
だが、その軽快な声はどこか見栄を張っているような——胸の奥に深い寂しさを隠しているかのような強がりに、俺には思えた。
そして喧騒の日々が四度過ぎた頃。
夜が明ける気配すら見せない午前三時。見習いと満三年に満たない若手騎士、総勢二百五十六名は各々が荷物同然に馬車の中へとなだれ込み、押し込められるようにして乗車した。
正直なところ、俺の頭はまだ覚醒に至っておらず、思考能力はかなり落ち込んでいるとしか言いようがない。
ぼんやりとする意識の中で、ガタガタと揺れる車体に身を委ねる。
演習の目的地である《ベルモデス山》までは、馬車で二時間ほどかかる道のりらしい。
どうせ現地に着けばろくでもない事態に巻き込まれるのは目に見えているのだから、今のうちに体力を温存しておくべきだ。
回避できない問題だというなら受け入れるしかない。ただ、無駄に体力を削られるのも腹が立つので、俺は意識を切り替えるように深く瞼を閉じた。
………………
………………
………………
馬車が暗闇を進む僅かな振動と、車輪が石を拾う硬い音。
同乗しているラバックたち顔見知りの騎士たちが引き起こす微かな気配。
非常に驚くことに、車内は驚くほど静かで、いつもとはまるで様子が違っていた。
——こんなに静かにできるなら、日頃からそうしていてほしいものだ。
そんな皮肉めいた思考を頭の隅で抱きながら、静寂とともに着実と降りてくる眠気に身を任せる。
連中がこうも物静かなのは、これから始まる演習に対する恐怖ゆえかもしれない。
「あのさ……」
「……なんだよ……筋肉鬼の物真似ならやらなくていいぞ」
「違うって……俺さ、この合宿で良い評価が貰えなかったら……実家に帰ることになるかもしれないんだ」
………………
………………
………………
「え……な、なんで?」
「母ちゃんと妹が道具屋をやってるんだ。でも、女子供だけだと何かと不安だろ?」
「まぁな……確かに男手は欲しいよな」
………………
………………
………………
「それでさ、『騎士になれないなら実家の店を手伝え』って言われてて……」
「あぁ……それは……うん……」
「お前……それで本当にいいのかよ!? 騎士になりたいんじゃないのか!!」
「なりたいよ! なりたいけど……! 家族の方が大事だろ!!」
………………
………………
………………まぁ、世間一般の人間なら肉親を大事にするのは当然の心理だろう。
素直に眠りにつくつもりだったが、思いの外真面目な身の上話が始まってしまったため、つい引き込まれてしまった。
いつの間にかまどろみは遠く彼方へ消え去ったようで。
俺は目を閉じたまま息を潜め、見習い騎士の吐露する言葉に静かに耳を傾けていた。
「これを団長や各部隊の隊長に相談するべきか迷ってるんだ」
「絶対言った方がいいよ! 家庭の事情なら、場合によっては何かしらの援助や保証が降りるかもしれないし」
ラバックの真剣な声が、狭い馬車の中に低く響く。
見れば何人かの正騎士たちも、暗がりの中でコクコクと頷きながら親身になって同意を示しているのが気配で分かった。
「でも……これは俺の私情だ」
「何言ってるんだ、立家庭環境の問題だろ!……複雑なやつ」
「エウルア隊長に相談すればいいよ。あの人なら、この手の話は親身になって聞いてくれるし」
「…………ゆ、遊撃部隊は、ちょっと」
会話にこそ参加していない俺だったが、その話の内容自体には共感し、少なからず哀れみさえ抱いていた。
俺も心のどこかで「さっさと上官に相談しろよ」と思っていたのだ。
しかし、その見習い騎士が一瞬だけ言葉を詰まらせ、引き攣るように発した返答に、俺は奇妙な違和答を覚えた。
何か明確な根拠があったわけでも、論理的に違和感を分析できたわけでもない。
なんだろうか? 例えるなら、そう——後頭部の髪をふいに強く引っ張られたような、頭の奥底にトゲのようなものが引っ掛かったような感覚。
もっと言えば、魚の小さな小骨が喉の奥につっかえて取れないような、気味の悪い不快感に酷似している。
遊撃部隊が色々な意味で危険な部署だから、だろうか?
