紙の奥さん
祖母の撒いた塩を、下駄でじゃりじゃり踏み散らして、その人は店に入ってきた。
妻の欄のない墓の図面が届いてから、祖母は痛む肩をかばって、朝ごとに門の外へ塩を撒いている。
「紙の上じゃ、あんたの旦那だったんだろ。……あたいのだよ。返してもらうからね」
帳場の私に、指が突きつけられた。襷掛けの女だ。肘まで赤く荒れた腕から、糊の匂いがした。
「どちらの旦那様でございましょう」
「綾瀬周吾。あたいは洗い張り屋のすず、周吾の女房だよ。あんたが紙の奥さんだろ」
その名なら、知っている。この春、祝言の半月前に区役所で取った戸籍の写しで、私の名の隣に「夫」と並んでいた名だ。写しを持つ指が冷たくなって、窓口の人に椅子を出された。
「届は無効になりました。母の名を死人の届に使ってきた手が、私の名も使っていたのです」
「知ってるよ。あの人は行方知れずなだけだ。死んだなんて、誰も言ってないからね」
「お返ししたくても、お預かりしておりません。お顔も存じません」
「会ったこともない男と夫婦になれたんなら、返すのだってできるだろ」
逆さまの理屈で、胸を張られた。
「返せと仰るなら、預かり証を拝見しませんと」
「あるよ」
帳場の板に、紙切れが叩きつけられた。
掌ほどの、番茶色に褪せた写真の切れ端だった。紋付の若い男と、角隠しの花嫁。花嫁は目の前のこの人で、にこりともしていない。
花婿のほうが、花嫁の分まで照れくさそうに笑っていた。
「試し焼きだよ。写りを見るのに先に焼く切れっぱし。内緒の祝言だったから、写真屋の爺様は撮ったことも言えない。けど、これだけはあたいにくれたんだ」
写真の話をするときだけ、声の角が丸くなる。
「二年前の祝言の夕方に、迎えが来た。扉に紋のついた箱馬車だよ。自動車じゃない、馬が引くやつ。あの人、それに乗せられたっきりだってば」
「紋は、どのような」
すずさんは指を舐めて、帳場の板に描いた。
細い線の、揚羽だった。右の後ろの羽だけ、指が途中で引っこんで短い。
「ここが欠けてた。亭主を乗っけてった蝶だよ。忘れるもんか」
私は予約帳から封を抜いて裏を返し、濡れた蝶の隣に置いた。
乾きかけの蝶と、墨の蝶。欠けているところまで同じだった。
冥婚の夜でもないのに、耳の奥がうるさい。自分の脈の音だった。
「……なんで、あんたがそれ持ってんだよ」
「うちの夫の命日を、五円で予約してきた方の封です」
すずさんの悪態が、そこで途切れた。
「あんたも、取られかけてんのか」
返事の代わりに、私は封を予約帳へ戻した。
「勘違いすんなよ。仲良くする気はないからね。封の主に用があるだけだ」
「では、取り分を先に決めておきましょう。周吾さんは、すずさんに。封の主は、私に」
「紙の奥さんのくせに、勘定が早いじゃないか」
すずさんは鼻を鳴らして、写真を懐へしまった。
「その馬車がどこで停まったか、教えてやるよ。河岸の、丸甚の倉の前だよ。あたいは二年、あの倉が見える洗い場に通ってんだ」
丸甚。夫の予約状を取り次いだ口入れ屋だ。
「今朝、倉番が戸の蝶番に油を差してた。ああいう日は、夜中に何か入るんだよ」
表を焼き芋屋の声が通った。今日は追いかけずにいると、入れ違いに戸が開いた。夫だった。
「あんたか。春に河岸で、うちの亭主の名を訊いて回ってた兵隊は」
夫の目が、すずさんの顔から写真へ移った。
「鷹尾だ。綾瀬周吾の、妻か」
「女房だよ。あんた、名を訊くたびに冥婚屋の宵坂の者だって名乗ってたろ。だから、ここまで来たんだ」
私は夫を見た。
「捜していらしたんですか。あの人を」
「届を誰が書いたか知っているのは、届のもう片方だけだ」
初耳だった。春から、この人は非番のたびに散歩だと言って出ていった。散歩にしては、靴の減りが早いと思っていたのだ。
「言っとくけど、兵隊なんか連れてきたら、倉の連中は出てこないよ」
「今夜は動かん」
夫は軍帽を脱いで、私を見た。
「お前もだ」
「はい。今夜は、祖母の家で休みます」
