27.付き添い
翌日、いつも通りの日々が始まるはずだった。だけど、今回は違った。
「マナも一緒に行きましょう?」
ルティアが私を公務に連れていくと言い出したのだ。まさか、そういうとは思わなかった侍女長は頭を抱えた。
「ルティア様……公務に連れていくのは無理ですよ。様々な人に会わなければいけませんし、礼儀が不十分なマナを連れていくのは……」
侍女長の言葉は丁寧だったが、その声音にははっきりとした拒絶が混じっていた。ルティアはそれを聞き終えると、ふっと微笑む。
重く、圧のあるのに穏やかな笑み。侍女長の肩が、わずかに強張る。
「……侍女長」
静かな声だった。けれど、その声には不思議な重みがあった。
ルティアはゆっくりと歩み寄り、侍女長の前で足を止める。そして優しく首を傾げた。
「あなたの言いたいことは分かります。礼儀作法、立ち振る舞い、言葉遣い。確かにマナにはまだ足りないものが多いでしょう。公務の場には多くの貴族や官僚が集まりますし、些細な振る舞い一つで印象が変わることもあります。王族の側にいる者であれば、なおさら慎重であるべきだというあなたの意見は、とてももっともです」
そこまでは、穏やかな言葉だった。だが次の瞬間、ルティアの瞳がほんのわずかだけ細められる。
微笑みは変わらない。けれど、空気が一段階重くなった。
「ですが、その判断を下す権限は、あなたではありません」
王女の圧に侍女長の背筋がぴんと伸びた。
「マナを誰の側に置くのか。どこへ同行させるのか。どのような教育を受けさせるのか。誰を信頼し、誰を傍に置くのか。それらを決めるのは、この国の王女である、私です」
声は依然として穏やかだった。だが一つ一つの言葉が、まるで重りのように落ちてくる。
「そして私は、マナを連れていくと決めました。理由が必要ですか?」
優しく問いかける声。しかし、それは答えを求める問いではなかった。
「ならばお答えしましょう」
微笑んだまま、ルティアは続ける。
「第一に、マナは私の側仕えです。私の生活を支え、最も近くで私に仕える者が、公務の場を知らないというのは本末転倒です。王族の側仕えがどのような空気の中で働くのか、それを理解していなければ本当に私を支えることなど出来ません」
「第二に、教育です。礼儀は机の上で覚えるものではありません。実際の場を見て、空気を感じて、経験して初めて身につくものです。もし本当にマナの礼儀が不足していると考えているのなら、なおさら公務の場を見せるべきでしょう?」
侍女長は何も言えない。ルティアはさらに続けた。
「そして第三に――」
ほんの一瞬だけ、視線がこちらへ向けられる。
「これは、私の意志です」
再び侍女長へ視線を戻す。
「私はマナを傍に置きたい。だから連れていく。それだけのことです」
柔らかな笑みのまま、静かに言い切った。
「侍女長。あなたは優秀です。宮廷の規律を守り、王家の威厳を保つために尽力してくれていることも知っています。だからこそ、私はあなたを信頼しています」
その言葉に、侍女長の表情がわずかに揺れる。だが次の言葉は、決定的だった。
「ですが、その信頼と私の決定に逆らう権利は別の話です」
部屋の空気が凍りつく。
「私は王女です。この宮廷において、私の決定は命令です」
少しだけ首を傾げる。
「それとも侍女長。あなたは、私の命令に従えない理由でもあるのでしょうか?」
にこり、と微笑む。その笑顔は、いつもと同じはずなのに。なぜか、誰も逆らえない圧があった。
沈黙が数秒流れた後、侍女長は深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ルティア様」
その声は、完全に折れていた。ルティアは満足そうに微笑むと、くるりとこちらへ振り向いた。
「ほら、マナ。行きましょう?」
まるで何事もなかったかのように、いつもの優しい声でそう言った。
王女の権力を使う人ではなかったのに、ルティア様は変わってしまった。
私が変わらせてしまった?
