3.何度も死に戻る(2)
「マナ」
部屋に入ると、すぐに名前を呼ばれる。自分の用事を置いておいて、すぐに駆け寄った。
「おはようございます。ルティア様」
「おはよう。よく眠れた?」
その声がいつもより低く、静かで、どこか慎重だった。頷こうとした瞬間、頬に指が触れる。そのまま指先は輪郭をなぞり、首筋へとゆっくり滑っていく。
「……なんでもないわね」
その手つきに体がそわそわする。けれど、ルティアは気にした様子もなく、私の肩に触れ、腕に触れ、指を一本一本確かめるように握る。
「痛いところ、ない? どこか、切れたりとか、打ち身があったり……」
「……ありません」
本当は、戦いの余韻が身体の奥に残っている気がする。でも、そんなことは言えなかった。だって、ルティアは知らないから。
ルティアはほっと息を吐き、それでも手を離さない。指と指を絡めたまま、私の手の甲を撫でる。
――長い。いつもより、明らかに長い。その違和感に気づいているのに、振り払えなかった。
心配というより、確認されているように感じる。何かを怖がっているように、確かめているみたいな声音。
でも、そんなはずない。ルティアは何も知らない。知らない、はずなのに。
そんな私の違和感を消し去るように、優しい手つきで撫でられる。背中を、髪を、首筋を。まるで壊れ物みたいに。
「マナ」
「……はい」
「今日は、ずっと傍にいてあげるわ。何をするのも一緒よ。あなたが好きなお菓子だって用意するわ。だから、一緒にいてね」
いつもなら冗談めかして言うのに。今日はいつになく真剣だった。
「私の目の届くところにいて。手が届く場所に必ずいて。離れてしまうのは嫌よ」
真っすぐなのに、私を見ていないような気がする。まるで、暗い影を見つめるような、優しいけど深い目。思わず頷いてしまう。
当然だ、私はそのためにいる。この人に命を拾ってもらったから、生きる意味をくれたから、居場所をくれたから。だから、このぬくもりを守る。
「大丈夫よ、マナ。だって、私が守るもの。私は王女で、あなたの姉だから……もう――」
その手が、また首筋に触れる。確かめるように。
ううん、違う。守るのは私。私がルティアを絶対に救うんだ。この温もりがある限り、絶対に諦めない。
見ていて、ルティア。私は何度だって立ち上がって見せるから。
◇
ルティアを救うために、必死になって体を鍛えた。
朝は誰よりも早く起きて走り、人気のない裏庭でナイフを振り続けた。腕が上がらなくなっても、足が震えても、やめなかった。
次こそは守るために、私は強くならなきゃいけない。それこそ、死に物狂いで鍛えていった。
だけど、現実は非情で、私は何度も死に戻った。
真正面から挑んだ時。鍛えたはずの身体で、速くなったはずの踏み込み。迷いのない刃で戦った。それでも届かない。
冷たい閃きが視界を横切り、次の瞬間には身体中を激痛が走る。何かが裂ける感覚。力が抜け、膝から崩れ落ちる。
立て。立たなきゃ。そう思ったのに、足が言うことを聞かない。そして、胸に重い衝撃。
――終わった。
次は足を狙われた。踏み込んだ瞬間、世界が傾いた。足の腱を切られ、腕の腱を切られ、まるでおもちゃの人形のように崩れ落ちた。
もう動けない、手を伸ばせられない。そのまま次々に衝撃が落ちてきて、視界が赤く染まり、音が遠のく。
――また、死んだ。
次は両腕を切り落とされても、私は諦めきれなかった。床に転がったナイフを、歯で噛み取る。
まだ終わってない。まだ、守れる。
決死の思いで暗殺者に立ち向かった。でも。視界の中心にナイフが飛んできて――そこで、世界が途切れた。
――死に続けた。
三度目。四度目。五度目。
方法を変えても、先回りしても、結果は同じ。そのたびに、聞こえる。耳に焼きついて離れない、あの声。
「やめて、お願い、やめて……っ! マナに何をするの! その子が何をしたっていうの!?」
「マナ!? 血が、血が……いや、違う、違うわ、こんなの……起きて、起きてよ、マナ! 目を開けて、返事をして……!」
「いや……いやよ……いやぁあああああああっ!! 誰か、誰か来て! マナが……マナが、死んじゃう……っ!」
混乱と懇願の壊れそうな声を何度も聞いた。裂けるような叫び。私の名前を、何度も、何度も呼んだ。その声を聞きながら、私は死んでいく。
守れなかったまま。また、やり直しの日へと引き戻される。それでも私は、立ち上がる。何度でも。あの悲鳴をなくすために。
