風鈴は、外しておいた
「十二人か」
出がけの土間で、夫が私の風呂敷包みを見下ろした。中身は、母の白無垢だ。
この秋、私は十二人の死人に嫁ぎ直す。どの人も、婚姻届の妻の欄に母の名を書かれて死んだ。その家々の墓に、母は妻として彫られている。その名を一つずつ下ろして、紙の妻の代わりに、本当の弔いを一晩ずつ返しに行く。今夜が一軒目だ。
夫は、おとといの晩から少し口数が多い。昨日など、雨の降りだしひとつに行軍の講釈がついた。
「数に文句はない」
「ただ、ひと秋に十二だ。こちらは祝言一度きりだ。数で負ける戦の前には、手持ちを数え直す。一冊目の帳簿を出せ。求婚のほうだ」
「あの帳簿は、一つ残らず却下ですよ」
「却下でも、出撃は出撃だ」
私の帳面は、いつから戦記になったのだろう。
草履を脱いで上がり、嫁入りの行李のいちばん上から帳簿を出した。嫁ぐ前、この人が持ってくる求婚を、来るたびに私が『却下』と書きつけた帳面だ。最後の頁だけ、祝言の日付を入れて白い。
夫は上がり框に腰を据えて、頁を繰りはじめた。
却下、却下、却下。私の字が、夫の指の下を行進していく。唇が小さく動いている。本当に数えている。
「十二は、とうに越えた」
「それはそうでしょう」
最後の頁で、指が止まった。
白い頁の端に、『卯月四日』とだけある。綿帽子をかぶって、生きている人と盃を交わした日だ。
あの晩、盃を置くと、冥婚の花嫁の癖で、胸の内へ耳を向けてしまった。
何も来なかった。綿帽子の下へ来たのは、列席した人の話し声と、夫がすぐ隣で答える声ばかりだった。
胸の中はしんとして、外はやかましかった。あんなに嬉しい静けさを、私はほかに知らない。
夫は、白い頁を見たまま黙っている。
十二人か、への返しを、私はまだしていない。
「十二人とは、一晩ずつです。朝に帰るのは」
私は、開いたままの帳簿の角に指を置いた。あなたの隣です、と言えば済むのに、言えば却下のどれより重くなりそうで。
夫が帳簿を閉じた。私の指をよけて角を揃える手つきが、やけに丁寧だった。
「朝は、迎えに行く」
「お勤めの明けは、夜明けですよ」
「その前に行く。門の前にいる」
夫は帳簿を膝に載せたまま、こちらを見ない。私も、草履の鼻緒ばかり見ていた。
小田切家の座敷で、障子が白みはじめたころ、胸の内に年寄りの不機嫌な声がした。
『——風鈴は、外しておいた』
叱る声でも、詫びる声でもない。用を済ませた者の、ぶっきらぼうな報告だった。
花婿の位牌には、『俗名 小田切宗一郎』。母の名を妻に書かれた、一人目の人だ。紙の上では母の夫だから、今夜の私は継父に嫁いだことになる。この稼業でなければ、ちょっとした醜聞だ。
依頼人は、この人の姪のお稲さんだった。七つまでこの家で育ち、咳の止まらない子だったという。宵の口に、叔父のことをこう言っていた。
「口うるさい叔父でした。障子の閉め方ひとつで、夕飯まで言われました」
少し黙ってから、こうも。
「嫌いなまま送るのは、嫌なんです。でも、本当はいい人だったなんて言われたら、今さら私の置き場がありません」
私は、ひと言を一字違えずに渡した。
「叔父様のお言葉でございます。風鈴は、外しておいた、と」
「風鈴……ですか」
答えの代わりに、私は神棚を見上げた。
榊の陰に、小さな真鍮の風鈴が吊ってある。夜通し、隙間風が来るたびに揺れていたのに、一度も鳴らなかった。
お稲さんが私の目を追って、立ち上がった。爪先立ちになり、紐ごと風鈴を下ろす。
くすんだ鈴の中は、空だった。短冊を下げる舌がない。切った紐の端が、きちんと結び留めてある。
お稲さんが振っても、音はしなかった。
「縁側に、吊ってあったんです。夏の晩にこれが鳴ると、私、寝床を抜けて聞きに行きました。障子を開けて」
お稲さんは、垂れた紐を指に巻いて握り直した。
「……夜風に当たると、朝まで咳が止まらなかったんです」
