寡婦にもなれない
夫の死亡広告は、夫が赤を入れたとおりに刷られていた。
霜月八日の朝刊の、下の隅。急逝の二字はなく、喪主の行の脇に、細い活字で『妻 銀子』とある。
私はそれを一度だけ読んで、畳んだ。畳んだ新聞は、夫の文机に置いた。続きは、あの人が帰ってから読めばいい。
それから、夫の枕の下へ手を入れた。封は、まだあった。裏に、霜月八日。今日の日付だ。
封は切らずに、懐中時計と同じ手拭いの包みへ入れた。
本当なら今朝、夫は私の茶を湯で割って飲み、判事の前へ出かけるはずだった。二年前に死んだ兄君は病死ではない、と申し立てるために。
伍長が、夫の布団の真ん中で伸びをした。ゆうべの私は、その端で膝を抱えて眠った。
「朝早くに相すみません。戸籍係の根津でございます」
土間で、胸に天眼鏡を下げた年配の男が帽子を取っていた。役所の人が、自分の足で家まで来る。いい報せのはずがない。
「わざわざ、お越しいただいたのですか」
「惚れ惚れする判でございましたので」
根津さんは、悪びれもせずに目を細めた。
「あれほどの黄楊の判の始末を、使いの小僧に言わせるのは忍びなくて。奥様の御異議は、御本人様とともに消えました。御離縁は受理となり、届の日付の、先月十三日にさかのぼります」
「受理の手数料は、どちらの払いになりますでしょう」
「いえ、それは届を出された方のほうで、もう」
御本人様が御存命のうちは、とこの人はあの日、窓口で言った。その但し書きが、今朝、効いた。
夫に茶を淹れた夜も、袖口を繕った朝も、紙の上の私は、もう他人の女だったことになる。他人の女に、喪主の席はない。お骨を抱いて帰る役もない。
根津さんは丁寧に頭を下げて帰っていった。
昼前、祖母が裏木戸から入ってきた。
何も訊かなかった。奥の間へ上がると、伍長を追い立て、私の寝具を畳んで紐を掛ける。
「今夜から、うちで寝な」
「お祖母ちゃん、肩」
「うるさいね」
祖母は、痛めているほうの肩にそれを担ぎ上げた。担いだ拍子に、喉の奥で短く息が鳴った。それきり振り向かずに、裏木戸を出ていく。
小さな背中だった。敷布の白が、その背中から両脇へはみ出していた。
私は何も言えずに、後ろを歩いた。手を貸そうとすれば、祖母はきっと、あたしの帯がどうのと別のことで怒りだす。
自分の家の奥の間に荷を下ろすと、祖母は肩をさすりもせずに煙管を取った。
「侯爵様のお屋敷の通夜、行くのかい」
「末席でいいから」
「なら、背筋だけは伸ばしときな」
一服吸って、煙を長く吐く。
「本家から言付けだよ。残りのお勤めは、喪が明けるまで延ばすってさ」
十二軒のうち、母の名を下ろせたのはまだ二軒だ。残りの家の墓では、母が今も知らない男の妻のままでいる。
「怒っといで。急いでよくできた嫁になることはないよ」
嫁、と祖母は言った。紙の上では、もう誰の嫁でもない女に。
喪服に着替えてから、私は手拭いの包みを懐へ入れた。零時二十分で止まった夫の懐中時計と、切っていない封だ。どの隅に座らされても、あの座敷へ連れていける夫は、これだけだった。
侯爵家の座敷は、広すぎて寒かった。
焼香を済ませて振り向くと、叔母様が閉じた扇で、廊下に近い隅を指していた。
「宵坂様のお席は、あちらに」
親戚の誰かが、冥婚屋の、と小声で言った。言われた私より、言った人のほうが先に目を逸らした。
祭壇には黒い縁の写真と、真新しい位牌。白木の箱は、今朝のうちに侯爵家の菩提寺へ納めたという。いちばん後ろの座布団からは、写真の顔もよく見えない。
焼香の列が途切れたころ、背広の若い男が、膝で畳をにじって私の隣まで来た。
「宵坂さん、ですね。検事局の各務です。今日、予審の場で、少佐からお兄上の件を伺うはずでした」
今朝、夫が出かけるはずだった先の人だ。
「予審は、告訴人を失って延期です。お預かりした茶箱の茶からは、附子が出ました」
各務さんは、畳に両手をついた。