◇
「ルティア王女、どうかこの子をお願いします」
そう言って、高貴そうな年配の女性が差し出してきたのは――白い毛の猫だった。
女性の腕の中で、猫はぐったりとしている。普段ならふわりとした毛並みなのだろうけれど、今は力なくしぼみ、呼吸も弱々しい。とても辛そうだった。
「お任せください」
ルティア様は穏やかに微笑み、そっと猫を受け取った。まるで壊れ物を扱うかのように、優しく胸元へ抱き寄せる。
そして、静かに目を閉じた。次の瞬間――淡い光が、ふわりと溢れ出す。
柔らかな金色の光がルティア様の手元から広がり、白い猫の体を包み込んだ。光は温かな波のように揺らめきながら、猫の体へと染み込むように収束していく。
やがて、光がゆっくりと消えていった。すると。
「……にゃ?」
さっきまでぐったりしていた猫が、むくりと体を起こした。
きょろきょろと周囲を見回し、前足を動かしてみる。まるで自分の体の調子を確かめているようだった。そして何事もなかったかのように、ぴんと背筋を伸ばす。
さっきまでの弱々しさは、もうどこにもなかった。
「これでもう大丈夫です。病気は治りましたよ」
ルティア様は、優しく猫を一撫でした。
「あぁ……ルティア王女……!」
女性はほっとしたように涙をこぼした。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
腕の中の猫は元気そうに「にゃあ」と鳴き、その光景を見て、ルティア様はただ静かに微笑んでいた。いつもの優しく、穏やかな笑顔で。
すると、隣に座っていた私の腕の中に飛んできた。ここは、しっかりと猫を保護しておかないと。そう思って、猫を抱きしめた。
その後、しばらく女性とルティアは談笑をした。こういうとこもちゃんとしないといけないルティア様は大変だ。
心の中で応援していると、猫が私にすり寄ってきた。とても可愛い。恐る恐る撫でてみると、猫は気持ちよく頭を寄せてくれた。
「あら? その子が懐くなんて珍しいわね」
年配の女性が、少し驚いたように言った。
「そうなのですか?」
「えぇ。あまり人に近寄らない子なのよ。良かったわね。その子と一緒にいると、癒されるでしょう?」
「はい、とても癒されます」
とにかく失礼のないように、無難な言葉を返す。
――その時だった。背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
何か、隣から発せられている。視線なのか、気配なのか、はっきりとは分からない。けれど確実に、何か重たい圧がこちらへ向けられていた。
恐る恐る、隣を見てみる。すると――ルティア様が、こちらを見ていた。
その目は、いつもの優しい色ではない。深い闇の底みたいに冷たい視線で、じっと私を見つめている。
「……っ!」
思わず声が出そうになり、必死で飲み込んだ。な、なんでそんな目を……。
体が震えるほどの圧を感じていると、ルティア様の瞳がすっと細められた。
「……マナは、それで癒されるの?」
「……えっと」
突然の問いに、言葉が詰まる。すると、その女性が楽しそうに会話へ乗ってきた。
「そうよね! 戯れるのは癒されるわよね!」
ここで否定するのは、さすがに失礼だろう。
「……は、はい」
おずおずと答える。
「そうよねぇ! 私も癒されるのよ!」
女性は嬉しそうに笑った。だけど、私はそれどころじゃない。
隣を見る。ルティア様は、にこやかに微笑んでいた。――笑っているのに、目が笑っていない。
その視線を受けた瞬間、体が固まった。まるで動くことを許されていないみたいに、指一本動かせない。
「へぇ……そうなの……」
ルティア様が、ぽつりと呟く。意味深な声だった。
……な、なんでもないよね? そう自分に言い聞かせるけれど、なぜか背中に嫌な汗がじわりと滲んできた。




