隣の奴に、粥を
「懐剣の鞘で、床を三度打ちます。その音が聞こえたら、来てください」
師走四日の夕方、宵坂の帳場で、私は夫にそう頼んだ。夫は額に白い布を巻いたまま、裏木戸からすべりこんできたばかりだった。死人が外を歩くのは、日が落ちてからと決めてある。
「行くな」
返事は、それだけだった。
「お請けした仕事です。半値でも、仕事は仕事でございます」
「半値で命を張る花嫁がどこにいる。寺の二階だぞ。窓の数も、階段の幅も分からん。退路の知れない所へ、兵は入れん」
「私は兵じゃありません。花嫁です」
「なお悪い」
「では、ほかに誰が入れるんです。施主のお家は、骸を寺の外へ出すな、式は死んだ部屋で、と念を押していらっしゃいます。花婿の部屋に入れるのは、花嫁だけです」
「俺が白無垢を着る」
「綿帽子から、肩が三寸はみ出します」
夫は口を閉じた。
帰雲寺の門は、三度とも私の鼻先で閉まった。その内へ通される口は、今夜の冥婚の座、一つきりだ。夫にもそれは分かっている。あの人は額の布の端を、指で押さえたまま動かなかった。
框の端で、検事の各務さんが帽子を膝に載せていた。
「寺の後ろに大口の寄進がついていて、令状は、まず下りないでしょう。火と監禁の現行犯なら、踏み込める、と思われます」
「検事。それは見込みか」
「決まりでは、そうなっているはずです」
「はず、か」
「はず、です。検事局の人間に言える、いちばん強い言葉です」
各務さんは、膝の帽子のつばを指で一周させた。
夫は長いあいだ黙っていた。黙ったまま、私の帯に差した懐剣を見ていた。死者に殉じないための、宵坂の女の短刀だ。私はまだ、一度も抜いたことがない。
「……塀の外に立つ。三度だな」
「三度です」
「二階の床だぞ。塀の外まで届くのか」
夫が、各務さんを見た。
「冬の夜は、音がよく通ると申します。……届く、とは申し上げられません」
「届かなければ、届くまで打ちます」
夫は、それ以上は訊かなかった。
塀の外には、夫と各務さんと甲斐さんと、すずさん。それで決まった。
勝ったとは思わなかった。夫も、負けた顔はしていない。
各務さんが手配に出ていくと、夫は板の間に膝をついた。
私は黙って、帯を夫のほうへ向けた。
夫は懐剣に指を掛けた。帯の中で少し傾いていたのを、まっすぐに差し直す。抜きやすい角度ではなく、床へ下ろしやすい角度だった。
「夜明けまで、その男の隣に座るのか」
「お勤めですから」
「死人なら、ここにも一人いる」
「あなたは塀の外で、順番を待っていてください」
「順番待ちの死人か。聞いたことがない」
では、あなたが一番目です、と言うと、夫は返事をせずに立ち、行灯に火を入れた。火打ちを二度も空振りした。ようやく灯が入っても、夫はしばらく、こちらへ顔を向けなかった。
『——隣の奴に、俺の粥を回してやれ』
痩せた声だった。言いつけ慣れた口なのに、息が足りなくて、語尾がかすれた。
盃を干してから、蝋燭はまだ指一本ぶんも減っていない。
花婿は、今朝方息を引き取ったと聞いた。布団の上の手は、甲まで痩せていた。骨と骨のあいだに影が溜まり、指輪の跡だけが白く抜けている。借金で家の名を売った、元子爵家の三男だという。名を売った人の手は、もう何も握っていなかった。
回してやれ、は、人に言いつけて生きてきた家の口だ。その口で、最後に気にかけたのが、隣の粥の一杯だった。
布団からこぼれていたその手を取って、布団の中へ戻した。冷えきった指は、少しも逆らわなかった。
隣。この部屋の壁の向こうに、まだ粥を待っている人がいる。