紐の食いこんだ指が、白くなった。
「六つの夏に、鳴らなくなりました。壊れたんだと思ってました。叔父は、障子をちゃんと閉めろって、そればっかり」
お稲さんの目から、ぼろぼろと涙が落ちた。睨んでいるのは、位牌のほうだ。
「最後まで、そういうことを言うんですね」
洟をすすって、もう一度。
「外したって、私にも言ってくれればよかったのに」
怒った声のまま、お稲さんは風鈴を胸に抱えこんだ。
小田切家の門を出ると、夫がいた。
外套の肩が、露で湿っている。夜明けより前に、と言った人は、ずいぶん前からそこにいたらしい。
一晩座りどおしの脚は、敷石を三つ渡ったところで、膝から笑いだした。
「負ぶってやろうか」
「子どもではありません」
「子どもなら、訊く前に負ぶっている」
子ども扱いを断ったはずが、大人扱いの返事が来た。言い返す前に、夫の肘が、私の手の届くところへ出てきた。掴まるだけなら、大人でもする。
「あと十一人か」
「十一晩です」
「なら、十一朝だ」
迎えの数を、もう数えている。死人の数には、よほど負けたくないらしい。
夫は宵坂の店先まで私を送って、そのまま連隊へ向かった。
奥の間に上がると、佐和さんが祖母の帯を結び直していた。昨夜の白無垢の始末に、本家から来て待っていてくれたのだ。
私は風呂敷包みを抱えたまま、敷居の手前に立っていた。祖母は、自分の帯に人の手を入れさせない人だ。孫の私にさえ、結ばせたことがない。
「朝、煙草盆を引き寄せたら、肩がぎくりといってね。腕が後ろへ回らないのさ」
祖母は、私が何か言うより先に言った。帯を解いても、桐箱の鍵だけは掌に握りこんでいる。
佐和さんの指は、帯の端を一度も持ち替えない。結び目が、祖母の背中で音もなくできていく。
「大奥様、お息を、少し吐いてくださいまし」
祖母は息を吐いて、佐和さんの手元を見下ろした。
「あんたなら構やしないよ。汐を迎えに来てくれた人だろ」
少し間を置いて、ぼやくように続ける。
「十四年前の秋さ。冥婚に出る朝、本家から迎えに来て、玄関先で汐の帯をこうやって結び直してくれたっけね」
私は、息を止めていた。
三日前、志乃さんはこの人を、母の最後のお支度をした人だと言った。着付けだけではなかった。母を家から送り出した最後の手も、この人だった。
六つの私が覚えているのは、玄関を出ていく母の背中だけだ。その帯に、この手が触れていた。
「お苦しゅうございませんか」
佐和さんの声は、いつもの仕事の声だった。
最後に、佐和さんの指が、帯の脇に垂れた鍵の紐へ伸びた。
「そこはいいよ。あたしがやる」
祖母は痛むほうの腕を、そろそろと持ち上げた。紐を帯に通し、二度、固く結ぶ。顔はしかめなかった。こめかみだけが、うっすら光っていた。
鍵だけは人に触らせない。祖母らしい意地だと思った。
昼過ぎ、借家の門で、石屋だという年寄りが図面を広げた。
「鷹尾様の、新しいお墓の図面でございます。河岸の丸甚さんのお取次で」
夫は侯爵家を出て、自分の家を立てた人だ。夫の家の墓は、まだどこにもない。
図面の墓石には、正面の真ん中に戒名が一つ。脇に『俗名 鷹尾暁人』と『霜月七日』。
「独り身の方の墓で、と承っております」
戒名の隣に、もう一つ並べる隙間がない。夫婦の墓なら、隣を空けておく。あとから妻の名を彫り足せるように。
位牌も、この墓も、ただの葬式の支度ではない。妻のいない男の葬式の支度だ。
四日前の朝、予約状を膳の前で読んで、この予約が通るには先に私が妻でなくなっていなければならない、と考えた。それが、石の形になって門まで来ていた。
「施主様は、どちら様でございましょう」
「存じません。丸甚さんから回ってきた仕事です」
私は図面の、戒名のすぐ隣を指で押さえた。
「この墓の主には、妻がおります。私でございます」
石屋は、私の指の下を見もしなかった。
「奥方様の欄は、要らんと伺っております」




