縁起の悪いものは
「叔父のときと同じで、少佐様のお言葉も、胸に沁みました」
朝いちばんに宵坂の店へ来たのは、先月、叔父様の風鈴を受け取ったお稲さんだった。
上がり框の畳に、お稲さんは両手をついていた。膝の前に、新聞の切り抜きが一枚置いてある。四角く、丁寧に鋏が入っていた。社会面の下の、少佐、冥婚、最期、と見出しの活字が並ぶ記事だ。
「叔父は最後に一つだけ、私のための言葉を残してくれました。少佐様も、奥様のための言葉を残されたんですね。湯を沸かしておけ、だなんて。帰ってくる人の言い方で」
目尻が赤い。
「あの風鈴、舌のないまま枕元に吊ってあるんです。少佐様の湯も、どこかで誰かが沸かしてるんでしょうね」
私は、手をついたまま頭を下げた。
お稲さんは帯の間から、半紙にくるんだおひねりを出した。
「お礼です。少しですけれど」
「お代は、叔父様のときにいただいております」
「叔父の分じゃありません。少佐様の分です」
押し返そうとした指が、その手前で止まった。半紙の角が、きちんと揃えて折ってあった。
半紙の包みを、両手で、お稲さんの膝の前へ押し戻した。それ以上は、何も言えなかった。
代わりに、お茶を淹れて出した。お稲さんは湯呑みを胸の前で持ったまま、最後まで嬉しそうな顔をしていた。帰りしなに切り抜きを懐紙へ挟み直し、おひねりと一緒に、帯の間へそっと戻した。
見送りに出ると、路地の井戸端で、洗い物をやめた女たちが、こちらを見ている。
「宵坂の女に惚れた男は、死ぬんだってさ」
誰の声かは分からなかった。昼前に、来月の冥婚の取り消しの文が一通届いた。日柄の都合により、とだけ、几帳面な字で書いてあった。
昼過ぎ、もう一通、封書が来た。
表に、右上がりの字で「汐様の御息女様」とある。本家の衣装係の佐和さんからの、悔やみ状だった。私の名はどこにもない。母の娘としてだけ呼ばれている。
腹が立つより先に、汐の一字に目が行った。母の字に、似すぎている。筆の運びを追う前に、目を逸らした。
五つの冬、母は私の右手を上から包んで、筆を持たせた。
「夕が先。お水は、あとから添えるの」
手習いの師匠なら叱る書き順だ。母は、自分の名だけはそう書いた。包んだ手は、火鉢にかざしたばかりみたいに温かかった。
その母も、冥婚に出たきり帰らなかった。あの秋から、私は毎晩、勝手口で草履の音を待った。
帰らない人の手は、温かいまま覚えておくしかないのだろうか。あの人の手も。
悔やみ状を母の針箱の底へしまったところで、表に車の音がした。
八つ時だった。店の前に、黒い箱車が停まっていた。
運転手が扉を開ける前に、若葉寮の柏木さんはもう自分で降りていた。
私は、顔を作った。
「奥様。このたびは、まことに」
離縁が通っても、この人の口では、私はまだ奥様らしい。
柏木さんは框に浅く腰を掛け、帽子を膝に置いた。
「寮でも、少佐のお話は伝わりましてな。寮の子が一人、今朝の粥を一杯残しました。あの子が粥を残したのは、寮へ来て二度目です。一度目は、母親の夢を見た朝でしたよ」
「時に。あの予約状を、まだお手元に置いておいでとか」
茶の間の箪笥の、二段目にある。この人の筆と同じ跳ねの「施主」の二字ごと、封と、白い紙に包んだままの前金五円と一緒に。
「井戸端の口は、ああいうものから出るのです。離縁なさった奥様が、亡くなった方の命日を書いた書付を抱えておいででは、お商いにも障りましょう」
柏木さんは、目尻に皺を寄せた。
「縁起の悪いものは、処分なさるに限りますな。そうでしょう、奥様」
私は膝の上で手を重ねた。
「お預かりしたものは、施主様がお見えになれば、お返しいたします」
柏木さんは一拍だけ私を見て、それから声を立てて笑った。
「奥様らしい」
