少し緩めの帯
妻の怖がる顔を、俺はまだ一度も見たことがない。
連隊へ出る前に、軍服のまま妻の店へ寄った。奥の隅で、昨日届いた白木の位牌が壁を向いている。俗名の『鷹尾暁人』だけが、朱で埋めてある。俺の名だ。
見ないと言った祖母どのが、見ないで済むように向けたのだろう。表へは返さずにおいた。
戸が開いて、若い女が入ってきた。膝をつく前に、用件を言った。
「本家の志乃です。銀子さんに、お勤めを頼みに来ました」
宵坂の本家、つまりこの店の親筋を、一人で締めている従姉だ。
志乃どのは帳場に、古い紙を一枚置いた。婚姻届の写しだ。夫の欄には知らない男の名があり、死亡の朱線が引いてある。
妻の欄には、『宵坂汐』。
十四年前の秋、冥婚に出たきり帰らなかった、妻の母の名だった。
妻の指が、その二字の上で浮いたまま下りない。俺は、その紙を妻の手の下から引き抜きたくなった。
「叔母様は、この方に会ったこともありません。死んだ人に妻がいれば、遺ったお金は妻の名で受け取れます。本家は、その名を貸していました。先代の、私の父が始めたことです」
志乃どのは、紙から目を逸らさずに言った。
「その方々へ、花嫁として嫁ぎ直していただきます。紙の妻の代わりに、本当の弔いを」
「承ります」
妻の声は、帳場で値段を言うときと同じ高さだった。それが、かえって堪えた。
「お身内のお勤めですから、お代は勉強させていただきます」
「代金は本家が持ちます。値切らないでください。……値切られると、罪が軽くなった気がしますので」
払う側が値切るなと言うのを、俺は初めて聞いた。連隊の経理に聞かせてやりたい。
「一軒目は、十一日の夜です」
冥婚は夜、よその家の座敷でやる。出口も人数も、こちらでは選べない。霜月七日が過ぎるまで、妻をそういう座敷に出したくなかった。
「志乃どの。霜月が過ぎてからにしろ」
志乃どのは、俺のほうを見もしなかった。
「だめ」
負けた。
一語で押し返されたのは、士官になってこのかた覚えがない。妻はもう、予約帳の十一日に筆を入れている。
昼過ぎ、志乃どのが女を一人連れて戻ってきた。宵坂の支度部屋で、妻の寸法を取るという。
敷居の内へ、殿方は入れない。宵坂の決まりだそうだ。
「入らん。ここに立つ」
予約の主の顔が知れないうちは、妻を一人にはしておけない。
志乃どのが、連れの女を目で前へ出した。
「本家の衣装係です。花嫁の着付けは、この人に任せています」
そこで、志乃どのの声がやわらいだ。
「あなたのお母様の最後のお支度をした人よ」
妻が、瞬きもせずに女の顔を見た。
俺もその顔で、思い出した。
二年前の冬、兄の冥婚の夜が明けた朝だ。白無垢で兄の亡骸の隣に座り通した娘を、俺が初めて見た朝。その縁側へ茶を運んできたのが、この女だった。茶碗の底に、米粒が一つ付いていた。
「あの朝は、お茶碗に米粒を。御無礼をいたしました、少佐様」
こちらが口を開く前に、詫びが来た。二年前の米粒一つを、向こうも覚えていた。律儀な女だと思った。名は、佐和という。
「あの冬は口入れ屋の通いで、お弔いの日に一日だけ、お屋敷のお台所に上がっておりました」
口入れ屋から、日ごとによその家へ出される女中だ。店は河岸の丸甚だという。昨日、妻と請け状を置いてきた店だった。
兄は、茶で死んだと俺は見ている。弔いの日だけなら、この女は兄の茶に触れていない。
確かめるなら、生家の爺に訊けば早い。俺を赤子のころから知る、侯爵家の老いた家扶だ。だがあの冬、爺は病の父の枕元を離れなかった。台所までは知るまい。
帳面で足りる。俺は部下の曹長を、河岸へやった。
佐和が、妻に母親の白無垢を当てた。
妻は衿から裾までを、指で読んでいった。
「ここまでが母の針。ここからが私の繕いで、裾の始末は祖母です」
