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鞘を三度

 帰雲寺の北の塀の外で、俺は妻の合図を聞いた。二度目と三度目のあいだが、少しだけ長かった。

 寺の二階で、妻の銀子が、懐剣の鞘を床板に打ちつける音だ。三度鳴ったら来てください、と妻は言った。

 師走五日の未明。夜半から降りだした雪が、塀の瓦をうっすら白くしている。

 一度目と二度目は、続けてきた。

 風向きが変わった。紙の焼ける匂いが来た。二階の雨戸の継ぎ目から、細い煙が雪の中へ漏れている。

 各務が、塀を見上げて眼鏡の雪を払った。

「火が出ている、と見てよいでしょう。人も、中にいる。……でしたら、入らない理由は、私には見当たりません」

 十分だ。

「すずどのは門へ回れ。誰も出すな」

「言われなくても回るってば」

 すずは裾をからげて、表へ走った。

 塀に手を掛けた。額の布の下で、傷が脈を打つ。出がけに、新見が戸口で言った「安静」を思い出した。思い出しただけだ。

 瓦の上に、一瞬だけ身を伏せた。初雪の白の上に、死人の外套の黒が一本、横たわった。

 下で、部下の甲斐曹長が、俺の外套の裾を掴んでいた。図体は俺よりでかい。

「ゆ、幽霊少佐殿。塀の内は、墓地であります」

「知っている」

「幽霊少佐殿のお供なら平気であります。墓のほうの方々は、存じ上げませんので」

 裾を振りほどいて、内側へ飛び降りた。背後で、甲斐が念仏を一行唱えてから、同じ塀を越えてきた。

 墓石の列の向こうで、庫裏の窓が赤く揺れていた。


 庫裏の戸は、閂が掛かっていなかった。

 土間の奥の板の間で、住職が火鉢の前に屈みこんでいた。膝の脇に、綴りが積んである。一冊ずつ表紙を剥ぎ、火へ押しこんでいる。

「二階の花嫁は、どこだ」

 住職は、綴りを持ったまま天井を見上げた。驚いた目ではなかった。上のことは煙に任せてある、という顔だった。

 それから火鉢の明かりが、下から俺の顔を照らした。住職の手から、綴りが膝へ落ちた。

「少佐は、死んだはず——」

「死人だからな。遠慮は要らん」

 住職の脇を抜けた。綴りは、後ろから来る各務の仕事だ。

 階段は幅が狭く、急だった。上り口に足を掛けたところで、上から手燭が下りてきた。

 男が一人、階段の上に立っていた。左の頬に、耳の下から口の端まで、古い刃物の痕が引き攣れて走っている。手燭の火が、男の顔と、俺の顔を、同じ高さで照らした。

「出た——」

 男の膝が抜けた。手燭が段を転げ落ち、男は尻で後ずさって、廊下の奥へ這っていった。裏の窓の障子が破れる音がして、何かが庇を滑り、地面へ落ちた。

 これまで、向こうの手の者の顔は一つも見ていなかった。

 だが今の男は、俺を見て、死人が出たと腰を抜かした。俺が死んだと知っている者の、抜け方だ。頬の痕は覚えた。

 追わない。妻が先だ。


 廊下の突き当たりに、戸が一枚あった。外から錠が下りている。戸の下の隙間から、煙が這い出していた。

 鉄の錠は、新しかった。古い戸に、新しい錠。中の者を出さないために付けたものだ。

 遅れてきた三度目が、まだ耳の底に残っていた。

 息を吐き切ってから、錠の真下を蹴った。受け金ごと柱が裂け、戸が内へ倒れた。

 煙が、廊下へ一度にあふれた。

 戸の内側の隙間に、白い綿帽子が丸めて押しこんであった。倒れた戸と一緒に、それが畳を転がった。

 部屋の奥、布団の枕元に、妻が膝をついていた。白無垢の袖で口を覆い、片手に、抜かないままの懐剣を握っている。

「三度、鳴らしました」

「聞いた。来た」

 妻は、何か言い返そうとして、咳きこんだ。

 雨戸の隙間から、雪明かりが差していた。その青白い明かりの中に、煤で半分黒くなった妻の顔があった。

