俺が書いたと思ったか
「俺が書いたと思ったか」
二人乗りの俥の幌の下で、夫が前を向いたまま訊いた。私は膝の風呂敷包みを抱え直す。中身は、今朝、祖母が桐箱から出してくれた夫婦の実印が二つ。今日は神無月二十五日。区役所の照会状が、出頭を指定してきた日だ。
答えは、考えるより先に口から出た。
「一瞬」
言ってから、勘定が合わないと気づいた。うちの帳場は、端数を丸めて済ませたことが一度もない。
「いいえ。見ている間、ずっとです」
照会状が届いてからの四日、私は夫の顔を見るたびに、それを考えていた。朝の茶を出すときも、軍靴を揃えるときも。
祖母の家へ移れと言ったのも、脅しの文を一人で燃やしたのも、この人なのだから。
車輪が石を拾って、幌が揺れた。夫は前を向いたままだ。
「なぜ、訊かなかった」
怒った声ではなかった。それが、かえって堪える。
答えは喉のところにあった。訊いて、そうだと言われるのが怖かった。けれど、それを口にすれば、疑っていたことをもう一度言い直すことになる。
言い直すのは、さっき一度やった。二度目の傷をつける度胸は、私にはない。
俥が、区役所の石段の前に着いた。
夫は先に降りて、そのまま待っていた。いつもなら、ここで手が出てくる。
今日は、出てこなかった。私は自分で降りた。
窓口の係は、黒い腕貫をはめた若い男だった。照会状と私たちの顔を見比べて、ほっとしたように笑う。
「御夫婦お揃いでお見えでしたら、話は早うございます」
係は棚の束から一枚抜き、受付の判を手に取って、奥の机へ運びかけた。
私の手が、先に出ていた。
届の上に、掌を平たく置く。係の指と私の掌のあいだで、紙が一枚、動かなくなった。
「お待ちくださいまし」
怖いと思ったのは、置いてからだ。
掌の脇から、妻の欄が覗いていた。『銀子』。私の字に似せた字の下に、私の判が、くっきりと捺してあった。
読み違いであってほしくて、頭からもう一度読み直した。掌の下で、紙が小さく鳴った。
欄の端の日付は、神無月十三日。
「この届に、手前ども夫婦は異議がございます。今ここで書付をいたしますので、紙を一枚、お貸し願えますか」
「異議、でございますか。それでしたら所定の」
「所定の紙は存じません。白い紙で結構です。書く本人は、二人ともこうして窓口の前におりますので」
係が、困った顔で夫を見た。
「紙を」
係は黙って半紙と硯を出した。
私は左の掌を届に置いたまま、右手で筆を取った。異議の一行を書き、筆を夫へ渡す。夫は私の文の下に『鷹尾暁人』と書いて、筆を返してきた。
名の隣に残された隙間が、ずいぶん狭い。
「狭いです」
「詰めて書け。並べるだけだ」
「並べるなら、同じ大きさでなければ」
私は夫の名と同じ大きさで、『銀子』と書いた。最後の一画が、半紙の端から少しはみ出した。
夫が、それを見下ろした。
「はみ出している」
「詰めて書いたら、離れて見えます」
夫は人差し指を伸ばし、はみ出した画のすぐ脇を、半紙ごと板へ押さえた。墨が乾くまで、指はそこから動かなかった。
風呂敷から実印を出して、役所の朱肉を借りた。名の下に、二つ並べて捺す。祝いの盃みたいに明るい赤だった。
その朱が乾かないうちに、奥の衝立の陰から、年配の男が首を伸ばした。胸に天眼鏡を下げている。
「印が出ましたか。戸籍係の根津でございます。拝見いたします」
拝見の返事を待つより先に、天眼鏡はもう届の上にあった。
丸い玉が、届の私の判と、半紙の濡れた判のあいだを何度も往復する。
「縁の欠けまで同じですな」
丁寧だった口が、そこから急に早くなった。
「黄楊だ。目の詰んだいい黄楊だ、近ごろこんなのは滅多に見ない。こういう判にはね奥様、捺した人の力の掛け方まで残るんですよ」
根津さんは目を上げ、うっとりと息を吐いた。
「本物です。……いい判だ」