そういえばラバックも『遊撃部隊は色々ある』と言い淀んでいたはずだ。
——だから、きっと俺の気にしすぎで……
「……あれ? でもお前、この前『母ちゃんが再婚して、妹が怒って彼氏と駆け落ち(実際は村の端に引っ越しただけ)した』って言ってなかったか?」
「は?」
「え?」
「おおん……」
恐らく、今まで黙って話を聞き入っていた騎士の一人。
その騎士が何気なく落とした素朴な疑問の声に、馬車内の空気が一瞬で凍りつき、完璧な沈黙が訪れた。
ガタン、ゴトン。
馬車が車体を揺らす度に響く無機質な振動音だけが、今の俺が拾うことのできる世界のすべてだった。
ガタン、ゴトン。
「お前……まさか」
「あ……えっと、そうだっけ? それは近所のおばちゃんの話で……」
「嘘だッ!!! この前確かに自分の話として言ってた!! 俺は可哀想に思って、お前に貴重なコロッケを一つあげたんだぞ! 絶対覚えてる!!昨日の話だぞ!!」
食の恨みというものは実に恐ろしい。
よりにもよって、食事のこととなると目の色がガラリと変わる筋肉思考の騎士の前で、そんなお粗末な嘘を吐くとは……。
勇気ある者よ、俺は心の中で静かに拍手を送る。
その向こう見ずな行動は、もはや蛮勇そのものだ。
帝国の人間であっても、思わずちょっと引いてしまうレベル。
何より、何故そこまでして見透かされるような嘘を吐くのだろうか?
周りからの情けや承認欲求を満たしたいからだろうか?
同情を集めて「自分は悲惨な境遇にありながらも懸命に生きている。そんな俺、格好良い」という痛々しい自己陶酔か?
理由がどうであれ、とんでもないナルシシズムである。
まさかそこまでして他人のコロッケが欲しかった訳ではないと信じたい。せめてそう信じさせてくれ。
露呈したあまりの醜態に、俺はそれ以上理由を考察するのを止めた。
同じ人間として、深い羞恥心すら覚えてしまったからだ。
「お前! そこまでして将来の配属先を……」
「……あ、いやいや! だってさぁ!」
「認めるなよ……そんな嘘を吐いたって私情で取ってくれないぞ。全員の適性をちゃんと見て決めるんだから」
ラバックの一言が、決定的なクリティカルヒットとなったのだろう。
嘘つきの見習いは、ほんの僅かな間に味わった優越感と引き換えに、仲間からの信頼と人間としての誇りを失ったのだ。
あとに残されたのは……昨夜、彼の胃袋へと納められたコロッケの虚しい味だけだった。
——それも、今となっては消化され、泡となって消える直前のものだったわけだが。
◇ ◇ ◇
「さて、そろそろ時間なわけだが……」
愛用のアンティークな懐中時計の蓋をカチリと閉じ、真っ先に声を落としたのは、後方支援部隊の隊長を務めるハイネ・アルカラスであった。
その声に応じるように、演習の日程表を雑に繰っていた手が止まり、気のない視線がゆっくりと上がった。
「今年は、少しは骨のある奴がいればいいんだがな」
さして興味もなさそうな様子で鼻を鳴らしたのは、騎馬隊第一小隊隊長——ディルック・アルベルト。
その投げやりな言葉から伺い知れる通り、これから運ばれてくる数多の若い騎士たちに対する期待など、彼には微塵も感じられない。
「あらあら、まぁ。騎馬隊は新しい新兵を迎えるおつもりがないということですの? 人材に潤沢な余裕がおありのようで、実に羨ましい限りですわね」
口調こそ丁寧で柔らかいが、淑女のような可憐な仕草とは裏腹に、その言葉には隠しようもない皮肉と刺がたっぷりと混ざり込んでいる。
物資管理部隊の隊長、リサ・ソールシュ。
彼女はディルックに向けて、花が咲くような笑みを投げかける。
だが——その挑発的な言葉に過剰に反応したのはディルックではなく、カチャリと静かに愛剣を手入れしていた人物だった。
遊撃部隊第三小隊隊長、エウルア・フォン・ローレライ、その人だ。
ハイネが嫌な予感に眉をひそめてそそくさと眼鏡を掛け直し、ディルックが引き攣った顔でわずかに体を斜めに傾ける。
それは、まさに直前へと迫り来る破滅的な大嵐に対する、野生の防衛本能と呼ぶべき素早い動きだった。
「あら? リサは実力の乏しい軟弱な騎士であっても、その張り付いた猫被りの笑顔で優しく迎え入れる余裕があるのね? 私には到底真似できないわ!」