 目の縁だけが赤く、頬に一筋、汗か涙か分からん筋が流れて、そこだけ肌の色が出ていて、拭うのが先か担ぎ出すのが先か、いや、違う。

 生きている。まず外だ。

 布団の上の花婿の顔には、懐紙が一枚載せてあった。煙を吸わせまいとしたのだろう。俺は、その男に頭を下げた。

「立たせる。触れるぞ」

「……どうぞ」

 肘を取って引き上げると、妻の腕は、見た目よりずっと冷えていた。

「綿帽子を、拾ってください。本家からの預かりものです。煤を落とすのに、洗い張りで十銭はかかります」

 拾って、外套の内へ押しこんだ。

「十銭なら、俺が払う」

「あなたのお財布も、うちの帳場から出ております」

「それより、あなた」

 妻は懐剣の柄で、隣との壁を指した。

「隣です。咳が、ずっと」


 隣の戸にも、錠があった。今度は、狙いを付けるまでもなかった。

 薄い布団に、男が一人、横向きに寝ていた。頬がこけて、首の筋が浮いている。枕元に、空の椀が一つ。縁に、乾いた粥の跡がこびりついていた。俺を見て起き上がろうとしたが、膝から下が言うことをきかない。長いあいだ、立たせてもらえなかった足だ。

 戸口で、甲斐が立ち止まっていた。墓地が怖いと言っていた男が、ここまで上がってきている。

 甲斐は何も言わずに男の前へしゃがみ、背を向けた。両腕を後ろへ回す。男が、遠慮がちに肩へ手を置いた。甲斐は、軽すぎる、とも言わずに立ち上がった。

 階段は、大男が人を負って下りる幅ではなかった。甲斐は体を横にして、一段ずつ爪先で探って下りた。段が鳴るたびに、背中の男が小さく詫びた。


 門の前には、もう一寸ほど積もっていた。

 妻は、階段から門まで、俺の外套の袖を握ったまま歩いてきた。握っていることに、本人は気づいていないらしい。袖は、そのまま預けておいた。

 妻は足袋のままだった。草履は、あの部屋に置いてきたらしい。雪を踏むたびに、袖を握る指に力がこもった。

 各務が、住職の腕を後ろへ取って出てきた。もう片方の手に、表紙の焦げた綴りを一冊、掴んでいる。

「火鉢から、出せたのはこれだけです。半分は、読めるかもしれません」

「身寄りのない方を、療養に、お預かりして、おっただけで——」

 住職の言い逃れは、そこで切れた。

 門柱の陰から、すずが出てきた。甲斐に負われた男を、門灯の下で見た。

 すずの肩が、大きく上下した。

 次の瞬間、すずの拳が、男の頬を打った。甲斐がよろけた。男は、避けもしなかった。

 すずはそれから、男の首に両腕を回した。甲斐の背中ごと、しがみついた。

「あたいが、その女房だよ」

 住職に向けて、言ったのだ。祝言の日に連れていかれた亭主を、二年捜し歩いた女の声だった。

 俺は、少し離れて立っていた。

 男が、すずの髪に頬を埋めたまま、かすれた声を出した。

「すず、ごめん。僕が……。あの、すみません、隣の人は」

 誰も、すぐには答えなかった。


 甲斐が、男を背負い直して俺の前に立った。

 薄く積もった庭で、煙を吐く寺の前に立つ死人の少佐を見上げて、甲斐の腰が、深く折れかけた。墓前で手を合わせる前の、あの角度だった。

 妻が、笑いだした。

 煤だらけの顔のまま、声を立てて笑った。髪に雪が落ちるのも構わず、肩を揺らして笑っている。

 その声を聞いて、俺はようやく、息を吸った。冷たい空気が、胸の底まで入った。

 庭の白に、足跡が一本あった。裏の庇の下から塀を越え、川のほうへ、乱れながら続いている。窓から転げ出た、頬傷の男の足跡だ。

 甲斐が、それを見ていた。笑い声の中で、甲斐の口元だけが、報告の形に戻っていた。

「幽霊少佐殿、……今の男に、顔を見られました」

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