薬代を数える女
目を開けると、女が俺の薬代を数えていた。
天井が低い。戸口は一つ、窓は一つ、人は女が一人。妻ではない。妻なら、銭を数えるときに唇を動かさない。
「十銭、二十銭、三十銭……膏薬が八銭、焼酎が五銭」
板の間に銭を並べる音が、やけに律儀だった。戦場で目を覚ましたことは何度かあるが、銭の音で起きたのは初めてだ。おかしくなって息を吐くと、頭の後ろが割れるように痛んだ。
手をやると、晒が巻いてある。触れた指に、乾いた血の粉がついた。
女が振り向いた。日に焼けた頬に、襷の跡。河岸の橋の下で、妻の袖を掴んでいた洗い張りの女だ。六日の夜、倉に棺が入ったと裏木戸を叩きに来た女でもある。
すずだ。
「やっと起きた。兵隊さん、三日寝てたんだよ」
「ここはどこだ」
「あたいの長屋。七日の、日が変わったばっかりのころだよ。倉の見張りしてたら、焼けた戸から兵隊さんが川へ落っこちてきたんだ。棹で引っかけて、ここまで引きずった」
「今日は何日だ」
「霜月の十日」
八日の朝、俺は判事の前で、兄上の件を申し立てるはずだった。その朝を、ここで寝て過ごした。
告訴人が出てこなければ、予審は止まる。判事を責める筋はない。寝過ごしたのは俺だ。
「借りができた」
「借りじゃない、貸しだよ。勘定は全部ここにある」
すずは顎で銭の列を指した。
「長屋の端の爺さん医者に、頭を七針縫わせた。熱冷ましと、口止め料。しめて一円四十三銭」
「口止め料まで俺の払いか」
「口止めも薬代のうちだろ」
俺は肘をついて起きかけた。
「宵坂へ使いを出せ。妻に」
「出さないよ」
すずは銭を一枚ずつ巾着へ戻しながら、こちらを見ずに言った。
「丸甚の倉番と河岸の巡査は、飲み仲間なんだ。八日には、河岸を嗅ぎ回ってる連中が、この長屋の前まで来た。官にも宵坂にも、走れるもんか」
巾着の紐が、きつく引かれた。
「兵隊さんが生きてるって知らせるのは、あたいの亭主を見つけてからだ。それまで、兵隊さんはあたいの札だよ」
「俺を質に取るのか」
「質じゃない。担保だってば」
「軍はね、兵隊さんを殉職にしたよ」
「そうか」
「焼け跡の骸が、兵隊さんの上着を着てたんだって。その日のうちに、寺で焼いちまった」
「誰を焼いた」
「知るもんか。あたいが知ってるのは、兵隊さんが焼かれてないことだけだよ」
倉で俺の上着を剥いだ手を思い出した。喉を掴んできた手は、小指が一本足りなかった。その手の薬指を、俺が折った。
あの上着を、別の男が着て焼かれた。
頭の傷より、そちらのほうが重かった。
昼過ぎ、すずが洗い場から戻ってきた。
濡れた手で、畳んだ新聞を俺の胸に放る。
「字は半分しか読めないけど、兵隊さんの名前は分かる。それと、紙の奥さん、離縁が通っちまったって。それでも花嫁やったんだよ、ゆうべ。兵隊さんの」
「花嫁を」
「読みなよ。あたいが読むより早いだろ」
開くと、社会面の下に俺の名があった。見出しの活字が、少佐、冥婚、最期、と並んでいる。本文の細かい字は目が滑った。熱の残る目が、一行だけに止まった。
『湯を、沸かしておけ』
宵坂の花嫁が冥婚の夜に聞く、花婿のひと言だ。死んだ男の、言い残しだという。
笑いが出た。
出かける前の俺が、玄関で言いそうな言葉だった。茶は濃い、だから湯を沸かしておけ。言い方まで、俺の口だ。
「……俺が言いそうだな」
すずが、何がおかしいのかという顔をした。俺はもう一度笑い、傷に響いて、晒の上から頭を押さえた。
ひと言は、死んだ男からしか来ない。
生きている俺から、何も届くはずがない。
銀子が、嘘をついた。
施主と侯爵家の前で、雇われの花嫁として座らされた夜に、白無垢のまま、俺の口ぶりをこしらえた。
新聞の端が、指の中で皺になっていた。
