会ったら、まず怒る
会ったら、まず怒ると決めていた。
朝まで待てと言われたのに、霜月十一日の夜、私は宵坂の勝手口で草履の鼻緒を確かめていた。怒る文句は、夕飯の芋を剥きながら三通り考えた。どれも途中で口の端が緩んで、使い物にならなかった。
戸を、二度叩く音がした。
開けると、すずさんが空の盥を抱えて立っていた。
「朝って言ったけど、兵隊さんが寝ないんだよ。起きて座って、戸ばっかり見てる。こっちが寝られやしない」
盥の中には、色の褪せた木綿の袷と、継ぎの当たった前掛けが畳んであった。
「着なよ。洗濯女の仕事着だ。河岸じゃ、これがいちばん目に留まらない」
台所の隅で手早く着替え、髷を手拭いで包んだ。母の簪は抜いて、帯の内へ。盥を抱え直したところで、背中で煙管の灰を落とす音がした。
祖母が、上がり框に腰を掛けていた。
祖母は私を、手拭いの縁から顎まで、ゆっくり眺めた。
「その顔で洗濯女は無理だよ」
頬に手をやった。口の端が、勝手に上がっている。夕方、店先で一度崩れてから、戻し方を忘れたままのところだ。
祖母は、それ以上何も訊かなかった。立って茶の間へ行き、引き返してきたときには、紺の綿入れを一枚抱えていた。冬の朝、夫が帳場の火鉢の前で羽織っていたものだ。祖母はそれを畳んだまま盥の底へ押しこみ、上から私の前掛けを被せた。
「下を向いて歩きな。河岸の女は、よそ見なんかしやしないもんさ」
祖母は痛む肩を回しながらぼやいた。
「まったく。葬式代、返してもらわなきゃ割に合わないよ」
すずさんが、戸口で噴き出した。
河岸の長屋は、川の匂いと糊の匂いが半々だった。
すずさんが戸を引くと、行灯が一つ、低い天井を黄色くしていた。破れ障子の隙間からは、霜夜の月が青く差していた。その下の布団に、夫が座っていた。
頭に晒を巻いている。頬がこけて、顎に髭が伸びている。半年同じ家で寝起きして、あの人の髭が伸びたところは見たことがなかった。この長屋に、男の剃刀などあるはずもない。
夫は私の前掛けを見て、手拭いを見て、それから、ようやく目を合わせた。
「早かったな」
盥を土間に置いた。置いたつもりで、半分落とした。
「早かったな、じゃありません」
声は、思ったより低く出た。三通り考えた文句は、どれも出てこない。
「六日の晩、甲斐さんたちを返して、お一人で入るとはおっしゃいませんでしたね。帰らないかもしれない、とも。生きていらしたって、あんなふうに黙っていかれたら、死なれたのと同じじゃありませんか」
「同じではない」
「どこが違うんです」
「戻った」
「戻ったのは、すずさんが棹で引っかけたからでしょう。あなたが戻ったんじゃありません。拾われたんです」
「拾われて、戻った。経路は問わん」
「問います」
夫が口を開きかけ、閉じた。もう一度開いて、低く言った。
「銀子」
九日の夜、綿帽子の下で、盃を二度干して待った声だった。蝋燭が指一本ぶん短くなるまで待って、来なかった声だ。
夫の声が、胸の奥ではなく、目の前で唇を開き、喉を使って私を呼んでいる。
行灯の火が、その息で小さく傾いだ。
膝が先に畳へ落ちて、布団の端を掴んでいた。
「暁人、そこにいて」
出てきたのは、祖母の台所で甘えるときの声だった。
「動かないで。ちゃんと、そこにいて。今度は勝手に行かないで。お願いだから」
夫は、布団を掴んだ私の指を見ていた。力が入りすぎて、爪の先が白くなっている指を。
「俺は、あの新聞を読みたくなかった」
「どうせ、笑ったんでしょう」
「三回笑ってたよ」
土間から、すずさんが口を挟んだ。夫は聞こえないふりをした。
「笑った。笑ったあとで、お前があれを一人でこしらえた夜のことを考えた。こしらえさせたのは、俺だ」
