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下は、暗い水だった

 約束どおり、俺は妻の銀子を起こした。軍服の釦を留め終えてからだ。

 霜月六日の夜、日付が変わるまで一刻足らずのころ。裏木戸を叩いたのは、すずだった。洗い張りの襷も外さずに、河岸から走ってきたらしい。裾に、川べりの泥が跳ねていた。

「兵隊さん、今夜だってば。倉に棺がもう一つ入った。四人がかりで担いでたんだ、空のはずないだろ」

「すずどの、倉には近づくな。見張りは洗い場からでいい」

「あたいの見張りなんだ。兵隊さんの指図なんか、借りた覚えはないじゃないか」

 言い捨てて、すずは闇へ駆け戻った。見張りの場所を、一息のあいだも空けたくないのだ。

 表に立たせていた甲斐に、兵を二人呼ばせた。外套を取る。三晩前に毒の茶を二口飲んだ体は、もう歩けるが、急に立つと膝が一拍遅れてついてくる。

 奥の間の行灯を、細く点けた。

「銀子」

 一度では起きなかった。二度目で、妻の目が開いた。

 俺の外套を見て、妻は何を言われるより先に、用件を知った。寝起きの緩んだ頬から、一息に色が引いていく。唇が白くなり、掛け布団の端を掴んだ指の節が浮いた。

 妻の怖がる顔を、俺は初めて見た。

 思っていたより、ずっと幼い顔だった。

「嫌だと言え」

「嫌です」

「聞いた。行く」

 妻は、それ以上は言わなかった。布団から手を出し、俺の内着の左袖口を一度だけ引いた。当て布の具合を確かめる、針を持つ者の手つきだった。

 行灯の油皿を覗くと、底が見えかけていた。油差しを取って、縁まで足す。朝まで、妻が暗がりで待たずに済む量だ。

「油代は、どちらの勘定に」

「俺の勘定だ」

 外套に腕を通すと、妻が布団の上から言った。

「霜が降りています。前を、閉めていってください」

 釦を上まで留めた。留め終えるまで、妻は目を離さなかった。

 戸口で振り返ると、妻は布団の上に正座して、こちらを見ていた。寝ていろとは言わなかった。言えば、また嫌だと言われる。


 河岸への道は、霜で白かった。甲斐が先頭を取り、兵二人が俺の後ろにつく。霜を踏む軍靴の音が、四つ揃っている。

 上着の隠しから懐中時計を出した。十一時を半分過ぎている。棺を舟で出すなら、人目のない夜明け前だ。間に合う。

 市電の線路を越えたところで、提灯も持たない男が、向こうから駆けてきた。法被の襟に、丸に甚の字。丸甚の使い走りだ。

「少佐様で。よ、宵坂さんの、お宅に、賊が」

 男は膝に手をついて、肩で息をした。

「入った、って。旦那が、少佐様に知らせてこいって」

 どの旦那だ、と訊く前に、男は路地の闇へ逃げこんでいた。

 罠だ、と思った。賊が入ったなら、なぜ丸甚が先に知る。俺から兵を剥がしたい者がいる。

 だが、罠と分かっても捨てられないことがある。夫婦の判は一度、祖母どのの箱から誰かの手で抜かれ、知らぬ離縁届に捺された。あの家には、入れる手がある。今夜、あの家に兵は一人もいない。

 罠なら、狙いは俺だ。俺の首は、俺が持っていける。妻は、ここからでは守れん。

「お前たちは宵坂へ戻れ。妻と祖母どのの部屋の前に立て。朝まで、誰も通すな」

 二人の兵が、俺を見ていた。命令の終わりを待っている顔だ。

 いつもなら、行け、で済む。その二字が、出てこなかった。

「……頼む」

 二人は敬礼もそこそこに、来た道を駆けだした。

「少佐殿、自分はお供いたします。お一人では行かせられません。三晩前の茶の件もあります。少佐殿は昨日も階段で膝を一度つかれました。自分は見ておりました。それに、倉は川に面しております。夜の川は」

