その日は、まだ空いております
朝餉の膳に、夫の葬式代が載っていた。
一円札が五枚。白い紙に包まれて、鰯の皿と味噌汁の椀のあいだに収まっている。
五円あれば焼き芋が、と走りだした頭を、自分の箸で叩きたくなった。夫の葬式代を芋に換える妻がどこにいる。ここにいた。
当の夫は向かいで、自分の茶に黙って湯を足している。顔色はすこぶるよい。棺に入る男には、とても見えない。
「冗談にしては、五円は高すぎますね」
夫は答えず、箸を伸ばした。行き先は、私の皿の端に取り分けた鰯の頭だ。
「お魚の頭なら、先約があります」
箸が宙で止まった。
「誰とだ」
「昨夜の花婿さんです」
夫の眉が、ぴくりと動いた。相手が死者でも、花婿と聞くと面白くないらしい。
うちは、宵坂という冥婚屋だ。独り身で死んだ男のために、白無垢の花嫁を立て、一夜だけの祝言を挙げて送り出す。その花嫁が、私。
盃を交わした死者が手放せなかったひと言を、宵坂の花嫁は一つだけ胸の内で聞ける。昨夜の花婿は年寄りの指物師で、聞こえたのはこれだった。
『——縁の下の猫に、鰯の頭を』
どこの縁の下かは言ってくれなかったので、うちの縁の下の子猫で手を打ってもらう。
夫の箸は、すごすごと自分の皿へ引き返した。
五円と一緒に届いた紙を、膳に広げ直す。今朝、夫が門の柱から抜いてきた封の中身だ。
冥婚の予約状だった。花嫁と日取りを押さえる書付で、うちの書式にそっくりだ。花婿は『陸軍少佐 鷹尾暁人』。向かいで薄い茶をすすっている、私の夫だ。花嫁は『宵坂銀子 御指名』。
御指名ありがとうございます、と危うく頭を下げるところだった。
そのあいだの欄に、命日が書いてあった。
『御命日 霜月七日』
今日は神無月の八日。指を折るまでもなく、ちょうど三十日後だ。
うちのお客様は、亡くなってからお見えになる。命日を先に決めてきたお客様なんて、帳場に座って八年、一人もいない。
霜月八日の朝も、私はこの人に茶を淹れるつもりでいる。その一日手前に、他人の筆で線が引いてあった。
死因だの何だの、ほかの欄は目が滑った。七日の二字と、その二日後の『御祝言 霜月九日夜』にだけ、何度読んでも戻ってくる。
「命日まで知らせてくるとは、演習の予告より親切だ」
感心するところではありません。
膳の五円は、この冥婚の前金だ。うちの相場の、ちょうど倍。
取消の欄には、『花婿御本人の御都合に限り、いつにても承り候』。ふつう取り消せるのは、お代を払う施主様だけだ。それを、死ぬ予定の当人に預けてある。
「霜月八日のことだ」
私が訊く前に、夫が言った。
「その日、俺は判事の前で、兄の死は病死ではないと申し立てる。兄は二年前に死んだ。たぶん、茶だ」
兄君の茶に、誰かが毒を入れた。夫はその誰かを、法廷へ引き出すつもりでいる。
八日に出るのをやめれば、命日は取り消してやる。出るなら、その前の日に死んでもらう。
冥婚屋の書式で書いた、脅し状だ。
「申し立てをおやめになるなら、取り消しは今日のうちに承りますが」
「やめん」
知っていた。それでも少しだけ、別の答えを待った。
なら、もう一つ読める。宵坂の花嫁は、生きた妻のいる男には嫁がない。それが決まりで、わざわざ宵坂の私を名指しした客が、知らないはずがない。
「この予約を通したい方は、七日より前に、私をあなたの妻でなくしに来ます。離縁の届を、勝手に出してでも」
夫の湯呑みが、口の手前で動かなくなった。
「離縁はせん」
「私もいたしません。ですから向こうが、勝手にするんです」
夫が湯呑みを置いた。
「今夜から、お祖母様の家で寝ろ」
「嫌です」
「裏木戸ひとつ向こうだ。遠くはない」
「遠くないなら、ここと同じです」
「同じではない。あちらには俺がいない」
自分のそばがいちばん危ない、と真顔で言う。
「お祖母様には、俺から話しておく」
「祖母より先に、妻と話してください」
「今、話している」
「今のは、命令です」
夫が黙った。図星だ。
