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飲むな

 夫の手元で、湯を足した茶の色が一段薄くなった。

 私が急須を傾けるあいだ、この人はいつも黙って待つ。濃いめに、と書付を寄越した叔母様には悪いけれど、夫の湯呑みに入った茶は、夫の好きな薄さになる決まりだ。

 夫は一口含み、いつもの間を置いて、二口目を含んだ。

 そこで、止まった。

「飲むな」

 言うより早く、夫の手が膳の上を払った。私の湯呑みが転がり、白湯が畳に広がる。白湯だと知っているはずの人が、それさえ払いのけた。

「舌が、痺れる」

 夫は自分の湯呑みを膳の端へ押しやり、手の甲で口を拭った。

 佐和さんが、結いかけの櫛を置いて立っていた。

「お水を。花嫁さま、桶を」

 土間へ下りると、裏の豆腐屋の小僧が油揚げを届けに来たところだった。

「若葉寮へ走って。お医者の先生を、鷹尾の家へ」

 昼の寄進会で、何かあったら呼んでちょうだいな、と紗雪さんに押しつけられた寮の医者だ。名も顔も知らない。知らない人に、夫を頼むことになった。


 来たのは、往診鞄を提げた痩せた男だった。

「若葉寮の嘱託医の、新見です。藤宮のお嬢さんに、少佐の家なら走れと言われましてね」

 新見先生は夫の舌を見て、脈を取り、膳の湯呑みに鼻を寄せた。

「何口です」

「二口だ」

「二口目で、止めたんですね」

「止めた」

「なら、それでいいんですよ。附子かもしれません。この茶は捨てずに、検事局へ持っていきなさい」

 先生が言ったのは、それだけだった。手足が冷えたら呼べ、と言い置いて、隣の間に座りこむ。朝まで帰らないつもりらしい。

 夫の顔は白かった。白いまま、私を見ていた。

 あの茶を淹れたのは、私の手だ。書付のとおりに茶葉を多めに落とし、しっかり色が出るまで待った。待ったのも、私だ。

 気がつくと、頭が芋代の壺の残りを数えていた。九十一銭。

 佐和さんが本家へ使いを出して、今夜の勤めを取りやめにした。それから黙って襷を掛け、台所で湯を沸かしはじめた。


 夜半を過ぎて、布団の中から夫の声がした。

「手を、借りていいか」

「貸し賃は、治ってから請求いたします」

 差し出した私の手を、夫は布団の中で握った。指先が、冬の井戸の水みたいだった。それなのに、握る力だけはいつもと同じだった。

 しばらくして、夫が文箱を持ってこさせた。

 枕元で蓋を開けると、夫は底から紙を一枚つまみ出した。四つに畳んで、角を内へ折り込んである。

 私は、膳の脇に残った茶箱を見た。夕方に封を切ったとき、茶葉は一枚の紙に包まれていた。ずいぶん手間な畳み方だと思いながら、ほどいた紙だ。

 くず籠の底の紙を、二度つまみ損ねた。三度目で拾い上げて、夫の手に渡した。

 夫は折り目のとおりに畳み直し、二枚を布団の上に並べた。

 畳み方が同じだった。角を折り込む深さまで。

 あの紙を、私は自分の指でほどいて、くず籠へ放ったのだ。

「兄の茶筒の底に、これが一枚だけ残っていた」

 夫は天井を見たまま、続けた。

「弔いの翌朝、茶筒は空にされて、洗って干してあった。俺はその濡れた底に張りついていたこれを、爪で剥がした」

 爪で、と言った。そこだけ、声が細かった。

「濃く淹れろと言って茶を寄越す者は、中身を濃くしたい者だ」

「兄は、自分でも飲めないほど濃く淹れる男だった。人にも飲めと押しつけた。俺が湯で割ると、卑怯者と言った」

 行灯の芯が、小さく鳴った。

「兄は、薄めなかった」

 夫は泣かなかった。並んだ二枚から、目を離さなかった。


 隣の間で、佐和さんが手拭いを絞る音がした。私は声を落とした。

「あの。佐和さんがさっき、私の湯呑みにだけ」

「佐和か」

 夫は天井を見たまま、短く言った。

「兄が死んだ冬、あれが屋敷に上がったのは弔いの日だけだ。本人もそう言ったし、念のため、口入れ屋の丸甚の帳面も部下に見させた。『弔い手伝い一日』とあった。兄の茶筒に触れる日は、なかった」

