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違う着物を着て帰ります

 施療院の門の脇に、男物の袷を一枚、胸に抱えた女が立っていた。

 霜月十六日の昼。川霧が、喪服の裾まで湿らせていた。身寄りのない病人を診る所の門で、門番は火鉢を抱えたきり、女のほうを見ない。

 私は、その人の前に立った。

「どなたかを、お待ちですか」

 女は袷を抱え直した。藍の縞の、肘の抜けかけた袷だった。

「うちの人、名札があっても違う着物を着て帰ります」

 語尾が、ふわりと上へ持ち上がった。ゆうべ聞いたのと、同じ節だ。

「風呂屋で。一度やないんです。籠に名札まで下げとるのに、よその人の袷着て、けろっとした顔で帰ってくる。そやから、うちが毎晩、袖の長さで見分けとるんです」

 女は、門の板を指の節で二度叩いた。

「遅うなると、戸を叩くんです。開いとるのに」

 開いている戸を、わざわざ叩く。寝ずに待っている女房に、帰ったぞと知らせるためだけに。

「ご亭主の、お名前は」

「喜助。うちは、おとよいいます」

 ゆうべの声が呼んだ名が、目の前で頭を下げた。

「霜月の五日に、ここで死にました。風邪をこじらせて、三日で。うちが薬代こしらえに走っとるあいだに、遠縁や言う男が来て、連れていったんです」

「遠縁、でございますか」

「遠い親類や、て。喜助に親類なんか、おりません。うちと二人きりやのに」

 おとよさんは門番のほうへ目をやった。

「あの人が言うには、戸板のまま河岸へ下ろして、舟で川向こうへ出たそうです」

 川向こう、と胸の内で繰り返した。何かに引っかかったが、まだ形にならなかった。


 門の裏手は、洗い場だった。盥の並ぶ石の上に、川霧が細かく降りている。

 人の耳のない所まで来て、私は頭を下げた。

「手前ども、冥婚屋の宵坂と申します。ゆうべ、喜助さんのお骨と、祝言を挙げさせていただきました。ひと言、お預かりしております」

 おとよさんの腕の中で、袷がくしゃりと潰れた。

 私は、胸に来たとおりの節で口にした。


『——おとよ、先に寝とけ』


 おとよさんは、しばらく黙っていた。

 それから、鼻の先で笑った。

「自分が先に寝るくせに」

 目は乾いていた。乾いたまま、こちらへ一歩出てくる。

「骨、返してください。今すぐ」

「今日は、お返しできません」

「なんでです。どこにあるんです」

「それも、今は申し上げられません。いずれ必ず、お手へお返しします」

「いずれて、いつです」

 答えられなかった。あの骨は、表向きは夫の骨だ。夫が生きていると知られれば、今度こそ本当に殺しに来る手がある。

 違う着物を着て帰る人だった、とこの人は言った。最後の晩も、よその男の上着を着せられて焼かれた。名札の代わりに、うちの夫の名を下げられて。

「名前も知らんかった人が、うちの人を、誰に断って預かっとるんです」

 言い返す言葉を、私の口は一つも持っていなかった。

 おとよさんは門の表へ戻ると、脇の石に腰を下ろした。袷を膝に広げて、皺を手のひらで伸ばしはじめる。

「ほな、ここで待ちます。骨が戻るまで、毎日。戻るまで、うちは先に寝ませんから」

 門番が火鉢から首を出して何か言いかけ、やめた。誰にも、止められなかった。


 若葉寮の離れは、母屋と渡り廊下でつながった六畳ひと間だった。

 夕方、すずさんの長屋の老医者が、夫の頭の晒をほどいて首を振った。膿みかけている、わしの手には余る、と。

 夜でも医者がいて、死人を隠せる所。侯爵邸には叔母様の目がある。宵坂には、柏木さんが平気で上がりこむ。残るのは、新見先生のいる若葉寮だけだった。柏木さんの寮に、柏木さんが焼かせたはずの男が寝ているとは、柏木さん本人がいちばん思わない。危ない賭けでも、ほかに賭ける先がなかった。

 日が落ちてから、すずさんと二人、洗い張りの反物と一緒に夫を大八車へ積んで、霧の中を運んできた。夫は布団に寝かされ、額に白い布を載せている。表向きは、荷揚げで頭を打った人足だ。