布団の端を放して、夫の膝の前まで寄った。
「じゃあ、本物を聞かせて。言い残しがあるなら、今、その口で言って。冥婚の夜まで、私を待たせないで。白い着物で、何も来ない夜を数えるのは、もう嫌」
夫は、私を見下ろしたまま黙っていた。行灯の芯が、じじ、と鳴った。
「死人に口なし、と言うだろう」
「生きてるじゃない」
「軍の帳簿では殉職だ。帳簿に載った口は、閉じておくのが規程だ」
「屁理屈」
「規程だ」
そう言って、夫は片手を上げかけ、私の頬の手前で止めた。
「いいか」
答える代わりに、目を閉じた。
髭が、思ったより痛かった。唇は、思ったより冷たかった。熱が引いたばかりの人の唇だ。
土間で、わざとらしい咳払いがした。
「いいとこ悪いけど、薬代。三円二十銭」
夫が額を押さえた。私はその肩へ、自分の額をぶつけた。
「高い」
「三日分の粥と、縫い賃と、口止めと、今の見物料」
「見物料まで」
「目の前でやられちゃ、見るだろ」
懐から、出がけに芋代の壺ごと掴んできた銭を出して、板の間に並べた。数えるまでもない。毒の茶の夜に頭が勝手に数えた九十一銭から、芋が三本減っただけだ。
「八十二銭です」
「残りは」
「残りは、宵坂の店の掛けにてお願い申し上げます」
すずさんは銭を掻き集めながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「紙の奥さん、戻るの早いね」
戻ったのは口だけだった。
すずさんが井戸へ水を汲みに出たあいだに、夫は布団の上で座り直した。肩の線が、軍の報告をするときの形に揃った。
「倉で、俺の喉を掴んだ手があった。暗くて顔は見ていない。左の小指が、根元からなかった」
その手の薬指を折った、と夫は言った。折れたときの音まで、まだ耳に残っている声だった。
小指のない、左手。
予約状が届いて間もない昼、丸甚の店先に、黒い箱車が停まっていた。運転席のハンドルに載った左手に、小指がなかった。あの日、柏木さんは丸甚の奥にいた。
今日の八つ時、店の前に停まったのも、黒い箱車だった。柏木さんは、運転手が扉を開ける前に、自分で降りてきた。運転手の手を、私は一度も見ていない。
見なかったのか。見せないように、降りてきたのか。
「柏木さんの、箱車の運転手です」
夫は私の手を、自分の両手の中へ入れた。熱の名残で、まだ少し温かかった。
「丸甚と寺の後ろにいる者を押さえるまで、俺は死んだままでいる。お前は喪服を脱ぐな」
「承ります」
「知らせるのは、お祖母様と、甲斐と、各務検事だけだ」
「お祖母ちゃんは、もう知っています」
「話したのか」
「顔で」
盥の底から、紺の綿入れを引き出した。夫はそれを膝に広げ、両手で一度、皺を伸ばした。それから、晒の頭のまま、のろのろと袖を通した。
「お祖母様に、礼を。いや、俺が言う。生きて言う」
戸ががらりと開いて、すずさんが水桶を土間へ下ろした。
「ちょっと待ちなよ。悪いやつを捕まえる相談なら、その前に周吾だろ」
桶の水が、縁まで揺れた。
「兵隊さんを担保に取ったのは、あたいだ。あたいの亭主が先だってば」
「約束は守る。すずどのの亭主は、俺が捜す。先にだ」
「破ったら、利子つけて川へ戻すからね」
夫は、少しも笑わずに頷いた。すずさんは、それで満足したらしい。桶の水を甕に移しながら、明日は洗い張りが三反ある、と誰にともなく言った。
夜明けの前に、私は空の盥を抱えて長屋を出た。祖母に言われたとおり、河岸の女らしく下を向いて歩いた。月はもう、屋根の向こうへ落ちていた。
明日から私は、生きている夫の後家になる。