でも、私には希望があるから大丈夫。繰り返されることで蓄積される力。それと、ルティアの優しい思い。
だけど、それが少しずつ重くなっているようになっているような気がする。
本当に、少しずつ。やり直すたびに、ルティアは私を離さなくなった。最初は、ただ心配してくれているだけだと思っていた。
けれど、それが過剰になっていっているような気がしてならない。
ある日のルティアは、私を膝から降ろそうとしない。
「だめ。今日はここにいて。疲れたでしょう? 私の膝の上でゆっくり休んで」
そう言って、私を抱き上げる。逃げられないように、両腕でしっかり囲い込む。背中に回された腕の力は優しいのに、びくともしない。
私が少し身じろぎすると、抱きしめる力が強まる。
「落ち着くまで、ここにいなさい。……ね?」
私の頬に、ルティアの髪が触れる。彼女の鼓動がやけに速いことに気づいて、胸がざわついた。
次は、確認。何度も、何度も。腕を取られ、袖をまくり上げられる。指先が、肌をなぞる。
「痛くない? 本当に? ここは? ここはどう?」
触れられるたびに、くすぐったい感覚と、妙な緊張が走る。肩。肋骨。首筋。太腿。それはまるで、私が怪我をしているような言い方でドキリとする。
ルティアは、丹念に指先で確かめる。押して、撫でて、そっと爪を立てて。
「少しでも痛かったら、すぐ言って。隠さないで。……お願いだから。あなたが心配なの。心配で、心配で堪らないの。だから、正直に言ってね」
その声は震えている。でも、確認の手は、だんだん長くなっていく。必要以上に。
次は、撫でること。頭を撫でるのは、初期からもあった。けれど今は、背中。腰。太腿。指先。まるで壊れ物を磨くみたいに、ゆっくりと。
「綺麗な肌……。傷もない、血で汚れていない、ちゃんと繋がっている。何もないわよね、マナ。なんでもないわよね、マナ」
耳元で、そう囁かれる。ぞくり、とする。撫でる手つきは優しい。けれど、止まらない。
安心させるためなのか。それとも、確かめ続けなければ怖いのか。私が少しでも離れようとすると、指先が強く絡む。
「離れたらだめよ、側にいなくちゃ。何があったらどうするの? ずっと、もっと、傍にいなくちゃ。もっと、もっと――」
まるで、失くしてしまうのが怖いような言い方だ。どうして、そこまで不安になるのだろうか? 分からないけど、私はルティアが満足するまで傍にいた。
優しいルティア。私に生きる道を示してくれた。だから、絶対に救う。何度だって立ち上がって見せるから。
◇
「ぐっ……」
「いやぁあああああああっ! マナ、マナ! 死んじゃいやよ! 死なないでぇぇええっ!!」
体を引き裂くような激痛。足に力が入らない。視界が傾き、床に叩きつけられる。
床の冷たさが頬に触れる。ルティアの悲鳴が、鼓膜を震わせた。立ち上がらなきゃ。まだ動ける。守らなきゃ。
震える手で床を掴み、身体を起こそうとした、その瞬間――背中に衝撃。
骨を砕く感触とともに、息が詰まる。視界が白く弾け、音が遠のき、世界が裂ける。
――そして。次の瞬間、私はあの日に戻っていた。
……今回も、ダメだった。でも。前より長く戦えた。踏み込みも速くなっている。攻撃も当てられるようになった。
大丈夫。少しずつ、確実に強くなっている。このまま鍛えて、もっと精度を上げて、動きを読み切れば――。
あれ? おかしい……。いつもなら、ルティアの明るい声が聞こえるのに。その言葉が、来ない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。ゆっくりと顔を上げる。
――そこに立っていたのは、ルティア。けれど。いつものルティアじゃない。
目が、曇っていた。光がない。焦点が合っていないわけじゃない。確かに私を見ている。でも、そこに感情の揺らぎがない。
絶望を通り越して、擦り切れて、燃え尽きて、灰だけになったみたいな目。
頬は青白く、唇は色を失っている。息をしているのか分からないほど静かで。立っているのに、立っていないみたいだった。糸で吊られた人形みたいに、不自然にまっすぐで。
ゆっくりと、彼女の唇が動く。
「……また?」
掠れた声。泣き叫ぶでもなく、怒るでもなく。ただ、確認するみたいに。
「……また、なの? どうして、マナは死んでしまうの?」
その目から、つつっと涙が零れ落ちる。その言葉に心臓がわしづかみされるような衝撃を受けた。
もしかして、ルティアには――死に戻りの記憶がある?




