予約どおりの命日
起こしてほしかったのは、この人ではなかった。
「奥様。甲斐であります」
障子の向こうの声は、夫の部下の曹長のものだった。私は布団の上に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。窓の外は、まだ暗い。
霜月七日。夫を花婿にした冥婚の予約状に、御命日として書かれていた日の、夜明け前だった。
障子を開けると、甲斐さんは廊下に膝をついていた。肩の厚い体が、いつもより一回り小さく見える。頬に、煤の筋が一本ついていた。
「賊は、捕まりましたか」
考えるより先に、ゆうべの続きを訊いていた。夫が出ていってしばらくして、兵二人と甲斐さんが、宵坂に賊が入ったと駆け戻ってきた。私が知っているのは、そこまでだ。
「賊は、おりませんでした。裏木戸に、爆竹が投げこまれていただけであります。燃え殻は自分が拾いました。それから、河岸の丸甚の倉が、燃えました。日が変わったころであります。少佐殿は、自分らを宵坂へ戻されて、お一人で」
そこで、報告が切れた。
私は帯を締め直した。結び目が一度で決まらず、二度目で締まった。
「河岸まで、俥代はいかほどでしょう」
「……自分が、お送りいたします」
河岸は、霜と煤で斑になっていた。
焼け跡の手前に縄が張られ、若い兵が一人、銃を立てて番をしていた。
「ここから先は、軍の検めが済むまで」
「鷹尾の妻でございます」
兵は甲斐さんの顔を見て、縄を持ち上げた。妻、の一語で縄が上がる。届に保留と書かれているあいだは、私はまだ、法の上でこの人の妻だ。
倉は、焼け残った柱が何本か立っているだけだった。川へ傾いた屋根の残りから、まだ細い煙が上がっている。火消しの法被が、燻る所へ水を掛けて回っていた。
縄の内側に戸板が一枚置かれ、筵が掛けてあった。筵の端から、焦げた肩章がのぞいている。脇に、鞘の黒ずんだ軍刀が横たえてあった。
夫の上着だった。ゆうべ、外套の下に着ていった上着だ。
「奥様。このたびは」
戸板のそばに、柏木さんがいた。銀鼠の羽織の裾が、灰で汚れている。隣には黒紋付の叔母様が、閉じた扇を胸の前に持って立っていた。
「火消しの頭が、寮の後援会の者でしてね。真っ先に私どもへ知らせてくれたのですよ。奥方様には、私どもからお知らせいたしました」
柏木さんは穏やかに頭を下げた。私は下げ返さなかった。下げたら、筵から目が外れる。
「手を、見せていただけますか」
戸板の向こうに、外套の下から白衣の裾を出した軍医が立っていた。
軍医は、黙って私を見返した。
「手を、見せていただけますか」
同じ言葉を、もう一度言った。軍医は少し迷ってから、筵の端を、右手の側だけめくった。
黒かった。
指は内へ曲がって固まり、どれが何指かも分からない。爪も、節の皺も、筆だこの有る無しも、炭の色の下に沈んでいた。
私は見た。見続けた。黒い指は、何一つ返してこなかった。
目が、反対の側へ動いた。左の袖口。上着の下の内着に、四日の朝、私が当て布をした。うちの止め方の針目なら、煤の上からでも指で探せる。
「左の袖口を、確かめとうございます」
踏み出した私の前に、叔母様の閉じた扇が、すっと下りてきた。通せんぼの高さだった。
「お控えなさいませ。往来ですこと」
扇の骨を見たとたん、口が先に開いた。
「叔母様。三日に届いた毒の茶箱には、叔母様の名刺が添えてございました」
火消したちの手が止まった。水桶の音が、一つ遅れて鳴った。
叔母様は、扇を下ろさなかった。しばらく黙って私を見て、それから口を開いた。
「宵坂様」
冥婚屋さん、ではなかった。家の外へ出す呼び方だった。
「届が出ておりますのよ。あなたに、この方の御遺体に触れる筋はございません」
届。保留の二字が書かれたまま、役所の棚で止まっているはずの、あの離縁届だ。侯爵家の奥方が、どうしてその棚の中身を知っているのだろう。黒紋付の黒が、一つ濃くなって見えた。