「甲斐、お前も戻れ。兵二人では、表と裏木戸の両方は塞げん」

「しかし倉には」

「棺が舟で川へ出れば、二度と見られん。膝が遅れるのは知っている。だから斬り合いはせん。蓋を開けて、中を見て、出る」

 甲斐の口が、そこで詰まった。この男が報告の続きを呑みこむのは、珍しい。

「少佐殿。夜明けまでにお戻りがなければ、自分は倉へ参ります。これは、お願いではなく報告であります」

 言うだけ言って、甲斐は踵を鳴らし、兵の後を追った。

 俺は一人で、河岸へ下りた。

 河岸の通りは一本道だ。倉の並びの裏は川で、表は荷車がやっと抜ける幅しかない。退路は、来た道だけになる。

 足音を殺すと、自分の息がやけに大きく聞こえた。毒の残りか、ただの寒さか。どちらでも、歩幅は変えない。


 丸甚の倉は、黒い川に尻を向けて建っている。表の戸と、川へ荷を出す戸の二つ。川面に舟の影はない。まだ来ていない。

 懐中時計を見た。零時まで、十五分。

 表の戸に、錠はなかった。開けると、灯油の匂いがした。

 手探りで進むと、奥に白木の箱が二つ並んでいた。手前の一つは、木の色がまだ新しい。すずの言った棺だ。蓋は釘を打っていない。押しずらすと、見知らぬ男が、体を折って詰めこまれていた。

 隣の古い一つは、蓋が壁に立てかけてあった。中は空だ。

 蓋から手を離したとき、暗がりが三つ、動いた。

 一つが、背中から俺の喉を掴んだ。

 その手首を両手で取る。引き剥がしにかかって、数が合わないことに気づいた。左手だ。小指があるはずの所が、付け根から平らになっている。

 四本のうちの薬指を握って、逆へ折った。乾いた小枝の音がした。男は声を殺して唸った。

 喉が空いた。左手、小指なし、薬指一本折損。覚えておく。

 二つ目の影へ向き直ったところで、後ろ頭に重いものが来た。

 土間が、斜めに起き上がってきた。

 目の前が暗くなった。耳だけが、まだ起きていた。

「指が、指が」

「騒ぐな。火は入れるなよ」

「いつまで」

「日が変わるまで待て。七日に、だ」

 誰かが俺の肩を返し、外套を剥いだ。続けて、軍服の上着の釦が上から外されていく。

 外套も上着も、官給品だ。貸与の品を私人が持ち出せば、員数が合わん。返せ、と言いかけたが、口は土間の埃を噛んでいただけだった。上着の隠しには、懐中時計が入ったままだ。あれも員数に入れておく。

 頭の芯で、少しだけ笑えた。

 棺のほうで、衣擦れがした。俺の上着が、誰かに着せられている。硬い金具が、床に置かれた。軍刀の鞘だ。

 灯油の匂いが、急に濃くなった。床に撒かれた油が、俺の頬まで流れてきて、冷たい。

 足音が三つ、遠ざかる。表の戸が閉まり、外で閂が落ちた。

 手首から先が、自分のものにならない。一本ずつ握っては開く。五本ある。

 内着一枚の背中に、土間の冷えが上がってくる。後ろ頭が脈を打つたびに、闇が少し明るくなり、また暗くなる。

 どれほど経ったか。川向こうで、寺の鐘が鳴った。数えかけて、やめた。数えなくても、何の鐘かは分かる。

 日が変わった。霜月七日だ。

 表の戸の下から、火の舌が一枚、這いこんできた。


 熱が、顔より先に、耳に来た。

 油の上を、火が線になって走る。棺の白木が、端から明るくなっていく。表の戸は、もう戸の形をした火だった。

 床を這って、川の側へ向かった。煙の下には、吸える空気が一寸ほど残っている。肘で進む。膝が遅れる。構わず肘で進む。

 目が焼ける。喉の奥が、乾いた砂を詰めたように擦れる。髪の焦げる匂いが、自分の頭からした。

 川戸に、手が届いた。

 押した。動かない。板の継ぎ目に指を差しこむと、向こう側に、太い角材の手触りがあった。内側には、手を掛ける金具が一つもない。

 舟から荷を受けるための戸だ。開けるのは、いつも外の者なのだろう。

「なら、開く」

 立ち上がって、肩から当たった。

 一度目は、骨が鳴っただけだった。背中が熱い。二度目で、継ぎ目の板が一枚、外へ撓んだ。三度目で、板が割れた。

 割れた木口が、掌に刺さった。割れ目から、冷たい風が吹きこんだ。火が、それを喜んで伸び上がる。

 腕を差し出し、肩をねじこんで、体を外へ押し出した。

 左の袖口が、何かに掛かった。戸の釘だ。

 布の裂ける感触が、手首を走った。

 探ると、当て布は袖口に残っていた。妻が玉を作らずに二度返した針目が、指の腹に硬く触れた。

 足の下に、板がなかった。

 下は、暗い水だった。

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