夫に嫁ぐのは、二度目
夫に嫁ぐのは、二度目だった。
一度目の春は、隣に本人が座っていた。今夜の私は、侯爵家に雇われた冥婚屋の花嫁として、あの人の位牌の隣に座る。
宵坂の支度部屋で、衣桁から母の白無垢を下ろした。裾には、母の仕立てと私の繕いと祖母の始末、三代の針が入っている。その脇で、糸が一寸ほど浮いていた。
針箱へ手を伸ばす前に、佐和さんがにじり寄ってきた。本家の衣装係で、この白無垢の着付けを任せている人だ。
「三代の針に、一針だけ、混ぜさせてくださいまし」
頼む口ぶりなのに、針にはもう糸が通っていた。
ひとすくいして、半目だけ戻して止める。六つの私が、母の膝の脇から見上げていた止め方だった。
「どちらで、その止め方を」
「教わったことがございます」
それだけ言って、佐和さんは糸を歯で切った。
母に針を習った人が、まだ本家にいた。そう思うと、喉の下が温かくなった。
「花嫁さま、腕をお上げくださいまし」
帯が胴を回った。締めは少し緩く、息を深く吸っても、どこにも当たらない。
母の針箱から銀の簪を出して、髷へ挿した。片方だけの革手袋は、左の袖へ入れた。
去年の晩秋、帳場で倒れた私の枕元に、まだ夫でもなかったあの人が置いていったものだ。返しに行くと「片方では役に立たん。預けておく」と真顔で言われた。わざと忘れたのだと、私はいまだに睨んでいる。
廊下から、祖母が入ってきた。痛めた肩をかばい、もう片方の手に綿帽子を提げている。
祖母は白無垢の私を、頭から裾までじろりと眺めた。
「雇いの手間賃、いくらで請けたんだい」
「相場どおり。叔母様のお払いです」
「侯爵様の家から、相場しか取らないのかい。安く売ったもんだよ」
ぼやきながら、祖母は煙管を帯に差し直した。
「黙って逝った仏さんは、宵坂には一人もいないよ」
「うん」
祖母は綿帽子を私の頭に載せ、端を指で二度引いて整えた。それから、背を向けながら言った。
「行くなら、泣き方くらい決めてから行きな」
返事をする前に、祖母の足音は台所のほうへ遠ざかっていった。
侯爵邸の離れには、火の気がなかった。
案内に立った白髪の家扶は、縁側の柱の前で、ふと足を止めた。鷹尾の家に長く仕えて、夫を赤子のころから知っているという老人だ。
「この柱に掴まって、暁人様が初めてお立ちになりました。乳母が目を離した隙でございまして、爺は肝を潰しまして。それからはもう、どこへでも這っていかれて、倉の梯子にまで」
言いかけて、家扶どのは自分の口を押さえるように頭を下げた。
梯子のてっぺんで何をしたのか、聞いてみたかった。今夜でなければ。
「失礼をいたしました、若奥様。お支度は、整っております」
座敷の床の間に、白木の位牌が立っていた。
ひと月前、店へ届いたあの位牌だ。俗名の彫りには、生きている人の名を先に刻むときの朱が、まだ残っている。
蝋燭の火が、その朱の上で一点だけ揺れた。
施主の席は空いていた。叔母様と柏木さんは、控えの間の襖の向こうにいる。列席は、その二人きりだった。
その襖が少しだけ開いて、叔母様の声がした。
「宵坂様。夜明けまでは要りませんことよ。夜更けの鐘で、お仕舞いになさいませ」
「承ります」
花嫁を夜明けまで座らせない冥婚も、うちの予約帳では初めてだった。返事を待たずに、隙間は閉じた。
祝言帳を開く。冥婚の夜、花嫁と花婿の名を並べて書き、読み上げる帳面だ。
花嫁の欄に、宵坂銀子と書いた。離縁の届が通ってから、この苗字は商いの名ではなく、ただの私の名になった。
