生きているお方との縁談は
住職の右手の中指に、鑿のたこがあった。
霜月二十八日の朝、帰雲寺の門前で、私はその手を見ていた。
急ぐ、と夫が言った晩から十二日。施療院の帳面に残った遠縁の名は、誰も知らない偽の名だった。この門には二度立ち、二度とも小僧の箒で追い返された。
施療院の門では、今朝もおとよさんが待っている。
「鷹尾様の御位牌を、こちらで彫っていただいたと伺いました。そのお礼と、ご供養のご相談に」
「ご丁寧に、痛み入ります」
住職は数珠を左手に掛けたまま、深々と頭を下げた。
「なれど、離縁のお済みになった方を、鷹尾様の御縁でお通しするわけにはまいりません。それに、若い後家様が川向こうへ何度もお運びになるものではございませんよ」
丁寧な言葉の端に、釘が一本混ざっていた。
門扉に、右手が掛かる。爪の際には、洗っても落ちきらない煤。
閂の落ちる音がした。見ただけでは、門は開かない。死人の夫と冥婚屋の女に、役所の令状が下りるはずもなかった。
若葉寮の離れの障子を細く開けると、六畳に子どもが五人、膝を揃えて並んでいた。
真ん中で、夫が額の白い布を目の上まで引き下ろして座っている。
「一番。門」
「八百屋と炭屋。世話役の奥様の俥」
「二番。箱車」
「来なかった。おとといの夕方きり」
床下からこの離れを覗き当てた子らだ。寮の門と箱車の出入りを、番号順に報告させている。
「なんで番号なの」
「名で呼ばれたら、柏木のおじさんの子だ。番号で呼ばれたら、俺の手下だ。手下の話は、手下の中だけでしろ」
子らが顔を見合わせて、声を揃えた。
「おばけの兵隊さんの、手下」
「安静。二度言わせないでください」
渡り廊下から、新見先生の声が落ちてきた。夫が片手を振ると、五人は来た床下へ順に這い出ていった。夫は、空いた畳を名残惜しそうに見ていた。
この半月で、師走の冥婚が三つ取り消された。
庭の柿の木の下に、離れへ入ってこない子が一人いた。袷の右肩に、継ぎが二つ。
「千代松、あんたも番号もらいなよ。内緒のやつ」
年かさの女の子が、床下から小声で呼んだ。呼ばれた子は、首を横に振った。
十ばかりのあの子だ。離れの人足が誰なのか知っているのは、この子だけかもしれない。
縁側の端へ手招きすると、千代松は、逃げる間合いを測りながら寄ってきた。
懐から、紙にくるんだ焼き芋を半分出した。
「お芋、あげる。うちの門に手紙を挟んだ日、誰にお駄賃をもらったか、それだけ教えて」
伸びかけた手が、止まった。
「……言ったら、おいら、寮を出されんの」
顔が、急に大人の形で固まった。
この子の口は、こじ開けない。
「訊かなかったことにする。お芋は、ただ」
包みを押しつけると、千代松は柿の木の根元まで駆けて、芋を二つに割った。片方をかじりながら戻ってきて、もう片方を縁側の端に置いた。
「ただは、もらわない」
今度こそ、走っていった。
六畳へ戻ると、甲斐さんが畳の縁からはみ出してかしこまっていた。
「報告であります。丸甚の裏手には墓地がありまして、自分はその前で、その、足がすくんでおりました。塔婆が風で鳴るのであります」
「誰が張れと言った」
「誰も言っておりません、幽霊少佐殿。自分が勝手に張っておりました。二晩」
「二晩とも夜更けに、丸甚の裏口から、志乃様が出てこられました」
開きかけた口を、私は閉じた。声にした疑いは、もう取り消せない。
「志乃どのには、まだ何も言うな」
夫が、天井を見たまま言った。私は、頷くだけにした。
「今日の午後、叔母様の仲立ちで、柏木さんがうちへお見えになります。縁談だそうです。喪が明けたら、後添えに、と」
「死人は妻の縁談に口を出せん。出せんが、見には行く」
「安静は」
「襖の向こうで座っている。座るのは安静の一種だ。軍医の規程にも、臥床または座位とある。それに、柏木がどちらの手で茶碗を持つか、見ておく必要がある。敵情の視察だ。縁談の可否とは、まったく関係ない」
「少佐殿。自分も、襖の向こうでお供いたします」