三代の針目を、目より先に指で分けている。客の前でも死人の前でも、妻の手はああして迷わない。俺はそれを見ているのが、いや、見ていたのは佐和の手のほうで、妻の手を見ていたわけではなく、見張りの最中に、ほかの手がたまたま目に入ったというだけのことだ。
……たまたまにしては、長く見ていた。
佐和が、白無垢を妻の肩に着せかける。
「母は、その日、どんな顔をしておりましたか」
「花嫁さま、お袖を、少し」
妻は腕を上げた。
「出がけに、何か申しておりませんでしたか」
「お腕は、そのままに」
「帯は、母が自分で選んだのですか」
「お背中を、まっすぐに」
答えは、一つも返ってこない。客の前では一つ訊けば三つ聞き出す人が、今日は空の手で問いを重ねている。
帯が妻の胴を回った。早い手だった。結び目を作り、最後のひと締めだけを、締めずに残す。
妻が、帯の内へ指を差し入れた。
「緩くはありませんか」
「お帰りの俥が、長うございますから」
冥婚の花嫁は、夜明けに俥で帰る。その道で胴が苦しくないように、ということだ。
妻の母は、その俥で帰らなかった。
妻は何か言いかけて、やめた。差し入れた指が、結び目の形をなぞっている。
あの顔は知っている。この春から、妻は夜中に明かりを細くして、母の手紙を読み返す。そのときの顔だ。
だから、口を挟めなかった。
夕方、連隊の門で、差出人のない文を渡された。
『取消なき節は、花嫁御寮も御同道なされたく候』
花嫁御寮は、花嫁のことだ。予約を取り消さないなら、命日には花嫁も連れてこい。
妻も殺す、と俺は読んだ。
予約状の写しを預けた若い検事は、昼のうちに、冥婚の予約だけでは罪になりません、と返してきた。予約状には、脅しの文言が一つもない。
日暮れに、曹長が河岸から戻った。
「丸甚の帳面、二年前の冬。鷹尾様御屋敷の欄に、『佐和、弔い手伝い一日』。以上であります。なお、主人に茶を三度勧められ、三度とも断りました」
一日。あの女の言ったとおりだ。
借家に帰ると、妻が茶を淹れた。
俺は湯呑みに、鉄瓶の湯を差す。兄は茶を濃く淹れすぎる人で、俺が湯を足すと、卑怯者と言った。その飲み方を、俺はまだ改めていない。
「母の帰りの俥、まだ着かないんです」
妻は、茶の表に目を落としたまま言った。
「十四年分の俥代は、おいくらになるでしょう」
冗談の顔だった。泣く顔ではない。怖がる顔でもない。
「請求が来たら、俺に回せ」
「では、遠慮なく。伍長の鰯の頭の分も、回してよろしいですか」
「回せ」
「あなたの俸給で、足りますか」
「足りなければ、伍長の俸給から差し引く」
妻は噴き出して立ち、掛けてあった俺の上着へ手を伸ばした。埃を払うつもりだ。内側に、文がある。
「自分でやる」
俺のほうが先に、上着を取った。妻はそれ以上訊かずに、奥の間へ下がった。
寝息が聞こえるまで、俺は火鉢の前を動かなかった。
文箱の蓋を開けると、底に紙が一枚ある。兄の茶筒に残っていた包み紙だ。弔いの翌日、茶筒は空にされて洗ってあり、底に敷いてあったこの一枚だけが残った。
その上に文を重ねかけて、手を引いた。
妻は字を読む。客の字も、施主の字も、位牌の彫りも読む。この文を読めば、怖がるより先に、書いた手を捜しに出る。河岸へでも、寺へでも、一人で。
怖がる顔は見たくない。……顔なら、まだいい。俺が見たくないのは、妻が一人で河岸へ出ていく背中のほうだ。
文を、火鉢にくべた。
紙はすぐに反り、黒く崩れた。熱に浮いた灰がひとひら、開けたままの文箱へ落ちる。兄の包み紙の上だった。
払おうとして、その紙を、まともに見た。
四つに畳んで、角を内へ折り込んである。指でほどかなければ開かない、几帳面な畳み方だ。
兄は、物をこういうふうに畳む男ではなかった。手紙でも何でも、二つに折って懐へ突っ込む人だった。
では、兄の茶筒の底にこれを敷いたのは、誰の手だ。