勝ったと思ったのがいけなかった。勢いのまま、口がお客向けの順番で回りだした。
「九日の夜、花嫁は私です。お支度に、お使いになるお部屋は」
「お前の客になるつもりはない」
箸で押さえた鰯が、腹のところで折れた。
夫は折れた鰯から目を上げた。初めて会った晩と、同じ目だった。
二年前、この人の兄君の冥婚で、白無垢を着て隣に座ったのが私だ。亡骸の前で、この人は言った。お前はいずれ俺が娶る、死者には渡さん、と。
「死者には渡さんと言った。俺が死者になった程度で、撤回はせん」
屁理屈だ。腹の立つことに、筋は通っている。
「縁起でもない冗談は、日当に含まれておりません」
「朝から縁起の悪い夫婦だね」
裏木戸の向こうから、祖母の声がした。いつから聞いていたのか。たぶん、最初からだ。
「おはようございます、お祖母様」
夫は木戸へ律儀に頭を下げた。下げたままの肩が、少し揺れている。私は折れた鰯を、急いで口に入れた。笑ってしまいそうだったので。
「言い残しがおありなら、今のうちにどうぞ。冥婚の夜に聞かされても、私、お返事ができませんので」
「報告することは、特にない」
軍の口で逃げられた。
私も人のことは言えない。夫婦になって半年、この人の名を、まだ一度も声にしたことがない。
予約状を封に戻そうとして、裏を返した。
隅に、細い線だけで描いた揚羽の紋があった。右の後ろの羽が、少し欠けている。
母の紋だ。
母は十四年前の秋、冥婚に出たきり帰らなかった。私は六つだった。
膳の下で、指の先から冷えていく。
夫は紋のことを訊かなかった。私の手元を見て、鉄瓶を取った。自分の茶に足すはずの湯が、黙って私の湯呑みに注がれる。
両手で包むと、指に温みが戻ってきた。訊いてくれたら、泣き言のひとつも言えたのに。ずるい人だ。
指が戻ると、今度は腹の底が煮えてきた。相場に色を付ければ、人の夫の命日も、その妻の白無垢も買えると思っている人がいる。母の紋まで添えて。
「その日は、空いているのか」
夫が訊いた。考えていることが、顔に出ていたのだろう。
茶箪笥の上の予約帳を開く。うちの仕事の日取りは、全部この一冊だ。霜月九日の欄は、白いままだった。
「……霜月九日。その日は、まだ空いております」
筆を取る。『霜月九日夜 冥婚 花婿 鷹尾暁人様』。
手は震えなかった。断れば、この予約はよその冥婚屋へ回る。よそは、花婿に生きた妻がいるかなど訊きもしない。
請けておけば、九日の夜の花嫁は私だ。私が妻でいるかぎり、その祝言は挙がらない。この人の隣に、よその花嫁など座らせてたまるものか。
続けて、請け状を書く。依頼を請けたしるしの書付で、一行目は決まっている。『御依頼、確かに承り候』。
その後ろに、一行足した。『花婿御存命の節は、前金を倍にして御返し申し上げ候』。
夫が生きていたら、五円を十円にして突き返す。向こうが夫の死に五円を張るなら、こちらは夫の命に十円を張る。
膳の向こうから、夫が覗きこんだ。
「……倍か」
「相場の倍でございますから」
夫は請け状を自分のほうへ引き寄せ、足した一行だけを、もう一度読み直した。
足りない五円は、芋代の壺から出す。壺を逆さに振っても、とても足りないけれど。
安いものだ。
前金の包みには手をつけず、予約帳に挟んだ。出かける前に、もう一度だけ予約状を開く。
施主の名は、どこにもなかった。あるのは、仲立ちをした取次の店の名だけだ。『河岸 丸甚』。女中や人足の口を世話する口入れ屋で、冥婚とは縁のない店だ。
いちばん下に、うちの書式にない一行が足してあった。『花婿のひと言は、施主へ口頭にて御報告のこと』。
死者のひと言は、花嫁が遺族へお渡しするものだ。わざわざ施主の耳へ、と念を押す客はいない。
夫の命日に値を付けた人が、この請け状を開いて、どんな顔をするか。見に行かない手はない。
請け状を畳んで、私は立った。
「施主様に、請け状をお届けに参ります。河岸の、口入れ屋まで」
「俺も行く。俺の葬式代だ」




