9.安心できる夜
ルティアを落ち着かせるために膝に乗ったが、どうやら逆効果だった。
最初は上手くいきそうだったのに。頭を撫でられて、ルティアも穏やかに笑ってくれて。これならいつもの調子に戻れるかもしれないと、少しだけ安心していた。
けれど、私が何気なく他の人の話をした瞬間――空気が変わった。
いつもなら、頬をぷくっと膨らませて、「もう、マナったら。他の人の話をするのはずるいわよ」と、不貞腐れた顔をするだけだった。
あれは可愛い拗ね方だ。少し拗ねて、でも甘えてくる。最後には笑ってくれる、安心できる嫉妬。
だけど、今は違う。笑っているのに、目が笑っていない。声は柔らかいのに、空気が冷たい。
明らかに拒絶の色があった。他人そのものを、排除しようとするような……そんな敵意。そして、それを指摘すればするほど、曇りは濃くなる。
抱き締める腕は強くなり、言葉は重くなり、独占欲が加速する。手が付けられない、とはこのことだ。
今の状態で他人の話を出せば、きっとまた同じことになる。いや、今度はもっと悪化するかもしれない。
でも――。暗殺者の話を進めるには、どうしても他人の存在を避けられない。
誰が怪しいのか。誰が動いているのか。協力者はいるのか。
それを考えるには、他人を話題にしなければならない。今のルティアに、それが出来るだろうか。……正直、難しい。
無理に切り出せば、また曇らせる。曇れば曇るほど、独占は強くなり、視野は狭くなる。
それでは、真相に辿り着けない。やっぱり、もう少し心を落ち着かせないと。曇りを完全に晴らすのは無理でも、せめて話が出来る状態には戻したい。
でも、一体どうすればいい?
甘やかせば独占が強まる。距離を取れば不安にさせる。笑えば悲しまれ、強くなろうとすれば拒まれる。
……難易度が高すぎる。私は小さく息を吐いた。ルティアは、壊れているわけじゃない。壊れかけているだけだ。
なら、焦らずに慎重に。まずは、安心させること。それから少しずつ、視界を広げる。暗殺者の話は、その後だ。今はまだ、その段階じゃない。
私は静かに次の一手を考えた。
◇
ふと、意識が浮上した。どうやら、寝つきが良くないらしい。
それもそうだ、今日一日で色んなことがあったのだから。だけど、私がしっかりとしなければいけない。ルティアのためにも、しっかりと――。
その時、頬に人の手が触れた。
「っ!?」
思わず目を見開き、体を起き上がらせる。
「あっ……」
と、そこに聞きなれた声が聞こえた。隣を見てみると、そこにはいるはずもないルティアがいた。
「えっ、どうして――」
「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ! 起こすつもりはなかったのっ……。でも、どうしても触れたくなって……どうしようもなくて……。マナの睡眠を邪魔するつもりはなかったのっ」
「ル、ルティア様……落ち着いて。私は大丈夫ですから」
ポロポロと涙を流しながら許しを請うルティア。慌てて落ち着かせようとするが、謝るだけで全然落ち着かない。
まさか、夜に私の部屋まで来るとは思わなかった。
けれど。泣きながら謝り続けるルティアを見て、責める気持ちは一瞬で消えた。
今日は私たちにとって、大きすぎる一日だった。
お互いに時間が戻っていたこと。あの死の記憶を、どちらも覚えていたこと。そして、それをずっと一人で抱えていたこと。
同じ苦しみを、同じだけ味わっていた仲間がいた。本当なら、救いになるはずの事実。
けれど同時に、それは逃げ場がないという証明でもある。
忘れていない。消えていない。あの痛みも、恐怖も、何度も繰り返した絶望も。
共有できる相手を見つけたからこそ、逆に怖くなったのかもしれない。もし、今度こそ本当に失ったらどうしよう、と。
そう思うと、ここから追い出す気にはなれなかった。むしろ。少しでも、その心の傷を癒してあげたい。
私はゆっくりと布団をめくった。
「ルティア様。よければ……一緒に寝てくれませんか?」
涙に濡れた瞳が、ぱちりと瞬く。
「私、一人で不安だったんです」
ちょっとした嘘をいう。すると、ルティアはきょとんとしたまま、数秒固まった。
「……マナが、不安?」
「はい」
小さく頷く。その瞬間。ルティアの表情が、ぱっと変わった。
「それなら、私が癒してあげる」
食いつくように言って、ためらいなくベッドに入り込んでくる。躊躇いは、ない。すぐに私の体を抱き寄せると、腕が背中に回る。
ぎゅう、と。けれど昼間のような逃がさない力ではない。確かめるような、包むような抱擁。
「大丈夫よ、マナ。私がいるわ」
耳元で、柔らかい声が落ちる。
「もう一人じゃない。あの記憶も、あの痛みも、私が全部代わって上げる。怖い夢を見ても、目が覚めたら私がいる」
指先が、そっと背中を撫でる。胸の奥の強張りが、少しずつほどけていく。
ああ。安心しているのは、私の方かもしれない。昼間は、ルティアを落ち着かせることばかり考えていた。
でも今は。温かい体温。規則正しい鼓動。優しく背を撫でる手。それが、こんなにも心地いい。
「……ルティア様」
「なぁに?」
「ありがとうございます」
小さく呟くと、抱き締める腕がほんの少しだけ強くなった。
「もっと言って。もっと、言ってくれるように努力するから……。だから、私を嫌いにならないで……」
静かな部屋に、二人分の呼吸が重なる。
曇りは、まだ消えていない。問題も、何も解決していない。暗殺者のことも、これから向き合わなければならない。
でも、今だけは。一人じゃない。その事実が、こんなにも温かい。
ルティアの腕の中で、意識がゆっくりと沈んでいく。抱き締められながら。
今度は逃がさないためではなく、守るための力で。
私たちは、静かに眠りについた。