夫の眉が上がった。予約状の届いた朝、似たことを言われて、私は嫌ですと答えている。
すずさんは「お邪魔いたしましたでございます」とわざとらしく頭を下げ、戸口で河岸のほうへ顎をしゃくった。
夜更けに祖母の家の裏口を抜け、河岸の橋の下へ下りた。川の匂いが濃い。すずさんは、張り板を立てかけた陰で膝を抱えていた。
「遅いってば」
橋の向こうに、丸甚の倉が白く浮いている。表の戸口に、提灯が一つ。川に面した側にも戸があって、石段が水の中まで下りていた。舟が一艘、つないである。
「二年前も、荷はあの戸から舟で出た。川向こうへ」
大八車の音がした。
男が二人、車から白木の棺を下ろす。大人の男の丈の、新しい棺だった。前と後ろを一人ずつ持って、すたすたと戸口へ向かう。
後ろの男が片手を離して、首の汗を拭った。棺の尻は、少しも下がらなかった。
仏様の入った棺は、ああはいかない。四人で担いでも、肩が沈む。
「……空だろ。あれ、空だよな」
すずさんの手が、私の袖を掴んでいた。
「空です」
「分かってるってば」
袖の手は、緩まない。
棺は倉に呑まれて、戸が閉まった。提灯だけが、戸口に残った。
誰の丈に合わせた棺なのか、橋の下からは測れなかった。
川風が、袖口から入ってくる。息を吹きかけても、指は借り物みたいに鈍い。
その指の一寸手前に、大きな手が出てきた。止まって、待っている。
「いいか」
声だけで分かった。すずさんが、ひっと首をすくめた。
「夫婦です。いちいちお訊きにならなくて結構です」
「訊く。癖だ」
夫は手袋を外して、私の両手を包んだ。叱られる前に、手を温められている。順番がおかしい。
「兵隊さんは連れてくんなって言っただろ」
「連れてきておりません」
「ついてきた。お祖母様の家で休むと言ったな」
「休むとは申しました。何刻からとは申しておりません」
「素直に返事をする妻を、初めて見た。確かめに来た」
「夫婦で隠しっこかよ。……そういや兵隊さん。こないだの夕方、倉番が前掛けの若いのを使いに出したから、張り板担いだまま連隊の門までつけてったんだ。そいつ、門衛に『鷹尾様へ』って文を渡してたよ。あれ、何だったんだよ」
私の手を包む夫の手に、力が入った。
「……え。言ってないのかよ」
思い当たる晩がある。七晩前、九日の晩だ。私が埃を払おうと夫の上着に手を伸ばしたら、この人のほうが先に上着を取った。翌朝の火鉢には、黒く薄い紙の灰があった。あの晩から、この人はよく喋った。
「文は、どうなさいました」
「燃やした」
「その晩に」
「そうだ」
「私が寝てから」
「そうだ」
「訊かずにおいたのは、あなたが言うと思ったからです」
夫は口を結んでいる。この期に及んで、まだ言わない。
「何か仰ってください!」
声が、橋の下で跳ねた。
倉の戸口で、提灯が揺れた。持ち上がって、こちらを向く。
すずさんの掌が、私の口を塞いだ。訊きもしない手は、糊と川の匂いがした。夫は私の手を離さないまま一歩出て、外套の背中で明かりを塞いだ。
三人とも、息をするのをやめた。
提灯は川面をしばらく舐めて、「いたちか」の声と一緒に戸の内へ引っこんだ。
「夫婦喧嘩は、うちに帰ってからやんなよ」
もっともだ。もっともだけれど、帰るまで待てない。
「では、小声で。燃やした文を、今ここで、一字違えずに仰ってください。死んだ方のお言葉でも、うちは一字違えずにお渡しします。生きているあなたが、端折らないでください」
夫は一度、川のほうへ目をやった。
「取消なき節は、花嫁御寮も御同道なされたく候」
一字の淀みもなかった。
冥婚の花嫁は、明け方に俥で帰る。この文は、花嫁にも花婿と同じ道を行けと言っていた。帰りの俥の話は、どこにもない。
燃やすまでに、この人はあれを何べん読んだのだろう。
「七晩も、黙っていらしたんですね」
手を引っこめかけて、やめた。まだ冷えている。腹の虫も、まだ収まっていない。
「黙っていた。悪かった。もう黙らん」




