あの女の名は
夫は、自分の死亡広告を自分で読むより先に、私の膳の前に置いた。
朝の味噌汁が、まだ湯気を立てていた。
「新聞社の広告部でございます。鷹尾様の御広告の、校正刷りをお持ちしました」
土間では、鳥打帽を胸に抱えた若い男が頭を下げている。紙面に載る前に、字の誤りを確かめてもらうための刷りだという。日付は、霜月八日の朝刊だった。
私は、湯気の向こうの細長い刷りを読んだ。
『陸軍少佐鷹尾暁人儀 霜月七日急逝致し候 茲に謹んで御通知申し上げ候 喪主 鷹尾家』
箸を置いた。置いた音が、思ったより大きかった。
予約状の命日を、新聞まで覚えている。朝刊の上で、この人はもう死ぬ日が決まっていた。
五円の前金の次は、新聞代まで先払いだ。人の夫を殺す支度に、ずいぶん気前のいいこと。
「取り消せ」
夫が言った。
「前払いの御広告は、御依頼主様のお取り消しでなければ」
「依頼主は」
「河岸の、丸甚様で」
またあの口入れ屋だ。係は気の毒そうに眉を下げたけれど、帽子を持ち替えもしなかった。
「この刷りは、字の誤りを直すために持ってきたのだな」
「さようで。誤字の御訂正でしたら、どなた様からでも」
「誤りがある」
夫は私の帳場用の朱筆を取り上げ、「急逝」の二字に、太い赤線を一本引いた。
「急逝は困る。俺は急がん」
「霜月七日と、日取りまで決めてある方ですものね。たしかに急ではありません」
夫が、真顔のままこちらを見た。
私は噴き出しかけて、味噌汁の椀で口を隠した。死亡広告に赤を入れられて笑う妻も、どうかと思う。
笑いの続きで、目が紙の最後の行へ下りた。
『喪主 鷹尾家』
それきりだった。
石屋の図面の墓にも、隣がなかった。この紙にも、私の座る行がない。どの品も、妻のいない男を弔う支度ばかり持ってくる。
夫の筆が、また動いた。
喪主の行の脇へ、細く、まっすぐ。
『妻 銀子』
夫は何も言わなかった。私の目がどこで止まったのか、見ていたのだと思う。
「あの、鷹尾様。御依頼にない御名を書き足されますのは、訂正とは少々」
「依頼にないものは足せんか」
「はい。御依頼主様のお書きになったとおりに」
「装備の受領簿でも、受け取る本人の名を書き違えれば、本人が直す。依頼主に断る者はいない」
「ですが、これは死亡の御広告で」
「この広告で死ぬのは誰だ」
「……鷹尾様で、ございます」
「なら、広告の主は俺だ。連隊では、遺族の欄を書き落とした死亡報告は、本人が生きていれば本人が差し戻す。喪主を書き違えられた死人が、自分で直すと言っている。これ以上確かな訂正はなかろう」
生きていればも何も、死亡報告を本人が差し戻した話など、聞いたことがない。
係はしばらく赤い線と黒い字を見比べて、それから校正刷りを丁寧に巻いた。
「……お預かりして、校正に回します」
戸が閉まった。
私は礼を言わなかった。言えば、あの紙が本物になる気がした。
代わりに、冷めかけた味噌汁を飲んだ。ちゃんと味がした。夫の字で書かれた私の名は、普段の私の字より少しだけ大きかった。
「字が大きいです」
「喪主の脇だ。小さく書けば、また見落とされる」
「見落とすのは新聞社ではなくて、施主様のほうでしょう」
「なら、なおさら大きく書く」
夫は朱筆の先を拭いて、私の帳場箱へきちんと戻した。
夜明け前の能見家の座敷で、胸の内に、かすれた男の声がした。
『——あの女の名は、何といった』
問いの形をしていた。答えを待つ調子だった。長く臥せっていた人の、痰の絡んだ声なのに、語尾だけが妙にやわらかい。人にものを頼むときの声だ。死人に答えを返す術は、宵坂の花嫁にはない。
