11.変化の日常(マナ視点)(ルティア視点)
なんとか宥めすかして涙を止めさせると、これ以上感情が揺れないうちにと半ば強引に話を切り上げた。
まだ名残惜しそうに何度も振り返るルティアを部屋へと戻らせる。そのときの私は、これでひとまず朝の騒動は終わったと思った。あとはいつも通りの慌ただしくも規則正しい一日が始まるのだろうと、どこか安堵に似た甘い見通しを抱いていたのだと思う。
けれど、現実はそう甘くはなかった。
変わらないはずの日常は、確かに形だけは以前と同じ流れで進んでいく。けど、ルティアの行動が変質していったのだ。
朝の身支度の時間になれば本来は侍女や専属のメイドが仕えるはずなのに、なぜか私の名が呼ばれる。衣服の最終確認をしてほしいだの、髪飾りの位置を見てほしいなどと。
些細だけれど「私でなくてもいい用事」が増えていく。朝食の席でも本来なら離れた位置に控えるはずの私をすぐ傍に立たせては、味付けの感想を求めたり、皿を下げる瞬間に指先を絡めたりと、理由をつけては触れてくる回数が目に見えて多くなった。
しかもそれは、無意識というよりも、どこか確信的な動きだった。
手を取る。袖を掴む。肩に寄り添う。
周囲の目があると分かっていながら、以前よりも露骨に、以前よりも長く。まるで、存在を確かめるようにと示すかのように。正直に言えば、私は内心で冷や汗をかいていた。
王女が一介のメイドにここまで触れるなど、本来なら眉をひそめられてもおかしくない。度が過ぎれば諫言の一つや二つ、あって当然だと思っていたからだ。
けれど、不思議なことに誰も何も言わなかった。
侍女たちも、メイドたちも。むしろどこか憐れむような、気遣うような視線でルティアを見て、ほんの少しだけ目を伏せるだけで、注意する素振りすら見せなかった。
理由は、皆が共有している。妹王女ナディアの死。
あの出来事が、ルティアの心にどれほど深い傷を残したのかを、城に仕える者なら誰もが知っているからだ。
ナディア様は明るくて、優しくて、それでいて姉を誰よりも慕っていて。ルティアもまた妹を守ることを誇りにしていたと聞く。
そんな存在が突然いなくなれば、心に空いた穴が埋まらないのは当然だ。周囲はきっと、私に向けられる過剰な接触や呼び出しを、「喪失の反動」だと解釈しているのだろう。
誰かを失った心が、代わりを求めているのだと。だから咎めない。だから見逃す。だから、何も言わない。
……私は、ナディアのことをよく知っているわけではない。けれど、ルティアがどれだけ大切に思っていたかは分かるような気がする。
その大切な人を失った痛みが、今も胸の奥で膿んでいるのだとしたら。もし、私の存在がその空洞を少しでも和らげられるのなら。ほんの一部でも、寂しさを誤魔化せるのなら。
私は代わりにだってなれる。そう思った。それで、ルティアの気持ちが晴れるなら――。
◇
幸せだと思ってしまう。
朝の光の中で、マナがすぐ傍にいる。それだけで胸の奥が柔らかくほどけていくのを、私は止められない。
本来なら、王女である私の身支度にマナが直接関わる必要などない。侍女も、専属のメイドもいる。整えられた仕組みはとうに完成している。
けれど私は、あえてマナの名を呼ぶ。
衣の皺を見てほしいと。髪飾りの位置がずれていないか確かめてほしいと。味付けの感想を聞かせてほしいと。
本当は、理由などどうでもいい。ただ、傍にいてほしいだけ。
……私は王女だから。マナを呼び寄せるには、命じるしかない。それが、何よりも辛い。
命令という形でしか、この子を繋ぎ止められない自分が、ひどく醜く思える。対等でいたいと願いながら、立場を利用している事実からは逃げられない。
それでも、離れるほうが怖い。マナは何も言わない。命じれば、静かに従う。触れれば、拒まない。優しく微笑みさえする。
けれど私は知っている。彼女は、痛みを忘れていない。
死に戻るたびに味わったあの苦しみを、きっと今も覚えている。体が砕ける感覚も、血の温度も、孤独も。すべて、心のどこかに沈めたまま生きている。
なのに、顔には出さない。私の前では、いつだって穏やかで、頼もしくて、少しだけ大人びていて。
本当に、優しい子。私思いの、とてもいい子。
ナディアとは、違う。――違うのだ。
初めは、穴を埋めるためだった。あの子を失って空洞になった胸の奥を、何かで満たさなければ立っていられなかった。誰かの温もりが必要だった。
マナがそこにいた。差し出された手を、私は掴んだ。
たしかに、穴は埋まった。マナとの日々は、私を癒した。眠れぬ夜を減らし、涙の回数を減らし、呼吸を楽にしてくれた。
けれど。それは、ナディアの代わりではなかった。思い出すときの感触が、違う。