戸口で振り向いた甲斐さんが、真顔で言った。幽霊、が抜けていた。
「来るな」
夫は額の布を、目の上まで引き下ろした。私は袖で口を押さえたが、間に合わなかった。
八つ時の前、宵坂の座敷で、祖母が私の顔を検めた。
「あんた、にやけてるよ。後家の顔ってのは、もっと腹の減った顔だ」
頬の内側を噛んで、目を伏せた。
奥の襖は、指一本ぶん開いている。昼のうちに、すずさんの大八車で反物に包んで運んできた人が、その向こうに座っている。
叔母様が、上座から口を切った。
「柏木様には、日ごろ寮のことでお世話になっておりますの。宵坂様にも、悪いお話ではございませんのよ」
柏木さんは、私の前に手をついた。
「奥様。喪の明けるまで、お待ちいたします。ただ、お約束だけは、先に頂戴しておきたい」
そこから、口上が始まった。寮に寄進して三十年。熱を出した八つの女の子の医者代。十六と十七で逝った子らの、おかわりの数。
口上の区切りごとに、茶が一服ずつ冷めていく。
「あの子らがこの先、独り身で逝くたびに、奥様の耳で送ってやりたい。ずっと、です。私どもは、いや」
柏木さんは、照れたように笑った。
「私は、ここに、先に一行」
私の膝の脇の予約帳を、触れずに指で差した。
「生きているお方との縁談は、承っておりません。お亡くなりになってから、改めてどうぞ」
叔母様の扇が、膝の上で跳ねた。
柏木さんの笑みが、一瞬だけ消えた。
「……あなたのお母様も、同じ目をなさった」
左の袂から手巾が出た。何にも触れていない指を、一本ずつ拭う。それから、目尻に皺が戻った。
「いや、失礼。古い寄進の記録で、お見かけしたことがあるだけでして」
膝の前で、冷めた茶碗が茶托に当たって鳴った。
母は、私が六つの秋に冥婚へ出て、帰らなかった。記録の字で見ただけの人は、目の話などしない。
奥の襖の向こうで、ごとん、と何かが柱にぶつかった。
柏木さんの目が、すっと襖へ動いた。
「ごほっ、ごほん、ごほん」
祖母の咳払いが、三つ重なった。肩が痛いとこぼす人の、やけに丈夫な咳だった。柏木さんの目は祖母の肩へ移り、お大事に、と笑った。私は、自分の手の甲をつねった。
見送りに出た門口で、箱車の扉を開けたのは、見覚えのない若い運転手だった。手袋の左手には、指が五本揃っている。
倉で夫が指を折った、あの男ではなかった。小指のない手は、いつから柏木さんの車を離れたのだろう。
箱車の音が遠ざかるなり、襖が開いた。額の布の端に赤いものを滲ませて、夫が出てきた。
「死人は妻の縁談に口を出せん」
「出しているじゃありませんか」
「婿どの、声がでかいよ」
祖母に煙管で膝を叩かれて、夫は座り直した。その手で、私の冷めた茶を一息に干した。
「右で茶碗を持った。手巾は左の袂からだ。拭いたのは、何も触っていない指だ」
「指一本の隙間から、そこまで」
「見に行くと言った」
夕方、店先で、後家さんの店はここだな、と訊く声がした。
入ってきたのは、丸甚の甚兵衛だった。
「へえ、宵坂の奥様。ご機嫌うるわしゅう」
框の前で、揉み手が始まった。
「帰雲寺の二階に、もう長くない男が一人おりましてね。独り身でさ。家の方が、息を引き取ったらその日のうちに冥婚を、と。ただ、骸は寺の外へ出すな、式は息を引き取ったその部屋で、と。へえ、それだけでさ」
「柏木様は、ご承知で」
「いやいや、これは手前どもの小さな商いでして。それでその、お代のほうを、ちいと勉強していただけやせんかと」
今朝、私の鼻先で閂を落とされたあの門の内へ、柏木さんの取次が、自分から私を案内するという。主人の首を絞める縄を、小銭欲しさに届けに来たのだ。
ただ、骸を寺から出すな、式はその部屋で、という注文は、私を閉じ込めるための注文にも読める。
それでも、門の内へ入る口は、これ一つきりだ。
宵坂の値は、十二の年から祖母に仕込まれた。値を下げた花嫁は、死者まで安く見られる。客に言われて値を下げたことは、一度もない。
師走の帳面に引いた、三本の墨の線を思った。
「お受けします。半値で」