「昨日、帰雲寺へ走ったんです。私が着いたときには、もう煙でした」
「少佐は先週、申し立ての朝は家で茶を一杯飲んでから来る、と。遅れたら妻の淹れ方のせいにしてくれ、と。……たしか、そう言っていました。私は、遅れても待つつもりでいたんですが」
あの人は、よその人の前で私の茶の話をしていたらしい。いつも半分は湯で割って飲む茶を、淹れ方のせいにするつもりで。
私は帯締めの房を指に巻きつけた。ほどけるまで巻き直して、顔は上げなかった。
詫びられても、煙は戻らない。けれど末席まで膝で来た人は、この座敷にこの人一人だった。
「施主の字の跳ねは、柏木様の手です。位牌を彫ったのも、焼いたのも、帰雲寺です」
各務さんは、困った顔をしなかった。困るより先に、正直な顔をした。
「字の跳ね一つで寄進者名簿のいちばん上のほうを引けば、私が明日には地方の区裁判所でしょう」
腹が立った。夫を焼いた煙の話の最中に、この人は自分の明日の行き先を案じている。
黙って見ていると、各務さんは目を伏せた。
「茶の出どころは、追います。必ず、とは言えませんが」
必ず、と言われるより、そのほうがまだ信じられた。
襖が開いて、揉み手の男が入ってきた。丸甚の甚兵衛だ。
甚兵衛は上座の叔母様の前へ這い寄り、額を畳にこすりつけた。
「手前ども、施主様の御言付けをお持ちいたしました。お届けした御位牌にて、予約どおり九日の夜に御祝言を。お骨は、菩提寺に置いたままで、と。へえ、それだけでさ」
お骨は、置いたままで。
叔母様は、閉じた扇を膝に置いたまま、甚兵衛を見下ろした。
「施主とは、どなたですの」
「取次でございますので」
甚兵衛は、それきり額を上げなかった。
叔母様の目が、膝の脇の新聞へ落ちた。今朝の朝刊が、広告の面を上にしておいてある。
「喪主はこちらでございますのに、離縁された方のお名前が、甥の広告に載っておりますのよ。鷹尾の恥を、帝都じゅうに配ってくださいましたこと」
扇の先が、紙の一点を押さえた。何が刷ってあるかは、見なくても知っている。
「前金の済んだ御祝言を、こちらの都合で反故にするのは、鷹尾の筋ではございません。施主様のお望みどおり、九日の夜に挙げさせなさいませ。花嫁は、冥婚屋の宵坂様に。お雇いするのですもの。お代は、こちらでお払いいたします」
座敷が、しんとした。
離縁された女を、雇いの冥婚屋として、夫の祝言に座らせる。妻の席ではなく、雇い人の席に。
叔母様の隣で、柏木さんが穏やかに頷いた。
「お受けになるのが礼儀ですな」
座敷じゅうの目が、末席の私に集まった。
頬が熱くなる。膝の上で、指が勝手に握りこまれる。祖母のお許しは出ている。今ここで立って、怒鳴ってもいい。
お骨は、置いたままで。
どうして施主が、骨の置き場所にまで口を出すのか。
弔いの支度に、骨を寄越せと言う家はあっても、寄越すなと言う家は聞いたことがない。うちの予約帳にも、そんな注文の書きようはない。
冥婚の花婿は、位牌だけでも立つ。けれど骨がその場にあれば、来るのは位牌に書いた名の声ではない。そこに眠る本人の声が来る。
私はそれを、一度聞いている。嫁ぐ前の冬、よその家の跡取りの冥婚に、花嫁として座った夜だ。綿帽子の下へ来たのは、跡取りの声ではなかった。
『——おっかあの味噌汁は、しょっぱい』
知らない若い男の、田舎の訛りだった。棺に入っていたのは、顔も知らない男だった。白無垢の下で、背中の汗が一度に冷えた。
あの言付けの主は、骨を座敷へ持ちこませたくない。その声が出ては困る人だ。
骨は、夫ではないかもしれない。
焼け跡で見た右手は、爪の形さえ炭の下に沈んでいた。位牌だけの祝言で、もし、何も来なければ——
私は座布団から一つ下がり、叔母様に向き直って、畳に手をついた。お客様の前で、何度もそうしてきたとおりに。
声は、自分でも驚くほど平らに出た。
「承ります。前金なら、もういただいております」