「往来で鷹尾の者を毒の手とお呼びになる方に、侯爵家の甥をお預けするわけにはまいりませんのよ」
軍医が、筵を戻した。
「陸軍の者の変死は、まず軍が検めます。侯爵家のお申し出に従って、検視は済ませました」
それだけ言うと、軍医は私ではなく、焼けた柱のほうを見た。兵が二人寄ってきて、戸板の両端を持ち上げた。
筵の端が、私の目の高さを通り過ぎていった。
袖口までは、一歩半だった。その一歩半を、私は自分の口で塞いだ。
「このままでは、少佐がお寒いでしょう」
柏木さんが、戸板と私たちのあいだへ、静かに一歩出た。
「焼き場の費えは、私どもで持ちます。寮の子らを送るときと、同じようにね。帰雲寺の焼き場なら、今日のうちに火が入れられますな」
「今日のうちに、でございますか」
火消しも兵も、私の顔を見なかった。
柏木さんだけが、困った子を見る目をした。
「奥様。熱で逝った寮の子を送ったときも、私どもは一晩も待たせませんでした。待つほど、残る者がつらいのですよ」
それから叔母様に向けて、笑みを深くした。
「——それが、いちばん少佐のためでしょう」
叔母様が頷き、軍医が頷いた。それで、決まった。
帰雲寺。
「その寺、覚えておけ。俺が死んだら、まず坊主の手を見ろ」
ひと月前、朱の位牌を覗いて、夫は軽口の顔でそう言った。
その寺の火が、今日、夫を焼く。
遠ざかる戸板を見たまま、私は唇を閉じていた。
骨は鷹尾の本家へ運ばれた、と夕方に人づてで聞いた。
帰雲寺へは、行かなかった。行けば叔母様の前で、また何か言う。
借家の奥の間では、夫の布団の真ん中で、伍長が丸くなっていた。この家の縁の下に住みついている、灰色の子猫だ。どかす気にはなれなかった。そこが温かいのを、この子も知っているのだ。
裏木戸が鳴って、祖母が膳を提げて入ってきた。痛めた肩をかばい、片手で。
「お祖母ちゃん、私、要らない」
「食べな。怒るのは、腹に何か入れてからだよ」
祖母は膳を私の膝の前に据え、それから伍長を見下ろした。
「婿どのの布団に、猫が先に入ってるのかい。猫にまで先を越されて、婿どのも災難だよ」
膳の端に、皮の焦げた焼き芋が半分載っていた。夕方の芋屋の声を、今日の私は一度も聞いていない。聞こえていたのに、耳が素通りさせたのだろう。
「半分だけ?」
「残りはあたしが食べたよ。毒見さ」
慰めなのか、ぼやきなのか分からない。私は汁を一口すすった。熱かった。息を吹いて、もう一口すすった。
戸口で、軍靴が一度だけ鳴った。
甲斐さんだった。土間に立ったまま、上がろうとしない。祖母がちらりと見て、空いた椀を持って台所へ立った。襖は、指二本ぶん開いたままだった。
甲斐さんは懐から、手拭いの包みを出した。
「焼け跡で、自分が拾いました。連隊へは、出しておりません」
それきり、何も足さなかった。
包みを開くと、懐中時計だった。夫がいつも上着の隠しに入れていた、蓋の擦れた銀側の時計。硝子は煤で曇り、針は零時二十分で止まっていた。
掌に載せると、冷たかった。焼け跡の霜の冷たさを、そのまま連れてきていた。
握っているうちに、少しずつ温まってくる。勤めから帰った夫が外套を脱いで、隠しから出して棚に置く。あのとき指に触れる、あの人の体の温度。手の中の時計が、そこへ近づいていく。
近づききる前に、私は手拭いへ戻した。端を折り込んで、きつく包んだ。
甲斐さんが、背を伸ばした。懐から、四つに畳んだ紙をもう一枚出す。連隊の朱の判が、裏まで透けていた。
「奥様。連隊の決定を、お伝えせねばなりません。自分が、申しつかってまいりました」
お読みにならないで、とは言わなかった。読まれなくても、紙はもう判を捺されている。
甲斐さんは紙を広げ、一度、喉を鳴らした。
「陸軍少佐、鷹尾暁人。霜月七日、殉職と……決しました」