花婿の欄を、声に出して読む。
「花婿、鷹尾暁人」
一つ屋根の下で半年寝起きして、一度も口にしなかった名だった。初めて呼んだ相手は、白木の札だった。
春の祝言の夜、綿帽子の下へ届いたのは、隣で答える夫の声と、列席の人のざわめきばかりだった。生きている人と盃を交わしても、死者のひと言は来ない。
盃を取った。
干した。
胸の内は、凪いだ水のままだった。
位牌に向かって、手をつき直す。一杯目で聞き漏らしただけなら、二杯目には来る。
盃を満たして、もう一度干した。
来なかった。
蝋燭が、指一本ぶん短くなった。綿帽子の内側を、自分の息だけが行き来している。
生きているのか。
それとも、私に言い残すことなど、一つもなかったのか。
夜更けの鐘が鳴るまで、私は位牌の前で背筋だけを伸ばしていた。最後の一つが消えてから、綿帽子の端に手を掛けた。
離れの廊下へ出ると、佐和さんが膝をついて待っていた。私が顔を上げるより先に、佐和さんの口が動いた。
「少佐様は、何と」
帯の結び目へ伸びかけた手を止めて、先にそれを訊いた。
控えの間の襖が、細く開いている。叔母様の黒紋付の裾と、柏木さんの銀鼠の羽織の端が並んでいた。その後ろに、家扶どのが提灯を抱えて控えている。
予約状の末尾の、書式にない一行が、耳に戻ってきた。
『花婿のひと言は、施主へ口頭にて御報告のこと』
施主は骨を座敷から遠ざけ、位牌だけを寄越して、報告を欲しがっている。
何も来なかったと言えば、夫が狩られる。
それに、今夜のあの静けさを、襖の向こうの人たちに、一欠片でも渡したくなかった。
私は、佐和さんの目を見た。
「花婿は、『湯を、沸かしておけ』と」
佐和さんの両手が、膝の上でそっと重なり直した。
言い終えてから、袖の中の手袋を、指が潰れるほど握っていたことに気づいた。
襖の向こうで、閉じた扇が畳に置かれる音がした。続いて、柏木さんが穏やかに言った。
「少佐らしいお言葉ですな」
柏木さんの羽織は、少しも動かなかった。動いたのは、その後ろの提灯の火だけだった。
門までの石畳には霜が降りて、草履の裏が一足ごとに貼りつくようだった。
門の提灯の下で、甚兵衛が腰を折っていた。
「花嫁さん、施主様への御報告を、手前どもがお預かりに上がりました。へえ、ひと言で結構でして」
私は同じ言葉を、同じ声で、もう一度言った。
甚兵衛の顔が、提灯の明かりの中で緩んだ。揉み手が、一拍だけ速くなる。
「へえ、確かに」
甚兵衛は頭を下げきらないうちに、暗い道へ小走りに消えていった。
あのひと言は、夜が明けるより先に、施主の耳へ届くのだろう。
振り向くと、提灯を提げて送ってきた家扶どのが、門柱に片手をついていた。
皺の深い頬を、涙が伝っていた。人前で泣く年の人ではない。拭おうともしなかった。
「いつもの……若様でございます」
夫は、私の淹れた茶に、いつも黙って湯を足して飲んだ。熱いから、とは言わなかった。濃いから、とも言わなかった。
祖母に言われた泣き方を、私は決めてこなかった。泣かずに済む顔だけを、門まで運んできた。
家扶どのは門番の小屋へ私を招き入れ、硯を出してくれた。聞いた言葉は、その夜のうちに祝言帳へ書き入れる。それが宵坂の決まりだ。
筆に墨を含ませ、花婿の名の下へ運ぶ。
書き出す前に、筆先から一滴落ちた。
墨は余白に丸く落ちて、ゆっくりと紙の目に沿って広がっていった。死者の声が胸の底へ沁みてくるときと、そっくりの広がり方だった。
ああ、聞いたのだ、と一瞬思った。
違う。
私が今、自分で作った。




