骨を持っていけ
「俺の代わりに焼かれた男の名を、知りたい」
秘密の夫婦になって三日目、霜月十四日の夜だった。すずさんの長屋で、夫は私にそう言った。名を知るには、骨が要る。骨は、侯爵家の菩提寺に納まっている。
それで翌日の昼、私は侯爵家の仏間の隅で、後家の顔を作っていた。
目は伏せる。背は丸めすぎない。泣いてはいないが、泣いた跡はある顔。離縁の通った女でも、焼香だけは拒まれない。その代わり座布団は、廊下にいちばん近い端だ。生きている人のための喪は、思っていたよりずっと肩が凝る。
線香の煙の向こうで、各務さんが叔母様の前に膝を揃えた。
「少佐のお骨を、しばらく検事局でお預かりしたいのです。形式上の確認です」
叔母様は、各務さんの顔を見もせず、線香の煙の行方を目で追っていた。
「焼いたお骨で、いったい何をお確かめになりますの」
「検事局の決まりで、必ず要るものです」
言い切った。
耳たぶが、線香の火と同じ色になっていた。
嘘だ。それも、下手な嘘だ。
「まあ。検事局の決まりというのは、ずいぶんお骨がお好きですこと」
煙を追っていた目が、ゆっくりと廊下の私へ下りてきた。
「それとも、お預かりになったお骨を、宵坂様のお店へお回しになるおつもりかしら。冥婚屋さんのお商いに、鷹尾のものをお貸しする謂れは、ございませんのよ」
図星だった。骨は、今夜うちの裏座敷へ来ることになっている。
叔母様は、閉じた扇を膝の上で揃え直した。
「宵坂様には、別のお仕事がございますのよ。師走七日は、甥の月命日。亡くなってちょうどひと月の追善に、新聞社の方々をお招きいたしますの。そのお席で、甥の最期のひと言を、花嫁のお口から改めてお聞かせくださいませ。お代は相場どおり。雇いの冥婚屋さんには、造作もないことでございましょう」
離縁した女を、雇いの花嫁として、記者の帳面の前に立たせる。三週間後、同じ嘘を活字の前でもう一度つくか。本当を言って、あの長屋の戸を誰かに叩かせるか。
喪服の内側で、背中が冷えた。
奥の襖が開いた。
家扶どのに肘を支えられて、寝間着に羽織を重ねた老人が立っていた。頬の削げ方が、晒を巻いていたときの夫とよく似ている。床に就いていることの多い、夫の父、鷹尾の侯爵だった。
仏間じゅうの背が、一斉に伸びた。
「お義兄様。お休みになっていらっしゃらなくては」
侯爵は叔母様を見なかった。仏壇の写真を見て、それから廊下際の私を見た。
「家を出た倅が、墓からまで出てくるか」
しゃがれた声が、隅の座布団までまっすぐ届いた。
背中を、汗が一筋下りた。あの人、長屋を抜け出して、父親の枕元まで行ったのだ。何を話したのかは知らない。けれど、この顔は、焼かれたのが倅でないと知っている顔だった。
知っている人になら、筋の通った口実が一つあれば足りる。
私は座布団を一枚ぶん前へ出て、畳に手をついた。施主の注文を請けるときの声を作る。
「侯爵様に、手前どもからお願い申し上げます。九日は、位牌の祝言でございました。月命日の追善は、お骨の前で改めてひと言をお渡しするのが、宵坂の作法でございます。位牌だけの追善は、手前どもでは請けかねます」
追善の作法を知っているのは、宵坂の女だけだ。
「九日は、位牌でお済ませになりましたのに」
「祝言は、花婿をお迎えする席でございます。追善は、お送りする席。お送りするには、ご本人にその場へいていただきませんと」
叔母様の唇が、薄く開いたまま閉じなかった。注文を出したのは、ついさっきの叔母様自身だった。
侯爵の喉の奥で、短い息が鳴った。笑ったのかもしれない。
「……骨を持っていけ。倅の骨でないなら、なおさらだ」
持っていけ、は、私の顔を見て言われた。
「お義兄様、何を仰せに」
「麗子。注文したのは、お前だろう」
叔母様は、答えなかった。家督はいずれ叔母様の息子へ行く。けれど死んだ次男の骨は、まだ父親のものだ。
家扶どのが座敷へ向かって深く頭を下げた。
