位牌が、先に届いた
「取次でございますので」
丸甚の主人、甚兵衛は、揉み手をしながら頭を下げた。施主のお名前を、と切り出したとたんに、これだ。
河岸の口入れ屋、丸甚。女中や人足の働き口を世話する店で、格子の向こうに澄んだ川が光っている。店先の腰掛けでは、袷の男の子が一人、膝を抱えていた。
「鷹尾の奥様、どうか御勘弁を」
「宵坂でございます。商いの場では、屋号でお呼びください」
戸籍の上では、私は鷹尾銀子だ。けれど白無垢でお代をいただくのは、宵坂の花嫁のほうだ。
「少佐様も、お茶でも」
「要らん」
予約状を封ごと卓に置き、隣に白い包みを並べた。今朝の前金、一円札が五枚。
「これはお返しします。お名前を伺えないお客様のお金は、預かりかねますので」
突き返された金なら、施主はもう一度払いに来るしかない。今度こそ、顔を持って。
甚兵衛は両手を胸の前で振った。
「そ、そいつは受け取れやせん。受け取るなと、上から言いつかっておりやして」
「上とは、どなたです」
「へえ、それは、その……上でして」
思わず見上げた天井には、煤けた梁しかなかった。
それなら、もう一枚のほうを置いて帰るまでだ。請け状を広げて、甚兵衛の前へ滑らせる。
「施主様へ、確かにお届けください」
甚兵衛は、指で一行目をなぞった。『御依頼、確かに承り候』。そこまでは、ほっとした顔だった。
次の行で、喉がごくりと鳴った。
『花婿御存命の節は、前金を倍にして御返し申し上げ候』
「ば、倍……」
「花婿が生きておりましたら、十円にしてお返しします。そうお伝えください」
甚兵衛の額に、汗の粒が浮いた。川風の通る、神無月の帳場で。
「こ、これを手前どもの手から、施主様に……」
「ええ。取次でございましょう」
甚兵衛は手拭いで額を押さえた。押さえるそばから、次の粒が浮いてくる。
夫の命日に五円を張った誰かが、この一行を読む。その前に、運ぶ人がもうこの汗だ。
隣で夫が、喉の奥で短く笑った。
そのとき、腰掛けの男の子が振り向いた。
夫の顔を見るなり腰掛けを蹴って、店の脇の路地へ駆けこむ。遠ざかる袷の肩に、継ぎが二つ。
「今朝、門で見た袷だ」
言い終わる前に、夫はもう追っていた。私も裾をつまんで続く。
裏へ抜けると、色づいた柿の木と、川へ下りる石段があるだけだった。
「封を抜いたとき、角を曲がる背中を見た」
夫が、柿の下で言った。そういうことは、朝餉のうちに言っていただきたい。
うちの門に予約状を挟んでいったのは、あの子だ。夫の顔を覚えていたから逃げた。駄賃をもらって、言われたとおりに挟んだだけだろう。
その子が、取次の店先にいた。ずいぶん手回しのいい仲立ちだ。
帳場へ戻ろうとして、石段の苔に草履が滑った。
「手を」
夫は手を差し出したまま、待っている。
「……お借りします」
「貸すのではない。支給だ」
「では、お返しはいたしません」
走ったあとなのに、夫の掌は乾いていた。格子の前まで、どちらも離そうとは言いださなかった。
帳場には、知らない老紳士が立っていた。銀鼠の羽織に、真っ白な足袋。
その手に、私が卓に置いてきた予約状があった。
夫の手を、慌てて離した。支給品を、さっそく手放してしまった。
「華やかな御紋ですね」
紳士の目は、封の裏に落ちていた。細い線の、後ろの羽の欠けた揚羽。母の紋だ。
母がいなくなってから、この紋を褒めた人は一人もいない。褒められて胸が少し緩んだ自分が、悔しかった。
紳士は予約状を揃えて、両手で私に返した。
それから懐の手巾を出し、指の腹を一度だけ拭った。紙を扱ったあとの、几帳面な人の癖なのだろう。
「寮の寄進者の、柏木様で。寮の子の奉公口の御相談に、お見えでして」
甚兵衛が、また手を揉んだ。親のない子を預かる寮に、お金を出している方らしい。