妹を想う気持ちは、守りたいという誇りであり、血の繋がりの温もりであり、当たり前に傍にあるはずの存在だった。
けれどマナに向ける感情は――もっと鋭く、もっと甘く、もっと切実だ。
失うことを想像するだけで、息が詰まる。誰かと笑い合う姿を見れば、胸の奥がざわめく。触れられれば、嬉しいのに、どうしようもなく怖くなる。
同じ愛しいでも、こんなにも形が違うなんて知らなかった。愛しいという気持ちに、種類があるなんて。
私は、妹を愛していた。でも私は、マナを欲している。
この子のためにありたいと願っている。
この子が笑うなら、それでいい。この子が生きているなら、それでいい。この子が私を見てくれるなら、それだけで満たされる。
そんな自分を、浅ましいと思うべきなのだろうか。王女としてではなく、姉としてでもなく。
ただ一人の少女として。私はこの子のためにいたい。それが、とてつもなく幸福だと知ってしまった。
だから――どうか、離れないで。命じることしかできない私を、どうか嫌いにならないで。
けれど、祈るだけでは足りないのだと、胸の奥で冷たく澄んだ声が何度も繰り返す。
私は知っている、知ってしまっている。
私がここに在るという事実そのものが、王女ルティアという存在がこの国の象徴である限り、陰謀も悪意も刃も毒も、すべては私へと向けられ、その軌道の延長線上に立つ者を容赦なく巻き込むのだということを。
そしてその延長線上に、いつだって立っているのは――マナだ。
本来なら、傷つき、倒れ、血に沈むべきは私であるはずなのに、現実には彼女が私の前に立ち、私を庇い、私の代わりにその身を差し出し、砕ける骨の音も、裂ける肉の痛みも、冷えていく指先の感覚も、すべてを一人で受け止めてきた。
私は生きている。守られる側であり続けているから。王女という立場が、私を生かし、同時に彼女を殺す。
その構図を理解してなお、私は彼女を遠ざけることができない。マナは何も言わない。
恐怖も、苦痛も、絶望も、ほんの欠片さえ表に出さず、ただ穏やかに微笑み、当然のように私の傍らに立ち、まるでそれが自分の役目であるかのように、迷いなく命を投げ出す。
その優しさに甘え、救われ、安堵し、そして縋りついているのは――私だ。
私がいるから、マナは死ぬ。私を選んだから、マナは何度でも終わりを迎える。
それでもなお、私は彼女に傍にいてほしいと願ってしまう。
こんなにも身勝手で、こんなにも残酷な願いがあるだろうか。だからこそ、償わなければならない。
この子の人生を、私という存在が縛りつけ、逃げ道を奪い、血と痛みに塗れさせているのだとしたら、せめてその代償として、彼女が受け取った痛みの総量を超える幸福を、意味を、居場所を、私が与えなければならない。
王女として持ち得る権力も、地位も、未来も、私自身の感情も、誇りも、すべて差し出しても構わない。
彼女が私に向けてくれる無償の献身に、報いなければならない。
けれど、ただ守るだけでは足りない。感謝の言葉を並べるだけでは到底足りない。必要なのは、もっと確かなもの。
マナが、命令でも義務でも忠誠でもなく、自分自身の意思で私を選び取り、私の隣に立つことを望み、私と生きる未来を自らの希望として抱くようになること。
私に委ねることが、犠牲ではなく、幸福であると感じるほどに。
他の誰でもなく、私だけを。そうなれば、きっと。彼女は「私のために死ぬ存在」ではなく、「私と生きるための存在」へと変わる。
そのためなら、私はどんな手段も選ばない。
優しさで包み、居場所を与え、必要とし、求め、頼り、そして少しずつ、逃れられないほど深く、私の世界の中心へと引き寄せる。
……それが愛なのか、独占なのか、贖罪なのか、もはや自分でも分からない。
ただ確かなのは、マナを失う未来だけは耐えられないということ。
彼女が他の誰かに微笑み、他の誰かのために命を賭ける姿を想像するだけで、胸の奥に黒く濁った感情が広がり、理性を溶かしていくということ。
だから決めた。彼女の孤独も、不安も、恐怖も、罪悪感も、すべてを私が抱え込む。
妹の代わりなどではない。喪失を埋めるための存在でもない。マナは、マナだ。
私が欲しいのは、この子ただ一人。だからどうか、私だけを見て。私だけを選んで。
私のために生きると、そう思えるほどに、あなたの世界を私で満たさせて。
その代わりに、私はあなたのすべてを引き受ける。痛みも、罪も、死の記憶も、未来への恐怖も、王女という重責も、この国の運命さえも。
全部、あなたと分け合う。だから。どうか、私に委ねて。
私なしでは生きられないと、そう思うほどに。
あなたの世界の中心が、私でありますようにと――それこそが、私にできる唯一の償いなのだから。




