29.癒してあげる(2)
目の前でルティアが寝転がり、猫の真似をする。上目遣いをして、こちらをしっとりと見上げてきた。
「どうすれば、マナを癒して上げれる?」
首を傾げて尋ねてきた。その仕草だけで可愛らしくて、胸がグッと詰まる。
「ねぇ、マナ」
催促する声が強くなる。先ほどまでの暗く冷たい感じじゃなくて、純粋に私を思う声。甘い響きに、胸がいっぱいになる。
こんなに甘い仕草を見せてくれたのは初めてかもしれない。今までは過保護なお姉ちゃん風だったり、重い感情を向けてくる王女だったり。こんなんじゃなかった。
だから、どうしていいか分からない。それに急に求められても、何を求めていいのかすらも分からない。
「……えっと、その」
「うん、なんでも言って」
口ごもっていると、期待に満ちた視線が向けられる。キラキラと輝いた、純粋な目。
ついさっきまで、あんなに曇っていたのに。どうして急に、そんな顔が出来るのだろう。
……卑怯だ。こんな目で見られたら、断れるはずがない。
「撫でても……いいですか?」
「もちろん、いいわ!」
ぱっと花が咲いたように、ルティアの表情が明るくなる。その様子に少しだけ胸が軽くなるけれど、同時に別の緊張が込み上げてきた。
とにかく、何かしなくちゃ。そうじゃないと、またルティアは自分を責めて、曇ってしまう。
そう思った瞬間、ルティアは嬉しそうにこちらへ身を寄せてきた。距離が近い。目の前まで迫ると、その瞳の圧が一気に強くなる。
早く撫でてほしい。そんな無言の訴えが、じっとこちらに向けられていた。……これは、一撫でで満足してくれる雰囲気じゃない。思わず喉が乾く。
でも――私なんかが、撫でてもいいの?
相手は王女様だ。しかも、この国の次代を担う人。そんな人の頭を撫でるなんて、普通なら考えられない。
失礼なんじゃないか。不敬なんじゃないか。躊躇いが胸の中で渦を巻く。
けれど、ちらりと見たルティアの瞳は、まるで子猫みたいに期待でいっぱいだった。このまま何もしなかったら、きっとまた曇ってしまう。
それだけは、絶対に嫌だ。だったら――満足させるしかない。
そう決意すると、私はゆっくりと手を伸ばした。少しだけ震える指先を、そっとルティアへ近づけていく。
「こう、ですか……?」
恐る恐る頭に触れ、そっと撫でる。指先が髪に触れた瞬間、ふわりと柔らかな感触が手のひらに広がった。
思っていたよりもずっと滑らかで、指がするりと通る。絹みたいに細くて、つややかで、撫でるたびにさらさらと流れていく。
その感触があまりにも心地よくて、思わずもう一度、ゆっくりと撫でた。指先で髪を梳くように、そっと。撫でるたびに、さらり、さらりと柔らかな手触りが返ってくる。
……気持ちいい。
本当なら、こんなこと許されるはずがない。王女様の頭を、こんなふうに何度も撫でるなんて。
それなのに、手が止まらない。
一度撫でると、もう一度撫でたくなる。気づけば、指先が自然に動いていた。
そっと髪を梳き、また撫でる。さらさらと流れる感触に、いつの間にか少し夢中になってしまっていた。
「どうかしら? 癒やされる?」
下から覗き込むようにルティアが聞いてくる。
「はい……とても癒されます」
思ったより素直に、そんな言葉が口からこぼれた。すると、パァッと花開くように笑顔になったルティア。
「本当!? 私、マナを癒やしている?」
「は、はい……とても」
「じゃあ、もっともっと猫になるわね!」
「えっ、あっ」
身を乗り出してきたルティアは私の体に頭をこすり付けてきた。すりすりと擦り寄り、猫のようにじゃれついてくる。
いや、急すぎる! 確かに猫はそうしたかもしれないけれど、そこまでする必要はないのに!