「旦那様は昨夜、暁人様の夢をご覧になりまして。枕元に、お立ちになったそうでございます」
夢を、と誰かが小さく繰り返した。床に就きがちな老人が、死んだ倅の夢を見た。座敷の誰もが、そういう話として聞いた。
顔は伏せたまま、膝の上で、一度だけ手を握りこんだ。
骨は出た。その代わり、師走七日の嘘は、これで私の請けた仕事になった。
その晩、各務さんが白木の骨箱を抱えて、宵坂の店へ来た。
「思っていたより、重いですね」
受け取ると、骨にしては、ずしりと腕に来た。夫より、一回り大きな男だったのかもしれない。
裏座敷の床の間にそれを据え、私は白無垢を着た。花婿は、この箱の中の誰かだ。盃を干して、蝋燭が半分ほどになったとき、胸の底に声が落ちた。
『——おとよ、先に寝とけ』
低い、しゃがれた声だった。語尾が、ふわりと上へ持ち上がる。上方の言葉だ。
夫の声ではない。
私は盃を置き、箱の前に両手をついた。
先に寝とけ。帰りの遅くなる晩に、女房へ言い置いていく言葉だ。おとよさんという人は、たぶん今夜も寝ずに待っている。待たせているのは、うちの夫の上着だ。
「申し訳ございません」
箱に向かって言った。花嫁が花婿に詫びる作法など、宵坂のどの帳面にも書いていない。
夜更けに、裏木戸が二つ鳴った。
縁側から上がってきた夫は、紺の綿入れの肩に夜露を乗せていた。頭の晒は外して、手拭いを目深にかぶっている。
「来たか」
「来ました。上方の言葉でした。おとよ、先に寝とけ、と」
夫は手拭いを取り、白木の箱の前へ回った。
膝を揃え、背を立て、両の拳を畳につく。頭が、ゆっくり、深く下がった。
「袖が、短かっただろう」
箱に向かって、夫はそれだけ言った。
自分の上着を、窮屈に着せられて焼かれた男へ。
私は、その背中を見ていた。侯爵家の次男の背中が、名も知らない人足の骨に、頭を下げている。
何も言わずに、蝋燭の芯を切った。
夫が礼を解くのを待って、私は膝を箱の脇へ寄せた。
「今日、侯爵様が、墓から出てくる倅の話をなさいました。家扶どのは、夢だと」
「父上には、枕元で報告した。以上だ」
「以上、ですか」
「以上だ」
そのくせ耳の付け根だけが、赤い。
「お耳が、各務様と同じ色をしていらっしゃいます」
「何がおかしい」
「おかしいなんて、申しておりません」
「声が笑っている」
「花嫁は、花婿の前で笑いません。宵坂の看板が泣きます。……侯爵様は、お顔の色がよろしゅうございました」
「俺よりか」
「あなたより、少しだけ」
夫は目を逸らして、白木の箱へ戻した。
「この男の名を、捜す。おとよという女に、骨を返す」
月命日の話は、とうとう切り出せなかった。夜明けまで、花嫁は花婿の傍らを離れない。夫は縁側の暗がりで膝を抱え、それに付き合った。
夜が明けて、十六日の朝。勤めを終えて喪服に着替えたその足で、私は若葉寮の診療室へ行った。
石炭酸と、子どもの寝息の匂いがした。新見先生は白衣の袖を肘までまくり、帳面と薬瓶を代わる代わる睨んでいた。寮の嘱託医で、町の施療院にも診に通っている人だ。
「上方の言葉を話す人足で、霜月の初めに亡くなった方を、ご存じありませんか」
先生は、目盛りから目を上げなかった。
「施療院の薬代は、半分が寮の帳場から出ています」
答えになっていない。私は黙って待った。
「払った患者が、遠縁ですと名乗る男の一筆で、骸ごと消えるんですよ。先月の末から、三つ」
薬瓶が、机に少し強く置かれた。帳面の上で、三つの行に赤い線が引いてあった。
「三人分の水薬と、粥と、炭。寮の子の冬の綿入れが、それで二枚減りました」
「その中に、上方の方は」
「帳場は、骸の顔を見ません。見るのは一筆の字と、掛けの残りだけです」
先生の指が、赤い線の一本を叩いた。その行だけ、掛けが払いきれていない。
「この分が、まだ四十銭。五銭、十銭と持ってくるんです。払う相手の患者は、もういないのに」
先生は帳面を閉じ、まくった袖を下ろした。
「……施療院の門に、毎日来る上方の女がいます」