背中で、戸が鳴った。
「花嫁の勤めは夜明けまで、でございましょう」
住職の声が、戸板一枚向こうから、丁寧に言った。続いて、外から錠の下りる音がした。鉄の舌が受け金へ深く噛み込む、重たい音だった。
甚兵衛は寺に、宵坂の名を伏せて、ただ冥婚屋の花嫁、とだけ通してあるらしい。綿帽子の下の顔を、住職は一度も見ていない。門前払いにした女だとは、まだ知らないはずだ。知らずに錠を下ろすのなら、ここは初めから、人を閉じ込めるための部屋なのだ。
戸の前に膝を寄せた。内側に、取っ手がなかった。
代わりに、腰の高さの板に、爪の幅ほどの細い筋が何十本も縦に走っていた。古いものは黒ずみ、新しいものは木の白さが覗いている。
誰かが、ここで何十日も、出られない戸を掻いて暮らしたのだ。
隣との壁は、漆喰が薄かった。
白無垢の袖をたくし上げ、拳の背で二度叩いた。
しばらく、何も返ってこない。
それから壁の向こうで、小さな咳が鳴った。痰の絡んだ、弱い咳が二つ。
怖い、と思うより先に、膝が前へ出ていた。行かなければ。粥を回せと頼まれたのは、私だ。
けれど、今打っても、塀の外から見えるものはまだ何もない。下りた錠は、戸のこちら側からは見せられない。
漆喰に口を寄せて、聞こえますか、と囁いた。返ってきたのは、咳をこらえる息だけだった。
蝋燭の芯を切り、花婿の枕元へ戻った。待つのも、宵坂の仕事のうちだ。冥婚の夜は、いつもそうしてきた。今夜だけ、壁一枚が遠い。
一度、階段が鳴った。足音は戸の前で止まり、錠に指の触れる、かすかな金の音がした。私は綿帽子の中で背を立て、花婿の顔だけを見ていた。足音は何もせずに、また下りていった。
夜更けに、階下が騒がしくなった。
施主の家が置いていった酒を、取次の甚兵衛が一人で空けているらしい。床板の隙間から、だみ声が上がってくる。
「和尚さん、ここだけの話でさあ。今夜の花嫁はね、死んだ少佐の元の女房なんでさあ。亭主を焼いたお寺で、よその男と盃を……へっへ、冥婚屋ってのは、因果な商いでさあ」
「お帰りなさい」
住職の声は、ひと言だった。戸の開け閉ての音がして、甚兵衛のだみ声は寺の外へ転がり出ていった。
階下が、急に静かになった。
知られた。箒で追い返させたあの後家が、白無垢を着て二階にいると、住職はたった今知ったのだ。甚兵衛は、半値の上に、私の素性までおまけに付けて帰ったらしい。
やがて、紙をめくる音が始まった。めくっては、ちぎる。ちぎっては、放る。火鉢の炭が、ぱちりと爆ぜた。
焦げた匂いが、戸の下から来た。
紙の焼ける匂いだ。年の暮れに帳場の反故を燃やす日の、あの匂い。ただ、量が違う。寺の綴りが、一冊ずつ火鉢へ食わされている。
煙が、戸の下の隙間から白い舌になって、畳を舐めてきた。蝋燭の炎が横へ倒れる。痩せた花婿の顔に、薄い灰色の膜がかかった。
懐紙を一枚、その顔に載せた。式の途中で、仏様に煙を吸わせるわけにはいかない。目の奥が、ちりちりと痛みはじめた。
壁の向こうで、咳が続けざまに鳴った。さっきより、ずっと弱い。
朝まで座っているつもりだった。それが花嫁の勤めだ。
でも、隣の人に、朝は来ないかもしれない。
それに今は、火がある。戸の外に、火鉢と、燃やす手と、錠が揃っている。
帯から懐剣を外した。白い鞘を握ったまま、刃は抜かない。抜けば、私は花嫁でなくなる。
床板一枚、庭一つ、塀一つ。その向こうに、あの人が立っている。三度の音がそこまで届くのかどうか、確かめた者は誰もいない。
煙の中で膝をつき、抜かないままの鞘の尻を、床板へ振り下ろしかけた。