急な接触に鼓動が鳴りやまない。擦り寄られると、ルティアの感触が強く伝わってきて、変に緊張する。
「ほら、マナも撫でて。猫を撫でた時よりも、沢山撫でて」
「は、はい……」
そのおねだりは断れない。そうして、頭を撫でようとすると――。
「猫を撫でていた時は、頭だけじゃなかったわ。顎の下を撫でたり、背中を撫でたりしてた。私にはそれは出来ないの?」
少しふくれた顔でそう言われた。
確かに、猫にはそうしていた。けれど、相手は猫じゃない。王女様だ。
頭を撫でるだけでも本当は不敬なのに、顎の下や背中まで触るなんて……さすがに失礼すぎるのではないだろうか。
どう答えればいいのか分からず、戸惑っていると――じわり、と空気が重くなる。
ああ、このままだとまたルティアが曇ってしまう。それだけは、絶対に避けたい。
「で、では……」
ごくり、と喉が鳴った。私はゆっくりと手を伸ばし、そっとルティアの顎の下に触れる。柔らかな肌に、指先が触れた。そのまま、猫にした時と同じように、指で優しく撫でてみる。
……なんだろう、この感覚。まるで本当に王女様を猫みたいに扱っているみたいで、妙に落ち着かない。けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「ふふっ、とてもじれったいわ」
「えっ、あっ、ご、ごめんなさいっ」
「ううん、責めているんじゃないの」
くすりと笑いながら、ルティアが顔を近づけてくる。
「私はマナの猫なんだから。マナの好きなように触れて」
そう言って、また身体を擦り寄せてきた。
「ほら、別のところも」
……心臓が、どくんと大きく跳ねる。猫の時なんかとは、比べものにならない。触れる場所を意識した瞬間、急に距離の近さを実感してしまう。
ほんの少しだけ迷ったあと、私はそっと手を伸ばした。背中に触れる。ドレスの上から、ゆっくりと撫でてみる。
すると、布越しでもはっきり分かる。柔らかい。
普段、手を取ったり腕に触れたりすることはある。けれど、こんなふうに背中に触れたことはほとんどない。
指を動かすたびに、なだらかな体のラインが手のひらに伝わってくる。思わず、意識してしまった。……近い。
ルティアの体が、すぐ目の前にある。そう思った瞬間、指先が少しだけぎこちなくなった。
「マナ、どう? 癒やされる?」
「……はい」
癒やされるというよりも、強く意識してそれどころではない。高鳴る鼓動を抑えながら撫でていると、ルティアの顔が迫ってきた。
「そういえば、猫はこんなこともしていたわね」
微笑みながらそう言うと、不意にルティアが顔を寄せてきた。
そして――ぺろり、と頬を舐められる。
「っ!?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。温かく湿った感触が、頬に残る。頭の中が真っ白になる。
「あの時、マナは嬉しそうな顔をしてた。だから……嬉しい?」
問いかける声は優しいのに、視線はどこか不安そうに揺れていた。今にも曇りそうな目。
……そんな目で見ないでほしい。頭の中はまだ、頬を舐められた感覚でいっぱいなのに。
どうしよう。なんでこんなことになってるの。
でも、ここで答えを間違えたら、またルティアを曇らせてしまう。それだけは、駄目だ。
舐められたことへの混乱と、答えなければいけないという焦り。二つの気持ちがぐちゃぐちゃに絡まって、思考がまとまらない。
「あ、え、そのっ……う、嬉しい、です」
なんとか絞り出すように言葉を返す。声が少し裏返った。でも、とにかく答えた。これで、きっと大丈夫だ。ルティアは曇らない。
そう思って、ほんの少しだけ息をついた、その瞬間――ぐい、と体を押された。
「えっ――」
視界が揺れる。気づいた時には、私はベッドの上で仰向けになっていた。
上から、ルティアが覗き込んでいる。長い髪がさらりと垂れて、頬の横に落ちた。
近い。近すぎる。心臓が、さっきよりもずっと強く鳴り始める。
「そう」
ルティアが微笑んだ。さっきよりも、どこか満足そうに。
「じゃあ、もっとしてあげるわ」
指先が、そっと私の頬に触れる。
「マナが満足するまで」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が変な音を立てた。どくん、と大きく跳ねる。
いや、違う。さっきからずっと、変だ。近いし、触られるし、舐められるし、意味も分からないのに。
なのに、どうしてか逃げようという気持ちが出てこない。
むしろ。……むしろ?頭の奥が、じわじわと熱くなる。思考が、少しずつおかしくなっていく。
これ、私は本当に「癒されている」だけなの?