今夜の花婿は、能見の子爵。母の名を婚姻届の妻に書かれた、二人目の人だ。一晩、隣に座っていたのは白木の位牌だけで、座敷の冷えは膝から上がってきた。
障子が白むのを待って、私は下座に向き直った。
「お兄様から、ひと言お預かりいたしました。あの女の名は、何といった、と」
依頼人の能見くら様は、夜通し末座で背を立てていた人だ。四十を越えたくらいの、櫛目の固い髪をしている。
「女」
一語だけ繰り返して、くら様は立った。仏壇の引き出しから紙を一枚抜き、私の前の畳へ叩きつける。遺言状の写しだった。
『看病した女に金五十円』
その一行の、名を書く欄だけが空いていた。
「兄の最後のひと月、毎日通ってきた女がおりました。誰が頼んだのか、家の者は誰も知りません。名を訊いても、笑って頭を下げるだけでした」
くら様は、空いた欄を指で叩いた。
「兄は最期に、わたくしではなく女の名を」
言い終えてから、くら様は自分の言葉に腹を立てたように唇を噛み、続けた。
「金五十円ですよ。わたくしが嫁ぐときの支度には、三十円しか出さなかった人です。その嫁ぎ先からも、去年戻ってまいりましたけれど」
五十円は、女中の給金の何年分になるだろう。それだけの金を遺す相手の名を、訊かずに死ぬ人がいるだろうか。顔は覚えていて、名だけを知らない女。
「三十年、同じ屋根の下におりました。粥を炊いたのも、医者を呼んだのもわたくしです。それで最後に訊くのが、名も知らない女のことですか。昔から、そういう兄でした。肝心な相手を間違えるんです」
くら様は泣かなかった。泣く代わりに、位牌を睨んでいた。
「宵坂さん。その言葉は、持って帰ってください。わたくしは聞かなかったことにします」
商いの口が、先に出た。
「お言葉の返品は、いたしかねます。仏様のお品でございます」
くら様の頬に、さっと血がのぼった。
「宵坂さんを座敷に呼んだのは、わたくしです。死人の肩ばかり持って、それで花嫁が務まるのですか」
務まります、とは言わなかった。私は位牌の前へ膝を戻し、両手をついた。
「お預かりしたお言葉は、こちらへお返しいたします」
くら様の顔は見ずに座敷を出た。あの兄の声を一字でも削って渡す気には、なれなかった。
翌朝、宵坂の店の奥で、祖母が柿をむいていた。
痛む肩のほうの手は膝に置いたまま、包丁ではなく柿のほうを回している。皮が、途切れずに盆へ垂れていく。
「新聞屋の前で、女房の名を書き足したんだって? 自分の死亡広告にさ」
「どこで聞いたの」
「婿どのが、ゆうべ自分で言いに来たよ。玄関先で、それだけ言って帰っちまった」
祖母は煙管を探すふりをして、口の端を隠した。
「馬鹿だねえ。死ぬ気のない男が、喪主の欄にだけは手を抜かないんだから」
皮が、ぷつりと切れた。祖母は切れた端をつまんで、むけた柿を私のほうへ押しやった。
「食べな。一晩座りっぱなしの顔だよ」
甘かった。祖母が押しやるより先に、二切れ目に手が伸びた。
「能見の家は、どうだったんだい」
「お言葉を返品されかけたから、位牌にお返ししてきた」
「返品ねえ」
祖母は煙管の吸い口で盆の縁を叩いて、渋い顔をした。
「あんたは、お客の顔を潰すときだけ口がよく回るんだから」
表の戸が叩かれて、区役所の小使が封を一つ置いていった。祖母の指から、柿の皮が盆へ落ちた。宛名は鷹尾暁人、同妻銀子。夫の名と私の名が、一つの封に並んでいる。
封の中は、紙が一枚きりだった。
『御夫婦の離縁届の件にて、御出頭ありたし』




