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寄進者のいちばん上

 若葉寮の庭で遊ぶ子らの袷には、どれも右の肩に、二つ揃いの継ぎが当たっていた。

 私は門の内で足を止めた。親のない子を預かる寮だから、冬着もまとめて繕うのだろう。同じ形の継ぎが、庭じゅうで揺れている。

「銀子さん、遅くってよ。寄進会はもう始まっていましてよ」

 扇をぱたぱた動かしながら、藤宮紗雪さんが石畳を駆けてきた。伯爵家のお嬢様で、母君がこの寮の世話役をしている。霜月三日の昼、とうちの予約帳へ勝手に書きこんでいった人だ。

「お顔を出したら、早めに失礼いたします。今夜は勤めがございますので」

「あら、いけなくてよ。今日は少佐の叔母様もお見えですの。ご挨拶なさらなくちゃ」

 夫の叔母様。偽の離縁届の日付のあの日、祖母の奥の間で一人きり待たされていた侍女の、主人だ。ご挨拶に向かう足が重くなった。

 門の外では、俥で送ってくれた夫が、帰りの迎えの刻限を言いかけていた。

 庭の隅で、継ぎの肩の一つがこちらを向いた。十ばかりの男の子だ。私と夫の顔を見比べるなり、駆けだした。

 丸甚の店先で、夫の顔を見て腰掛けを蹴った背中。路地へ遠ざかったあの肩にも、継ぎが二つ当たっていた。

 喉が、詰まった。

 子は井戸の陰で振り返って、怒鳴った。

「おいら、何も挟んでない」

 誰も、何も訊いていない。

 神無月八日の朝、うちの門の柱には、予約状の封が挟んであった。駄賃で頼まれた子だろう、と見当はつけていた。その見当に、本人の口が判を捺した。

 追って問いただせば、あの子はここにいられなくなる。そう迷った一瞬に、紗雪さんに袖を取られた。

「お追いにならないで。逃げるのがお仕事みたいな子ですもの」

 振り向いたときには、井戸の陰にも門の外にも、もう誰もいなかった。


 寮の板の間には大きな火鉢があって、奥の台所から古い竈の煙が匂っていた。客が十人ほど、子らに囲まれて座っている。

 火鉢のそばに、銀鼠の羽織の老紳士がいた。丸甚の帳場で、母の紋を褒めて予約状を返してくれた人だ。筆頭の寄進者の柏木様ですの、と紗雪さんが耳打ちする。

 柏木さんは、寄ってくる子を一人ずつ名で呼んだ。頬の赤い子の額に手を当てると、紙包みを一つ、黙って台所へ持たせた。医者代だろう。

「寮の先生は腕がよろしくてよ。銀子さんのお家でも、何かあったら呼んでちょうだいな」

 紗雪さんがまた予約を一つ増やす。私は頷きながら、台所へ消えた紙包みを目で追っていた。礼を言わせない払い方をする人を、私は嫌いになれない。

「まあ。冥婚屋さんも、寄進をなさるの」

 上座から声がした。黒紋付の奥方が、閉じた扇を膝に置いている。鷹尾麗子様。叔母様だ。

「死んだ方からいただくお金を、子どもの粥に回すなんて。御商売上手ですこと」

 褒める口ぶりの嫌味には、帳場で慣れている。

「叔母様。手前どもは、今日は見物の席料だけでございます」

「あらあら」

 柏木さんが、火鉢の向こうで穏やかに笑った。

「まあまあ、奥様。この竈は、まだ十冬はもちますよ」

 子どもの頭を撫でながら、柏木さんは叔母様と私の両方に、ゆっくり目を配った。

「死んだ方のお金は、死んだ方には使えません。生きている子の粥にして、何が悪いのでしょう。——そう、思いませんか」

 皆が頷いた。私の首だけ、どちらへも動かなかった。

 叔母様の扇が、膝の上で一度鳴った。

「お気の毒に。暁人さんは、こういうお嫁さんで」

「妻の商いに文句があるなら、俺に言え」

 板の間の入口に、夫が立っていた。迎えにしては早すぎる。

 叔母様は扇を閉じたまま、口を閉じた。客の何人かが、急に火鉢へ手をかざした。

 私は背筋を、こっそり一寸だけ伸ばした。少しだけ、得意だった。