褒められて、これほど嬉しくない判も珍しい。
覗きこむと、天眼鏡の下で、届の印影がふくらんで見えた。朱が、役所の明るい赤より一段沈んでいる。焼いた煉瓦のような色だ。
見覚えがあった。どこで見たのかが、すぐには出てこない。
係が、私の掌の下から届をそっと引き抜いた。今度は止めなかった。半紙が届の上に重ねて綴じられ、表に墨で二字が書き入れられる。
「保留、でございます」
肩の力が抜けかけたとき、根津さんが、ついでのように言った。
「奥様の御異議は、御本人様のお名前と並べて承っております。御本人様が御存命のうちは、確かに」
夫が、窓口の板の上の半紙を見た。
「存命のうちは、か」
それきりだった。根津さんは、もう届の判のほうへ顔を寄せている。
予約された命日まで、十三日。
夕方、宵坂の奥の間で、祖母は桐箱を膝の前に引き寄せた。
痛むほうの肩をかばって、片手で保管帳を開き、今日の出し入れを書きつける。判を二つ箱へ戻し、朱肉の蓋を取った。湿り具合を見る、いつもの手つきだ。
蓋の下に、あの色があった。
祖母が自分で練る朱肉は、どこの店のものより沈んだ、煉瓦の色をしている。私が十二の年から、何百枚の請け状に捺してきた色だ。見覚えがあったはずだった。
「お祖母ちゃん。届の判、この朱で捺してあった」
祖母が、朱肉の蓋を手にしたまま私を見た。
「何だって」
「根津さんっていう係が、天眼鏡で見たの。判は本物。朱は、うちの朱」
祖母は保管帳を閉じ、その表紙を掌で叩いた。乾いた音がした。
「あたしの帯から鍵が離れたことはないよ。一度もね。帯は結ばせたさ。鍵の紐は、あたしが結んだ」
肩を痛めてから、祖母は帯だけ人の手を借りている。帯に鍵の紐を結ぶところは、いつも自分でやる人だ。そこは、私も疑っていない。
「なら、判はどうやってあの紙まで歩いていったの」
「知るもんかい。役所の紙のほうが嘘をついてんだろ」
「役所の紙に、うちの朱は捺せないよ」
「役人の眼鏡と、あたしの帯と、どっちを取るんだい」
「朱を取る」
祖母が煙管を灰吹きに打ちつけた。雁首が鳴って、灰が畳に散った。
「汐の名を勝手に使われてから十四年、あたしがこの箱を、どんな顔で抱えてきたと思ってんだい! 帳面に一つ残らず書いて、鍵を帯に結んで、寝るときだって」
「抱えていても、箱は箱だよ」
言ってから、しまったと思った。祖母の顔から、色が引いた。
祖母は痛むはずの腕で、桐箱を私のほうへ乱暴に押しやった。
「なら、あんたが調べな。……あんたの父親なら、こんな錠ひとつ、三日で作り直したろうさ」
私は返す言葉をなくした。
祖母が父の話をするのは、一年に一度あるかないかだ。その一度を、こんな喧嘩の最中に使わせてしまった。
押しやられた箱の、真鍮の錠に目が落ちる。鍵穴の脇の古い傷は、どれも黒ずんでいた。その中に一本だけ、細く、光っている擦り傷があった。
鍵を差した傷ではない。鍵穴の縁を、何か細いもので無理にこじった跡に見える。
「お祖母ちゃん。これ、鍵じゃない」
祖母が身を乗り出して、錠を覗きこんだ。握っていた煙管を、灰吹きの脇へそっと置いた。鍵は帯を離れていない。祖母の言い分は、この傷が守ってくれた。
祖母はしばらく傷を見ていた。それから、ゆっくり顔を上げた。
「……十三日だよ」
「届の日付の」
「婿どのの叔母さんとこの、侍女が来たんだよ。侯爵家の奥を仕切ってる奥方の使いさ」
夫の実家の、奥向きの主。私はまだ、顔も知らない。
「甥の嫁が死人相手の商いで稼ぐのは家の恥だって、苦情の文を持ってきてね。腹が立ったから、すぐ返事を書いてやったよ。帳場で、墨をたっぷり磨ってさ」
祖母の目が、私の膝の前の桐箱に落ちた。
「書き上がるまで、待たせておいた」
灰の散った畳の上で、祖母の声が低くなる。
「……奥の間で、一人でね」