「うふふ……これだから脳まで筋肉でできたお方は嫌でしてよ! 野蛮で優雅さの欠片も無い遊撃部隊と違って、わたくしの部隊は常に人手不足。猫の手でもお借りしたいほどですの」
「自分の部隊統括能力が低いと認めているようなものじゃない!!」
「……なんですって? もう一度仰ってみなさいな!!」
ほら、案の定このザマだ。
エウルアとリサの二人は、一度火がつけば些細なきっかけからでも熾烈なキャットファイトを繰り広げてしまう。
先ほどまで意気揚々と語っていたディルックと、ただ静かに開始時刻を待っていただけのハイネは、互いに顔を見合わせると息を殺して体を小さく縮め、サッと事態の及ばない広場の隅へと退避した。
その退避の間に発生した微かな草木を踏みしめる音は、ほとんど誰の耳にも届かないほどに精密かつ迅速なものだった。
堂々と胸を張って歩けばいいものを、情けない限りである。
「二人は相変わらず賑やかだね」
「…………そうですか? 単に騒々しい、だけかと」
亜麻色の柔らかい髪を風に揺らした少年が、傍らに立つ遠距離小隊の隊長——モーニエ・ロンドへと優しく問いかける。
対するモーニエは、返答こそどこか素っ気ない印象を与えるものの、普段の寝ぼけ眼な雰囲気は綺麗に鳴りを潜めていた。
澄んだ声にはしっかりと軸があり、少年の言葉を一語一句逃さず聞き入っている。
「……アルト様は、誰か、調査小隊に?」
アルト、と敬称を込めて呼ばれた少年は、足元から拾い上げた痩せ細った小枝を指先で弄んだまま、しばらくの間言葉を返さなかった。
その沈黙を不思議に思ったモーニエが、再度問いかけようと口を開かけた、まさにその刹那——
カサリ、と音を立てて。
ただの干からびた小枝の先端に、小さく、けれど息をのむほど美しい桃色の花が、芽吹きとともに一瞬で咲き誇った。
あまりに唐突で神秘的な出来事に、モーニエは毒気を抜かれたように呆然と立ち尽くす。
広場の中心では未だにエウルアとリサの激しい問答と怒号が響き渡っているが、そんな世俗の喧騒すら、今のモーニエにはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「……すごい……! これほど、高度で洗練された錬金術、アルト様くらいにしか、できません……!」
「ありがとう、モーニエ。だけどこれは、基礎中の基礎に過ぎないんだよ」
アルトは穏やかに微笑むと、可憐な花が咲いた小枝をモーニエの手元へそっと渡した。
差し出された小枝を咄嗟に恭しく受け取ってしまうあたり、モーニエがこの少年に相当な敬意と情を抱いているのは、疑いようもない事実だった。
「さっきの質問に答えようか」
「……はい。お願い、します」
アルトは一瞬の錬金術の戯れを楽しんで満足したのか、先ほどのモーニエの問いかけを思い出したように小さく呟いた。
返答を待つモーニエに対し、彼が静かに落とした言葉は——
「分からない」
「え……? 分からない、ですか?」
「うん。だって、これからどんな突飛な騎士たちがやって来るのか、僕にもまだ見当がつかないからね」
いかにも浮世離れした彼らしい答えと言えば、それまでだ。
だが、これまでずっと彼の背中を追いかけ、その生き様を見つめてきたモーニエは知っている。
——調査小隊隊長、アルト・フォン・レイヴァースという規格外の人物は、往々にしてその本音や真意を軽々しく口にはしない騎士であることを。
「さて……どうやら馬車が到着したようだよ。みんな、そろそろ出迎えようか」
その透き通った一言が響いた瞬間、激しい火花を散らしていたエウルアとリサの二人はピタリと口を噤み、物陰に隠れていたディルックとハイネが心底安堵したように大きな息を吐き出した。
モーニエが静かに頷いたのを合図に、一癖も二癖もある隊長たちが一斉に歩み始める。
この演習の果てに、運ばれてきた若き騎士たちが得るものは、きっと様々だ。
——彼らがこの地で真に掴み取るのは、騎士としての強さか。
——それとも、折れることのない誇りや矜持の類いか。
重い車輪の音とともに集う若者たちは、まだ自分たちの運命を知る由もない。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