「冬が来る前に、一人でも多く、外で飯の食べられる口を見つけてやりたいものでしてね」
柏木さんは、柔らかく笑った。夫の命日に値を付けた客の取次の店で、子どもの冬を案じる人に会うとは思わなかった。
「お騒がせをいたしました、奥様」
柏木さんは、奥の間へ戻っていった。
予約状と前金を懐へしまって、表へ出る。施主の名の代わりに、十円の約束を置いてきた。
店の前には、黒塗りの箱車が停まっていた。屋根のある自動車で、馬もいないのに機械が唸っている。
帳場の癖で、私の目は顔より先に人の手へ行く。運転席の男がハンドルに載せた左手には、小指がなかった。
人足なら見慣れた手だ。お抱えの運転手では、見たことがない。その手だけが、帰り道のあいだ、目の裏から離れなかった。
夕方、宵坂の店に戻ると、帳場の上がり框に祖母が座っていた。
煙管をくわえ、帯に小さな鍵を結んでいる。うちの実印をしまう、桐箱の鍵だ。膝の脇には、晒でくるんだ細長いものが一つ。
「おかえり。婿どのの位牌が、先に届いたよ。宛名も見ずに受け取っちまった。……川へ流しといで、銀子」
「うん。でも、その前に見せて」
晒をほどくと、まだ木の香のする白木の位牌が出てきた。
表に、院号のついた長い戒名。脇に『霜月七日』。そして俗名の『鷹尾暁人』だけが、朱で埋めてあった。
生きている人の名を先に彫るときは、朱を差しておく。死んだら、その朱を落とす。
夫が、軍帽を脱いだ。
土間に片膝をつき、上がり框の位牌へ頭を下げる。まさか、自分の位牌にまで。
「よく彫れている」
「褒めてどうするんだい。あんたのだよ」
祖母が、煙管で上がり框を叩いた。その音で、縁の下から灰色の毛玉が転がり出てきた。今朝、借家の縁の下で鰯の頭を平らげた子猫だ。裏木戸をくぐって、店のほうまで遠征してきたらしい。
子猫は夫の軍靴の踵に飛びつき、紐に噛みついた。夫は礼の形を崩さないまま、目だけを下へやった。
「お前か。俺の鰯の頭を持っていったのは」
子猫は返事の代わりに、もう一度紐を噛んだ。
「本日付で、伍長に任ずる。鼠三匹で軍曹。それまで鰯の頭は、俸給から差し引く」
真顔だった。猫に俸給が出るとは知らなかった。祖母は、くわえた煙管を落としかけた。
「……流す気が失せたよ。奥の隅にでも置いときな。あたしは見ないからね」
夫は立ち上がり、上着の胸から印袋を出した。
「お祖母様。俺の実印を、預かってください」
離縁の届を勝手に出すには、夫婦の判が要る。今朝の私の話を、この人はちゃんと聞いていたのだ。
「連隊の金庫は鍵が三本で、毎年どれか一本が失せます。お祖母様の鍵は一本きりで、お祖母様ごと帯で締めてある。帝都に、これより固い金庫はありません」
「年寄りを金庫扱いするんじゃないよ」
言いながら、祖母は帯の鍵をほどいた。帳場の下から桐箱を出して、蓋を開ける。中では、私の判が紙にくるまって眠っていた。
「並べといてやるよ。夫婦なんだから」
祖母は夫の判を、私の判の隣に置いて、鍵を回した。
位牌を抱えて奥へ向かうと、夫が横に並んだ。
「持とうか」
「軽いです」
「重さを聞いたのではない」
「存じております」
だから、渡さないのだ。朱で彫った夫の名を、夫本人に運ばせる妻にはなりたくない。
店の奥の隅、明かりの届くぎりぎりの所に、位牌を置いた。
冥婚の夜ごとに隣に座ってきた位牌は、百を下らない。明かりの下で戒名の彫りを見れば、どこの寺の手かくらいは分かる。
「帰雲寺の彫りです。川向こうの」
夫が、私の肩越しに位牌を覗いた。
「その寺、覚えておけ。俺が死んだら、まず坊主の手を見ろ」
軽口の顔だった。けれど、この人が自分の死んだあとのことを言いつけたのは、これが初めてだ。
「お坊様の手なんて、見ずに済ませます」
命日まで、まだ三十日ある。夫の葬式の支度だけが、それを待たずに届きはじめていた。