 叔母様が膝を直した拍子に、名刺入れが滑り落ちた。白い名刺が、火鉢の脇の畳に扇の形に散る。

 柏木さんが身を屈めて拾い集め、端を揃えて、両手で返した。その指のあいだで、白いものが一枚、ふっと見えなくなった気がした。

 見間違いだろう、と思うことにした。


「少佐も、お迎えついでに寄進なさって。受け札は、柏木様がお書きになるのが寮の習いですの」

 紗雪さんの扇が、もう夫の胸元を指していた。迎えの夫を寄進者にせずに連れて帰る、という私の段取りは、その一振りで畳まれた。

 夫が一円札を出すと、柏木さんは文机に半紙を広げ、筆を取った。

『施主 鷹尾暁人様』

 「施」の最後の画が、止めたところから長く跳ねて、隣の字の足元まで伸びた。

 襟の内側に、冬が一足先に入ってきた。

 帳場の灯の下で、何十遍も読み返した予約状。あそこの『施主』の「施」も、止めから長く跳ねて、「主」の足元まで伸びていた。

 筆を置く柏木さんの手は、少しも急いでいなかった。

「冬の薪代にさせていただきますよ、少佐」

 隣の夫を見た。夫も、紙から目を上げたところだった。

 どちらも、何も言わなかった。

 字が一つ似ているだけで人を指させば、こちらが恥をかく。

 夫は受け札を受け取り、墨が乾くのを待ってから、軍服の内隠しへしまった。


 帰り道、俥を断って、二人で川沿いを歩いた。初霜の溶けた土が、草履の裏で柔らかい。

「迎えの夫まで寄進者になるらしい」

「私のお小遣いからは出ませんよ」

「お前の芋代から取るとは言っていない」

「取られたら、芋は一本を半分こです」

「誰とだ」

「訊かなくてもお分かりでしょう」

 夫は返事をしなかった。川を渡り終えるまで、川べりの側を一度も私に譲らなかった。

 借家に帰ると、夫は内隠しから受け札を出した。私は茶の間の箪笥の二段目を開け、予約状の封の隣に、それを並べてしまった。


 夕方、借家の土間に、茶箱が一つ届いた。

 運んできたのは、裏の豆腐屋の小僧だった。角で知らないおじさんに頼まれた、と言って、駄賃の一銭を握ったまま帰っていった。

 蓋に、鷹尾麗子様の名刺が添えてある。その脇に、小さな書付。

『濃いめにお淹れくださいまし』

 手本を写したように整った、癖のない女文字だった。癖のなさが、かえって目に引っかかった。

「叔母上は、自分では文を書かん。侍女の字だ」

 夫が、私の肩越しに書付を覗いた。

「昼の嫌味を、口では詫びられない人だ。だから茶になる」

「侍女の方には、十三日の件があります」

「判を盗んだ者が、翌月、主人の名刺を付けて茶を寄越すか」

 粗を探しかけて、やめた。今日の昼、この人は叔母様の前で私をかばった。叔母様が詫びの茶を寄越すのも、筋は通る。

「では、ありがたく頂戴いたします」

 裏木戸が鳴って、佐和さんが入ってきた。今夜の勤めの支度の迎えだ。今夜は、三軒目の花婿の家へ嫁ぐ。

「花嫁さま、お髪を先に。帯は先方でいたします」

 私が湯呑みを二つ並べると、佐和さんの手が伸びて、私の湯呑みの口にだけ、掌で蓋をした。

「花嫁さまは、お白湯に。汐様は、お勤めの前はお白湯になさっていました」

 母の名を、こんな夕方に聞くとは思わなかった。

 胸の奥に、湯たんぽを入れられたみたいだった。母も、勤めの前にはこうして白湯を飲んでいたのだ。私の知らない母の夕方を、この人は知っている。

「では、母と同じに」

 佐和さんは黙って頷き、手を引っこめた。

 私は茶箱の封を切った。書付のとおり、急須に茶葉を多めに落とし、湯を注いで、しっかり色が出るまで待つ。

 夫の前に、濃い茶を置いた。

 夫は湯呑みを手に取り、色を眺めて、いつもの顔で言った。

「湯を足してくれ」

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