 肩から、力が抜けた。母の最後の支度をした人を、疑わずに済んだ。

 代わりに浮かんだのは、茶箱の書付の字だ。癖を一つも見せない、手本のような女文字。

「なら、叔母様の侍女の方です。十三日に祖母の奥の間で一人きりになったのも、あの方でした」

「叔母上は人を見下す。だが、毒は盛らん。見下す相手が死ねば、見下せなくなる」

 叔母様の名刺、と言い返しかけて、昼の火鉢の脇が目に戻った。散った名刺を拾い集めた、柏木さんの指。そのあいだで一枚、白いものが見えなくなった気がしたのだ。

「あの、昼に」

 そこで口を閉じた。見間違いだと、自分で決めた一枚だ。そんなものを、痺れの残る人の枕元に置く夜ではない。

 覚えておこう、とだけ思った。

 見立ては割れたまま、行灯の油だけが減っていった。


 明け方近く、夫が枕の下から封を一つ出した。

 表に『銀子殿』。裏に、日付だけが書いてある。霜月八日。

 予約された命日の、翌朝の日付だった。八日の朝に自分がいなければ、これを開けろということだ。茶を飲むずっと前から、この封は枕の下にあったのだろう。

 封の厚みは、指で分かった。便箋が三枚か、四枚。予約状が届いた朝から、この人は私に言わずに、これだけの字を溜めていたのだ。

 私は封を切らずに、夫の胸の上へ戻した。

「生きている方の遺書は、承っておりません」

 夫は封を持ったまま、しばらく私を見ていた。それから、枕の下へしまい直した。


 障子が白んだころ、戸口で軍靴が鳴った。

「甲斐曹長、侯爵家より戻りました!」

 夫の部下の、肩の厚い曹長だ。ゆうべ言いつけられて、夜のうちに叔母様の屋敷へ走っていた。

「叔母上は」

「茶など知らない、の一点張りであります! 侍女の方々にも伺いましたが、箱にも茶にも触れておらぬと、皆さま同じお答えでありました」

「届のほうは」

 甲斐さんの目が、私へ来た。言ってよいのか、と夫に訊いている顔だ。夫が顎を引いた。

「奥様、離縁届の証人の欄に、どなたもご存じない男の名が二つ書いてありました。少佐殿が後日、根津という係に頼んで控えを取られた、あの二人であります」

 そんな欄があったことさえ、私は知らなかった。

「二人とも、この秋に、川向こうの施療院で死んでおりました。身寄りのない病人の行き着く所であります。自分は帳面を三度見直しましたが、三度とも、死んでおりました」

 証人に訊けば、届を書いた手までたどれたはずだった。その糸の先が、届より先に墓の中にある。


 朝の粥を運ぶと、夫は内着の上に軍服を羽織ろうとしていた。

「どちらへ」

「連隊に顔を出す。粥は戻ってから食う」

 夫の左の袖口が、ほつれて垂れていた。ゆうべ膳を払ったとき、角に引っかけたのだ。

「朝ごはんを、一緒に食べたかったんです」

 夫は、留めかけた軍服の釦を、一つ外した。

 怒った声ではなかった。泣き声でもなかった。

「銀子。ゆうべの封には、お前に言っておくことを」

「亡くなってから、初めて言われたくありません」

 夫は、軍服を畳に置いた。

 黙って膳の前に座り、粥を一匙すくって、眉を寄せる。

「……薄いな」

「お粥ですから」

 返したとたん、喉が詰まった。薄い、と分かる舌だ。この人は、自分の茶を薄めて飲む人のくせに。

 粥を食べ終えると、夫は座ったまま眠ってしまった。一晩、痺れと付き合った人の眠りだった。

 私は針箱を引き寄せ、眠る夫の左腕を膝に乗せた。袖口の裏に布を当て、うちの止め方で糸を留める。玉を作らず、二度返して、針目の中に糸の端を隠す。祖母に、十の年から仕込まれた止め方だ。


 夫が目を開けたのは、日が障子の桟を一つ越えたころだった。

 縫い終えた袖口に目をやり、何も言わずに指で針目をなぞってから、土間の甲斐さんを呼んだ。

「甲斐。すずどのから報せが来たら、倉へ行く」

「はっ」

 隣の間で、佐和さんが洗い物を畳んでいた。手つきはゆうべと同じに静かで、私は気にも留めなかった。

 行かないで、と言えば、この人は困った顔で行くのだろう。だから、別のことを頼んだ。

「寝ていたら、起こしてください。嫌だと言うくらいは、させてください」

「……起こす」

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