 離れの鍵を開けてくれたのは、紗雪さんだった。鍵束を、閉じた扇と一緒に指へ引っかけて回している。

「死人を匿うなんて、初めてですわ」

 扇を開いて、枕元をのぞきこむ。目が、縁日の籤を引くときの色をしている。

「柏木様は、ご自分の寮で血を流すような方じゃございませんもの。ここがいちばん静かでしてよ」

 膿を拭い終えた新見先生が、夫ではなく紗雪さんに向き直った。夫の顔を見たときに一度眉を上げたきり、先生は何も訊いていない。

「お嬢さん。死人の薬代は、どこの帳場から出るんです。あなたの無茶は、毎度、僕の帳場に回ってくる」

「先生の帳場は、広うございますもの。狭いのは私のほうでしてよ。母に寄進のお名前の並べ替えを任されて、毎晩、帳面と睨めっこですの」

 世話役のお母様の名代、と言いながら、鍵束はとうに紗雪さんの指に馴染んでいる。

 鍵束が、じゃらりと掌に握りこまれた。

「並べ替えといえば、銀子さん。あなたのお母様のお名前を、寮の古い寄進の綴りで、お見かけした気がしますの。前に一度めくったきりの、二十年あまり前の綴りでしたけれど」

 母の名が、こんな所にも。

 胸の内側がざわついた。けれど夫の額の布は、もう熱を吸って温まりかけている。今は、そちらが先だ。

「そのうち見直してまいりますわ」

 渡り廊下の板が、ぎ、と鳴った。

 ゆっくりで、迷いのない足音だった。母屋の明かりを背にした影が、障子に映る。影の手が、桟に掛かった。夫の胸の上下が、布団の中で消えた。

 開けられたら、終わりだ。開けられる前に、こちらから出るしかない。

 私は障子を自分で引いて廊下へ出、後ろ手に閉めた。

「柏木様。ちょうどよろしゅうございました」

 桟に掛かっていた手が、宙に浮いた。

「おや、奥様。こんな刻限に、寮へ」

「師走二十日の、寮のお子様お二人の冥婚でございます。花嫁を立てるには、お名前と、お好きだったものを伺っておきませんと。母屋でお待ちするつもりが、人足の手当てに引っぱりこまれまして」

 背中の障子が、内から細く開いた。紗雪さんの扇が、ぱたぱたと動いている。

「私がお連れしましたの。冥婚屋さんなら、傷くらいお見慣れでしょうって。ただの頭を打った人足ですわ」

 柏木さんの手が、袂の内へ戻った。

「それは、お待たせを。あの子らのことなら、私がいちばんよく存じております。上の子は、粥のおかわりを必ず二度する子でしてな」

「母屋で、伺います。一字違えずに書き留めませんと」

「母も寄進の帳面のことで、お待ちかねでしてよ。さ、さ」

 私が先に立って歩きだすと、柏木さんは後ろからついてきた。離れのほうは、一度も振り返らなかった。

 子どもの名を語る声は、渡り廊下の端まで、ずっと楽しそうだった。


 母屋で二人分の名と、粥の数と、熱を出した晩の話まで帳面に書き留めてから、離れへ戻った。紗雪さんと先生も母屋へ引き上げ、離れには、行灯と、夫と私だけが残った。

「息を止めるのが、ずいぶんお上手になりましたね」

「死人の務めだ」

 夫は額の布をずらして、天井を見たまま言った。

「障子の外で、お前の声が商いの声になって、遠ざかっていった。そのあいだ、この部屋は寒かった」

「火鉢を寄せておけばよろしかったですね」

「火鉢の話はしていない」

 返す言葉の代わりに、ずれた布を、要りもしないのに直した。布越しの額が、まだ熱い。

 行灯の芯を少し上げて、私は昼の話をした。遠縁の男と、舟で川向こうへ、のところまで。

「その女は、門で待つと言ったか」

「骨が戻るまで、門を動かないそうです」

 夫は目を閉じた。

「なら、急ぐ」

 喜助さんは霜月五日に死に、舟で川向こうへ渡った。夫が倉の火に呑まれたことになったのは、七日。

 そのあいだの二日、骸はどこにいたのか。

 骸を二日置いておけて、棺が一つ増えても誰も数えない所。焼き場を持つ寺なら、それができる。川向こうで焼き場を持つ寺を、私は一つしか知らない。

 夫が目を開けて、私と同じ寺の名を、唇の形だけで言った。

 帰雲寺は、夫が焼かれる二日も前から、夫の代わりを取り置いていた。命日を予約した人の、注文どおりに。

 次にあの寺で取り置かれているのは、誰の骸だろう。

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