それきり、予約状の話はしなかった。代わりに、帽子の縁を指で回しながら言う。
「寮を出て奉公に上がった子のうち、独り身のまま逝った子が二人おりましてな。十六と、十七です。一人は寝相が悪くて、寮にいたころは、夜中に二度、布団を掛け直してやったものです。名は、私ども、一人残らず覚えております。あの子らの弔いを、奥様の耳でお願いしたい」
「承ります」
「では、お茶を一杯いただけますかな。日取りは、ゆっくり決めましょう」
柏木さんは、框から畳へ上がって座り直した。
私が湯呑みを置いたとき、表の戸が、がらりと開いた。
「ごめんよ。洗い張りの届け物!」
すずさんだった。風呂敷包みを一つ、框の端へ放って、こちらの返事も待たずに戸を閉めていく。
「紙の奥さん、確かに届けたからね」
下駄の音が、すぐに遠ざかった。
柏木さんの目が、包みへ行った。すぐに、湯呑みへ戻った。
柏木さんが茶を口へ運ぶ。そのあいだに、私は包みを膝へ寄せて、結び目の端だけをほどいた。
仕上がった反物の間に、新聞紙の小さな包みが挟まっていた。広げかけた紙の内側に、見覚えのある見出しが刷ってある。私の嘘の載った面を、わざわざ内に向けて畳んであった。
その中に、布の切れ端が一つ。
男物の内着の、左の袖口だった。煤の跡はなく、洗い張りの糊の匂いがする。
裏に、当て布。うちの止め方の針目だった。四日の朝、眠っている夫の腕を膝に乗せて、私が縫った目だ。
鋏は、当て布から一寸も外を通っていた。私の針目には、刃が一度も寄っていない。
焼けた骸から切り取った布なら、こんなふうには切らない。
足の裏が、急に遠くなった。
畳に座っているはずなのに、膝の下に何もない。柏木さんの湯呑みを置く音が、ずいぶん向こうで鳴った。
「奥様」
「弔いの日取りは、いつがよろしいでしょう」
「少々、お待ちくださいまし」
包みを框の陰へ押しやって、予約帳を開いた。来月の欄には、昼前に取り消された一行に、墨の線が引いてある。その下へ、筆を運んだ。
「師走の、二十日はいかがでございましょう」
「結構ですな」
寮の子、二人。冥婚。と書いた私の字は、いつもより少しだけ右へ流れていた。柏木さんは帳面を覗かなかった。茶をきれいに飲み干して、帽子を取った。
「いいお茶でした。寮の子らにも、一度飲ませてやりたいものですな」
それが、今日この人の口から出た中で、いちばん本当らしい声だった。
夕方の陽が、通りの向こうの屋根を赤くしていた。
箱車が角を曲がって見えなくなるまで、私は店先で頭を下げていた。顔を上げたとき、喉の奥で、何かが鳴った。
笑い声だった。
口を押さえても止まらない。膝から力が抜けて、戸口の柱に掴まった。通りがかった芋屋が、天秤棒を担いだまま、気味悪そうにこちらを避けていく。今日初めて、芋屋の声が耳に入った。
あの人は、生きている。
湯を、沸かしておかなくては。帰ってきたら、あの人はどうせ黙って足すのだから。
柱を離れて、路地へ駆けだした。
すずさんは、二つ先の角の天水桶に腰を掛けて、空の風呂敷を畳んでいた。私の顔を見るなり、眉を寄せる。
「なんだよ、その顔。笑うか泣くか、どっちかにしなよ」
「両方です」
袖で目尻を拭った。拭ったそばから、また喉が鳴る。
「すずさん、あれは、どこから」
「言わないよ。言ったら、あたいの勘定が狂うんだ」
すずさんは風呂敷を襷の脇へ挟み、私の目尻を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「明日の朝、上がった洗い張りを河岸まで取りに来る用があるだろ、紙の奥さん」
「そんな用は、頼んでおりません」
「今、できたんだってば」
すずさんは天水桶から下りて、顎で河岸のほうをしゃくった。
「来なよ。洗濯物抱えてりゃ、誰も見やしないって」




