第41話 十三枚目の妻
桜の咲き初めの朝、爵位局へ検事局の手が入った。
令状に記された棚は三つ。偽装婚姻の原綴り、身分照会の往復、絶家財産の移送記録。書記が一冊ずつ番号を振り、木箱へ納めていく。蔵ひとつを空にする仕事は、号外よりずっと遅く、埃っぽかった。
夕刻、氷坂統理は証拠隠滅の恐れありとして身柄を押さえられた。検束は裁きではない。起訴できるかは、これから紙を一枚ずつ繋いで決める。若い検事はそう念を押した。
十五年分の綴りは、最初の木箱に収まらなかった。
押収三日目、私と暁人様は、照会綴りの確認へ呼ばれた。
まず示されたのは、私の婚姻を塞いだ「一件」だった。
夫の欄には、私の知らない華族男子の名。死亡届はなく、紙の上では今も生存している。私の署名は偽り、印影は最初の冥婚契約から盗まれたものだった。
私は、署名の最後の払いを見た。似せてある。十九年使った名前を、人がこんなふうに書くのだと思った。
次に運ばれてきたのは、鷹尾直継様が生前に立てた、公務の照会綴りだった。
私信の字とは違う。短く、日付と問いだけを積む、役人の字である。
世襲財産の移送先。妻の記載が入った日。夫の死亡届と養子縁組の間隔。十二家を並べると、同じ寺、同じ口入れ屋、同じ金主へ銭が流れていた。
直継様は、母の名が別の家へ移るたび、移送日を横へ書き足していた。十二の家が一枚の紙に並び、最後の一行だけが、空いていた。
最後の照会状に、直継様はこう記していた。
『妻ト記サレタル女本人ノ意思、所在、共ニ不明。転記ヲ止メ、本人ヲ捜索サレタシ』
その先に、通常戸籍へ移される前の届が一枚、留めてあった。
夫——鷹尾直継。
妻——宵坂汐。
母の十二度の偽装婚姻に続く、十三枚目。
ただし、これは成立していない。
直継様が異常に気づき、公務の照会棚へ移して、転記を止めた。だから母と直継様は、通常の戸籍では夫婦になっていない。紙を作った者たちの予定の中でだけ、妻と夫だった。
照会綴りは、直継様が亡くなった日の前日で止まっていた。
私は写しを、いったん伏せた。
母は一度も選ばなかった男の妻にされかけた。
その男は母の顔も知らないまま、最後に母を捜してくれと言った。
嬉しい、ではない。悲しい、とも少し違う。母の人生へ、また他人の筆が一本入り込んだ腹立たしさがある。それでも、その筆を止めた人がいた。名義の向こうに人がいると気づき、見つけようとした人がいた。
もし二人が生きて会っていたら、どんな挨拶をしただろう。
母はたぶん、まず相場を訊く。直継様は真面目に答える。どちらも譲らず、茶だけが冷える。
そんな、ありもしなかった一刻を考えた。
暁人様は意味を決めてくれなかった。慰めも、兄の弁護も言わず、茶が冷めるまで隣に座っていた。
冷えた茶を飲んでから、私は自分の手で紙を表へ返した。
「母は、見つかっています」
ようやく言えた。
「お兄様のお仕事を、終わらせましょう」
やり直しの祝言は、その七日後、鷹尾家の大広間で挙げた。
金屏風。百目蝋燭。一件目と同じ道具立てで、季節だけが初冬から桜へ変わっている。
上座には侯爵様。末席に志乃さんと紗雪さん。大広間の端、あの晩に妙なお客が座っていた場所へ、今夜も暁人様がいる。
今夜のこの人は立会人ではない。一件目と同じ、弟であり、依頼主だ。
三三九度。空吞みの盃。末期の水。
耳を澄ます。
『——俺の妻を、さがしてくれ』
同じ声で、同じ一言だった。
あの初冬、綿帽子の内で私を凍らせた声だ。今夜は、まっすぐ受け取れた。
盃を納め、位牌へ向き直る。
「宵坂銀子、ご報告に上がりました」
畳へ手をつき、顔を上げた。
「あなたが妻と呼んだ方は——もう、見つけました」
名は宵坂汐。峠下の神社で消され、名のない骨にされていた。埋葬の時期と齢、左腕の古傷、継ぎのある簪が揃い、娘の私が家へ連れて帰った。針箱の底に残した言葉も、受け取った。
「あなたは、会ったこともない母を、紙の欄で終わらせなかった。母の娘として、御礼を申し上げます。直継様のお預けになった照会は、検事局が引き継ぎました。これより先は、生きている者の仕事です」
蝋燭の焔が、ひとつ伸びた。
それだけだった。それでよかった。
式のあと、侯爵様が、母の墓へ参りたいと仰った。
「倅が捜した方に、御挨拶を」
私は頭を下げた。家扶が行き先を手控えへ記すとき、汐の字をどう書くか訊かれた。夕へ水を添えます、と答えた。
家扶はその字を、大きく書いてみせた。
爵位局の押収は、ひと月たっても終わらないだろうと聞かされた。
氷坂は取り調べに黙秘し、霜会の金主は帳面の読み方を争った。起訴まで半年、偽の名義を一人ずつ戻す作業は年を跨ぐだろう、と検事は言った。早く終わる話ではない。
それでも、城の扉は開いた。
廊下で一度だけ氷坂と行き合ったとき、あの人は羽織の皺を気にしながら訊いた。
「どうやって、私の綴りへ届いた」
暁人様が答えた。
「お前が返した、いつもの書付だ」
氷坂は、しばらく私を見た。
「家を残すには、費用が要る」
「母を呼ぶとき、宵坂汐と言ってください。役所の方なら、字はお読みになれますね」
それ以上は言わなかった。裁くのは私の口ではない。
号外は、華族互助結社の摘発と、爵位局審議官の身柄拘束を報じた。端緒は一組の男女の婚姻届。当の二人の名は、載らなかった。
載らなくていい。
夕方、縁側で茶を飲みながら、暁人様が言った。
「これで、兄の依頼は終いだ」
「では、お客様としては」
「もう来ない」
湯呑みを置き、少しだけ笑う。
「次に敷居を跨ぐときは、婿として来る」
桜の盛りに、日取りが決まった。
私が、生きて嫁ぐ日だった。