「それ、侯爵様んとこの奥方が、記者を呼んで配ったんだって。洗い場じゃ朝からその話だよ」
叔母上だ。妻が施主へ返したひと言を、叔母上は一晩で活字にした。
「河岸を嗅ぎ回ってた連中、今朝から来ないんだってば」
すずが、土間で盥の水を替えながら言った。
「倉番も、巡査と昼から酒だよ。気味が悪いったらない」
俺は布団から片足を出していた。いつ出したのか、自分でも覚えていない。足の裏に、畳の冷たさが来た。
宵坂まで、河岸から市電で四つ。歩けば半刻。
その足を、布団の中へ戻した。
すずは何も訊かなかった。盥の水を戸口の外へ撒いて、空の盥を逆さに伏せた。
「腹が減ったなら、粥は一杯二銭だよ」
「二杯もらう」
「三杯目からは三銭」
値上がりの理屈は訊かずにおいた。
日が落ちてから、俺はすずに頼んだ。
「連隊の門へ行って、甲斐という曹長を呼べ。鷹尾の忘れ物を届けに来た、と言え。それで通じる」
「駄賃は」
「出す」
「勘定に足しとくよ」
一刻ほどして、長屋の戸が開いた。
すずの後ろで、甲斐が身を屈めて戸口をくぐった。肩の厚い体が、狭い土間を半分塞ぐ。行灯の明かりが、俺の顔に届いたところで、甲斐の顔から血の気が抜けた。
甲斐は一歩下がり、踵を鳴らして敬礼した。
「ゆ、幽霊少佐殿に、敬礼!」
「足はある。見ろ」
布団から両足を出してやった。甲斐は手を額に当てたまま膝を折り、俺の足の甲を、指の先で一度だけつついた。温かかったらしい。顔の色が、少しだけ戻った。
「自分は、幽霊だけはだめであります。子どもの時分から、墓の前を通るのもだめであります。それでも、少佐殿が化けて出られるなら、自分のところへだと思っておりました。あの晩、自分は少佐殿のおそばを離れましたので」
六日の晩、宵坂へ戻れと命じたのは俺だ。
呆れて、少し笑った。まだ頭に響いた。
すずは土間の柱にもたれて、その様子を眺めていた。
「兵隊さんとこは、幽霊にまで敬礼するんだね」
「俺の部下だけだ」
甲斐はまだ、額に手を当てたままだった。
「手を下ろせ。それから、ここで見たことは連隊にも言うな」
「はっ。幽霊少佐殿の御命令とあらば」
直す気はないらしい。それでいい。死人の部下としては、正しい呼び方だ。
「奥様は」
甲斐の声が、そこで詰まった。
「殉職のお報せは、自分がいたしました。焼け跡で拾った少佐殿の懐中時計は、奥様のお手元に。零時二十分で、止まっておりました」
時計は、妻が持っている。それだけ分かれば足りた。
「すずどの、鋏を貸せ」
すずは張り板の脇から、裁ち鋏を取って寄越した。
枕元に、洗って畳んだ俺の内着があった。左の袖口は、釘に掛かったところから裂けている。裂け目の手前に、妻の当てた布が残っていた。
当て布の外側、一寸を残して刃を入れた。妻の針目には、刃を寄せない。玉を作らず、二度返して糸の端を隠した目だ。鋏を持つ手が、軍刀を研ぐときよりも遅くなった。
切り取った袖口を、昼の新聞で包んだ。妻の嘘が刷ってある面を、内側にした。
すずは手を出さずに、俺の膝の上の包みを見下ろしていた。
「担保を宵坂へ出せってこと? 亭主が先だって、言ったろ」
「出すのは袖口だけだ。俺はここにいる」
すずの唇が、銭を数えるときのように動いた。
「すずどのの亭主は、俺が捜す。宵坂へ帰るのは、そのあとだ」
「……言ったね。証文の代わりに、覚えとくよ」
すずは新聞の包みをひったくり、隅に積んだ洗い張りの風呂敷をほどいた。仕上がった反物の間に、新聞の包みを挟む。上から結び直すと、どこから見ても、仕事の届け物だった。
「宵坂の裏木戸へ。妻に、手から手へ」
「名前は出さない。字も書かない。それでいいんだね」
「何も言うな。これを渡せ」
「駄賃は」




